主の旗にむかって手を上げる。

3月31日(木)

「イスラエルよ、あなたがたのうちに、滅ぼされるべきものがある。その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから除き去るまでは、敵に当ることはできないであろう」(ヨシュア記7:13)

この厳しい言葉が、私の心にとどまった。主は私の心の中の滅ぼされるべきもの、捨て去るべきものを示された。主よ、どうか私の心をきよめ、あなたのみ力の働く拠点として私をお用いください。あなたの御業を拝したいのです。あなたの大いなることを見せて頂きたいのです。主よ、どうか私のすべてをきよめ、私の心の奥底まできよめ、あなたの御業を表してください。小さなパン種のように、「ほろぼされるもの」が侵入してくることがないように、どうかお守りください。

「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書28:20)

いつでも共にいてくださる。いつでも、そして、いつまでも。どんな時にも主は共にいて、語り、導き、支えてくださる。主よ、あなたに感謝します。あなたの導かれるところに私をいつもいつも導いてください。あなたのご栄光を表してください。あなたのすばらしさを見せてください。あなたが共に行ってくださることに心から感謝します。

3月30日(水)

「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」(ヨシュア記5:14)

どちらの味方か、と問うヨシュアに対して、天使は「いや、私は主の軍勢の将だ」と言われた。まさに「靴を脱ぎなさい」という経験だ。主は私に味方するのだろうか、というレベルのお方ではない。私たちがみな主の前にひざまずいて、主の前にひざまずいて、悔い改めなければいけないお方なのだと思わされた。降伏すべきお方なのだ、と思わされた。主よ、あなたの前にひれ伏します。あなたの御心を求めあなたの導きを求め、あなたの方法をいただきたく思います。どうか主がわたしの歩みの一歩一歩を導いてください。あなたの前にひれ伏します。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書27:46)

レントの時に何度も何度も読んだ言葉、もうわかっている、という言葉なのだけれども、また今日もこの言葉が心に響いてきた。イエスが私たちのために見捨てられてくださった。「どうして・・・」と叫んでくださった。イエス様、ありがとうございます。私たちのために十字架にかかってくださって感謝します。私たちの叫びを知っていてくださってありがとうございます。どうか私をあなたの愛で満たして、私たちを生かしてくださいますように。

3月29日(火)

これは火曜日の夕方に更新していますが、今日は、Brooklyn TaburnacleのGeneral Staff Meetingに出席してきました。その中で、Pastor Symbalaが言われたことが、心に留った。創世記45章で、あのヨセフが自分の心を明かした時に、彼は、人々に「出て行ってくれ」と言って、兄弟達にすべてを話した。ヨセフがイエス・キリストの予型であることを、考えると、主も、私と一対一になった時に、その心を明かしてくださると・・・。一人で主の前に出ることの大切さを思わされる。

「全地の主の契約の箱は、あなたがたに先立ってヨルダンを渡ろうとしている。」(ヨシュア記3:11)

主が先立ってくださっている。私たちの先頭に立って私たちを導こうとされておられる。だから、安心して歩んでいこう。主が先頭に立っていてくださるのだ。私たちに「おまえ行け、道を切り開け」とおしりをたたいて、叱咤激励されているのではない。先頭に立って導いていてくださる。ああ、何という幸いだろうか。何という喜びだろうか、主が先に立っていてくださるのだ。ハレルヤ。あなたの導きに、あなたの守りに感謝します。勇気を出して進んで参ります。どうか、いつもあなたに聞き、あなたに求めて、答えをいただいて歩んでいく者としてください。

「なんのためにこんなむだ使をするのか。」(マタイによる福音書26:8)

NIVでは、Why this waste?となっていた。どうしてこんなむだを!ああ、でも、これはイエスの十字架にこそ、投げかけられなければいけない言葉なのだろうと思う。一見むだに見える、でも、本当はむだなんかではない。愛の行為。主は私たちのためにそれをしてくださった。大きなものを与えてくださった。最高のものを与えてくださった。私はどうだろうか。主のために歩んでいるだろうか。主のために、最高のものをささげていきたい。最高のもの、それは今はやはり「時間」であり、また「人生そのもの」だろう。主よ、ささげます。あなたのご用のために私を用いてください。

3月28日(月)

「あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」(ヨシュア記1:9)

主が共にあってくださる。主が共に行ってくださる。主の方が私たちの歩むところ一歩一歩共に歩んでくださる。行ってくださる。恐れなくていい。というか、恐れてはいけない。恐れてはならないのだ。なぜなら、恐れることは、神が共にいてくださることを、本気で信じていないことだからだ。主よ、あなたが共に歩んでくださることに感謝します。本気でそれを信じて、あなたを本気で信頼して、大胆に歩んでいくことができますように。そのために、祈りつつ、あなたの導きを求めつつ歩んでいく者としてください。

「主人と一緒に喜んでくれ」(マタイによる福音書25:21)

NIVではcome and share your master's happinessと訳されていた。神様は私たちとその喜びを、その幸せを一緒に分かち合おうとされている。そこに私たちは招かれている。ああ、何という幸いだろうか。なんという楽しいことだろうか。主が私たちをその幸せを喜ぶ喜びに招いていてくださるとは!私たちとそれを一緒に過ごそうとされているとは!感謝します。あなたの招きに感謝します。あなたに託されたものを用いて、歩ませてください。あなたの与えてくださる使命に立たせてください。

3月27日(日)

イースターの朝!ああ、なんてすばらしい朝なんだろうか?イエスの苦難を思うレントの期間を歩み続け、受難のことばかり考えていた。でも、苦難では終わらない勝利を主は取られたのだ。勝利を勝ち取られた。感謝!ハレルヤ!この朝に、復活の主に、主の勝利に感謝!

