たましいの父は、わたしたちの益のため、
そのきよさにあずからせるために・・・

11月30日(水)

もう11月も今日で終わり。早い。と思う。もう今年もあと一ヶ月。ここまで守られたこと、心から感謝。最後の一ヶ月が思いっきりすばらしい月となりますように。

「わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼキエル書34:16)

主はこのようにしてくださる。主はわたしたちを守ってくださる、養ってくださる。では、牧師として召された私はどうしているだろうかと思わされた。私も主を指し示しながら、具体的に、自分は失せた者を探しているだろうか?迷っている者を主の許に導いているだろうか。傷ついた者を包んでいるだろうか?弱った者を強くしているだろうか。強い者たちを監督しているだろうか?私もその使命をいただいていると思う。主よ、どうか今日、語るべきことを語らせてください。連絡すべき方に連絡させてください。私の心に語ってください。私を遣わしてください。

「愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。」(ヨハネ第三の手紙2)

そうなんだ。たましいが恵まれていることがすべての土台なのだ。わたしたちは状況が好転すれば、変わると思っている。魂の状態も変わると思っている。でも、そうじゃない。たましいが恵まれていることがすべての土台なのだ。そして、それが他のことにもめぐみが及んでいくように、体の健康も守られていくようにと祈るのだ。そっちの方をもっともっと祈っていく必要があるように思う。そっちの方よりも、健康のために祈ったり、仕事のために祈ったり・・・それは本末転倒だと思う。主よ、どうか、わたしたちがもっと霊的なところに目を向け、たましいが恵まれていくことを求めていけますように。現世利益を追求する祈りからわたしたちを解放してください。

11月29日(火)

「それゆえ、人の子よ、わたしはあなたを立てて、イスラエルの家を見守る者とする。あなたはわたしの口から言葉を聞き、わたしに代って彼らを戒めよ。」(エゼキエル書33:7)

主よ、あなたは私をあなたのしもべとして立ててくださいました。人々を見守り、警告をし、悔い改めに招き、あなたにとりなす者として、しもべを立ててくださいました。私はあなたの与えられた使命を果たしてきたでしょうか?ほんとうに教会の一人一人を愛し、あなたのメッセージを語り、警告を与え、悔い改めに導いてきたでしょうか?主よ、私に愛を与えてください。あなたの愛を与えてください。あなたが、人々に対して持っておられる愛を、私の愛とさせてください。私にも愛することを教えてください。お願いします。どうか、あなたの御言葉をストレートに語らせてください。

「長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ。」(ヨハネ第二の手紙1)

「真実に愛する」・・・エゼキエルの言葉もあったので、このことが心に留った。私は本当に心から、真実にお一人一人を愛しているだろうか。大切にしているだろうか。自分のことではなく、人のことを考える者でありたいと思う。一人一人をほんとうに愛していきたい。組織の指導者ではなく、人々を愛する者でありたい。人々のことを愛し、仕えていく者でありたい。言葉だけではなく、ほんとうにその様な生き方をしたい。主よ、どうかお助け下さい。愛する者とならせてください。

11月28日(月)

「あなたは『ナイル川はわたしのもの、わたしがこれを造った』と言っているゆえに、」(エゼキエル書29:9)

エジプトの王の勘違い。愚かだと思う。ナイル川を造られたのは神様なのに、自分で造ったつもりになっていた。でも、これはわたしたちがいつもしている勘違いでもあるのではないかと思った。自分も同じような勘違いをしていることはないだろうかと思った。主が与えてくださっているのに、主がなしてくださっているのに、自分がやったようなつもりになっていないだろうか。主よ、どうかわたしをあなたのしもべとして整えてください。あなたのしもべにしてください。自分で何かをしたようなつもりになってしまうようなことがないように守ってください。どうか、あなたのめぐみの中に、あなたの御力の許に歩んでいることをおぼえさせてください。

「 わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。」(ヨハネ第一の手紙5:14−15)

これをやってみようと思った。そのまま実行しようと思った。そのためには真実に主の御心をも求めていこうと思った。知りたいと思った。主の御心を私の思いにしたいと思った。私の思いを無理矢理主の御心にして頂くのではなくのではなくて、主の御心を求めていきたい。主の御心をが自然と私の願いとなっていくような歩みをさせて頂きたいと思う。主よ、あなたに祈ります。これからは御心に沿って祈ります。御心に従って祈ります。そのためにもっともっと御心を尋ね求めます。教えてください。

