恐れるな。その言葉は聖書に一番たくさん出てくる命令だろう。私たちは本当に恐れやすい存在だ。恐れやすい者なのだ。今も、新しい環境に出て行こうとするならば、自分は恐れるだろう。それに伴う代償を考えるならば、「そんなことしないほうがいい」とこのイスラエルの民のように思うだろう。でも、そんな私に向かって、私たちに向かって、「恐れてはならない」と主は言われるのだ。主はそのように語られるのだ。そして、主ご自身が救いをなされる。御業をなされる。だから、私たちは見ているだけでいいという。その御業を見ているだけでいいと。本当にすごいメッセージだと思う。本気で信じよう。本気で主を信頼しよう。そして、本当にその御業を見せて頂こう。主よ、御言葉に感謝します。恐れて、尻込みしがちな私のためにあなたが御言葉を語ってくださっていることに心から感謝します。どうか、信頼します。あなたの御業を見せてください。
エジプトを出て荒野に進んでいったイスラエルの民。彼らの前に主は先立って進んでくださった。私たちにも、主は先だって進んでくださっている。私たちはこの先どんなことが待っているか見えない。でも、主はすべてご存じで先に立って進んでくださる。恐れることもある。不安に思うこともある。でも、主が先に立って進んでくださる。主よ、あなたを求めます。先に立って進んでください。あなたが先に立っていてくださることを見せてください。わからせてください。ああ、本当にそうなんだとわからせてください。そこに進む喜びを感じさせてください。今日も、今日の礼拝も主がお守りください。そして、本当に主がおいでだということを味わわせてください。
とうとう、更新が翌日になってしまいました。土曜日分を日曜日の朝に更新しています。
あのモーセ、仲間の人々から、どうしてそんなよけいなことをするのか、と言われ、パロにもあまり相手にされていなかったモーセ、また自分で「そんなことできません」と言って神の前にごねたモーセ。そのモーセが、今や、エジプトの人々の目にとても大きな存在として映ったという。でも、それはモーセ自身の何かではなく、主が彼を用いられたことにあった。そのことを思うと、私も用いて頂きたいと思う。大きく見られたいとかではなく、主の働きを見せて頂きたいと思う。用いて頂きたいと思う。もしも、用いていただいたときに、そのときに、自分自身が小さな存在であることを、主が働いておられ、私自身は小さな貧しい存在であることを忘れないでいたいと思う。主よ、どうか私を用いてください。あなたのご用のために用いてください。そして、どこまで行っても、どんなに大きく用いられても、それが主の御業であることを忘れないように守ってください。
大麦は雹でやられたけれども、小麦とスペルタ麦はまだ穂が出ていなかったために、打ち倒されなかった。そこにパロにも道が開けた。そこで、パロは約束を守らなかった。神の前に降伏しなかった。自分はどうだろうかと思った。自分もどこかに逃げ道を見つけて、神の前に降伏しないでいることがあるのではないかと思った。すべてが取り去られるまで、本当のことはわからないのかもしれない。でも、本当にそこまで追いつめられなくても、主に従う者になりたいと思った。追いつめられる前に主に従う者になりたいと思った。そこまで神様を困らせないで、従いたいと思った。主よ、あなたの導きに従う者となりたいです。どうか、御心を教えてください。あなたの思いを私に分かち合ってください。そして、そこに従う者であれますように。
更新が夜になってしまいました。でも、忘れないで更新できることに感謝しつつ。
モーセは逃げ腰だった。モーセが活動を始めたときに、イスラエルの人々さえ、彼に従わなかった。パロが言うことをきくなどとは考えてもみれなかった。しかし、主はモーセとアロンに語られて、彼らを用いられた。主に語られることがどれほど大切なことか、どれほど大きなことか、思わされた。主に語られることはどれほど力であろうかと思った。主よ、私に語ってください。そして、私をお用いください。あなたの願われるところに、あなたがお考えになっているところに私を遣わしてください。あなたが語られたら、心配は吹き飛びます。あなたが語られたら、私のうちには力があふれます。
