恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。

9月30日(金)

「 わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのものです。」(雅歌6:3)

わたしは主のもの、主はわたしのもの。その様に言えるのは何と幸いなことだろうか。今日は特に「わたしは主のもの」という当たり前のことを深く思わされた。わたしは主のものなのだ。主のものとされているのだ。だったら、主のために時間を使い、主のために心を遣い、主のために労力を使わさせて頂きたいと思った。主よ、今日の一日もまたあなたのものです。あなたの思いのままに歩ませてくださいますように。あなたがお用い下さいますように。そして、わたしの存在すべてを通してあなたの栄光を現させてくださいますように。

「どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。」(第一テサロニケ3:12)

主が愛を与えてくださいますように。わたしに与えてくださいますように。そして、教会のひとりひとりに与えてくださいますように。ひとりひとりが義務感や無理ではなく、愛から動くことができるように、あなたがひとりひとりに愛を増し加えてくださいますように。主の愛を与えてください。主の愛に生かしてください。どうかあなたの喜びをわたしと教会のひとりひとりのうちに満たしてくださいますように。あなたに愛されている喜び、あなたに生かされている喜び、使命を与えられている喜びに生かしてくださいますように。

9月29日(木)

「わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。」(雅歌2:4)

この歌は私たちとキリストとの関係を示しているといわれるが、その様な思いで読んでいると、本当にすばらしいなあ、と思わされる。主の旗は「愛」。そして、それが多くの人々の目に見えるように、はためいている。周りの人々に対してもわかるように、アピールするかのようにはためいている。主よ、感謝します。あなたの旗に感謝します。あなたが私を誇りとして、私の上に旗をはためかせてくださっていることに心から感謝します。どうか、それが人々があなたのところに来るために用いられますように。

「あなたがたからにもせよ、ほかの人々からにもせよ、人間からの栄誉を求めることはしなかった。」(第一テサロニケ2:6)

本当にその様に生きたいと思った。その様に生きることが大切だと思った。誰から何を言われるかではなく、主に従って、主が望まれることをして、そして、主が報いてくださることに感謝して・・・とそのように生きていければいいと思った。そのためにはやはり自分がどのように評価されるかを気にする気持ち、やプライドのようなものをきよめていただきたいと思った。主よ、どうかわたしをきよめてあなたの喜ばれることをなす者としてください。人ではなくあなたを見つめていくことができますように。

9月28日(水)

「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。」(伝道の11:6)

いつでもいつでも、種を蒔き続ける者でありたい。何がどう実るかは主に委ねて。とにかく種を蒔き続け、いつか芽を出し、実を結ぶものがあることを信頼して、必死で種を蒔き続けたい。あとは主がしてくださるから、そのことを信頼していこう。主よ、今日もチャンスを与えてください。あなたの御言葉の種を蒔き続ける者としてください。蒔き続けさせてください。御言葉を語る者としてください。そして、あなたが実を実らせてください。収穫にも参加させてください。収穫させてください。

「なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。」(第一テサロニケ1:5)

やはり聖霊様の働きが大切だ。一生懸命わかりやすく説明しようとしたり、印象よく受け取ってもらおうと思ったり、その様な小手先のことよりも、本当に聖霊様が働いてくださる時に、聖霊様に満たされて進んでいく時に、福音が伝わっていくのだ。主よ、どうか聖霊様の満たしをわたしに与えてください。聖霊様に満たされて歩む者としてください。どうか、わたしの心を満たしてください。わたしを導いてください。そして、福音が伝わっていきますように。救われる人々が次々と起こされていきますように。

9月27日(火)

「あなたの衣を常に白くせよ。あなたの頭に油を絶やすな。」(伝道の書9:8)

こういう言葉を霊的に解釈していいのだろうか、と思ったりするのだが、今日は、この「白い衣」がきよめられた心、頭の油が「聖霊様の注ぎ」としか読めなかった。それを主が求めておられることを感じないではいられなかった。主よ、私の心をきよめてください。雪よりも白い心を与えてください。本当に純粋にあなたのことを求め続ける者としてください。そして、わたしの頭にいつもいつも油を注いでください。聖霊様、どうか私の心を満たし、わたしの生活を満たし、わたしの唇を守ってくださいますように。

「同時にわたしたちのためにも、神が御言のために門を開いて下さって、わたしたちがキリストの奥義を語れるように(わたしは、実は、そのために獄につながれているのである)、また、わたしが語るべきことをはっきりと語れるように、祈ってほしい。」(コロサイ4:3−4)

キリストの奥義をはっきりと語れるように祈ってほしい、と。この祈りはまたわたしの祈りだ。本当に恐れないで、ごまかさないで、キリストの奥義をはっきりと語る、そのことをさせていただきたいと思う。「わからないのではないか」「ぴんと来ないだろう」と勝手に決めつけないで、主の御力を信じて、主の奇跡を信じて、語っていこう。どだい、私たちは聖霊様の助けなしに誰もイエスを主と告白できないのだから・・・。主よ、わたしを遣わしてください。わたしを遣わして、イエスの奥義を語らせてください。恐れや不信仰からわたしを守ってください。

