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『本音の祈り 「時を忘れて」』
次の歌も私の代表曲となった歌です。 『時を忘れて』と言う歌です。 イエス様を信じたのは1978年。病気を通して、またキリスト教のラジオ番組を聴いて聖書を頂き、 その番組を通して教会を紹介していただきました。 山口県生まれの岡山育ちですが、 その当時は岡山に住んでおりましたので、 岡山聖約キリスト教会を紹介していただきました。 そしてその年のクリスマスに洗礼を受けました。 当時、 私が持っていた悩みは、病気で将来に対する不安があったということ、 両親が中学3年生の時に離婚しまして、 親に対して憎しみを持っていました。さらにその憎しみや病気のことを取り除いたとしても、 私にはもう一つ大きな問題がありました。 それは罪責感ということでした。 罪の意識、 どうしてあんな事をしてしまったんだろう、という思いにかられておりました。 心の奥の奥から変えられなければ、私は幸せにはなれないと思っていました。 そのような心で聖書を読み始めて、 最初に心の中に入ってきたみことばは、『だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(コリント人への手紙第二5:17)でした。 この聖書のことばをいただいて、「確かに変わることができるかも知れない」という一筋の希望を持ちました。 「もっと聖書を読んでみよう、イエス様ってどんな神様なのかしら、 知りたい!」 という思いを強く持ちました。 そしてイエス様を知る中で、 私が心に持っていた罪の問題「どうしてあんなことをしてしまったんだろう」という思いから解放してくださるのはイエス様だということを知りました。 「罪から解放されたい、罪責感から解放されたい」ということが私にとって一番の問題だったのです。 イエス様が十字架にかかって、 私のそうした罪のすべてを赦してくださることをわからせてくださったことをとても感謝しています。教会に導かれ、 もっと深く罪のことを知りました。 まことの神様から離れていることが、 人間にとっての一番大きな罪であること、 そして個々に犯している罪、 罪には刑罰が伴うこと、イエス様が身代わりに私の罪と刑罰を負ってくださったこと、 救われたことの大きさや、 神様の愛の深さは、 今も私の人生を変え続けています。
【上京し、テレビ伝道に携わる】
その後、 1981年に「イエス様と一緒に働きたいな」 という思いが与えられて、 聖契神学校で学ぶために、 上京しました。きっかけは岡山で行なわれた聖会でのメッセージでした。 古山洋祐先生が講師でした。 ハガイ書を開いてくださったのですが、『あなたがたの現状をよく考えよ』 聖書ハガイ書1:7)、 このみ言葉が心に残りました。 自分の現状を考えて、 病気であるけれども、 身体が弱いという以外、 学ぶことには支障が無いのではないかということで上京して来ました。 そして3年間学ばせていただいて、 その後、 PTLクラブというテレビ伝道に導かれて中川先生とご一緒に働くことになりました。 でもそのテレビ伝道もいろんな問題を抱え、 現在PTLクラブはありません。 また私はその頃、 体調がとっても悪くなったことと、人間関係にも行き詰まって、 テレビ伝道団体を辞めました。 しかし辞めたくなかったと言うのが本音です。 でも、 今では神様のご計画だったことを確信しています。
でも辞めた後はとても辛い思いをしました。またクローン病の症状が本当にひどくて大変でした。今年のように'88年も寒い夏だったんですね。 思い出すと、色々な方がアドバイスをしてくださいました。 「甘いものを食べたら駄目、白米駄目」、「それでは、玄米食はいいかしら」 と玄米食にしたのですが、 圧力鍋も無いので普通に電気釜で炊いて、 硬いんですよね。 それでもあごの運動になるからと一所懸命噛むんですけどあごが痛くなって、 今でこそ笑い話ですが涙が出てきて、 食事をする時に悲しい思いをするのは嫌ですよね。 食事をする時は楽しい方がいい。 そしてたくさん食べることが出来ることがいいですね。 私は情けなくて神様に祈りました。 「私、食いしん坊ですから、食べて治します。よろしくお願いします」 と祈りました。 その時以来何でも食べることが出来ますが、 さすがにお腹の具合が悪い時は、 自分の内から控えなさいという信号が出るみたいです。 今日もしっかり「控えなさい」という信号が出て、 食べることが出来ませんが、 良くなりましたら取り返しますので、 その時はお食事に呼んでください。 このように、辞めた後はしばらく心の状態が良くなくて、 それでまた落ち込む。 でも信仰があるから落ち込むんですよ。 信仰がなかったら、 憂さ晴らしにお酒の一杯でも飲んで皆とパーッと騒いでね、帰ってきてワーッと泣いてね、 たぶんその繰り返しだと思うんです。 でも、 信仰があるから踏みとどまらないといけないという思いがあります。 人に対する批判的な思いも、 許さなければいけないと思いますよね。 しかし、 感情の闘いがありますね。 これが苦しいですね。 こんな本音の話しをしながらいつも歌っていますが、 私は、 本音の中に神様が働いていてくださる、 ということを固く信じています。 ですが、
皆さんは本音の部分を誰にも話さなくてもいいです。 ただ「本当の気持ちは、 こうなんです。 この私の本音のところにイエス様、来てください」 とお祈りして欲しいと思いますが・・・。 『時を忘れて』は、 10月号の『百万人の福音』のフォト&ポエムに掲載していただきました。 '86年か'87年に書いた歌です。 長く歌っています。 私としては、 この『時を忘れて』の状態からはもう卒業していると思っています。 それでも歌うと、 まだまだ皆さんの心に届くということは、 それだけ多くの方が厳しい中を歩まれていることを思います。 その大変な中にイエス様が働いてくださいますように・・・。 卒業している、 といっても真理は変わることがありません。 目を閉じなければ見えないこと、 口を閉じなければ言えないこと、耳をふさがなければ聞こえないこと、 がありますね。 歩みを止めなければ会えない人が、 会えないお方がいらっしゃいますね。 このことを知ったことは私にとって貴重な体験でした。
_『時を忘れて』_
目を閉じなければ、見えない世界がある。
口を閉じなければ、言えない言葉がある。
耳をふさがなければ、聞こえない声がある。
歩みを止めなければ、会えない人がいる。
少しぐらい遅れたとしても
大切なものを見つけたいから
道であり、真理であり、いのちである主に
尋ね求める 時を忘れて
(山口博子姉のコンサートでのお話の中から、 ご本人の了解を得、 一部を掲載しています。 山口姉のコンサート・略歴は報告・お知らせをご覧下さい。)
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『One Voice - 4年目の9月11日に思う事』
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“Father we ask of You this day, come and heal our land.”