主がわたしをわたしにしてくださった。モーセが自分は話をするのが得意ではないから・・・と主の召しに抵抗したときに、主は彼をしかって言われた。主はモーセをモーセとしてくださり、わたしをわたしとしてくださった方だ。だったら、本当に素直にそれを感謝して受け入れることが大切だと思った。他の人が何かを期待したり、要求したりすることよりも、主がわたしをわたしとして造ってくださったことに目を向けるべきだと思った。そして、それは自分だけではなく、出会うほかの一人一人のこともそうだと思った。主がそのようにしてくださったのだから、感謝していこうと。その一つ一つの出会いを感謝していこうと。主よ、あなたの御心は私たちの考えを遙かに超えたものであることを知っています。あなたが目的を持ってわたしをわたしとしてくださったのですから、それを感謝して、そこに生きていくことができますように。主の御業を見ていくことができますように。
「しろしめされた」という言葉はいまいちぴんと来なかったので、ほかの訳を見てみると、「心にとめられた」とある。主は彼らを心にとめられたのだ。苦しみの中にあった彼らを、苦しみの中でうめき叫んでいたイスラエルの人々のことを心に掛けておられたのだ。でも、そのときは彼らはそのことには気づいていなかっただろう。私たちもそうだ。主が心にとめておられるのに、私たちが気がつかないことがどれほどあるだろうかと思わされた。主は私たちを覚えておられる。主は私たちを心にとめておられる。そのことを信じて、信頼して歩んでいこう。苦しみを覚えるときに、どうしてこんなことが起ってくるだろうか、と思うときにも、主が覚えていてくださることを信頼して歩んでいきたいと思った。主よ、あなたが私を覚えておられること、感謝します。私がそれを忘れそうになってしまったとき、忘れてしまったとき、そのことを思い出させてください。あなたの守りに感謝します。
やはり教会でみんなで集まって礼拝をして始まる一週間でないと、何か変な感じがしますね。ますます主につながることの大切さを思わされます。今週のお一人一人の歩みが主によって、主ご自身によって支えられますように。
人の悪意もある。私たちの周りに悪意を持つ方が全然いないかというと、そうでない場合がある。でも、それも主が用いてくださる。それも良きに変えてくださる。私たち人間同士の歩みで、善意がそのまま受け取られないこともあるし、善意から始まったことであっても、益にならないように思えることもある。それが人間関係だ。でも、そこに神様の存在があるときに、神様という存在がそこにおられることが見えてくるときに、悪意から始まったことでも、良きに変えられる、良きことに用いられることが見えてくる。なんとすばらしいことだろうかと思う。何という恵みであろうかと思う。主が私たちを愛して、私たちに最善のみ業をしてくださる。そこに信頼して歩んでいきたいと思う。主よ、どうかあなたの導きを示してください。あなたの御手を見せてください。あなたがすべてを良きに変えてくださることに心から感謝します。その通りになさってください。
ブリザードにはなりませんでしたが、今日の礼拝は各自家で守りましょう、ということになりました。万が一どなたかが来られたときのために、わたしは教会で礼拝を守ります。
この聖書の言葉を読みながら、自分自身のこれまでの人生の歩みを思わされた。ヤコブだけではなく、わたし自身も生まれてから今日まで主は養ってくださった。主はわたしを生かし、用いてくださった。最近、よく、自分が交通事故にあったときのこと、5歳の時のことを思い出す。自分はあの時、車が来ることがわかっていた。わかっていたのに、飛び出してこと、そして、気がついたら、足が痛くて立てなかったことを覚えている。また、これは後からそんな印象が造られたのかもしれないけれども、とにかく足にタイヤに踏まれた後がついていたこと、を覚えている。つまり自分ははねとばされたのではなく、足を投げ出すように車に足を轢かれたのだと思っている。実際のところどうだったのかはわからない。子供の時の記憶だ。夢なんかとごっちゃになっているかもしれない。でも、そんな中で生かされた。守られた。そして養われてきた。福音のすごさ、神の愛の大きさも知ることができた。神の愛の大きさに圧倒される経験をした。義務ではなく感謝にあふれて歩むことができるようになった。本当に主がわたしを支えられ、わたしを養われたんだと思う。本当にそう思う。感謝。