9月26日(月)

「ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。」(伝道の書4:9)

これは考えてみれば、当たり前のことでもあるのだが、私たちはひとりで生きているのではない。本当に支え合いながら生きているのだ。人をあてにして、神様を信頼しないのはいけない。でも、主が与えてくださっている仲間なのだ。心から感謝して、共に歩んでいきたいと思う。主が与えてくださった仲間たちと支え合いながら歩んでいきたいと思う。主よ、わたしに与えられている仲間たちのゆえに感謝します。あなたのご配慮に感謝します。あなたの導きに感謝します。どうか、共に生きる喜び、共に歩む喜びをもっともっと経験させてください。共に歩むことを教えてください。私たち夫婦に共に歩むことを教えてください。私たちの教会のメンバーのお互いに共に歩むことを教えてください。

「もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。」(コロサイ3:13)

いつかも、この言葉が響いたけれども、今回もこの言葉が心に留った。「責めるべきことがあるなら、赦し合いなさい」と。責める「べき」ことは、責めるべき、かというとそうではない、というのだ。お互い様だから、赦し合いなさい、ではなく、そんな小さなことは赦し合いなさい、ではなく、責めるべきことがあるなら、赦し合いなさい、というのだ。赦すこと、本当にその様にさせていただきたいと思った。その様に生きたいと思った。主よ、あなたの赦しに感謝します。あなたが十字架によって私たちを赦してくださったのですから、感謝します。わたしも人々を赦すことができますように。「責めるべき」人だからこそ、赦すことができますように。

9月25日(日)

「それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道の書3:11)

主のなさることは最善だと思う。そして、私たちは永遠を思う思いが与えられている。しかし、それでもなお、神様のなさることがわかるとは言えない、本当にそう思う。神様の最善を知っているのに、信じているのに、それが本当にわかるかと言えば、わからないことが多い。やっぱり私たちはその程度の存在なのだ。傲慢になってはいけない。本当に主の許にひれ伏して、主が導かれるところに導いていただきたいと思った。主よ、どうかわたしの歩みを導き、あなたのご栄光を拝させてください。ただ、ただ、あなたの御業を見せてください。奇跡を見せてください。

9月24日(土)

「貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。」(箴言30:8)

ハリケーンのことがあったから、このような言葉に目が留るのだろうか。貧しくない必要な食物を与えていただきたいと思う。また必要以上に贅沢をすることがないように、ちょうどいいだけ与えていただきたいと思う。自分はあまり管理が上手ではないようだ。つい、自分のために使ってしまう方だ、だから、神様は「こいつに必要以上与えても、わたしの願ったようには使わないみたいだ」と、ちょうどいいだけ与えてくださるようだ。これからも、そうしていただきたいと思った。主よ、わたしの必要をいつもいつも満たしてください。いつもいつも与えてください。主よ、あなたがわたしの必要を満たし、わたしの必要にちょうどいいだけ与えてください。でも、「こいつに任せても大丈夫だ」というように貴方が思ってくださるほど、わたしのうちに愛があふれた時に、もっともっと与えていただきたいとも思います。正しい使い方ができますように、私の心を守ってください。

「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」(コロサイ2:3)

イエス様のうちに、知恵と知識との宝が隠されていると。本気で主を求め、本気で主に聞いていく時に、そこに、知恵と知識とが与えられる。ついつい、イエス様以外のところに、イエス様の単純な真理を説明するために助けになるものを求めていたりする。でも、本当はイエス様ご自身が奥義であられるのだから、イエス様ご自身が知恵と知識の宝の詰まっておられるお方なのだから、イエス様ご自身をもっと知って、もっとストレートに伝えていけばいいのではないかと思った。主よ、もっともっとイエス様の真理をわたしに教えてください。わたしに経験させてください。わたしがそのイエス様を知って、それを紹介していけますように。他のものに求めるのではなく、あなたに求めさせてください。

9月23日(金)

「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである」(箴言29:25)

この御言葉はわたしにぴったりの御言葉だと思った。人を恐れやすい者だと思う。人を恐れて、人の顔色や人の目を恐れて歩みやすい者だと思う。ああ、ワナに陥らないように気をつけようと思う。主よ、どうかわたしを助けてください。わたしが人のことを恐れないで、あなたを恐れて歩むことができますように。ワナに陥ることがないように守ってください。あなたの前に真実に歩むことができますように、あなたを信頼して歩むことができますように。わたしを助けてください。

「わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により」(コロサイ1:29)

わたしのうちに力強く働く力がある。わたしのうちに働いてくださるお方がいる。そのお方の力で進んでいくことができる。それがわたしの力の源だ。それが枯れないようにしていくことが大切だ。「福音に生きる教会」を掲げて歩んでいる。それは義務ではなく、喜びによって守られる、礼拝、奉仕、献金、賛美・・・それを求めている。そのポイントは、講壇から、いつもいつも恵みの御言葉が、力ある聖書の言葉が語られているかどうかにかかっていいると思う。ならば、わたし自身がいつもいつも御言葉によって語られて、御言葉によって生かされていることがどれほど大切なことかと思う。主よ、どうかわたしのうちに御言葉によって、聖霊様によって、あなたの御力を経験させてください。あなたの御力を満たしてください。