11月27日(日)

「人の子よ、ツロはエルサレムについて言った、『ああ、それはよい気味である。もろもろの民の門は破れて、わたしに開かれた。わたしは豊かになり、彼は破れはてた』と。それゆえ、主なる神はこう言われる、ツロよ、わたしはあなたを攻め、海がその波を起すように、わたしは多くの国民を、あなたに攻めこさせる。」(エゼキエル書26:2−3)

傲慢にならないで謙虚に歩んでいきたいと思う。エルサレムが滅ぼされた時に、周りの国々はいい気味だと思っていた。それは神様の裁きであったのだけれども、それはまた自分もほんとうはその様にされなければならい存在であることを忘れていたのだ。あのイエス様が、あなた方も悔い改めないならば、同じように裁かれる、といわれた言葉を思い出した。私もほんとうに謙虚に歩みたい。謙虚に歩まなければいけないことを思う。主よ、お助け下さい。私が憐れみによって生かされていることを一時も忘れないように守ってください。

11月26日(土)

「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。」(エゼキエル書22:30)

毎年のように心に留るこの言葉。主が破れ口に立つ者を探しておられる。待っておられる。破れ口の問題を指摘することはたやすい。でも、ほんとうに破れ口に立つ者はいるだろうか?主よ、私がいます。私は祈ります。破れ口に立って祈ります。どうか、破れ口を見極めるするどい霊的な目を与えてください。破れ口に立つ愛を満たしてください。破れ口の問題が見えてきた時に、それを批判したくなった時に、どうか、私にこの御言葉を思い出させてください。

「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。」(ヨハネ第一の手紙4:21)

これはまたシビアな言葉だ。そして、確かに、その通りだと思わされる言葉だ。主が私を愛してくださっているのに、私は主を愛しているといっているのに、私が誰かを愛せない、赦せない、とするならば、それは何なのだろうかと思う。主よ、どうか私に赦すことを教えてください。愛することができますように。主にある兄弟姉妹をほんとうに愛することができますように。主よ、私の中にあなたの愛を満たしてください。どんな言葉があったとしても、どんな態度を取られたとしても、愛することができますように、助けてください。

11月25日(金)

「主なる神は言われる、わたしは生きている、わたしは必ず強い手と伸べた腕と注がれた憤りとをもって、あなたがたを治める。」(エゼキエル書20:33)

これはエジプトに逃げようとしていた人々に対する神様からのメッセージ。エジプトに逃げたとしても、神様が彼らを治めるのだ、という預言。主の支配はすべてに、どこにでも及んでいる。主はどこまでも支配しておられる。だから、主の御手の中に陥ろう。主が働いておられるところに歩んでいこう。逃げないで、安心して、主の御手の中で歩もう。主よ、わたしはあなたの御手の中で歩みたいと思います。どうか、守ってください。私の歩みを導いてください。あなたを信頼します。なすべきことを教えてください。

「わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」(ヨハネ第一の手紙3:18)

そうだよな。という言葉。ほんとうに突きつけられるような言葉。言葉だけではなく、口先だけではなく、行いと真実をもって愛する、ということ。何の説明もいらない。何の言い訳もできない。主よ、どうかわたしをこの御言葉のように行動する者としてください。愛するということを行動で生きる者としてください。愛することを教えてください。愛させてください。愛する者としてください。主よ、愛します。どうか、私に愛することを経験させてください。

11月24日(木)

「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。」(エゼキエル書18:23)

主は人々が悔い改めるのを待っていてくださる。人々が、神を信じない人々が悔い改めて帰ってくるのを待っておられる。熱い思いで待っておられる。自分はどうだろうか。神様と同じ思いを持っているだろうか。人々が救いを求めて神様のところに来ることを、そして、悔い改めて新しい歩みを始めることを真剣に祈っているだろうか、本気で期待しているだろうか。主よ、リバイバルの御業をなしてください。私のうちに、教会のうちに、この地域に。主よ、救われる方々を次々と起こしてください。一年に数人ではなく、毎週のように、毎日のように救われる方々を起こしてください。いえ、あなたはもうそれを望んでおられることを今日は教えてくださいました。どうか、私を用いてください。私が語ることを語ることができますように。聖霊様に満たされて、あのペテロのように大胆に語る者としてください。