「下には永遠の腕がある。」(申命記33:27)

落ち込んだ時にも、下には永遠の腕がある。私たちを支える腕がある。主の腕が私の下にはある。感謝します。主よ、あなたの支えに感謝します。私は弱い存在です。なのに、なぜ支えられているのかと思う時があります。わかりました。あなたの腕のゆえに感謝します。

3月26日(土)

「これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。」(申命記32:10)

主のやさしさ、主の暖かさを感じた。主がわたしのことを私たちが目を守るように、守り、包んでくださっている。巡り囲むように私を覆ってくださっている。私が生かされているのは、私が支えられているのは、この故であることを、この主の守りの故であることを思わされた。主よ、あなたの守りを感謝します。あなたが私を支え、私を覆ってくださっていることを心から感謝します。どうかこれからもあなたが私を守り、支えてください。私が生きていくことができるのは、私が潰れないで歩んでいけるのは、ただ、あなたの故であることを、あなたの守りの故であることを感謝します。

「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイによる福音書24:13)

NIVで、「最後まで堅く立つ者は救われる」と訳されていた。福音という土台に立ち続ける者、福音という土台に立ち、主によって救われるということに立ち続ける者・・・。人々の愛が冷えてしまったら、どうなるのだろうかと思う。人々の愛が冷えて、憎しみがあふれたらどうなるのかと思う。今いろんな災害が起っても、人々の愛こそが、お互いを癒している。でも、この愛も冷えてしまうほどのことが起ったら、どうなるのだろうかと思う。主を土台として、主の守り、主の愛を土台として、堅く立っていきたい。主よ、私をあなたの愛に立たせてください。あなたの愛のゆえに堅く立たせてください。

3月25日(金)

今日はGood Friday。イエスの十字架を思いながら一日を過ごしている。イエスの十字架の痛み、苦しみ、私はおそらく最後まで本当の深さをわかることはできないだろう。主よ、どうか私の心に今日の歩みの中で、イエス様の痛みを少しでもわからせてください。

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」(申命記29:29)

私たちが「なぜ」と聞いてもわからないことがある。わからないことがある。それは主の御手の中にあることなのだ。それは主のみ思いの中にあることなのだ。そして、書かれたこと、聖書に書かれたことは、私たちがそれを与えられて、どのように答えるかを問われているのだ。どうして・・・と問わないではいられない時がある。「どうして・・・」を求めないではいられない時がある。でも、主がそこにおられる。主が知っていてくださる。だから、そこはお任せして、自分の分を果たすことが大切だ。主がご存じだ。主にゆだねよう。主よ、私の知り得ないことがたくさんあります。どうしようもなく、つらくなることもあります。やりきれなくなる時もあります。あなたにそれらのことをお任せします。私がわからなくても、あなたは知っておられますよね。あなたが知っていてくださるから、ありがとうございます。私のなすべきことを果たしていくことができますように。

「ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。」(マタイによる福音書23:37)

昨日に続いて、神様がどんな思いで私たちを招いておられるか、その暖かさ、その熱さを思わされた。本当に熱い思いで招いてくださっているんだ。一生懸命、力を尽くして、私たちを招いてくださっているのだ。主よ、あなたの熱い思いを感謝します。2000年前、イエスがあの十字架の上で私たちの罪を背負ってくださった。その恵みを感謝します。どんなに渇きを覚え、どんなに疲れを覚え、どんなに空腹を覚え、痛みを経験されたかを思います。今日の一日、そのイエスの苦しみに思いを馳せて、歩む一日としてください。そして、その愛を味わわせてください。

3月24日(木)

「しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。」(申命記28:15)

この長い長い「のろい」のリストには閉口した。4ページにわたって、のろいがどんなものなのかが、書かれている。正直なところ、一字一句読んでいくことはできなかった。読めなかった。心が苦しくなった。神様、どうして、こんなにも・・・と思った時に、こののろいが十字架の上のイエスに臨んだことを思わされた。イエスが負われたのはこのようなことだったのだ、本来私たちが負っていくべき、罪ののろい、それをイエスは背負ってくださった。イエスは引き受けてくださった。ああ、主よ、あなたに感謝します。主よ、あなたをほめたたえます。十字架を感謝します。イエスの十字架を感謝します。この救いのすばらしさをもっともっと深く味わわせてください。実感させてください。

「招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください。」(マタイによる福音書22:4)

神様が私たちを迎えられるのをどれくらい楽しみにしておられるか、そのことを思わされた。そのことを感じさせられた。どんなに楽しみにして私たちを招いておられるか?「全部準備できましたよー」と招かれたのだ。神様の笑顔。神様のわくわくする思い。それを思わされた。そのように受け入れられている幸いを思った。どれほどの犠牲が払われているか。イエス様の十字架の重みと、その愛の熱さ、暖かさを思わされた。

3月23日(水)

「あなたの神、主が賜わる国にできる、地のすべての実の初物を取ってかごに入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる所へ携えて行かなければならない。」(申命記26:2)