9月22日(木)

一週間ためてしまいました。
このページを励みにしておられる方々には申し訳なく思っております。
でも、更新より祈る時を大切にして・・・
木にたとえると、わたし自身の祈りの生活は根っこにあたり、
このページの更新は果実の一つです。
果実にばかり気をとられて、根を大切にしていないと、やがて枯れてしまいます。
だから、日々の祈りを大切にしようと思っています
その結果として、豊かな実を結ぶことができますように、と。
29日に一週間分まとめて更新します。

「あなたの羊の状態をよく知り、あなたの群れに心をとめよ。」(箴言27:23)

毎年この言葉に心が留るような気がするのだが、いつもいつも思い出させられる。主がわたしに託してくださった人々のことを本当に心にとめて、祈り続けることの大切さ、自分のことで精一杯になる時がある。でも、本当に人々と共に生きるように使命を与えられているのだから、人々のことを心にかけていく者となりたい。主よ、まだまだわたしは自分のことで精一杯になる時があります。本当に、心から人々を愛し、人々と共に生きることのできる者としてください。わたしのうちにあなたの愛を満たし、あなたの愛を運ぶ者としてください。自分のことよりも、人のことを考えることのできる者としてください。ひとりひとりのために祈ります。ひとりひとりの問題について、あなたが答えを与えてください。

「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」(ピリピ4:19)

神様が私たちの一切の必要を満たしてくださる、という。時々、家計簿を見て、どうしようか、と思う時もある。すべての必要を満たしてくださるのは神様だ。子供の時からの信仰だ。それはそうだ。でも、本当に厳しい時に、それを自分に言い聞かせながら、やはりどうしようか、と思う自分がいる。主よ、あなたを信頼させてください。100パーセント信頼させてください。そして、あなたの与えてくださることに感謝して、歩んでいくことができますように。主よ、どうか、わたしと家族の一切の必要をなあなたが満たしてください。教会の一切の必要を満たしてください。教会に連なるお一人ひとりの一切の必要を満たしてください。

9月21日(水)

今日はその日のうちに更新。夜だけど・・・

「あなたがもし食をたしなむ者であるならば、あなたののどに刀をあてよ。」(箴言23:2)

びくっとする言葉だ。自分は食いしん坊だから、自分のことをいわれているのかと思った。でも、本当に注意しなければならないと思った。自分の欲望のために、自分の願望のために見るべきものを見ないで、考えなければならないところを考えないで、人の言葉に振り回されてしまう危険を感じた。主よ、本当に注意することができますように。神様の御心をいつも求め、人に振り回されてしまうことがないように、また欲望に振り回されてしまうことがないように、助けてください。

「彼らの思いは地上のことである。」(ピリピ3:19)

自分は地上のことばかり考えていないだろうか?天国に目が向いているだろうか?神様の与えてくださる賞与に目が向いているだろうか?地上の評価や、地上の「成功」を求めていないだろうか?地上のものに、物欲に縛られていないだろうか?本当に天国を見上げながら歩んでいく者でありたい。天国を見つめながら、神様の与えてくださるものを求めながら、歩んでいく者でありたい。主よ、どうか私が地上のものに捕らわれないように、守ってください。あなたの与えてくださるものを待ち望む者としてください。

9月20日(火)

今日はNJの早朝祈祷会。早朝というほど早くなくて、「出勤前祈祷会」といったほうがいいかもしれない。でも、「出勤」しない方も大歓迎なので、それもまずいかな。今日は久しぶりに一人の兄弟がこられて、幸いなひと時をすごした。感謝。もっともっと祈ることを大切にしていきたい。今日はもう20日。月報の原稿、書かなきゃ。

「戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主による。」(箴言21:31)

本当にそうだと思う。自分たちが一生懸命準備する。でも、勝利は主の御手の中にある。主が与えてくださる。だから祈るのだ。だから求めるのだ。だから主に聞くのだ。主よ、私たちはいろいろなことを考え、準備します。けれども、これを実現に至らせてくださるのは主です。あなたです。どうかあなたの御業を現してください。あなたが勝利を与えてください。あなたのみ手にゆだねます。あなたがなしてください。祈り続けます。祈っていきます。

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

私たちが輝くためには、私たちがこの世で輝くためには、「命の言葉を堅く持って」いなければならない。御言葉が私たちの生活の中心であり、私たちの歩みの中心とならなければならない。主よ、どうかあなたの御言葉に生かしてください。御言葉に歩ませてください。御言葉を堅く持つことができますように。今日も教会の一人一人をお守りください。御言葉によって歩ませてください。

9月19日(月)

「人の道が主を喜ばせる時、主はその人の敵をもその人と和らがせられる。」(箴言16:7)

