男は、怒ったり争ったりしないで、
どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。

10月31日(月)

実はこの部分を書いているのは11月9日。一週間以上あとになっているけれども、実際はほんとうに毎日聖書から語られ、祈りが祝福されてきた。祈りが更に喜びとなってきた。もちろん9日の分を今日読んでいる。そして、31日にどんなことを感じたのかを思い出しながら、書いている。でも、難しいなあ、と思う。自分のために祈る祈りが大切だけれども、それを分かち合い、皆さんの励ましになれば、と思っているのだけれども・・・。あくまでも自分が神様の前に出ることが第一だから、これでいいのだろう。

「わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。」(エレミヤ7:11)

主の家が盗賊の巣になっている、ということは、自分のために、自己実現のために用いられて、主をあがめる、主の前にひれ伏すということがなくなっているということなのだろう。ああ、自分は教会でどのように歩んでいるだろうか?ほんとうに主に仕え、主の喜ばれることを本気で求めているだろうか。神様が中心の教会、神様の喜ばれる教会。人々に仕えていく教会。その様な歩みをさせて頂きたいと思った。主よ、あなたがご自由に働いて頂けるように、聖霊様が豊かに働いて頂けるように、あなたを中心とした歩みをさせてください。あなたのすばらしさを拝させてください。

「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」(ヘブル7:25)

イエス様こそ、私たちのためにとりなしをしてくださる方。私たちの隠れ家となって下さる方。「いつでも」だ。いつでも主は私たちを迎えてくださる。いや、待っていてくださるのだ。だから、安心しよう。いつでも主のところに行こう。わたしの一歩一歩が一分一分が主と共に歩むものとなりますように。イエス様、あなたがわたしの羊飼いであり、とりなし手であることに心から感謝します。あなたの御手の中に、あなたと共に今日も歩ませてください。

10月30日(日)

「あなたがたは自ら割礼を行って、主に属するものとなり、自分の心の前の皮を取り去れ。」(エレミヤ4:4)

ああ、主の前に悔い改めて、きよめて頂いて、神様の力によって歩んでいきたい。主よ、どうかわたしの心をすべてきよめ、あなたのきよさに預からせてください。あなたの愛に満たしてください。恵んでください。私の心のすべてをあなたの前に持ち出しますから、主よ、あなたが支配してください。

10月29日(土)

「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。」(エレミヤ1:9)

やはり神様から語って頂く、神の声を聞いていく・・・つまり聖書から教えられていく、ということが自分にとってどれほど大切なことかを思わされた。自分の考えを振り回していくのではない。いつもいつも神様に聞き、神様から教えられて歩んでいきたい。そして、そこにもどこまでも、神の言葉だと語りながら、自分の考えが忍び込んでくる危険を忘れないでいたい。ほんとうに主の前に誠実でいたいと思った。主よ、どうかわたしの歩みを守って下さい。あなたの御言葉を語って下さい。あなたが教えて下さったこと、あなたが語って下さったところに堅く立って歩んでいく者としてください。

「かつ『幕の内』にはいり行かせるものである。」(ヘブル6:19)

去年もそんなことを思ったかもしれないが、この「幕の内」とは何だろうか?何を指しているのだろうか?天国だろうか?それとも「神様との親しい交わり」だろうか。イエスが入られた、ということを読むと、将来与えられる天国の希望のように思える。いずれにせよ、神様ともっともっと近く歩むことのできる幸いなのだ。この地上においても天国が与えられている。主と共に歩む喜び。思い通りに行かないことがあっても、苦しみが襲ってきても、主が共にいて下さることがどんなにすばらしいことだろうか。そして、苦しみの中にいない時には、自分が苦しみにあった時に、どうなるか、不安になる時もある。でも、親が子どもに電車に乗るお金をその直前に渡すように、神様は私たちが苦しみを乗り越える力を、まさに必要な時に与えてくださるのだろう。主よ、あなたと共に歩む喜びをもっともっと教えてください。戦いの中でもあなたがいることのすばらしさを教えてください。

10月28日(金)

時間に追われている夢で目が覚めた。そして、目が覚めた時に、「ああ目が覚めた。夢でよかった。」と思った。無意識のうちに焦っているのだろうか。今週から来週にかけて確かにいろいろなことがあるけれども、あまり焦らないで過ごしたいと思う。
それから、個人的に祈っていた一人の方が今朝、主に召された。与えられた馳せ場を走りきって、召されていった。もっともっとこの地上で主の証を立てて頂きたいと思っていた。でも、主のみ思いは私のとは違った。今朝、聖書を読んで祈ったあと、そのニュースがメールで届いていた。たぶん、主は私の思いつかないようなすばらしいことを、そこにも準備しておられるんだろうと思う。ただ、主の慰めがご家族にあるようにと祈りたい。そして、私もいつ主に召されても、「待ってください」と言わないですむように、今日の一日も与えられた使命に生きたい。

「しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。」(イザヤ66:2)