今朝は、この言葉が語られて、時間の使い方のことを語られたように思う。まず、一番大事な時間、一番最初の時間を主の元に持っていこう。そのように示された。そのように導かれた。まず主の前に出て、一日をスタートして、一番大切な時間帯を主にささげようと思う。主よ、あなたが朝から私のことを起こしてくださり、私のことを待っていてくださることに心から感謝します。どうか私の毎日の歩みを正してください。私が最高の時間をあなたにささげることができますように。余った時間ではなく、都合がつけば、ではなく、時間ができたらではなく、最高の時間をあなたにささげることができますように。

「また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう。」(マタイによる福音書21:22)

信じて、祈る時に、祈って信じる時に、主はそれを聞いてくださる。それを与えてくださる。主よ、あなたに感謝します。何を一番求めるか、何を一番願うかと言えば、やはり人々の救いだ。主を信じて歩み始める方々が次々を起こされることだ。一人の人がイエス様を信じて喜びにあふれて歩み始めることだ。主よ、どうか私の祈りを聞いてください。御業をなしてください。ただ、信じて祈り続ける者としてください。信じて祈る者としてください。主よ、どうか御言葉通り、御業をなしてください。

3月22日(火)

「あなたはかつてエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主がそこからあなたを救い出されたことを記憶しなければならない。」(申命記24:18)

寄留の他国人や、未亡人に対する愛と配慮を命じるところで、「自分たちもかつてそのような者であったところから今のところに導かれていることを忘れるなよ」と言われている。主が私たちに与えてくださっている恵み、十字架による救いをいただいた喜び、そこに生かされていることを感謝した。自分は律法的に、歩んでいたのだ。自分は偽善的に歩んできたのだ。人のことをとやかく言うことのできる者ではないのだ。ただただ、主の恵みによって、主の憐れみによって、解放の経験を与えられた。自分がそこからここに導かれたことを忘れないで歩んでいこうと思う。主よ、どうか私の歩みを導いてください。あなたの愛を与えてください。そして、あなたのしてくださったことのすばらしさを証していくことのできる者としてください。

「すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。」(マタイによる福音書20:34)

目が開かれて、イエスに従っていった人々。見えるようになったら、目が開かれたら、イエスに従っていったらいい。イエスに従いたくなる。主よ、どうか私の目を開いてください。私の目を開き、あなたの御業を見れる者としてください。あなたのみ思いを知ることのできる者としてください。主よ、あなたを待ち望みます。あなたの御業を拝させてください。そして、あなたに従っていく者としてください。喜んで従う者としてください。

3月21日(月)

「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。」(申命記21:23)

木にかけられた者は神に呪われた者。この言葉はガラテヤ人への手紙に引用されているが、イエスが私たちのために呪われてくださったことを、私たちのために呪いとなってくださったことをもう一度覚えなさい、と言われているように思う。本来、私たちがそのようなことになってもおかしくない存在であるのに、イエスがわたしの身代わりになってくださった。主がわたしのために呪いを受けてくださった。その叫び、そのうめきを覚えよう。今日の一日、主の十字架のみ苦しみを覚えながら、歩む日とさせて頂こう。主よ、今日の一日の歩みの中で、御声を聞かせてください。あなたの御言葉を語り続けてください。朝だけではなく、聖書を読む時だけではなく、一瞬一瞬の歩みの中で御言葉を聞かせてください。

「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない』。」(マタイによる福音書19:26)

この「イエスは彼らを見つめて・・・」という言葉に目が留まった。主が弟子たちを見つめてこの言葉を語られた。主イエスの気迫のようなものを、真剣さのようなものを感じないではいられなかった。主は彼らを見つめて、彼らに語られた。「誰が救われるのですか?みんな救われないじゃないですか?」と問うた彼らに対して、イエスは言われた。「神には何でもできないことはない」と。これを自分自身に対して、私の目を見つめられて言われたような思いになった。信じよう。主が救いの御業をしてくださることを。私たちは「人はなかなか救われない」と思ってしまう。特にここに出てくる人々のように「満たされている」人々がどうしたら救われるかと思う。でも、私たちはいつも主の御業を期待して、主の御業を待ち望んでいきたいと思う。主は救いの御業をなされる。「主の御手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依する人々の数が多かった。」(使徒行伝11:21)の御言葉を信じて、主と共に歩ませて頂こう。祈って歩んでいこう。

3月20日(日)

「あなたが敵と戦うために出る時、馬と戦車と、あなたよりも大ぜいの軍隊を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導きのぼられたあなたの神、主が共におられるからである。」(申命記20:1)

主がおられる。私たちの主がおられる。私自身を形造り、わたしを育て、わたしを養い、わたしにいろいろなものを与えてくださってきた主がおられる。だから、どんな敵に向かっていても、勝利をいただくことができる。恐れてはならない。恐れてはいけない。本当に主が共にいて導いてくださることを経験させて頂こう。主の勝利を信頼して出て行こう。恐れるな。主が共におられる。主よ、感謝します。あなたの約束に感謝します。私の心の中の恐れを取り除き、愛で満たしてください。人を愛する愛を与えてください。そして、あなたが与えてくださる勝利を経験させてください。今日も人の心に触れさせてください。あなたの証人として用いてください。

3月19日(土)