これは、 私たちの教会で4年前から、 しばしば歌っている曲の原詞の出だしの一節です。
あれは確か2001年の7月頃だったと思います。 教会のある方から 「日本で良い歌集を見つけたから、 うちの教会でも使いましょうよ」 ということで、アメリカやオーストラリアなどの教会で歌われている歌を集めた楽譜集をいただきました。 そして、 その中で最初に目が止まった曲が “One voice” という先程の一節で始まる曲でした。 しかし、 同時に私は原詞の中に歌われている肝心な部分が訳詞の中に反映されていないことに気がつきました。 それは実のところ、 教会で歌われている他の歌の中でも頻繁に起きていることなのでした。 原曲のメロディを優先させるあまりに歌詞の方を妥協せざるを得ないわけです。
ここで、 少し話をはずして理屈っぽいことを説明させていただくと、 私たちの多くの者にとっての母国語である日本語と英語の大きな違いの一つは音節にした時に顕著に現れます。 たとえば “I love you” は3音節ですが、 これを正確に日本語にしてみると “わたしはあなたをあいしています” となり、15音節にもなってしまいます。 これほど違うと同じメロディーには乗りません。 これはたった一つの例ですが、 他にも挙げてみてくださったら、 一つの曲の中で沢山語るのに日本語は圧倒的に不利であるということをご理解いただけると思います。 英語で1小節要らない内容に対して、 日本語では場合によっては4小節のメロディがあって初めて云いたいことが歌える、 ということがよくあるのです。 つまり “One voice” の歌詞の中で歌われている内容を原曲のメロディで、 そのまま日本語でも全部歌い切ろうとするならば、 同じ曲を3、4回歌わないとならない単純計算が成立してしまうことになります。
英語の“I”や“you”にのように、 よく使われる言葉で、同じように日本語で一音節で済む言葉がどれだけあるでしょうか? “歯”とか“毛”なんてあまり歌には出て来ませんね。 教会の歌なら“目”とか“手”などなら使えるでしょうけど、 体の部位を並べても歌にはなりません。 要するに言葉としてどちらが良いとか悪いではなく音楽的に不利な言葉だということが云えるでしょう。 歌われる内容によっては、 8小節まで聴いて初めて内容が呑み込めるということもあります。 それが音楽の中での日本語なのです。 ちなみに日本語で少ない音節で済む音楽的な言葉は、実は文語体に多いようで、 そのため教会で歌われる讃美歌や聖歌は、 訳される際に文語が多く使われたのかも知れません。 しかし現代においては、 文語を理解しにくい世代が多くなってきましたよね。 私もその世代に属しています。
そんなわけで、 その歌集で訳詞をされた方も苦しんだあげくの訳をつけたというのが真相でしょう。 そして、 残念なことに冒頭に紹介した一節は決して取り除いてはいけない言葉であったのに、 その訳には表現されなかったのです。 気持ちはわかるけど本当に残念だなぁと思いました。 そこで自信はなかったのですが、 「この歌詞を訳し直してみます」 と提案して、結果的に最初の一節をこのように訳してメロディに当てはめることにしたのです。
“この国をあわれみ、癒してください”
実際に教会で歌うようになったのが、 その9月9日の礼拝でした。 その2日後にあの日がやってくるとは誰も知りませんでした。
私たちは時に、 いつも語っていることや思っていること、信じていることと正面から向き合わないといけない場面に遭遇します。 それをわきまえたうえで、 私たちがクリスチャンとして語る言葉、 歌う歌、 そのすべてに正直でありたいと願っています。 “One voice” この歌を演奏する度に、 私はあの日を思い出し、 私たちに最善を用意していると約束しておられる神様を見上げるのです。
そういえば英語の歌の中で、 神様を表す “You”や“He, Him”などは、 文頭になくても必ず大文字で書かれますね。 気がつかれた方もおられるでしょう。 他の誰でもない、 唯一の神様を表しています。 私たちも賛美を歌う時に、 この歌の対象は誰なのかを意識しながら歌詞を味わうのも悪くないですね。礼拝や各集会で、 さらに音楽の時間を楽しみましょう。 “彼”は、 もっと楽しんで聴いておられます。
月報2005年10月号より
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