今朝は、何度も祈りながら、何度も読み返した。「主よ、お語り下さい」と。主は私に何を語ろうとされているのか、わからなかった。頭がまださえていなかったのかもしれない。他のことに心がいってしまって、聖書の言葉をただ目で追っていただけかもしれない。でも、何度も読んでいる中で、この言葉が心に留った。主の前に、主の御言葉の前に恐れおののき、主の前にひれ伏す者。聖書の言葉は私たちが研究する対象ではなく、御言葉に私たちが料理されるのだ、といつも語りながら、でも、ほんとうに主の前に恐れおののいていただろうか、そう思わされた。主よ、いつもいつも御言葉を語ってください。あなたの御言葉の前にひれ伏す者とならせてください。

「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び・・・」(ヘブル5:8)

イエス様が、その苦しみを通して、「従順を学ばれた」とは。イエス様は神様だから、そんなの必要ないのではと思うけれども、聖書は、イエス様も、従順を学ばれたという。ならば、私たちにはそれがどれほど必要だろうかと思う。私たちが、自分の好き勝手に生きるために、救われたのではない。ほんとうに苦しみもあるけれども、その中でも神様に従順であることができるようにと、学ぶべき存在なのだ。主よ、私もこれから苦しみに出会うでしょう。その中で、ほんとうに従順を学ぶことができますように。わがままな者となることがないように、御言葉によって、日々教えてください。

10月27日(木)

主の前に出て祈ることの喜び。改めて、新しく、思わされた。主よ、祈ることをもっともっと教えてください。

「悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。」(イザヤ61:3)

悲しみに沈まないではいられない時がある。憂いに満たされる時がある。でも、そんなときにも主は私たちに賛美の衣を与えてくださる方。私たちに喜びの油を注いでくださる方。主よ、御言葉通りになしてください。あなたの喜びを私のうちに満たしてください。状況がどうであったとしても、あなたが与えてくださる喜びの中に歩む者としてください。賛美を与え続けてください。歌いつつ歩む者としてください。

「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。 」(ヘブル4:16)

大胆に、恵みの御座に近づく。その様に招かれている。心を開いてその様にするように招かれている。だから、単純にその様にしたいと思った。ほんとうは主の前に立てるような人間ではないけれども、そんなりっぱではないけれども、主が招いておられるのだから、その様にしたいと思った。主よ、あなたの前に立てる幸いを感謝します。あなたに祈れる幸いを感謝します。どうか、もっともっとあなたとの交わりの中に歩む、祈る者としてください。祈りの器としてください。

10月26日(水)

もう10月も終わりだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、今朝は寒かった。NYの早朝祈祷会に久しぶりに行ったのだけれども、ビルの間を吹き抜ける風は冷たかった。でも、共に祈った仲間との時間はとても暖かく感じた。ハレルヤ!

「ただ、あなたがたの不義が、あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が、主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。」(イザヤ59:2)

深い、鋭い警告をいただいた。主が私に警告を与えられたように思った。やはり、祈る時に、主の前に罪を悔い改め、砕かれて出ることが大切だ。ある人は言った、そんなことは関係ないと。でも、聖書は語る。悔い改めよ、と。イエスによって、私たちの罪は赦される。だから、だからこそ、神の前に裸になって出ようではないか。主の前に出よう。主よ、どうかわたしの罪を赦し、あなたとの間に何のこだわりもなく、何の邪魔物もなく、出ることができますように。主よ、あなたの前に出ます。どうかわたしをきよめ、あなたと共に歩む者としてください。

「きょう、み声を聞いたなら、・・・あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル3:15)

主よ、心をかたくなにしないで、あなたの前に出ます。私をきよめ、新しくしてください。聖霊様、私を満たしてください。あなたを私の生活の中心にお迎えします。私の生活の真ん中にお迎えします。どうかわたしを守ってください。私の言葉を守ってください。私の態度を、あなたに支配されたものとしてください。私の行動を、私の興味を、あなたの願われる方向に導いてください。主よ、あなたが私の人生の主です。王です。

10月25日(火)

「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」(イザヤ55:11)

主よ、あなたに感謝します。このように語ってくださってありがとうございます。今年があと1ヶ月あまりになる中で、御言葉がほんとうになるのか、主が約束してくださったことがほんとうに起こるのか、主の霊によって、よどんだ水も清くなる、そのような御業が与えられるのか、不安にある時もあります。でも、御言葉は無駄に落ちない。必ず、あなたの喜ばれることをして、実現してくださる、と。その御言葉ゆえに感謝します。どうか、よどんだ水も清くなる、その御業を確かになしてください。信じて待ち望みます。

「なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。」(ヘブル2:10)

むずかしいなあ、と思いながら読んだ。神様が人を救うのに、ひとり子をお与えになる、と言う方法をとられたことは、神様らしいことだった、ということだろうか、と思った。神様は愛のお方だから、その方法は、まさに神様らしい方法だったということだろうか。ほんとうに私たちの知恵を超えているなあと思う。主がなさることは私たちの考えを遙かに超えているなあ、と思う。主よ、私にはわかりません。でも、わかることがあります。あなたがそこまで私たちを愛してくださっていることがほんとうにすばらしい、うれしいことだということです。イエス様がそこまでしてくださったことがほんとうに感謝です。ありがとうございます。