人とうまくやっていこうという気持ちが、自分は子供のころからずっと強いような気がする。そのためにはいろんなことを我慢したり、自分の考えを引っ込めたり、人の話を聞くばっかりだったり・・・。でも、そんな必要ないんだって思わされた。主を見つめていれば、主を見上げていれば、主が何を喜ばれるかを求めていけば、人とも和らげさせてくださるという。本当にそれを信じていこうと思った。主を見上げていこうと思った。もう人の顔色を見るのはやめようと思った。主を見上げていこうと。主よ、私はあなたを見つめて生きます。あなたのみ思いを求めます。どうかあなたの喜ばれることをなさせてください。それを教えてください。

「わたしの身によってキリストがあがめられること」(ピリピ1:20)

心からこれを願う。自分がどう思われるとか、どのように言われるかとかよりも、本当に主があがめられてくださること、イエス様はすばらしい方だと言われてくださることのほうが本当にうれしい。自分個人が何か言われるのは、正直言って、戸惑う。本当に主があがめられてくださったかどうか、が私にとっては大切なのだから。主よ、あなたがあがめられてくださいますように。

9月18日(日)

「主を恐れることによって人は安心を得、その子らはのがれ場を得る。」(箴言14:26)

私たちの平安は結局のところ、やはり主の許にある。誰かが同じ思いを持っていてくれることでもなく、支えてくれることでもない。もちろん、それはうれしい。でも本当の究極の平安は主の許にある。種の御心を求めていこう。主のみ思いが自分の思いにされていくように。自分の思いを主に押し付けるのではなく、主のみ思いを求めていこう。私の思いが整えられますように。あなたの許に安らぐ者としてください。

9月17日(土)

今回は再開後新記録となる4日分まとめての更新です。あまり自慢できることではありませんが、「更新するために聖書を読む」とならないなために、自分ひとりで聖書から語られることを大切にしていると理解してください。「更新」が前面に立つと、気が焦ってしまって、日曜日の説教で語らせていただいたように、「み言葉を料理する」という気持ちになってしまいます。更新する時間を与えてくださった主に感謝しつつ。

「知恵ある人の舌は人をいやす。」(箴言12:18)

ただただ、人を癒すことのできるう舌を持つ者とならせていただきたいと思った。主がその癒しを私を通してして下さったら、感謝だなあ、と思った。正しいことを言うことは簡単かもしれない。(いや、結構難しいか・・・?)でも、人を癒す言葉は本当に主の賜物だと思う。主が与えてくださらなければ得ることのできない賜物だと思う。主よ、私の唇を守ってください。私の舌を守ってください。そして、人を癒す言葉を与えてください。すぐ傲慢になる、いや、本質的に傲慢な者です。どうか私を砕き、人を癒す働きができる者へと整えてください。

「わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。」(エペソ6:20−21)

この願いは私の願いでもある。本当にみことばによって語られて、み言葉によって養われて、み言葉を大胆に語るものとならせていただきたいと思う。そして、多くの人にそのように私のために祈っていただきたいと思う。私は自分の弱さをいやというほど知っている。自分が一番知っている。だから、ただただ、多くの方々に祈りによって支えていただきたいと思う。そして、もっともっと主の奇跡を拝させていただきたいと思う。主よ、どうか私を用いてください。あなたのみ言葉を語らせてください。大胆に語らせてください。

9月16日(金)

「あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。」(箴言9:8)

これはまた難しいことだと思った。注意や戒めを与えることがいいことと、それがうまくいかないことととがある。よかれと思って、細心の注意を払いながら、配慮をしながら、戒めを与えても受け取ってもらえないこともある。だからといって、すべてから逃げてしまってはいけないと思う。主よ、私に見分ける力を与えてください。逃げる恐れから解放してください。そして、愛をもって戒める勇気を与えてください。

「しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。」(エペソ5:13−14)

明らかにされたものは光となる。これはものすごい約束だ。誰でも、自分の汚点を隠しておきたい。自分の陰部を隠しておきたい。でも、それを主の光の許にさらす時に、その光に照らしていただく時に、そこが光となるのだという。ああ、何という語りかけだろうか?私も本当に主の前に、そして人の前にも、自分の本当の姿をさらす者でありたい。主よ、あなたの前に裸で出ます。どうかあなたが私のすべてを光としてください。あなたの奇跡を待ち望みます。あなたの語りかけに心から感謝します。

9月15日(木)

週末に向けて、急に忙しくなってきました。あっという間に金曜日の夕方。また今晩は集会があります。通訳の方に日曜日のメッセージの原稿をお送りしたり、明日の記念会の準備をしたり、といろいろあるのですが、やはりここで静まって、神様の前に出ることが、すべての土台であることを覚え、ここで時間を取り分けて、2日分の更新です。

「人の道は主の目の前にあり、主はすべて、その行いを見守られる。」(箴言5:21)

主が語ってくださった。私の道は主の前にあると、主はすべてをご覧になっていると・・・。子供の時から知っていることだけれども、事実として、教理として知っていることだけれども、今日は主が私の心に語ってくださった。私はあなたのことを見ていると・・・。コワイ、という感じはしなかった。ただ、本当に誠実に歩みたいと思った。それによって正しい道に守られていくならば、それは本当にありがたいことだと思った。主よ、どうか私の道を守ってください。遊女に誘われていく男達のように、私もサタンの誘惑にはまりそうになるならば、どうか、あなたの前に歩んでいることを思い出させてください。あなたと共に歩む者としてください。あなたがいつもいつも私の歩みに興味を持っておられること、心から感謝します。