「世と世にあるものとを、愛してはいけない。」(ヨハネ第一の手紙2:15)

そうだ、世にあるものを愛してはいけない。愛するのは主であり、人々だ。主よ、私をお守り下さい。必要ではないものを求める思い、欲する思いから守ってください。今日語ってくださったことに心から感謝します。質素に暮らす者としてください。もっともっと必要な者だけで満足する者としてください。主よ、私の心をあなたに対する愛で満たし、それだけで十分であるように守ってください。

11月23日(水)

「あなたがたは主の日に戦いに立つため、破れ口にのぼらず、またイスラエルの家のために石がきを築こうともしない。」(エゼキエル書13:5)

当時の預言者について与えられた預言。でも、どきっとする言葉だ。主の戦い。そのために自分はどれだけ備えているだろうか、どれだけ破れ口に立ち、石がきを築く働きをしているだろうか。主よ、どうかわたしを助けて下さい。私に熱い思いを与えて下さい。あなたが与えて下さる熱い思いに満たされて、立ち上がっていく者としてください。

「神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」(ヨハネ第一の手紙1:7)

私も光の中にいる時に、主との交わりの中にいる時に、きよめられていく、整えられていく、ほんとうにそのことはよく知っている。けれども、いかに光の中にいることが自然なこととして自分の中にいつもいつもあるということが簡単なことではないかを思わされる。ちょっとしたことで、心が揺れてしまって、主から目が離れてしまうことがいかに多いことか。主よ、あなたと共に歩みたい。あなたの光の中を歩みたいです。どうかわたしを捕まえ続けていてください。私をあなたへの思いで一杯にし続けてくださいますように。

11月22日(火)

「そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。」(エゼキエル書11:19)

石のような心の人もいる。それはほんとうだと思う。でも、そこにも神様の霊が注がれる時に、神様の力が働く時に、その石の心も取り除かれるのだ。だから、信頼していこう。信じていこう。前を向いていこう。救われる方々が起こされますように。新しい心を与えられて、歩み始める方々がおこされますように。聖霊様が私の生活を、教会全体を豊かに満たしてくださいますように。

「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(ペテロ第二の手紙3:9)

主は待っていてくださる。わたしたちがもっと伝道して、もっともっと主のことを証しして、それによって救いに導かれる方々が起こされることを、主はそれを待っていてくださる。今も待っていてくださる。気になるのは「彼らのために」ではなくて「わたしたちのために」忍耐しておられるというところだ。わたしたちのために忍耐しておられるのだ。主よ、おゆるし下さい。どうか、あなたのことをいつもいつもお証できるものとしてください。お証し続ける歩みとして下さい。

11月21日(月)

「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」(エゼキエル書9:4)

罪について憤り、涙する者、それを主は求めておられた。自分は何か、いちいち涙することが大変なので、いつの間にか、「こんなもんだ」と思ってこなかっただろうか。いちいち憤っていられないので、「よくあることだよ」とわかったようなふりをしてこなかっただろうか。ああ、主よ、私の心に罪に対するあなたの思いを分けてください。罪に対して憤られ、悲しまれるあなたのみ思いを私にも分けてください。私にシェアしてください。私が鈍感になることがないように、自分の罪に対して、そして、人々の罪に対して、鈍感になることがないように、私を守ってください。

「おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。」(ペテロ第二の手紙2:19)

ああ、恐ろしい言葉だ。私も主以外のものの奴隷になっているのではないかと思うことがある。他のものに捕らわれたり、他のものから逃げられなかったり、他のもので心がいっぱいになったり、そのものが心の中で頭をもたげてきた時に、それに振り回されたり、ああ、主よ、あなたが私の主であって下さい。あなたが私の心を全く征服してください。あなたの愛で私の心を満たしてください。そして、あなたに愛されている喜びの中に生きる者としてくださいますように。あなたに受け入れられている喜びに生きることができますように。

11月20日(日)