10月24日(月)

「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ。」(イザヤ54:2)

神様、御言葉に感謝します。大胆に進んでいっていいと、あなたが語ってくださったことに心から感謝します。自分の欲のためにではなく、自分の野望のためにではなく、あなたの栄光のために、あなたのすばらしさが表れるために、大きなことを求めていきたいと思っています。どうか、あなたの約束通りに、必要を満たし、人々の心にあなたの愛が届きますように。私自身をあなたの愛で満たし、あなたの愛を表す者としてくださいますように。

「神、あなたの神は、喜びのあぶらを、/あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた。」(ヘブル1:9)

イエス様は喜びにあふれておられたお方なのだ。悲しみの方で、私たちの痛みや悲しみをわかってくださる方でもあるけれども、それと同時に、喜びにあふれたお方なのだ。そして、その喜びをまた私たちに分かち合ってくださる。shareしてくださる。主よ、あなたの喜びのほんの一部でも、イエス様の喜びのほんの一部でも、私たちに注いでください。私の心に喜びを満たしてください。私の唇を賛美で満たしてください。口を開けば、賛美がついて出てくるようなそのような心にしてください。私にあなたの喜びの油を与えてください。

10月23日(日)

「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。」(イザヤ50:10)

暗い中で光が見えなかったら、自分はどうだろうかと思う。そこで主を頼り、主に信頼して歩んでいけるだろうかと思った。トンネルの中にいる時は自分はほんとうにそのトンネルから抜け出ることばかりを考えている。主が共におられるから大丈夫ではないだろうか?主が最高のことをしてくださるから、私の人生に最高のことをしてくださるから、それを信頼していけばいいのではないだろうか。主よ、暗い中で、光を見なくても、それでも、あなたを信じて歩むことが自分にはできるかどうか、自信はありません。でも、その様に歩きたいと思います。その様な時に、あなたがこの御言葉を私に思い出させてください。あなたを待ち望みます。

10月22日(土)

「生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ・・・」(イザヤ46:3)

この言葉はよく知っている言葉だと思っていた。そして、これからの歩みの中で、主が私のことを運んでくださる。背負ってくださる、そう思っていた。でも、ここに書かれている最初のことは、「あなたは今までも私に背負われてきたんだよ、あなたがここまで来れたのは、あなたの力ではない、私があなたを運んできたのだ」ということだった。今の自分があること自体が神様に運ばれている故なのだと示された。語られた。主よ、あなたに感謝します。あなたがわたしをここまで背負ってきてくださり、私が母の胎から出た時から、ずっと私を運んでくださったこと、ほんとうに感謝します。これからの歩みにおいてもあなたを信頼します。どうか、私の歩みをお守り下さい。感謝しつつ、賛美しつつ歩む者としてください。

「このパウロが手ずからしるす、わたしがそれを返済する。」(ピレモン19)

すごいなあ、と思う。パウロだって決してお金が有り余っていたわけではないと思う。使い道に困っていたわけではないと思う。なのに、彼は自分が悪いことをしたわけでもない、自分が借りを作ったのでもない、オネシモの不始末による借りを、「私が返済する」とそれまで口述筆記を頼んでいたのに、その筆を奪うようにして、ピレモンに書き送っている。自分だったらできるかなあ、と思った。「自分で返させなければ、本人のためにならない」なんてことを言いながら、ほんとうは自分がお金が惜しい、なんてこともあるのだろうと思う。主よ、私にはほんとうの愛が何かがわかっていません。心の底から、人を愛し、人に仕える者としてください。自分を与えることができますように。

10月21日(金)

「イスラエルの神、救主よ、まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である。」(イザヤ45:15)

私たちはなかなか鈍くて、苦しみの中や逆境の中に御自分を隠しておられる神様を見ることはできない。派手なこと、自分に都合のいいことの中に神様を見ようとして、神様ありがとう!と言って、ここにも神様がおられたのか、ということにはなかなか気がつかないものだ。でも、ほんとうに「ここにも主がおられた!」という経験をさせて頂くことができれば、と思う。主よ、どうか私の目を開いて下さい。私の目を開いて、神様を見せてください。神様はどこにおられるんだろうか、というような状況の中にもおられるあなたに目を向けることができますように。私の心の目を開いてください。霊的な鋭さを与えてください。

「それは、神を信じている者たちが、努めて良いわざを励むことを心がけるようになるためである。」(テトス3:8)

「よいわざ」。最近わたしに与えられている神様からのメッセージであるように感じる。「福音」を強調するがゆえに、軽んじてきたように思う、この「よいわざ」について聖書は繰り返し繰り返し語っている。その言葉が私の心に響いてくる。主よ、私によい業を行わせてください。あなたに力をいただいて、あなたに喜びをいただいて、感謝にあふれさせて頂いて、喜んで「よいわざ」に励む者としてください。なす事を教えてください。人を愛することを、人に仕えることを教えてください。

10月20日(木)

「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。」(イザヤ43:18)