「神の聖霊を悲しませてはいけない。」(エペソ4:30)

聖霊様にもっともっと働いていただきたい。もっともっとご自由に働いていただきたい。なのに、聖霊様を悲しませていないだろうか、と思った。聖霊様は今悲しんでおられないだろうかと思った。主よ、聖霊様を悲しませてきたことを、心から悔い改めます。どうか聖霊様が今日、豊に働いてくださいますように。聖霊様を悲しませることから手を切らせてください。聖霊様、ごめんなさい。どうか私のうちにあふれてください。教会のうちにあふれてください。

9月14日(水)

今日は何ヶ月ぶりでしょうか?NYの早朝祈祷会に行きました!バスで・・・。ニューヨークのグランドセントラルの直ぐそば(Lexingtonと45丁目だったかな)のマクドナルドの2階の片隅で何人か集まって、毎週水曜日朝の7時半から祈り会をしています。6時20分のバスに乗るので、今朝はバスの中でのお祈りの時でした。でも更新は夕方。もうすぐ、今日2回目のNYです。危なく更新が明日になるところでした。

「 主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように。」(箴言3:12)

ヘブル人への手紙にも引用されている有名な言葉が心に留った。神様は私たちを愛しておられる。その愛はある時には訓練、戒めとして与えられるのだ。苦しい時にもそのことを知っていたらどれだけ支えだろうか?孤独になる必要はない、孤独だと思いこむ必要はない。神様は私たちを愛しておられる。これは本当に大切なメッセージだ。当たり前のように感じてはならないと思った。当たり前のように勘違いしてはならないと思った。私は苦しみの中でも一人ではない。主が私を信じて、信頼して訓練を与えてくださっているのだ。ハレルヤ!

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」(エペソ3:16)

今朝はリビングバイブルでも読んだ。「どうか、父なる神が、その栄光に満ちた無限の富の中から、聖霊様を通して人を内面から強くする力を、あなたがたに与えてくださいますように。」これはわかりやすかった。神様のすばらしい富、その富によって、そして、聖霊様によって、私たちは内面から強くされていく。内面が造りかえられる。私は今日、是非、その力を与えてください、と祈る。そして、教会の一人一人にも与えてください、と祈らされる。本当に一人一人が神様からこの力をいただいて、戦いの中で嵐の中で歩んでいくことができますように。

9月13日(火)

「そののどには神をあがめる歌があり、その手にはもろ刃のつるぎがある。」(詩篇149:6)

この所は理解に苦しむ。神をあがめる一方で、その手には剣があるなんて・・・。でも、新約の光の中で読むと、この剣は神の言葉、ということができるのではないか?エペソ6章にあるように、私たちの武器は神の言葉だ。賛美をする一方で、私たちの手には御言葉の剣があるだろうか?賛美だけではない、楽しく、気持ちよく賛美するだけではない、私たちの手には剣があるだろうか?御言葉の剣で戦っていこう。御言葉を蓄えよう。御言葉によって生きていこう。主よ、御言葉を私に与えてください。御言葉を単なる教理として持つのではなく、語られて、生かされて行くことができますように。

「神の恵みの絶大な富・・・」(エペソ2:7)

絶大な富。神様が与えてくださったものがどれくらい大きいのか、神様の恵みが、神様の赦しがどんなに大きいのか、それを忘れてはいけないと思う。それが教会の中心だ。それがクリスチャンの歩みの中心だ。それを外したら、それを誤ったら、たいへんなことになる。神様、あなたの与えてくださる恵みの大きさ、それを語り続ける伝道者としてください。それを語り続ける者としてください。どうかその富の大きさを私自身、もっともっと経験させてください。もっともっと自分のモノとすることができますように。

9月12日(月)

またまた更新がコケましたが、まあ、あまりカリカリせず、何よりも自分自身神様の前に祈る時を楽しんで、そのことを分かち合いたいと思います。「『更新のための』祈り」にならないように・・・。いつも神様の方に心を向けながら。更新は13日です。

「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。」(詩篇147:3)

ああ、なんというありがたい言葉だろうか?主が私たちの傷を包み、癒される。主が私たちを包んでくださる。人に責められるのはつらい。批判されるのは痛い。それを肥やしにして成長していくのだろうけれども、その痛い部分は主が癒してくださる。そのときにこそ、痛みではなく、肥やしになるのだ。主よ、あなたに感謝します。あなたの慰めに感謝します。あなたの愛に感謝します。あなたが傷を包んでくださることに感謝します。どうか、あなたの癒しを信頼して、人の言葉を聞く耳を、聞く心を与えてください。

「あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」(エペソ1:18−19)

神様の力がいかにすばらしいものか、力強いものか、それを知ること、それはとても大切なことだ。主の力をそのときに、主に信頼して、確信を持って、平安のうちに歩むことができるのだ。「神の力強い活動によって働く力」、本当にそのことを教えていただきたいと思う。経験させていただきたいと思う。主よ、どうか私を導いてください。私に教えてください。あなたの力強さ、あなたのなさることのすばらしさ、それを信頼していく者に与えられる平安。教えてください。そして、それを大胆に語っていくメッセンジャーとしてください。