「彼らはその兄弟のうちに嗣業を持たない。かつて彼らに約束されたとおり主が彼らの嗣業である。」(申命記18:2)

レビ人は財産を持たなかった。財産を持たないで、主が満たしてくださること、主が与えてくださること、人々がささげものを持ってくることによって、満たされて歩んでいた。主を信頼することの大切さを、そのような使命に立ち、唯主が与えくださることを信頼して、歩んだ。わたし自身も今日、また主から、「わたしを信頼しなさい」という言葉をいただいたような思いがした。主が与えてくださる。主が満たしてくださる。そこに信頼して歩んでいこうと思う。主よ、あなたを信頼します。あなたが一切の必要を満たしてくださることを信頼します。どうかあなたのご真実を見せてください。必要を豊かに与えてください。あなたに期待いたします。あなたの御手に注目して、真実に自分の使命を果たす者としてください。

「罪の誘惑は必ず来る。」(マタイによる福音書18:7)

英語で読んでいると、日本語で読んでいる時には読み飛ばしている、一つ一つの言葉にどきっとすることが多い。この言葉も引っかかりを覚えた。主は私に「罪の誘惑は必ず来る」と語られた。誘惑がなくなってしまうなんて思ってはいけない。誘惑はもう来ないなんて思ってはいけない。わたしは本当に弱い人間だ。誘惑に負けやすい人間だ。主よ、どうかお助けください。わたしの周りに御使いを送り、あらゆる誘惑の中で、あなたを見つめていくことができますように。あなたを見失うことがございませんように、どうかわたしを守ってください。どうかわたしを支えてください。

3月18日(金)

「貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、わたしは命じて言う、『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない』。」(申命記15:11)

「貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがない」という言葉にどきっとした。本当にそうだなあ、と思った。そして、自分が今は与えられている者として、どうしているだろうかと問われているような気がした。今は主から任されたものがある。本当に毎日毎日明日のことを思い煩わなくてすむように支えられていると思う。そのような中で、自分は主から任されたものを主が喜ばれるように、主が導かれているように用いているだろうかと思う。手を開くこと、手を開いて、握りしめていないで、開くことができますように。主の導きに信頼して、歩んでいくことができますように。必要なものを与えてくださる主に信頼して歩んでいくことができますように。

「イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、『起きなさい、恐れることはない。』」(マタイによる福音書17:7)

イエスはその栄光に圧倒され、ひれ伏す弟子たちに触れられた。優しく触れてくださって、恐れることはない」と言ってくださった。イエスは私たちに触れてくださる。私たちの心に触れてくださる。私たちの恐れている背中に触れてくださる。私たちは主の前に立ったら、そのきよさの前に立ったらひとたまりもない。本当に顔を伏せて、びくびくするのが精一杯だろう。でも、その私たちの背中に優しく触れてくださり、「恐れるな」と語ってくださる。このお方が私たちと共にいてくださる。わたしと共にいてくださるとは何という幸いだろうかと思う。主よ、感謝します。あなたがわたしの背中に触れてくださって、「恐れるな」と語ってくださいますから感謝します。あなたの与えてくださる平安の中を歩むことができますように。どうかわたしを守り支えてください。

3月17日(木)

「あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。」(申命記14:2)

主に選ばれて、主の者とされたのだから、主の宝とされたのだから、そのように生きるように招かれている。主がわたしを愛して生かしてくださっているのは、主のために生きるように招いてくださっているのだ。あなたの宝とされていることを感謝します。あなたのものとされていることを感謝します。そのように生きることができますように。そのように歩むことができますように。あなたの願われる道を歩むことができますように。あなたが私に準備してくださった道を歩むことができますように、あなたが導いてください。

「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう」(マタイによる福音書16:19)

私たちは天国の地上出張所だ。天国の権威を、天国の鍵を持たされているのだ。その使命、その責任は大きい。主から本当に大きな責任をいただいているのだと思う。大きな責任を持たされている者として、大胆に、真実に、忠実に、その使命を果たさせて頂きたいと思う。恐れないで、遠慮しないで、福音を語り、決断を迫っていきたいと思う。主よ、どうか私をお用いください。あなたの福音を伝える者とならせてください。今日出会うお一人一人にあなたの愛と、あなたの救いの力を語ることができますように。

3月16日(水)

「見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。」(申命記11:26)

祝福が広がっている。祝福が示されている。目の前に提示されている。主に従って歩むところに祝福があるのだ。どこかで、人生は嵐ばかり、苦しみばかりだと思っているところもある。でも、主は祝福を与えてくださっている。備えてくださっている。私たちはそれをいただくことができるのだ。嵐の中でも、荒野の道でも、「苦しい」と思いながら歩んでいくのではなく、祝福の中に歩んでいくことができるのだ。主よ、どうか私の歩みを導き、あなたの祝福を私のうちに満たしてください。あなたの祝福にあふれて歩んでいく者としてください。苦しみに押しつぶされるのではなく、戦いに落ち込むのではなく、どんな痛みの中でも、喜びにあふれて歩んでいける者としてください。

「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。」(マタイによる福音書15:28)

この女性の信仰はほめられた。今日は単純にこのように主にほめられる信仰を与えられたいと思った。主にほめられるような信仰を持ちたいと思った。そこまで主を信頼して、主に期待して、御業を見せて頂きたいと思った。主よ、あなたを信頼します。あなたのみ力を信頼します。あなたの愛を信頼します。あなたが私の人生に、私の周りの人々の人生に、また世界に最善のことをしてくださると信頼して歩みます。あなたが愛にあふれた方だと信頼して求めます。どうかあなたの御業を私の人生に、私の周りに表してくださいますようにお願いします。