私たちは、「以前あれでうまくいった」とか「去年もこうだったから、今年も・・・」と考えてしまいやすい。でも、そのときに、私たちはどこまで神に祈り、神を頼りにしているだろうか?神に求め、神に聞いているだろうか?神の御業を待ち望んでいるだろうか?まっさらにして、神に求めよう。神に聞こう。神の導きを探そう。主よ、あなたの新しい御業を待ち望みます。過去の経験に頼りやすい私たちを、そこから解放してくださって、あなたの新しい御業を経験させてください。あなたに頼って、あなたのなそうとされている「新しいこと」を経験することができますように。

「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。」(テトス2:14)

イエスが十字架にかかられたのは、私たちの罪を赦すためだけではなく、私たちをそこから解放して、「よいわざに熱心な者」にするためだという。「よいわざ」というと何か律法的的な雰囲気がするのだけれども、イエスが十字架に死なれたのが、そのためだと言われると、「そうか」と新しく目を開かれたような思いだ。主よ、あなたがわたしをよいわざに富む者と、よいわざに熱心な者としようとしておられることを心から感謝します。どうかわたしの内側をきよめ、あなたのみ思いに喜んで従うことのできる者としてください。よいわざを行う者へと造りかえてください。

10月19日(水)

「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。」(イザヤ40:26)

この世界は、この宇宙は神様が造られた。その方が私たちに必要なものを与え、支え、語ってくださる。だったら、私たちはこのお方を本気で信頼して、目を上げて高きを見ていくべきなのではないだろうか?教会堂のことで、私たちがもしも計算をしたならば、無理に見えるかもしれない。でも、それはこの方を計算に入れないで、お互いの財布だけで計算しているからではないだろうか?主はこの世界を創造されたお方。だから、本気で信頼して、主のなさることを見せて頂きたいと思う。主よ、どうかあなたが、必要の一切を満たしてください。私たちの教会堂を与えてください。あなたの奇跡を拝させてください。いや、あなたにとっては奇跡でも何でもないんですよね。あなたにはそれほど大きなことではないんですよね。感謝します。あなたの約束のゆえに心から感謝します。

「旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり・・・」(テトス1:8)

主は私たちにこのように生きることを期待しておられる。旅人をもてなすようにと、善を愛するようにと・・・。自分は旅人をもてなすのが好きな方だと思っていた。でも、今日、ここを読み、思いめぐらしながら、もてなすのはいつも家内の方で、私はそれに甘えていただけで、それで「自分は旅人をもてなすのが好きだ」と思いこんでいた。自己満足だった。結局自分は何もしてこなかったなあ、と思う。主よ、どうか、わたしに「旅人をもてなす」とはどういうことか教えてください。ほんとうに心からおもてなし出来るように、おもてなしを喜びとすることができますように。主よ、私を言葉だけではなく、行動する者としてください。「愛が大切だ」と声高に語るだけの者ではなく、具体的に人を大切にする者としてください。

10月18日(火)

「彼は『少なくとも自分が世にある間は太平と安全があるだろう』と思ったからである。」(イザヤ39:8)

この言葉はいつ読んでも納得がいかない。自分が生きている間平和だったらそれでいいのだろうか?自分がいないところ、自分が死んだあとだったら、どうでもいいというのだろうか?でも、やはりこれが人間の本性なのかなと思う。自分のことで精一杯。自分が大丈夫だったら、それでほっとする、それが私たちなのかもしれない。主よ、どうかわたしに愛を与えてください。自分のことで精一杯の私に人を思う愛を与えてください。人のために生きる愛を与えてください。どうか、あなたの愛で満たし、私を誰か弱さを遣わしてください。

「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。」(第二テモテ4:2)

御言葉を伝える使命を私はいただいている。時が良くても悪くても・・・だ。それほどに御言葉に養われていなければならないと思った。御言葉によって生かされていないと、御言葉も語ることができなくなると思わされた。主よ、あなたの命令に感謝します。その命令に従うために、「御言葉を語り続けなさい」との命令を守るために、私がもっともっと御言葉によって養われなければならないことを教えてくださり、ありがとうございます。あなたの御言葉の力を知っています。それが与えられた時の喜びを知っています。どうか、続けて御言葉によって生きる者としてください。

10月17日(月)

「主はこう仰せられる、アッスリヤの王のしもべらが、わたしをそしった言葉を聞いて恐れるには及ばない。」(イザヤ37:6)

人がどのように言っても、またほんとうの敵であるサタンが何を言っても、恐れる必要はない。私たちには主がおられる。主が共にいて下さる。だから、恐れる必要はない。恐れるには及ばない。ほんとうに主が私たちを支えられるのだ。どんな悪口も、どんなそしりも相手にする必要はない。主よ、あなたが共にいて下さり、私の主であって下さり、支えてくださることに心から感謝します。人の言葉や、サタンのそしりに振り回されない確信を与えてください。どうか、あなたの平安を与えてください。あなたがいつもいつも私に語り続けてください。

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」(第二テモテ3:16−17)