9月11日(日)

今日の真っ青な空、さわやかな空気、4年前と全く同じだ。主よ、今日の一日を守ってください。そして、嵐が襲ってきても、あなたの守りの中に生きることの平安を教えてください。

「あなたのみむねを行うことを教えてください。」(詩篇143:10)

神様、あなたの御旨は何なのでしょうか?私の心をきよめ、私の思いを守り、あなたが願っておられることを私自身も願うように、導いてください。あなたの願いが私の願いともなりますように、導いてください。そして、私の願いがあなたの願いなんだと、あなたに私の願いを押しつけることがありませんように。謙虚にあなたの御心を尋ねる者としてください。

9月10日(土)

「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。」(詩篇139:17)

自分はバカだなあ、と思うことがある。他の人が冷徹に考えられることが、考えられない。他の人が上手に説明できることが上手に説明できない。他の人が気がつくことが気がつかない。人間同士でもそう思うんだから、神様のことを考えたらどれほどかと思う。どれほど自分はちっぽけな存在だろうかと思う。神様の考え、神様のなさることは私の知る範囲ではないなあと思う。だけど、だけど、やっぱり知りたいと思う。本当に少しでも教えていただきたいと思う。御言葉が与えられているのだから、祈りが与えられているのだから、それによって教えてもらいたいと思う。主よ、どうか私に語ってください。あなたのみ思いを少しでも分けてください。あなたのみ思いを知るものとしてください。教えてください。

「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。」(ガラテヤ6:1)

人のことはよくわかる、様な気がする。人の姿に腹が立つことがある。本当に愛していたら、柔和な心をもって、語ることも大切だろう。でも、それ以上に、自分自身の姿を省みなさい、と聖書は語っている。本当に自分自身が神様から満たされて歩んでいるだろうか?神様から語られているだろうか?神様に愛されていることを喜んでいるだろうか?主よ、どうか私の歩みを守り、あなたと共に歩む喜びに生かしてください。あなたと共に歩む力をあふれさせてください。どうか主の満たしをいただいて、感謝して歩んでいく者としてください。

9月9日(金)

「彼の上にはその冠が輝くであろう」(詩篇132:18)

この言葉はイエスのことを預言している。イエスは王である。私たちの王である。本気で私たちは主を王としているだろうか?神様が私の王だろうか?人の顔色をうかがったり、自分の思いにこだわったり、イエス様を私たちの王様とすることが今私にとって、教会にとって大切なことだと思う。主よ、あなたが私の王です。私たちの王です。教会のかしらです。どうか私の生活を、私の経済を、私の家庭を、そして私たちの教会をあなたの支配の許に守ってください。あなたの権威を拝させてください。

「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって・・・」(ガラテヤ5:23)

聖霊様が与えてくださるもの、結ばせてくださる品性は、このようなものだという。聖霊様、私のうちにあふれてください。私のうちに住んでください。これらの実を結ばせてください。本当に聖霊様によって歩む者としてください。聖霊様によって愛が与えられますように、喜びが満ちあふれますように、平安を満たしてください。寛容な心を与えてください。優しさを与えてください。いつも善意で人に接することができますように。小さなことに誠実であることができますように。柔らかな心を与えてください。人の気持ちを考えないで言葉を発したり、きつい態度を取ったりすることがないように、聖霊様守ってください。

9月8日(木)

「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事とくすしきわざとに関係いたしません。」(詩篇131:1)

神様だったら、こう思っておられるだろう、神様だったらこうしてくださるに違いない、そんなことを私たちは思う。その通りに行かないと、神様がおられるならどうしてこんなことが・・・と思う。傲慢だなあと思う。本当に。神様の御旨を勝手に決めてしまわないこと、神様の大きさを本気で信頼すること、自分には大切なことだと思わされた。主よ、どうか日々私に語ってください。あなたの大きさをもっともっと知ることができますように、あなたの御旨に信頼して歩む者としてください。

「あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」(ガラテヤ4:19)

主が私のために産みの苦しみをしてくださっている。私のために産みの苦しみをしてくださっている先生方、先輩方、兄弟姉妹がおられる。それはものすごいことだ、すごい感謝だ、それを忘れてはいけないと思う。そして、それと共に思わされたのが、私自身は誰かのためにそこまで苦しんで祈って、いるだろうかということ。本当に人を愛したら、教会の一人一人を愛したら、その人の中にキリストの形ができるまではのたうち回るような産みの苦しみをするのではないだろうかと思う。主よ、私の中に愛を満たしてください。逃げようとする心から、体当たりしてこうという心に変えてくださって、人々を本気で愛する者としてください。

9月7日(水)

「主がもしわれらの方におられなかったならば」(詩篇124:1)