3月15日(火)

「そしてわたしは前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった。これはあなたがたが主の目の前に悪をおこない、罪を犯して主を怒らせたすべての罪によるのである。」(申命記9:18)

モーセの40日間の断食が2回にわたっていたことには今まで気がつかなかった。十戒が与えられる前の40日間と、人々の罪を知った時の40日間。そして、その後者の40日間の祈りに今日は心が留まった。モーセは主の前に40日間とりなしの祈りを捧げたのだった。愚かな人々のために、偶像礼拝をしていた人々のためにモーセは40日間も断食の祈りを捧げたのだった。自分だったらどうだろうか?モーセのような愛を持ちたいと思った。モーセのように祈りを捧げたいと思った。人を愛する者とならせて頂きたいと思った。主よ、私に愛を与えてください。私が人々を心から愛することができるように、導いてください。あなたの愛に満たしてください。モーセが、イエス様が人々を愛した愛を、私にも与えてください。

「あなたがたの手で食物をやりなさい」(マタイによる福音書14:16)

イエスのこの言葉はチャレンジだと思う。弟子たちの言ったことの方がふつうで、当然の反応だ。でも、イエスは彼らに対して、「あなた方の手で・・・」と言われた。そこで信仰が問われてくる。無理なことはわかっている。でも、主の御手の中で、それが可能になる、ということを経験できることはなんとすばらしいことかと思う。あなたのその手の中のものを私のところに持ってきなさい、とイエスは言われる。喜んで持っていきたいと思う。主よ、どうか私を用いてください。尻込みしやすい私を引っ張り出し、私を用いてください。私をあなたのために用いてください。あなたのために用いられたいです。私の手の中にあるものを、わずかですが、あなたの前に差し出します。御手の中で祝福してください。

3月14日(月)

「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)

有名な言葉だけれども、本当に自分が苦難の中でそのことを覚えることができるか、自分が荒野を歩きながら、主の御言葉が私を支えるのだということを経験できるかどうか、本当に問われると思う。主を信頼して、主が与えてくださるものに感謝して歩んでいく者でありたいと思わされた。主よ、どうか私があなたの御言葉によって歩んでいくのだということを本当に経験させてください。味わわせてください。あなたの御言葉によって今日も生かしてください。

「喜びのあまり、」(マタイによる福音書13:43)

福音のすばらしさ、それは「喜びのあまり」すべてを投げ出してもかまわないくらいすごいものだという。無理をして・・・ではない。「喜びのあまり」だ。がんばって・・・ではない。葛藤を乗り越えて、ではない。「喜びのあまり」だ。いつもいつも主に愛されている喜びの中で、いつもいつも主に与えられている喜びの中で、主を賛美して、主に感謝しつつ歩む者でありたいと思う。主よ、あなたが今日も、私の心を喜びで満たしてください。あなたに愛されている喜びにあふれさせてください。あなたに愛されていることを感謝しつつ歩むことができますように。あなたと共に歩む喜びに生かしてください。

3月13日(日)

「またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。」(申命記6:8−9)

御言葉をいつも心に覚えて歩んでいくこと、御言葉に養われて歩んでいくことの大切さを思わされた。御言葉は私の力だ。私の力の源だ。その御言葉に支えられて歩んでいる。だから、それをいつもいつも自分の生活の一部として、生活の一部にして、歩んでいきたい。主よ、このユダヤ人の習慣のように、本当にあなたに信頼して歩んでいく者としてください。もっともっとあなたと共に歩む喜びに生かしてください。

3月12日(土)

「われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。」(申命記4:7)

主が今日も共にいてくださる。私と共にいてくださり、私が求める時に、叫ぶ時に、そこにいてくださって、応えてくださる。だから、祈りつつ、求めつつ、願いつつ歩んでいきたいと思う。主よ、どうか私の歩みを導いてください。私に語り、御言葉をお与えください。明日のメッセージのためにお語りくださり、私に教えてください。そしていただいたメッセージをそのまま語る者としてください。

「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。」(マタイによる福音書12:33)

つまり小手先のことではだめだということだろう。何とかよい実を結べるようにとがんばっても、本当に根本のところでよい木に作り替えて頂かないと、単なる人間の一念発起ではだめだということではないだろうか?主によって作り替えて頂かないと、主によって、新しくされないと、本当によい実を結ぶことはできない。主よ、私の歩みを導いてください。あなたによってよい実を結ぶ者としてください。私の内側をきよめ、実を結ぶ者としてください。

3月11日(金)

「あなたがたはまた荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたが、この所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった。」(申命記1:31)

主が私たちを導く歩み、ここまで確かに、主が優しく抱くように導いてくださってきた。だから、だから、これからの歩みでも、主を見つめながら、主の御手を見据えながら、歩んでいきたいと思う。主を信頼して、歩んでいきたいと思う。どんな状況の中でも、このお方は私を見捨てることはない。この方は私を見放すことはない。主よ、どうか私をこれからも守ってください。嵐の中でも、戦いの中でも、主よ、あなたが私を守り続け、生かし続けてください。道すがら守ってください。

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書11:30)