この有名な言葉の16節の部分だけをいつも読んでいたように思う。しかし、聖書の御言葉が、私たちをよいわざのために準備させてくださる、ということは、あまり意識していなかったように思う。御言葉が私の心を整え、御言葉がよいわざに準備をさせてくださる。だから、毎日毎日、御言葉によって歩んでいかなければいけないのだ。主よ、今日も語ってくださったことに感謝します。御言葉によって歩む者としてください。御言葉をいつも味わいながら、御言葉に教えられながら歩む者としてください。

10月16日(日)

「それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。」(イザヤ35:6)

荒野に水が、砂漠に川が・・・。この御言葉を読むと、今年の初めに与えられたあのイザヤ書四三章の言葉と、エゼキエル四七章の言葉が思い出させられる。主の霊が注がれる時に、よどんだ水も清くなる。主は新しいことをしてくださる。ひとりひとりの信仰の歩みの中に、その御言葉通りにすべてが与えられた人々もいる。でも、教会全体のことを見るならば、あと今年も二ヶ月半だけれども、まだ、この約束は実現していないように感じる。すばらしい教会だと思う。ひとりひとりが喜びにあふれて歩んでいる。でも、神様のなさることはもっともっと大きなことだと思う。聖霊様、教会を満たしてください。教会にあふれてください。きよめる霊を、愛のあふれる霊を与えてください。どうかあなたがリバイバルの御業を起こしてください。

10月15日(土)

「助けを得るためにエジプトに下り、馬にたよる者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない。」(イザヤ31:1)

私に対する警告と受け取れた。主が私に、「私を信頼しなさい」と言われている。人ではなく、人数ではなく、人の働きではなく、主に信頼することを求めておられる。主ご自身が人を救われる方で、人を生まれかわらせる方で、新しいことをしてくださる方で、私たちを支えてくださる。だから、だから、人に頼るのではなく、主に祈ろう。主に求めよう。主が与えてくださることを、主が人を導かれることを信じて進んでいこう。主よ、どうかわたしの歩みをお守り下さり、あなたのすばらしさを表してください。あなたの力を見たいのです。人間業ではなく、神業を見たいのです。悔い改めて、あなたを求めます。

「兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。」(第二テモテ2:4)

ああ、自分はどこまで日常生活のことに煩わされて、主を喜ばせることに心が向いていないだろうか。私は主に従った志願兵だ。主が招いて、声をかけてくださった一兵卒だ。今、私は司令官を喜ばせることで心がいっぱいになっているだろうか?主のことで心がいっぱいになっているだろうか?主よ、私の心をあなたを喜ばせることでいっぱいにしてください。あなたが喜ばれることは何なのか?求めながら、すべての必要はあなたが満たしてくださることを信じながら歩んでいくことができますように。主よ、あなたに対する信頼と、あなたに対する愛で満たしてください。主よ、あなたのすばらしさが表れる一日でありますように。

10月14日(金)

「たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。」(イザヤ30:20)

主は私たちから苦しみを取りのけられるのではない、悩みを取り除かれるのではない。悩みのパンと苦しみの水が与えられることもある。でも、その中で、主は私たちに道を示され、私たちに御自分を表してくださる。主が与えられるものは、ご自身だ。だから、苦しみの中でも歩んでいくことができる。主よ、私たちは苦しみがなくなったらいいと思います。悩みがなくなったらいいと思います。願ったような道が開かれたらいいと思います。でも、しばしば、あなたは悩みのパンを与えられます。そして、そのとき、私たちはあなたを見失いそうになります。あなたに捨てられたかのように思います。主よ、どうか私たちを守ってくださいまして、あなたの姿を見、あなたの御声を聞いていくことができますように。あなたにしっかりと目を注いで歩んでいくことができますように。

「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」(第二テモテ1:7)

主よあなたが私に聖霊様を与えてくださっていることに感謝します。でも、もっともっと満たされたいです。もっともっと聖霊様に支配されたいです。私のすべてを支配して頂きたいです。私の欲も、私の趣味も、私の時間も、すべて聖霊様に導かれて歩みたいと思います。どうか、今日も聖霊様、私を導いてください。私のうちにあふれてください。今日、出会うひとりひとりにあなたの香りを放ってください。どうか、臆病の霊にとりつかれてしまうことがなく、大胆に愛をもって、歩んでいくことができますように。主よ、守ってください。

10月13日(木)

「信ずる者はあわてることはない」(イザヤ28:16)

私たちはあわてる必要がない。あわてることはない。いろんなことが起ってくるだろう。いろんなことで傷つき、悩むだろう。でも、あわててはならない。すべては主の御手の中にあるのだ。主のみ許しの中にあるのだ。だから、安心せよ、恐れるな、主が私と共にいるではないか。主がすべてin controlなのだ。主よ、お言葉に感謝します。あなたが「あわてることは何もないんだよ」と言ってくださっていることに感謝します。どうか、私の心を守り続け、あなたの平安の中に歩むことができるように守ってください。支えてください。

「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」(第一テモテ6:8)