ヤコブは自分が主に養われたが故に、ヨセフやその子たちに主の守りを祈ることができた。主の祝福を信頼することができたのだ。わたし自身もそうだ。子供たちのこと、主がわたしを守り、導いてくださったのだから、主を信頼して、主に信頼して、祈っていこう。教会のお一人一人に主の語りかけがあるように、主が御言葉によって養ってくださることを信頼していこう。主よ、あなたがわたしの人生をここまでお守りくださったことに感謝します。どうか、あなたの恵みを感謝する思いで歩めますように。
と、ここまで書いたところで、呉さんが来られました。感謝。日本への伝道の思いを持っておられる韓国出身の方です。日本伝道の思いや、今通っておられる韓国語教会の会堂取得の話など、お伺いし、共に祈るときがもてました。感謝します。ご連絡から漏れてしまったことは本当に申し訳ないのですが、先週は総会でお話しする時間もなく、今日、このようにその時間が与えられたことに感謝。呉さんもそのようにおっしゃっていました。
今日の午後から明日の朝にかけて、ブリザードだそうです。すべてが守られますように。
売られたヨセフ。兄たちに売られたヨセフが、兄たちに語った言葉。彼は兄たちを責めるのではなく、自分がここにいるのは神様が導かれたことなのだと、語った。主がそのように導かれたのだと。だから、嘆いたり悔いたりする必要はない、と語った。ああ、そのように語ることのできる確信を与えてほしいと思う。わたし自身、いまここにあることは主の導きの中にあることだと信じて疑わない。しかし、誰かの悪意によってあるところに導かれたときに、そのように言うことができるだろうかと思う。主よ、どんな状況の中にあっても、不本意なことであっても、その中に主の導きを見ていくことができますように。主がなさることを信頼していくことができますように。すべては最善に導かれるのだと、そのことを信頼して歩んでいくことができますように。
ヨセフがどうして、自分のことを兄たちにここまで隠しておいたのか、わからない部分もある。もっと早く自分の素性を話した方が良いのではないかと思うが、実際、やはり、彼の心がいやされ、兄たちを受け入れるためには、このようなプロセスが必要だったのか、と思わされる。やはり兄たちが、自分にした悪を悔いて、そして、ベニヤミンのためなら自分が身代わりになってもいい、というこのユダの言葉に、自分自身の過去がいやされるような経験をしたのではないかと思う。
よく、マナセの名前の由来が語られることがある。「主が忘れさせてくださった」と。その陰に隠れていた、エフライムの名前の由来が今日は心に留まった。主はヨセフを悩みの地で豊かにしてくださった。主が私たちに豊かなものを与えられるのがしばしば、「悩みの地」であることを覚える。悩みの地にこそ、主の宝が隠されているのではないかと思う。もちろん、自分は今悩みを求めようとは思わない。苦しみに来てほしいとは思わない。しかし、苦しみが来たときに、それによって主が豊かに与えようとしてくださっていることを忘れないようにしたいと思った。主が与えてくださる豊かなもの、それを求めていきたいと思った。主よ、あなたが与えられる苦しみは、本当にわたしに力を与え、豊かなものを与えてくれるものだと信じます。それを信頼して歩みます。どうか、主よ、あなたの豊かさで満たしてください。苦しみの中でもあなたに信頼する者としてください。