負いやすく、と言う言葉はeasyとなっていた。主が与えてくださる荷は、十字架だけれども、easyな荷なのだ。ぴったり来る、楽に負える。無理をして、歯を食いしばって、というのではなく、本当に喜びをもって負える荷なのだ。だから、自分自身そのような歩みをさせて頂きたい。そして、人々をもそのような歩みに導きたいと思う。無理をして、自分に合わないことを「やらなければいけない」というものであってはならない。本当に主が与えてくださることは私にとってぴったりだ、と言うことをやらせて頂きたいと思う。主よ、どうか私自身、あなたへの奉仕、それが楽しく、元気で、自分にぴったりだと今、思っています。どうかそのような歩みをさせてください。そして、人々をそのような奉仕に、お招きすることができますように。そのように主と共に歩むことを喜びとすることができますように。

3月10日(木)

「しかし、もし人を殺した者が、その逃げて行ったのがれの町の境を出た場合・・・」(民数記35:26)

逃れの町にとどまることが大切だった。ちょうど私たちがキリストの十字架の元にとどまることが大切なのと同じように・・・。キリストの十字架の元にとどまる。そこから出たら私自身はひとたまりもない。十字架の元にとどまり、十字架の元に歩んでいこう。主よ、あなたが私をかくまってくださり、私を守り、私を受け入れてくださることに心から感謝します。どうかあなたの恵みの中に生かしてください。あなたの赦しの中から外に出ることがないように、また聖霊様の守りの中に今日も歩ませてください。あらゆる誘惑や私をおとしめようとするサタンの力から私をお守りください。

「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイによる福音書10:37)

主に従うということは、主を第一とすること。いつも主を第一とすること。主から力を頂き、主が愛の源で、そこから命を頂いて、出て行く。主よ、どうか私を満たしてください。そして、家族を、人々を愛させてください。恐れる者ではなく、愛する者としてください。毎日の祈りを一番にしていく者としてください。もっともっとあなたとの交わりに生かしてください。

3月9日(水)

「そこには民の飲む水がなかった。」(民数記33:14)

私たちは、出エジプト記や民数記を読んで、イスラエルの人々がすぐ「水がない」とか「こんな食べ物はいやだ」とつぶやくのを見て、なんて愚かなんだろうか、私はつぶやかないようにしないと・・・と思うのだが、実際、200万人もの人々がいて、水がない荒野を旅するということはどういうことだろうかと思う。自分は今まで、蛇口をひねれば水が出てくるところ以外に住んだことがない。それ以外の生活は、たとえ一日であってもしたことがない。そう、40年あまりの自分の人生で、たった一日たりとも、蛇口から水が出てこなかった日はない?最大で数時間の断水だけだ。水道なんかない時代、荒野を旅をして、オアシスを求めて旅をして、でも、水がないところに数日でもとどまっているという中で、つぶやかないではいられないのではないだろうか?ああ、主よ、私はなんだかんだ言って、温室で生きてきたのだと思います。世界の歴史の中で、戦争にも遭わず、生命の危険も感じず、水も、食べるものも、十分に手に入る生活はどれほどの人々が享受できたでしょうか?そのわずかな「苦労知らず」の一人が、本当に聖書がわかるだろうかと思います。主よ、これから起ってくるであろう問題の中で、つぶやくことがないように私を守り、あなたを信頼することをもっともっと教えてください。

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。」(マタイによる福音書9:17)

福音の爆発的な力、それは習慣や伝統の形の中に閉じこめられていることのできないものだ。福音には力がある。福音には爆発的な力がある。だから、形に捕らわれてしまわないようにしたい。霊の自由を与えて頂きたい。霊の自由の中で歩ませて頂きたい。主よ、あなたの自由を私に与えてください。人を恐れるのではなく、愛することができますように。伝統を守ろうとする力から、私を守ってください。私から、そのような力に捕らえられている人々を恐れる心を取り除き、そのような人々を愛する心を与えてください。そして、福音の力を経験することができますように。福音の力に満たされて歩む者としてください。

3月8日(火)

「あなたがたは兄弟が戦いに行くのに、ここにすわっていようというのか。」(民数記32:6)

霊的な戦いにおいて、私たちの霊的な戦いにおいて、一人一人が戦士となることの大切さを覚える。「私はこちら側に残ります」と言う者たちを作らないで、本当に一人一人が主に励まされて、霊的な戦いにおいて、出て行って、勝利を得ることが必要だ。ああ、主よ、どうか、私を戦士を訓練する働き人にしてください。私は、「無理ならいいよ」と言ってこなかったでしょうか?どうか、主よ、一人一人を励まして、立上がる力が与えられますように。私自身が戦いにおいて勝利することができますように。そして、一人一人が勝利を経験できますように。主よ、今日も、お一人一人を励まし、立たせてください。

「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ。」(マタイによる福音書8:26)

この主の言葉を、しかりつける言葉よりも、励ましの言葉、支えの言葉に感じた。怖がらなくても大丈夫じゃないか・・・と。主がわたしと共にいてくださる。主がわたしを支えてくださる。だから、今日も大胆に歩ませて頂きたいと思った。大胆に歩みたいと思った。主よ、どうか私を支えてください。私を守ってください。いつもいつも必要な恵みを注ぎ、御言葉を私に語ってください。どうか私に語ってください。完全な愛で恐れを追い出してください。