主よ、感謝します。衣食が与えられていることに心から感謝します。どうか、私の心を守り、もっとこれがほしい、もっとこんなことをしたい、と思う欲から守ってください。ただ、あなたのために大胆なことを求める者としてください。主よ、あなたが今日も私たちの食べるもの、着るものを与えてくださっていることに心から感謝します。主よ、すべてを捧げます。私の生活をあなたのものとしてください。

10月12日(水)

「しかし主はその高ぶりを、その手の巧みなわざと共に低くされる。」(イザヤ25:11)

なぜか、今日はその周りにたくさんある、救いの言葉よりも、高ぶる者へのさばきの言葉の方に心が留った。主は私に対して、警告しておられるのだろうか?高ぶろうとする思いへの警告なのだろうか?今日も主の前にへりくだって歩む者でありたい。主の前にへりくだって、身を低くして歩む者でありたい。主よ、今日も私に語ってくださってありがとうございます。あなたが私にへりくだって歩むように教えてくださっていることに心から感謝します。どうかあなたの前に歩むことを教えてください。へりくだることのほんとうの意味を教えてください。

「旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、種々の善行に努めるなど、そのよいわざでひろく認められている者でなければならない。」(第一テモテ5:10)

ここに出てくる、いろいろな良い行い。それをあまりにも自分は軽く見てきたのではないだろうか?よいわざを行うことがどれほど主に喜ばれることか、それを軽く見てきたのではないだろうか?私自身、良い行いに富む者となりたい。それが、がんばりや義務感ではなく、主の与えてくださる喜びにあふれて、そのようにならせて頂きたいと思った。主によってそのような行いに富む者とならせて頂きたいと思った。主よ、どうか私に良い行いを与えてください。良い行いをする者としてください。喜んでそのような生き方をさせてください。そのために私のうちにあなたの愛をいっぱいに満たしてください。

10月11日(火)

「しかしあなたがたはこの事をなされた者を仰ぎ望まず、この事を昔から計画された者を顧みなかった。」(イザヤ22:11)

神様がご計画に従って導いておられる。それなのに、私たちはその表面的な出来事だけを見て、対症療法で何とかしようとしている。表面的に、問題が解決されればいいと思っている。でも、私たちを待っていておられるのだ。私たちが神様のもとに行くのを待っておられるのだ。物事を深いところまで見る目を持たせて頂きたい。ただ、表面的なところだけを見て、それで何とか問題を解決しようとするのではなく、根本的な解決を主によって与えて頂く歩みをさせて頂きたい。主よ、どうかわたしの歩みを、そして、教会の歩みを深いところまで取り扱ってください。そして、あなたの御業を見ていくことができますように。

「むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。」(第一テモテ4:12)

子どもの頃は、40歳になったら、もっとしっかりした人間になっていると思っていた。でも、40歳を超えると、まだまだ、この御言葉のようにならないなあ、と思う。ほんとうに言葉においても、行状においても、愛においても、信仰においても、心の底からの純潔においても、恥ずかしいばかりで、模範なんてとんでもない、という思いだ。主よ、どうかお助け下さい。私の心も、言葉も、行動も、あなたが愛にあふれたものへと造りかえてください。

10月10日(月)

「主はこれを撃たれるが、またいやされる。それゆえ彼らは主に帰る。主は彼らの願いをいれて、彼らをいやされる。」(イザヤ19:22)

主が私たちを撃たれる時、それは、神様の招きなのだ。私たちを御許近くに招いておられるのだ。決して、私たちを苦しめようとされているのではない。主の近くに来るようにと願って招いておられるのだ。でも、私たちはなかなかそのことがわからない。主に捨てられたような気持ちになったり、神がおられるなら、どうしてこんなことが起るのかと思ったりする。でも、ほんとうは主の招きなのだ。主の招きに従って、主の許に帰っていこう。主が私たちを招いて、生かしてくださる。主よ、あなたが私を撃たれる時に、このことを思い出すことができますように。直ぐにあなたのもとに帰っていくことができますように。

「神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。」(第一テモテ3:15)

私たちのからだが聖霊の宮、と言う言葉は有名で、そちらの方ばかり考えるのだけれども、ここにははっきりと教会が神の家だって、書いてある。そして、そこにこそ真理の基礎があるのだという。教会は神の家。神様がそこに住んでいてくださる。それはもちろん建物ではなく、私たちの集まりのことを言っているのだ。だから、もっともっと教会を大切にして、教会を愛していこう。「ヘルシー・チャーチ」にあったように、「イエス様は好きだけれども、教会は・・・」というのは、矛盾であって、イエスを愛するならば、イエスが御自分のいのちをかけて愛してくださった教会を愛さないのはおかしい。教会を愛していこう。教会に仕えていく者であり続けよう。主よ、教会を愛する者としてください。

10月9日(日)

「これはあなたがたが自分の救の神を忘れ、自分の避け所なる岩を心にとめなかったからだ。」(イザヤ17:10)

私の心はどこにあるだろうか?私の心はどこにむいているだろうか?主に向いてきただろうか?主よ、もう一度あなたの前に戻してくださって、あなたのところに返してくださってありがとうございます。どうか、私の毎日の歩みの中で、わたしがあなたを忘れることがありませんように、わたしがあなたのことを心に留めないことがありませんように、よろしくお願いします。守ってください。助けてください。私の心に住んでください。私の心の王座を占めてください。