ヨセフが幸運な者である、というなら、どうしてヨセフは兄弟に売られて、エジプトで奴隷になんかなったのだ、神がおられるなら、どうして、彼は牢獄に入れられるのだ、などと勝手に思ってしまう。だから、人間のその場その場で感じる「幸運」なんてあまりにも近視眼的であり、あまりにも身勝手なものなのだ。主が用意されている幸い、主が共にいてくださることの幸い、それを見させていただきたいと思った。願ったとおりにいかない戦い、願ったとおりに道が開かれない戦い、それが私たちにはある。でも、その中でも主が共いてくださりすべてを最高に、すべてを最善に導いてくださるならば、それはものすごい安心であり、平安であろうと思う。主よ、どうかあなたの最善を信じていく者としてください。すべては主のみ手の中にあり、ヨセフの生涯のように、その場その場では納得いかないことがあっても、主に導かれていることを確信させてください。
ヨセフの物語が始まった。ヨセフの兄たちは、ヨセフに害を加えて、ヨセフの夢なんか・・・と語り合った。でも、神のご計画はこのような出来事、このような悪意を通しても、その栄光を表わそうと動いていく。主の御力を思わされた。主の大いなることを思わされた。私たちの悪意や私たちの愚かな考えの小ささ、そして、ご計画を信頼して歩むことの大切さを思わされる。主よ、感謝します。あなたがすべてを最前にしてくださることに心から感謝し、信頼いたします。どうか、あなたの御力を表してください。あなたのなさることのすばらしさを拝させてください。今日の一日の歩みの中でも、あなたが何をなそうとしておられるか、そのことに注目しながら歩む者としてください。
ヤコブが神の命に従って、ベテルに行こうとしたときに、彼らの周りには砦ができたかのように、人々は恐れ、彼らは守られて、そこを歩んでいった。主が彼らを守られたのだった。主は砦を造ってくださる。私たちを守ってくださる。天使を送ってくださる。主を信頼していきたいと思った。主を信頼して歩んでいきたいと思った。主よ、新しい一週間をありがとうございます。ヤコブを守られたあなたがわたしをも守り、あらゆる危険から、私たち一人一人、教会の一人一人を守ってください。誘惑や、サタンの攻撃からも、教会の一人一人をお守りください。あなたを待ち望みます。あなたご自身が私たちの周りに垣となってくださいますように。
これが神の答えだった。これが「帰りなさい」と言われた神の備えだった。これが「祝福されるまであなたを去らせません」と祈ったヤコブに対する神の答えだった。そうでなかったとしても、祈り抜いたヤコブは胸を張ってエサウに会ったであろうが、主は思いがけない報酬を持ってヤコブを迎えてくださった。主に従っていくものとなりたいと思う。しかし、この章の最後では、ヤコブはベテルに帰らないでシケムに住んだ。これが、デナの悲劇になり、シケムの悲劇になる。徹底的に主に聞いていくこと、一つ一つ主に聞いていくこと、そのような歩みをしたいと思う。主よ、あなたに従うものとしてください。あなたに従って歩むものとしてください。あなたの願われること、あなたが導かれることを教えてください。あなたに聞きながら、あなたに答えをいただきながら歩む者としてください。
ヤコブは主に食らいついた。食い下がった。離れなかった。離さなかった。主に、わたしを祝福してくだるまで、わたしはあなたを離しません。と食らいついた。本当に主に対して、真剣だった。このような熱い思い、自分は持っているだろうか。持ってきただろうか?いつもこの所を読みながら、同じことを感じているように思うが、それを本当に自分のものとしてきただろうかと、思わされる。主よ、あなたに求めます。わたしを祝福してください。わたしに語ってください。今日の祈り会を通して、あなたのすばらしさを拝させてください。また、明日の礼拝にあなたの祝福を豊かに満たしてください。まず、今日の備えの中で、あなたがわたしに語り、あなたがわたしを満たし、喜びにあふれさせ、その喜びの中で、あなたのことを証させてください。どうかあなたがわたしに語ってください。あなたの答えを待ち望みます。あなたの答えをいただくまで食らいついていく、そのような熱さを持っていくことができますように。