「わたしは彼らの罰の年数に等しいその日数、すなわち三百九十日をあなたのために定める。その間あなたはイスラエルの家の罰を負わなければならない。」(エゼキエル書4:5)

ここで、エゼキエルはただ、人々に裁きのメッセージを語っていれば良かったのではなかった。彼は、人々に裁きのメッセージを語ると共に、それがどのような者であるかを「生きる」責任があったのだ。それがどれほど屈辱的なもので、苦しいもので、悲しいものであるかを、生きる責任があったのだった。その上で語るメッセージだったのだ。無責任なメッセージではなく、からだを張ったメッセージだった。私もその様なメッセージを語る者とならせて頂きたいと思った。口先だけではなく、言葉だけではなく、そこに生きる者とならせて頂きたい。そこには痛みもあるだろう、屈辱もあるだろう。でも、それで用いられるなら、そちらの方がいい。主よ、その様にしてください。

11月19日(土)

「立って、平野に出て行きなさい。その所でわたしはあなたに語ろう。」(エゼキエル書3:22)

御言葉を聞くために、行くべきところがある。どこでも主は語って下さる、とわたしたちは思う。わたしたちは、どこででも主の御言葉を聞けると思いこんでいる。でも、このような聖書の箇所を読むと、それは違うのではないだろうかと思う。ほんとうは主のみ声を聞くために、主の御言葉をいただくために行かなければいけない特別なところがあるのではないか。主の導きをいただくために、従わなければいけない命令があるのではないだろうかと思わされた。主よ、あなたの導きはどこにありますか?主よ、あなたの御言葉はどこで聞けますか?あなたの語られるところに私を導いて下さい。あなたのみ声が聞こえるところに私を導いて下さい。

「あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい」(ペテロ第二の手紙1:5−7)

「力の限りを尽くして・・・」という言葉が心に留った。信仰の歩みはめぐみに生かされる歩みで、肩に力の入らない歩みだと思っている。でも、その一方でこのような言葉がある。力の限りを尽くして、信仰に徳を加え、知識、節制、忍耐、信心、兄弟愛、そして、愛を求めていくのだ。その熱さ、熱心さを与えて欲しいと思った。その熱い思いを持ち続けることのできる者でありたい、と思った。主よ、どうかわたしが信仰ゆえにあぐらをかいてしまうことがないように、心から感謝して、更に徳を求め、愛を求める者としてくださいますように。

11月18日(金)

「主よ、あなたに帰らせてください、われわれは帰ります。われわれの日を新たにして、いにしえの日のようにしてください。」(哀歌5:21)

主の元に帰る。主と共に歩む。それが私の使命だ。それが私の人生だ。今日も、あなたの許に帰ります。主よ、どうかわたしの歩みを祝福し、輝かせてください。あなたの輝きの中に生かしてください。あなたが私の歩みをお守り下さい。私の日を新しくしてください。新しいいのちの中に生きる者としてください。まず牧師である私が主と共に歩む中に、主のいのちをいただいて歩んでいく中に、強化の祝福もあることを覚える。どうか、私の霊性をお守り下さい。引き上げてください。

「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。」(ペテロ第一の手紙5:2)

主よ、私の牧師としての歩みをお守り下さい。ペテロが勧めているように、私も神様に任されている一人一人が大牧者であるイエス様に従っていくことができるように、人々を支え励ます働きをさせてください。喜びがあります。私のうちに進んでさせて頂きたいという思いがあります。どうか、私の心を守り、人々を愛する愛を満たしてください。イエス様が私の牧者であって下さる、その熱い思いと同じ思いを私にお与え下さい。

11月17日(木)

「シオンの娘よ、声高らかに主に呼ばわれ、夜も昼も川のように涙を流せ。みずから安んじることをせず、あなたのひとみを休ませるな。夜、初更に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて/息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ。」(哀歌2:18−19)

ほんとうはこうなんだろうと思う。惰眠をむさぼっている場合ではないのだと思う。目が覚めたら、夜でも朝でも目が覚めたら、その時が主の前に自分のために、また人々のために両手を挙げて祈る時なのだと思う。主に向かって両手を挙げ続けよう。あのモーセがイスラエルの人々のために手を上げ続けたように、私も教会のために、またこの地域のために、祈り続けたいと思う。祈り続けよう。主よ、私の心を守ってください。私の心が他のものに奪われてしまうことがないように、あなたが任せてくださった方々、あなたが出会わせてくださった方々、あなたが任せてくださった地域、あなたが出会わせてくださったこの地域のために祈り続けるものとならせてください。

「肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。」(ペテロ第一の手紙4:1)

肉における苦しみは、私たちを罪から守ってくれる、のだと聖書は語る。そうなのかもしれない。苦しみの中で誘惑に目がいかなかったり、苦しみの中で、心が主に向いていくことによって、守られているのかもしれない。このところ、今ひとつだけれども、それによって守られている部分もあるのだと思う。主よ、今日も私を守ってください。試みにあわせず、悪よりお救い下さい。どのような方法を通してでも、私自身をあなたのきよさの中に守ってください。

11月16日(水)

エレミヤ書最後の日。あっという間だったなあ。もっと味わって、もっと学んでいくことの必要を感じた。暖かい日。今日の夕方には雷雨で、その後は冷え込むようだ。いよいよ本格的な冬がやってくるんだな。

「 主はその力をもって地を造り、その知恵をもって世界を建て、その悟りをもって天をのべられた。」(エレミヤ51:15)

バビロンに対する裁きの宣告の中にこの言葉が書かれている。バビロンも自分の力で勝利をしたのではなかった。主のなさったことだったのだ。主が許したまわなければ、あり得ないことだったのだ。なのに、バビロンの人々は自分の力だったと勘違いしていた。私の一歩一歩もそのことを忘れてはいけないと思った。いつもいつも主の憐れみであり、主の支えであることを、主の特別なお計らいであることを忘れてはいけないと思った。主よ、あなたが私を守ってくださっていることを心から感謝します。どうか、あなたの導きの中にあることを、あなたの御力によって支えられていることを忘れない者としてください。

「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」(ペテロ第一の手紙3:9)

これはまたパワフルな言葉をいただいた。私たちが救われたのは、「祝福を受け継ぐため」つまり、自分が祝福をいただいて、そして、周りの人々にも祝福が流れていくためだというのだ。悪口にも、悪意のある仕打ちにも、祝福をもって応えていくためなのだ。このように生きたいと思う。次にこのようなことがあった時には、その様にさせて頂きたいと思った。主よ、どうか私が祝福を持ち運ぶ器となりますように。悪意がある仕打ちがあっても、悪口を言われるようなことがあっても、祝福をもって応えることができるように、その様な強さを与えてください。

11月15日(火)

「わたしの民は迷える羊の群れである、その牧者がこれをいざなって、山に踏み迷わせたので、山から丘へと行きめぐり、その休む所を忘れた。」(エレミヤ50:6)

ほんとうの牧者はイエス・キリスト。そのことを忘れてはいけないと思う。しかし、今教会の牧師をしていると、やはりその「牧師」という言葉の意味を考えないではいられない。人々が迷ってしまわないように、ほんとうの牧者であるイエス様をしっかりと見上げて歩んでいくことができるように、私自身が主と共に歩み、一人一人を心にかけ、祈り、声をかけ、共に歩んでいくことが大切だなあ、と思わされる。休み場であるイエスのところに休みのために招かなければと思う。主よ、どうかわたし自身の霊性をお守り下さい。あなたと共に歩んでいく喜びの中に生かしてください。そして、教会の一人一人のために祈り、教会の一人一人がほんとうの牧者であるイエスの許に安らいでいくことができますように。

「あなたがたは、・・・祭司の国・・・」(ペテロ第一の手紙2:9)

そうなんだ、私たちは「祭司の国」。祭司は神の前に周りの人々のためにとりなしをする人。問題があっても、失礼なことを言われても、誤解されても、とりなしをする、それが私たちの使命なのだ。「傲慢」に聞こえるかもしれない。そうかもしれない。でも、とりなしをするようにと私たちは使命をいただいている。あのモーセがイスラエルの人々のために神の前にとりなしたように、私たちも出会った一人一人のためにとりなしをするのだ。そして、私のためにもとりなしてくださる皆さんがおられる、そして、イエスが私のためにとりなしておられる。そのことを思う時にほっとさせられる。感謝。神様、今日も私のためにとりなしていてくださる方々のことを思い出させてくださってありがとうございます。どうかわたしも周りの人々の名前を挙げて、とりなしの祈りをさせてください。