3月7日(月)

「七月には、その月の第一日に聖会を開かなければならない。なんの労役をもしてはならない。」(民数記29:1)

主を第一とすること。それは本気にならないとできないことだと思った。主が私たちのためにしてくださったことは、本当に真剣な御業だった。命をも与えてくださった。なのに、私たちが、いや、私自身が神様を第一とする時に、半端な気持ちでいたら申し訳ない。本当に半端じゃなく、神様を信頼して、神様を見上げて、神様を第一として歩んでいこう。仕事ではなく、義務ではなく、自分自身の歩み自体として、主を第一として歩んでいきたいと思う。主よ、どうか私の心を満たし、あなたを第一とすることの喜びをもっともっと満たしてください。他のことを置いておいて、あなたに従い、あなたを求め、あなたと共に歩むことを喜びとさせてください。

「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。」(マタイによる福音書7:25)

何を土台にしているか?それが問われている。主よ、あなたが私のために、私たちのために与えてくださっている、イエス様という土台の上に私たちの人生を、私たちの教会を建て上げさせてください。主よ、ちゃんと土台とすべきものを土台とすることができますように。嵐がやってきても、どんな戦いが起っても、しっかりと立っていくことができるように、あなたを土台とさせてください。

3月6日(日)

「主よ、どうぞ、この会衆の上にひとりの人を立て、彼らの前に出入りし、彼らを導き出し、彼らを導き入れる者とし、主の会衆を牧者のない羊のようにしないでください」(民数記27:16−17)

モーセは自分があのカナンの地を前にしてこの世を去らなければいけないその痛みを覚えつつ、民のことを思っていた。何度も背き、何度もつぶやいた民を愛した。彼らのために何度となく涙しただろう。どれだけの涙を彼らのために流しただろうか?想像ができない。自分に対する神の宣告を前にして、彼は自分のために神に求めることはしなかった。まず、民のことを主の前に願った。民が牧者のない羊のようにならないようにと主に求めた。主よ、私にももっともっと愛を与えてください。本当にすばらしい教会の人々を与えてくださっていることに感謝します。しかし、もし、私がモーセのような立場になったら、モーセのように人々を愛することができるかどうか不安です。いや、私の中にはそのような愛がないことを知っています。どうか、あなたの愛を私のうちに満たしてください。あなたの愛にあふれさせてください。今日も、あなたの愛にあふれて歩む一日としてください。あなたの愛に満たされて、人々に接することができますように。

3月5日(土)

「モーセとイスラエルの人々の全会衆とが会見の幕屋の入口で泣いていた時」(民数記25:6)

罪を犯した人々は、最初は本当に友達のところに遊びに行くような軽い気持ちで、行ったのだろうと思う。きれいな女性たちに惹かれて行ったのだと思う。でも、そこに落とし穴があった。みだらなことと、偶像礼拝という罪に捕らわれてしまった。でも、そこに泣く人々がいた。本気で泣く人々がいた。自分も罪に対して本当に警戒しているべきことを思わされた。それと共に、自分も泣く者となりたいと思った。人々の罪に無感覚になってしまって、「こんなの今では当たり前だよ」「驚かなくなっちゃった」と平気で言うのではなく、人々の罪に対して、本気で泣く者でありたいと思う。主よ、罪に対するあなたの思いを私にも分かち合ってください。自分の罪に対して、そして、人々の罪に対して、本気で泣く者としてください。あなたの涙を私にも分かち合ってください。あなたの罪に対する怒りを私にも分かち合ってください。

「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。」(マタイによる福音書6:1)

主が知っていてくださったら、それでいい。主が知っておられたら、それだけでいいと思う。人にどう思われるかは、気にしなくていいのだ。ただ、主に対して忠実に、真実に歩みたいと思う。ただ、天にだけ、宝を積めばいいのだ。主よ、あなただけを見ることができますように、あなただけを見つめて、あなたの喜ばれる道に歩ませてください。人々の評価や、人々の期待ではなく、あなたを見つめていくことができますように。

3月4日(金)

「倒れ伏して、目の開かれた者の言葉。」(民数記24:4)

ここまでは、魔術で答えをもらっていたバラム。魔術をしながら、けれども、そこにも主は働かれて、イスラエルを呪うのではなく、祝福を与えるようにと答えを与えられた。しかし、ここでは、バラムはもうそのような方法を用いなかった。そのときに、主は圧倒的な力を持って、彼に臨まれた。主に打たれて、倒れ伏して、そして、そこで目が開かれた。今はやりの文字通り「倒される」と言うことである必要なはないだろう。本当に主に撃たれ、砕かれ、自分の今までの経験だとか、自信だとか、そのようなものが完全に打ち砕かれて、そこに語られる主の言葉を語った。自分自身は魔術は使わない。でも、勉強したこととか、経験だとか、日頃考えていることだとか、そんなことに頼って、主の言葉を語っているふりをしてはいけないと思わされた。主に語って頂き、主に私に語って頂き、主に倒して頂き、目を開いて頂き、そして、その主の語りかけを大胆に語っていく者となりたい。どんなに周りに反対の声が挙がったとしても、主の言葉を語っていく者となりたい。

「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。」(マタイによる福音書5:44−45)