10月8日(土)

「わが心はモアブのために叫び呼ばわる。」(イザヤ15:5)

人のために、町のために涙を流して呼ばわる、その様な愛を持ちたいと思った。この町のために、この地域の日本語を使う方々のために、主に向かって叫び呼ばわろう。この町を愛して、人々を愛して、主に向かって呼ばわろう。主よ、どうかこの町の人々のために、あなたの憐れみを注ぎ、あなたの愛を示してください。この地域の人々のために、特に日本語を使う方々のために、あなたの愛を与えてください。私のうちにも愛を満たし、人々を愛し、人々に仕えていくことができますように。

「男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。」(第一テモテ2:8)

そうだよな。男は争わないで、手を上げて祈る!それをJCCNJの男子たる者の義務にしよう。あまり「義務」は好きじゃないけれども、これはいいでしょう。祈りの手を挙げる。祈りの手を挙げて、神様に求める。ほんとうに自分にも、教会の仲間にも、必要なことだと思うし、求めていきたいと思う。主よ、あなたに手を挙げます。あなたに手を挙げ続けます。その仲間を、祈る仲間をもっともっと起こしてください。祈りつつ歩む者としてください。祈りつつ歩む教会としてください。

10月7日(金)

「あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。」(イザヤ14:13−14)

バビロンへのさばきの預言。その中に出てくる言葉だ。バビロンは神の上に座そうとした。そして、神に裁かれた。私たちの周りの社会はどうだろうか?神の上に座そうとはしていないだろうか?傲慢にも神のようになろうとしていないだろうか?私自身はどうだろうか?神の前にひれ伏しているだろうか。神に従っているだろうか?神を礼拝しているだろうか?主よ、あなたの前に歩む者としてください。あなたの前にへりくだって歩む者としてください。

「わたしは、その罪人のかしらなのである。」(第一テモテ1:15)

私は罪人のかしら。パウロの告白。その様に思ったパウロは何という霊的な敏感さを持っていただろうかと思う。でも、私自身も、ほんとうに罪深い者だと思う。そのことを、「罪人の頭」とまで言えるかどうかは別として。でも、それは聖霊様が教えてくださったこと。やはり自分の力ではなく、聖霊様の力によらなければ、私たちは自分の罪深さにも気がつかないのだ。聖霊様、どうか私を満たしてください。そして、教会を満たしてください。あなたの御業です。人が救われるのも、人が造りかえられるのも、教会が一つにされるのも、あなたの御業です。あなたの働きです。どうか、あなたが教会のリーダーであって下さい。私の人生の主であって下さい。

10月6日(木)

「そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。」(イザヤ12:4))

主がなしてくださったこと、主がなしてくださったすばらしいこと、それを伝える使命を与えられているのは何という幸いだろうか?でも、その様に生きているだろうか、ともう一度問われたような気がした。神様がどんなにすばらしい方か、神様がどんなに力ある方が、恵みある方か、私の人生にどれほどの大きな御業をしてくださったか、どれほどのパッションを持っておられるか?ほんとうにそのことを語り伝える者、そのことを生き証人として伝える者とならせて頂きたいと思った。主よ、どうかわたしを用いてください。あなたのすばらしさを生活を通して伝える者としてください。あなたが私の心をあなたへの愛でいっぱいにしてくださいますように。

「どうか主の言葉が、あなたがたの所と同じように、ここでも早く広まり、また、あがめられるように。」(第二テサロニケ3:1)

ああ、これも私自身の祈りだ。主の言葉が広まりますように、ひとりひとりの心に伝わりますように。人々が神様のすばらしさをほめたたえますように。主よ、どうかリバイバルの御業をなしてください。聖霊様、私のうちにあふれ、教会にあふれ、そしてこの地域にあふれてください。主が大きな御業をなしてください。祈ります。祈りに答えて、御業を現してください。

10月5日(水)

「おのは、それを用いて切る者にむかって、自分を誇ることができようか。」(イザヤ10:15)

私は主の手の中にある斧なのだ。だけれども、本当に主に用いられやすい斧だろうか?主の御手の中に陥っているだろうか?勝手に生きて、主を悲しませていないだろうか?主よ、あなたの御手の中に歩ませてください。あなたの御手の中で自由にお用い下さい。そして、あなたの御業を見せてください。あなたがすばらしい方であることを経験させてください。味わわせてください。私の心を守ってください。私の時間も、私の趣味も、私の持っているものもすべてはあなたのものです。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。」(第二テサロニケ2:16−17)

これはまたパワフルな祈りだと思う。私たちが強められて、よいわざを行うことができるように、という祈り。本当に私は自分のためにこの祈りを捧げ、教会のひとりひとりのためにこの祈りを捧げようと思った。私は主によって強くされて、よいわざを行う者になりたい。そして、正しい言葉を語る者になりたい。そして、教会のひとりひとりがよいわざを行う者となり、正しい言葉を語る者となってほしい。本当にひとりひとりがその様に生かされてほしいと思う。主よ、どうかわたしを強くして下さい。教会のひとりひとりを強くして下さい。あなたがお用い下さい。あなたのお役に立つ者としてください。