本当にそう思うなあ。主が私たちの味方でおられなかったら、自分はどんなに不安だろうか?どんなに恐れるだろうか?どんなに落ち込むだろうか?主が味方でいてくださるということはどんなにすばらしいことだろうか?今日の一日も主が味方となって下さっている。感謝。主よ、あなたが今日も私と共にあって下さること、今日も共に歩んでくださることを心から感謝します。どうか、あなたに目を向けて歩んでいくことのできる者としてください。

「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。」(ガラテヤ3:13)

キリストが私のために呪いとなって下さった。本当にものすごいことをしてくださった。ものすごい愛を注いでくださった。だから、本当にそのことに感謝して歩んでいきたいと思う。私たちが本当はあの十字架を味わわなければならなかったのだ。本当はあそこには自分がいなければならなかったのだ。主よ、福音に生きる者としてください。律法ではなく、福音に生きる者としてください。義務ではなく、喜びに生きる者としてください。

9月6日(火)

今日は早朝祈祷会の日。どなたも来られなかったので、一人で今日の聖書の箇所を読んで、一人一人のお名前をあげながら祈った。主と語り合うのはなんてすばらしいことなのだろうか。でも、更新は遅くなりました。

「エルサレムのために平安を祈れ」(詩篇122:6)

これはよく、今の地理的な「エルサレム」のために祈ることを求めていることのように用いられるが、そうだろうか、それだけだろうか?と今朝は思わされた。エルサレムとは新約時代の私たちにとっては別に地理的なことに縛られた理解をする必要はないと思う。神の臨在のところ、神の臨在の現れるところ一般を指しているように思う。私たちのこと、教会のことをも指していると思う。本当にそのために祈ることを求められているのだと思わされた。教会のために祈る。その平安と祝福のために祈る、そこに集う人々のために祈る。主よ、どうか教会を支えてください、守ってください。あなたの祝福のあふれるところとしてください。あなたの臨在のあふれるところとしてください。どうかあなたが教会をお用いてこの世に大きなことをしてくださいますように。

「わたしは、神の恵みを無にはしない。」(ガラテヤ2:21)

神様の恵み、それは御子の十字架をかけた恵み、いのちを与えるほどに真剣な恵み、それを自分はどのように受け取っているだろうか?本気で私を愛してくださった神の愛を自分はどこまで本気で受け取り、どこまで本気で答えているだろうか?主よ、あなたの恵みの中に歩ませてください。あなたの恵みの中に生かしてください。あなたに愛されていることの喜びの中に歩ませてください。感謝します。

9月5日(月)

またコケた。一日おきだなあ。月曜日は牧師会のため、朝早く家を出て、夕方遅く帰ったので、更新は火曜日。それも火曜日の夜。でも、守られて感謝。

「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。」(詩篇119:11)

罪から守られるために必要なのは御言葉を心にためること。御言葉によって歩むことだ。本当にそうだと思う。主が語られる御言葉によって支えられて、いかされていると思うし、いろんなことの中で、御言葉を味わいながら歩んでいる時には誘惑に勝つ力を与えられていると思う。だから、毎日御言葉に支えられて歩んでいきたいと思う。主よ、どうか私に御言葉を与えてください。語ってください。これから、もっともっと御言葉を愛して歩んでいきます。御言葉の味わいの深さをもっと教えてください。

「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」(ガラテヤ1:10)

今、自分は何を見ているだろうか?人を見ているだろうか?それとも神を見ているだろうか?人がどう思うかを見ているだろうか?それとも神様がどう思われるかを見ているだろうか?神様を見上げて歩んでいこうと思う。神様がどう思われるか、どのように見ておられるか?どのように思っておられるかで決断をしていこうと思う。主よ、どうか私の中の人を恐れる思いを砕き、焼き尽くしてください。いつもいつもあなたがどう思われるかを見ながら一つ一つのことを判断していくことができるように導いてください。

9月4日(日)

「わたしはひどく押されて倒れようとしたが、主はわたしを助けられた。」(詩篇118:13)

時々、主はどうしてもっと早く助けてくださらないのだろうかと思うことがある。もっともっと早く、してくださったらいいのに、と思う。私には、どこまで行ってもわからないんだろうなと思う。ひどく押されて倒れそうになる前に助けてくださればいいのに、と。ほんとに。でも、主は助けてくださる。苦しみ、痛み、叫び声をあげるような時に、主は支えてくださる。主よ、あなたのタイミングは私にはやはりわかりません。でも、あなたが私を助けてくださる方であることに心から感謝します。どんな苦しみの中でも、あなたがいてくださいますから、信頼していきます。どうか私の心を平安でいっぱいにしてください。

9月3日(土)

再開3日目にすでにコケた。更新は4日。早朝祈祷会で朝早く出たので、うっかり一日経ってしまった。でも、翌日に更新できたので感謝。

「主は岩を池に変らせ、石を泉に変らせられた。」(詩篇114:8)

私たちが荒野を歩む時に、苦しくて、つらくて、弱音を吐くし、早くここから逃げ出したいと思う。早く解決してほしいと思う。でも、主は岩を池に変えることのできるお方。主は石を泉に変えることのできるお方。だから、それを信頼して歩んでいこうと思う。今自分は荒野の中にいるかというと、そうではないような思いがある。でもいつ突風が吹いてくるかわからない。いつ荒野の中に放り込まれるかわからない。だから、この御言葉を心にとめておこう。主がその中で与えて下さる泉を自分のものとしたいと思う。