神の子とは、神が私たちがかみに背を向けている時から私たちを愛してくださったように、私たちに背を向ける人々、また牙をむける人々を愛し、そして、その人々のため祈る使命を頂いている、という。ああ、自分は本当にそのようにしてきただろうか、と思う。本当に人々のために、特に悪意や憎悪を向けてくる人々のためにそのようにしてきただろうか、私は弱い人間だ。悪意ではない、単なる誤解であったとしても、人を愛することができなくなってしまう者だ。主よ、どうかあなたの愛を私のうちに与えてください。あなたが私を愛してくださったように、人々を愛することができますように。どうかあなたの愛を満たしてください。

3月3日(木)

「主がこの上、わたしになんと仰せられるかを確かめさせてください」(民数記22:19)

主はどうして、「行け」と言われながら、いざバラムが行くと、怒られたのだろうか?それはこの言葉だと思う。優遇を約束され、身分の高い者が迎えに来た時に、バラムは主のみ思いを知っていたのに、「では、もう一度、どのように主が言われるか確かめよう」と言ったのである。主はお金や待遇に左右されるようなお方だろうか?それによって、「行きなさい」とか、「止めなさい」とか言われるお方だろうか?気をつけなければならないと思った。一度答えを頂いたことについて、自分の欲に振り回されて、「神様今度はどうでしょうか?」と聞くような愚かなことは慎まなければいけないと思わされた。本当に欲に振り回されるのではなく、主の導きたもう道を歩んでいきたいと思った。主よ、どうか私が一つ一つのことについて、欲にではなく、本当に主によって解決を頂き、導きを頂くことができますように。

「すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。」(マタイによる福音書4:20)

「すぐに」という言葉が、ペテロとアンデレにも、ヤコブとヨハネにも用いられている。彼らはそれまでの生活を捨てて、すぐに従った。直ちに従ったのだった。自分はいかに逡巡する人間だろうかと思う。慎重と言えば聞こえがいいが、実は行動力のない、迷ってばかりいる人間だと思う。すぐに従う。その姿勢をもたせて頂きたい。主が望んでおられるとわかったら、すぐに従って、歩んでいきたい。今年、主から示された使命も、もう主がそれを望んでおられることがわかったのだから、すぐに従っていこう。主よ、感謝します。あなたが背中を押してくださったことを信じます。どうか、実現に至らせてください。

3月2日(水)

「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかった」(民数記20:12)

主が岩に命じるようにと言われたのに対して、モーセは「私たちが水を出さなければいけないのか」と感情的になり、岩を打った。それを主はとがめられた。私たちはすべての栄光を主にお返ししているだろうか?私は主があがめられてくださることを求め、主の御力を証しているだろうか。私ではなく、主があがめられてくださることだけを求めているだろうか。自分を認めてもらおうとしていないだろうか?主よ、あなたのご栄光を求めます。今日もあなたが私の一歩一歩を共に歩んでくださって、あなたのすばらしさを見させてくださいますように。私のなすべきことをいつも教えてください。

「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイによる福音書3:11)

主は私たちに御霊様を満たしてくださるお方。御霊を注いでくださるお方。朝から、聖霊様の御たしを求めて祈ろうと思わされたことは本当に大きなことだと思う。主よ、感謝します。イエス様、あなたは聖霊様を与えてくださると約束してくださいました。本当に今日も、聖霊様に満たしてください。私が聖霊様に満たされて、一日を歩むことができますように。一つ一つの出来事の中に、一人一人との出会いの中に、あなたの祝福を満たしてください。与えてください。語るべきこと、なすべきことを教えてください。愛に満たしてください。そして、私のうちに与えられたあなたの祝福が周りの人々にも流れ出るようなそのような一日としてください。

3月1日(火)

3月になりました。2月末からまとめて更新しましたが、今日の分は今晩遅くに更新します。

ということで、夜10時頃、Brooklyn Tabernacleの祈り会から帰ってきて、今日も後1時間を切りましたが、祈りつつ更新します。

「あす、主の前に出なさい。その時、主が選ばれる人は聖なる者である。」(民数記16:7)

主の前に立ち、主の火が私たちの存在を見極められる。そう思うと本当に厳粛な思いにさせられる。主の前に立つことなんかできないのではないかと思わされる。だから、主の憐れみによって、主の赦しによってのみ、主の前にご奉仕させて頂いていることを思わされる。本来、そんな資格なんかない。でも、主の憐れみによって、生かされ、ご用をさせていただいている。感謝したい。そして、真実に歩みたいと思った。主よ、今日も私を満たしてくださって、私を生かしてくださって、ありがとうございます。私をもっともっと満たし続け、生かし続けてください。明日もまた朝から、新しい力に満たして、私を生かしてください。

「ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。」(マタイによる福音書2:3)

NIVでは、この「不安を感じた」という言葉は"disturbed"という言葉が使われている。煩わされるという語感のある言葉だ。救い主が生まれた、神の子が送られた、ということにdisturbされる、という心理。自分の思い通りに、自分の好き勝手に生きようと思ったら、じゃまになる存在だろう。煩わしく感じるかもしれない。でも、主を信じる生涯を一回経験したら、主に従う人生の喜びを一回経験したら、これはもう邪魔をされているなんて思うことは絶対ない、幸いな生涯だ。主よ、私をそこに導いてくださったことに感謝します。あなたの導かれる所に歩んでいきます。あなたが導かれる所を感謝しつつ歩んでいきたいと思います。どうか主よ、更にあなたが導いてください。

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