10月4日(火)

「主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。」(イザヤ8:17)

今、苦しみの中にある方々がおられる。試練の中を歩んでおられる方々がいる。わたし自身も、主が見えなくなる時がある。主が何をなそうとされているか、わからなくなる時がある。主を信頼することが難しくなる時がある。自分の罪ゆえに主との関係がおかしくなる時がある。「み顔を隠しておられるのか」と思う時がある。しかし、その様な時にも、主を待ち望もう。主を見上げよう。主よ、感謝します。あなたがこのイザヤの言葉を通して、わたしに語ってくださったことを感謝します。あなたを見上げます。今も、見上げます。苦しみの中で、迷いの中でも、あなたを見上げることができますように、あなたを待ち望むことができますように。今、試練の中におられる方々も、主を見上げることができますように、助けてください。

「それは、あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたひとりびとりの愛が、お互の間に増し加わっているからである。」(第二テサロニケ1:3)

信仰の成長は愛の成長。信仰の成長は人を愛する力が与えられていくこと、増し加えられていくこと。主よ、ただただ祈ります。私のうちに愛が増し加えられますように。あなたを愛する愛が、そして、周りの人々を愛する愛が増し加えられますように。もっともっと人を愛し、人の声に耳を傾け、人に声をかけ、人のために祈り、人を受け入れていくことが出来ますように。主よ、わたしに愛することを教えてください。

10月3日(月)

「わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。」(イザヤ5:1)

神を失望させたイスラエルの人々、その彼らのことを歌う時に、主はなおも、「わが愛する者のために」と言っておられる。主はどこまでも私たちを愛してくださっている、その愛を今日は感じた。主を失望させてしまうような、主を悲しませてしまうような、そんな私たちだけれども、主はなおも、私たちのことを、「わが愛する者」と呼んでくださる。感謝。主よ、今日、また新たにあなたの愛を覚えることができたことに心から感謝します。あなたの愛を感謝します。あなたの愛に感謝して歩む者としてください。

「すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。」(第一テサロニケ5:21−22)

主はやはり私たちが悪から離れることを望んでおられる。私たちが悪から遠ざかり、責められるところのない者とされることを望んでおられる。見極める力を持つようにと望んでおられ、そして、良いものを選び取るようにと望んでおられる。主よ、わたしもそうです。わたしの祈りもそうです。わたしが全く主にきよめられて、あらゆる種類の悪から遠ざかることができるように、すべてのものを見極めることができますように、そして、良いものを選び取っていく力を与えてください。あなたの愛をわたしにも持たせてください。

10月2日(日)

「あなたがたが手を伸べるとき、わたしは目をおおって、あなたがたを見ない。たとい多くの祈をささげても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである。あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。」(イザヤ1:15−17)

私たちが祈る時、私たちが賛美をする時に、その心を主は問われる。関係ない、という人がいるが、そんなことはない、主ははっきりと言われる。まず、悔い改めを求められる。私たちに悔い改めを求められる。私たちが悔い改めることを主は求めておられる。自分勝手な祈り、自分勝手な賛美、ではなく、主の前にへりくだって、祈ろう、主の前に砕かれて、賛美しよう。主よ、あなたが私の心をご覧になっていることを教えてくださって感謝します。本当に私のうちに悔いた砕かれた心を与えてくださって、その砕かれた心を持って、人を愛することのできる者としてください。そして、その心を持ってあなたをほめたたえる者としてください。

10月1日(土)

「わたしはわが愛する人のもの、彼はわたしを恋い慕う。」(雅歌7:10)

主を恋い慕う。わたしはいったい本当に主に対して、このように「恋い慕う」という思いに捕らわれているだろうか?主を恋い慕う・・・。本当に主を恋い慕う。心がどうしてもそちらに向いてしまう、ということなのだろう。無理ではない、おつとめではない、本当に主を恋い慕う。その様な中に生かしてもらいたいと思った。その様な歩みをさせて頂きたいと思った。私の心を主がご自身でいっぱいにしてくださって、神様のことばかり考えてしまう、その様な歩みをしたいと思う。主よ、御言葉に感謝します。あなたがこのような思いでわたしを愛してくださっていること、そして、わたしにもその様な思いを与えようとしてくださっていることに感謝します。あなたが私の心を捕らえてくださいますように。

「神のみこころは、あなたがたが清くなることである。」(第一テサロニケ4:3)

神様はわたしが清くなることを、願っておられる。わたしが純粋な心を持って主に従っていくことができるようにと・・・。そして、最近思わされているのは、この純粋な心は、愛の心であること、「何も悪いことをしない、考えない」という消極的な意味よりも、積極的な愛の心だと思う。きよい心は、主に近い心、それであるならば、それは愛の心だと思う。主よ、私のうちに愛を与えてください。あなたの愛を満たしてください。あなたの愛を私のうちに与えてください。