「倒すためではなく高めるために主が授けて下さった権威・・・」(第2コリント13:10)

人を生かし、人を高めるための権威。ある時には厳しいことを言わなければならないことがあるが、それはあくまでも人を高めるため。この面で自分は神の助けをもっともっといただかなければいけないと思う。主に祈りつつ、その働きをさせていただきたいと思う。人に語る厳しい言葉がその人を悔い改めに導き、その人を生かし、その人を成長させていくことができるように、主よ、お助け下さい。いつもいつも謙虚に、あなたの導きを求めながら、正しく語っていく者としてください。

9月2日(金)

日に日に状況が深刻であることがわかってくるハリケーンの被害。何ができるのだろうかと思わされる。何とかならないのかと思う。多くの人々が家を避難民のために使ってくださいと、提供している話もあった。自分の住んでいる町からは、「何かしたいと思うならば、自分が行って何かをするとか、物を送ることは控えてください、Red Crossへの寄付をしてください」との電話が入った。主よ、知恵を与えてください。なすべきことを教えてください。

「彼は惜しげなく施し、貧しい者に与えた。」(詩篇112:9)

惜しむ心がないだろか。自分の心をのぞいてみると、自分にはやはり惜しむ心があるなあ、と思う。あいに動かされて、自分の惜しむ心なんかどっかに吹き飛んで・・・という人間ではないなあ、と思う。「与える時には痛みが伴う」ということも聞いたことがあるけれども、本当に自分は惜しむ心から解放されたいと思う。何にも心配しないで、与える者となりたいと思った。次の日曜日の礼拝の箇所には「主はご自分の栄光の富の中からあなたがたの一切の必要を与える」とある。本当にそれを信頼して、主が与えてくださることを信頼して、安心して、与える者となりたい。主よ、あなたを信頼します。あなたがわたしとわたしの家族のの一切の必要を与えてくださる方であることを信頼します。惜しみなく与える者としてください。

「そこでわたしは、あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう。」(第2コリント12:15)

このパウロの言葉はまたすごいなあ、と思った。コリントの教会、パウロのことを悪く言っている人々もいたその教会のために、犠牲を払い、自分自身をも使い尽くそうだなんて・・・。本当にすごいと思う。自分はどうだろうか、とまた思わされた。「教会を食い物にするな」との言葉が辻先生の本の中にあったが、それどころではない、give and takeでもない、自分を与え尽くす。そのような働きのためには、やはり主からいつもいつも与えられていなければ、主からいつもいつも愛を与えられていなければできないと思う。主よ、どうか、あなたご自身が愛を満たしてください。あなたの愛をわたしのうちに満たしてください。主よ、今日もあなたがわたしを愛してくださっていることを感謝します。あなたの愛を感謝して歩む者にしてください。

9月1日(木)

久しぶりの更新。新しい思いで、主の前に出て、祈り、思わされたことをここにつづっていきたいと思う。そのままの思いをつづっていきたいと思う。でも、ここに書くことは結果であって、いつもいつも、主に聞きつつ、祈る時の方を大切にしていこうと思う。

「すべて賢い者はこれらの事に心をよせ、主のいつくしみをさとるようにせよ。」(詩篇107:43)

主の恵みを心にとめよ、と昨日読んだ102篇にあったけれども、ここも同じようなことを思わされた。主がして下さった、すべての良きこと、主の憐れみ、赦されたこと、そこに目をとめるように語られた。私たち、いやわたし自身はいかに問題の方に心を捕らわれやすいことであろうか。どれほど、「主はどうしてこうして下さらないのか」という方に心を縛られやすいことか。でも、聖書は、主の恵みに、主のいつくしみに目をとめなさい、と語る。今日の一日、主の恵みに目をとめながら歩んでみよう。主がどんなすばらしいことをして下さっているか、それを一つ一つかみしめながら、一つ一つ目を注ぎながら歩んでいこう。主よ、どうかわたしの一日をお守り下さい。わたしの目をお守り下さい。あなたの慈しみを見ていくことができますように。それを味わっていくことができますように。

「だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。」(第2コリント11:29)

パウロの人々に対する愛を見せられた。人が弱さを覚えている時に、自分も同じ思いにさせられて、誰かが罪を犯しているのをほおっておくことができなくて・・・。わたしはどうだろうかと思わされた。逃げていないだろうか。関わらないでいようと思っていないだろうか。あの「良きサマリヤ人」の譬えの中の祭司が向こう側を通っていったように、関わらないでいようと思っていないだろうか。特に、「誰かが罪を犯している」時に、「その人と神様の問題だから・・・」と逃げていないだろうか。向こう側を通っていないだろうか。だんだん小賢しくなって、だんだん「大人になって」、人が罪を犯している姿に「心が燃える」ことがなくなってきていないだろうか。主よ、愛を与えて下さい。あなたが人々の罪のために自分のいのちを与えた愛を、わたしにも与えて下さい。燃える愛を与えて下さい。

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