11月14日(月)

「主のつるぎよ、おまえはいつになれば静かになるのか。おまえのさやに帰り、休んで静かにしておれ。主がこれに命を下されたのだ、どうして静かにしておれようか。」(エレミヤ47:6−7)

この「つるぎ」はもちろん、新約聖書の言葉から、「神の御言葉」として読んだ。神の御言葉が語られる時に、それは静かにしていることがなく、私たちの心に突き刺さり、私たちを造りかえる。この御言葉の力に心から感謝した。私が心配する必要はない。私が動き回る必要はない。主が語ってくださる。御言葉が一人一人に語りかける。それが幸いなのだ。それが力なのだ。主よ、どうか私に語り、そして教会の一人一人に語ってください。どうかあなたの御言葉が今日も語られ続けますように。

「今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。」(ペテロ第一の手紙1:6)

試練はそんなに喜ばしいものではない。喜べるようなものだったら試練ではないのだろう。試練が試練であるのは、それがほんとうに痛みであるからだ。けれども、その中でも喜びを持つことができる、というのが私たちの特権だ。天国の希望を持って歩んでいくことができるのは私たちの特権だ。この世の歩みが痛みでも、御国が私たちには備えられている。物や名誉をも欲しがる必要もない。私たちに備えられているのは天国なのだから。主よ、私にもっともっと天国のすばらしさを教えてください。天国の歩みをさせてください。そして、希望を持って歩む者としてください。主の許に行くことを楽しみにしてこの与えられた時を、生きていくことができますように。

11月13日(日)

「エレミヤがすべての民にむかって、彼らの神、主の言葉をことごとく語り、彼らの神、主が自分をつかわして言わせられるその言葉をみな告げ終った時、ホシャヤの子アザリヤと、カレヤの子ヨハナンおよび高慢な人々はみなエレミヤに言った、『あなたは偽りを言っている。われわれの神、主が、「エジプトへ行ってそこに住むな」と言わせるためにあなたをつかわされたのではない。』」(エレミヤ43:1)

何なんだろうなあ、と思う。何でも聞きます、と言っておきながら、自分たちの願ったとおりの道でなかった時に、こうやって、いろいろ言って、従わないのは・・・。でも、考えてみれば、これが私たちの姿だ、と言うこともできるのではないだろうかと思った。私たち自身が、このように神様に答えていないだろうかと。どこまでも従います、と口では言いながら、自分の願っていた、望んでいた道が閉ざされて、思ってもいなかったような苦労がかかってくると、「神様、それだけは困ります。」「神様はそんなことを望んでおられるのだろうか」とさっきの約束をすっかり忘れてしまっている。主よ、どうかわたしの心を探ってください。いつもいつもあなたの願われる道、「ここが道だ、ここを歩め」という道を歩んでいく者となれますように。導きに対して、従順な者としてください。

11月12日(土)

「主は言われる、あなたが恐れているバビロンの王を恐れてはならない。彼を恐れてはならない、わたしが共にいて、あなたがたを救い、彼の手から助け出すからである。」(エレミヤ42:11)

エジプトに逃げようとする人々に対してエレミヤが語った言葉。エジプトの方が大きい国だし、頼りになるし・・・。でも、前には「バビロンに降伏せよ」と言われた主が、今回はバビロンを恐れるな、と言われた。主に従うことは何と難しいことかと思う。神の御心を知ることはほんとうに難しいと思う。主よ、どうかわたしに御心を見極める目を与えてください。鋭さを与えてください。御心を見極める霊的な鋭さを与えてください。

「だから、互いに罪を告白し合い、また、いやされるように、お互いのために祈りなさい。義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。」(ヤコブの手紙5:16)

病のために祈る。時に祈りのようにはならないで、病のうちに召される方がおられる。そんなことが続くと、どうなんだろうとめげそうになってしまう。でも、聖書には祈りなさい、と書かれている。そして「義人の祈り」が聞かれるとある。だから、主に従って、主を信頼して、歩んでいく者でありたい。ご都合主義で「ああ、大変だ」と祈り始めるのではなく、いつもいつも主と共に歩んで、主を見上げながら歩んで、祈りながら歩む者でありたい。主よ、どうかわたしの歩みを導き、祈りつつ、歌いつつ、歩む歩みを喜びで満たしてください。義務ではなく、喜びで祈りを捧げ、祈りつつ歩む者であらせてください。

