今回の修養会では、ロンドンのJCF(Japanese Christian Fellowship)の盛永進先生がヨハネの福音書4章1節〜42節のサマリアの女の箇所から、4回にわたってメッセージを語ってくださいました。先生のメッセージを通して、十字架にかかられ、3日目に甦られたイエス様が、現在に生きている私たちの現実、抱えている問題に深く関わってくださる方であることが伝わってきました。そして私たちの問題に具体的に解決を与えることのお出来になる方であり、「生きた水」を与えたいと願っておられる方であることを強く感じました。それで、2日目の夜の集会が終わった後に、盛永先生に私の問題をお話してみよう、何か解決が与えられるかも知れないと言う思いになりました。「先生、実は私は、、、」と私の生い立ち、私の抱えている問題を先生にお話しました。「うん、うん」と相槌を打ちながら聞いておられた先生が開口一番「無理なんですよね。」と言われました。「無理?」「イエス様の愛で満たしていただいて、人を心から愛せる人になれるようにお祈りしましょう」と言ってくださると期待していた私は、一瞬「ではどうすればいいの?」と思いました。先生は続けて「そういう境遇に育った人は、その部分が閉じ込められているからね。でもイエス様はそれで良いと言ってくださっているのだから良いじゃないですか。神様は愛の足りないまま受け入れてくださっているのだから。親の愛を知らずに育ったことが利点となることもあるのですよ。」と言って、祈ってくださいました。(ご両親の愛情を一杯に受けて育った方と同じように人を愛することは無理だ、という現実を示されて、そのことで頭が一杯になってしまった私は、先生が何を祈ってくださったのか思い出すことが出来ません。)部屋に戻ってからも、「無理だ」と言う現実を理解しようと試みました。確かに、私のような境遇に育った人、つまり、親に愛されることを体験せずに育った人は、その部分が開発されることはなかったのだなということが理解できました。例えば、生まれてから一度も歩いたことがないとすれば、歩くために必要な筋力、歩くために必要なバランスが開発されないままに成長していきます。後から歩く訓練をして歩けるようになっても、自然に歩ける人とは開発される能力が違うかもしれないと納得しました。親に愛されて育った方と同じように、同じ仕方で愛さなくてはいけないと思っていた事が間違いであったことに気づきました。