11月11日(金)

「あなたの命はあなたのぶんどり物となる。あなたがわたしに寄り頼んだからであると主は言われる」(エレミヤ39:18)

これはまたストレートな言葉だ。エベデメレクというエチオピア人の宦官にエレミヤが語った預言だ。エレミヤの言葉をバカにし、しんじようとしない人々、「バビロンに降伏せよ」とのエレミヤの預言を「士気が下がる」と黙らせようとした人々、そんな中で、エベデメレクは神様を信頼してエレミヤを守った。自分だったらどうかな、と思う。「神様が守ってくださるから大丈夫」という声の方に耳を傾けてしまいそうだ。神様は裁きとして、エルサレムを滅ぼされようとしていたのに、そこに住む人々の多くは、「そんなことがあるわけがない、私たちは神様に選ばれた者たちだ」と信じ切っていた。私も「神様が何とかしてくださる」という方に耳を傾けたい。でも、自分の願いではなく、主の導きを求め、神様のみ声に耳を傾けていくこと、それが大切だと思う。ここでも見極めることの大切さを思わされる。

「あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」(ヤコブの手紙4:3−4)

ほんとうにぐさっと来る言葉だ。でも、ほんとうに心に深く刻んでおきたい。自分はほんとうに主に求めてきただろうかと、そして求める時には、ほんとうに自分のために必要なんだろうか、と問いかけながら、祈っていきたいと思う。主よ、私の祈りがほんとうの祈りでありますように。ほんとうに主に求める祈りであり、主の光の中で自分の欲望がきよめられる祈りでありますように。主よ、どうかわたしの必要をいつもいつも満たし続けてください。

11月10日(木)

「主は彼らを隠された。」(エレミヤ36:26)

エレミヤを捕らえようとする人々、けれども、主はエレミヤを隠された。そこも主の御手の中にあることなのだ。主がその様にされたことなのだ。だから、わたしたちが出会ういろいろな戦い、苦しみも、主が許されたことなのだ。それにはやはり意味があって、導きがある。わたしたちにはわからないことがたくさんある。それでいいのだ。ただ、主がそこにも働いてくださっているのだから、それを受け入れて、歩んでいくことだ。主よ、どうかわたしの心を守ってください。あなたの導きを、それが不本意なものであったとしても、それを受け入れていく者としてください。

「もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。」(ヤコブの手紙3:14−15)

厳しい言葉だ。でも、ほんとうに大切なことだと思う。こういうものが教会の中で大手を振って歩くことがないようにしなければいけない。主よ、私を守ってください。私の心を党派心や、ねたみや、傲慢が支配することがありませんように。あなたの与えてくださる、上からの知恵によって、上からの思いによって満たされて、あなたの喜ばれることをさせてくださいますように。あなたの思いを満たしてください。また教会の中に党派心やほこり高ぶる思いがあるならば、それを正しく戒めていく、勇気と知恵とを与えてください。

11月9日(水)

「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」(エレミヤ33:3)

これはまた、すごい言葉だ。求める時に、主は応えてくださり、隠されていることを明らかに示してくださるという。主を呼び求める時に、主はその心の思いをわたしたちに分かち合ってくださるのだ。主よ、あなたが心をわって、心の内を見せてくださることを心から感謝します。どうか、あなたが御自分を示してくださいますように。私はもっともっと求めることが大切だと思いました。求め続けます。応えてください。

「行いのない信仰も死んだものなのである。」(ヤコブの手紙2:26)

どきっとした。行いのない信仰は意味がないと。ただ、ことばだけで、心だけで信じていて、それが行動に表れなかったらなんなんだということだろう。ほんとうにそうだと思う。主は具体的にわたしたちに愛を表してくださった。だったら、自分も具体的にお答えしていきたいと思う。具体的に人々を愛し、人々に仕える者でありたいと思う。主よ、どうかわたしの歩みを守り、あなたに託された方々を愛し続ける者としてください。仕える者としてください。