レアとラケルのこの夫の取り合いの中で、レアが子供に付けた名前にこめた願いの変化をみることができる。最初の3人は、やはり子供を生むことによって、夫の気がこちらに向くことを願っている願いが中心になっている。ユダが生まれたときに、やっと、「子供を産んだ喜び」や「夫がこちらに目を向けてくれること」からは解放されて、単純に主を賛美している彼女の姿がある。私たちの信仰も、最初は自分に主がこんなことをしてくださったからうれしいとか、神様信じているのにこんな目にあって、神の愛がわからなくなったとか、そんなことを感じるかもしれない。でも、私たちがそのようなところから解放されて、単純に主を賛美し、単純に主をほめたたえて、状況にかかわらず主を賛美して歩んでいくことができることが本当にすばらしい恵みだと思う。主よ、わたしの信仰を導いてください。あなたを、あなた自身を喜んで歩んでいくことができるように。あなたを喜ぶことが私たちの力であると、そのことを経験させてください。
これは自分の日常の中であることではないだろうかと思わされた。主が語ろうとしておられる、主がともにいてくださる、主が力を与えようとしておられる、なのに、自分の鈍さ故に、自分の心がほかのところにとらわれてしまっているが故に、主がそこにおられることに気がつかないでいること、でも、主は確かにそこにいてくださって、私たちに語ろうとしておられるのだ。今日も、このように主の前に出て一日を始められることは本当にすばらしい感謝だ。すばらしいことだ。主よ、どうかわたしの今日の一日を守ってくださって、あなたがここにいてくださっていること、それを感謝しつつ、それを覚えつつ、歩むものとしてください。主よ、どうかわたしにあなたの御言葉と力を与え、感謝を与え、喜びを与え、そして、何よりも愛を与えてください。わたしにあなたの愛を与えてください。そして、今日電話をしたり、声をかけたりすべき方を教えてください。そして、愛の言葉をわたしの心と唇に与えてください。わたしの心をあなたの愛で満たしてください。
どうなるだろうか、わたしはどうなるだろうか、そのように感じることがわたしたちの歩みの中にある。わたしたちの人生の中にある。リベカはその中で、主に尋ねに行った。主の許に尋ねに行った。そして、答えを頂いた。そして、その答えは彼女のそのあとの歩みを決めていくようなものだった。そこにかけていくような歩みをする。自分が問題にぶつかった時に、「どうなるのだろうか」と思うようなことにぶつかった時に、自分はどうしてきただろうかと、どのように歩んできただろうかと思わされた。すぐ、主のもとに行っただろうか?今日もどうだろうか、わたしは、すぐに「さあ、主のもとに行こう」とすぐに主の前に祈るだろうか?主に求めるだろうか?主よ、今日出会う一つ一つの大きな問題、小さな問題について、あなたの導きを求める者としてください。すくあなたのもとに行って、聞いて歩み始めることができますように。あなたの答えをいただいて歩み始めることができますように。
アブラハムの信仰を伺いみさせる最後のエピソード。この彼の平安のためには、この彼の平安の背後には、それまでの彼の数十年にわたる神との関係があった。神の約束とそれに従うことの意味、それに信頼して歩むことの意味を経験させられて、この時にも、この約束の子イサクのために今まで主がして下さった多くの奇跡、それを思うと、今度も主が最高のことをして下さるという確信が彼にはあっただろう。主はわたしの歩みの中にも幸いを与えて下さった、いろいろ行き詰まりを覚えた時もあったし、自分の失敗に情けない思いをしたこともあった。でも、毎回毎回、主に従っていくものの幸いを教えられた。これからの歩みの中でも主がいつも最高のことをして下さる、そのことに感謝して、そのことを信頼して歩んでいきたい。主よ、わたしの歩みも、ここまで来ました。でも、これからの方がいろいろなチャレンジが多いでしょう、困難が多いでしょう。ですから主よ、どうかわたしのこれからの歩みの中で主が支えて下さり、守って下さるという信頼に立っていくことができますように、主よ、導いて下さい。教えて下さい。必要な信仰の訓練をお与え下さい。
今日の聖書の箇所を読んで、アブラハムがイサクをささげるようにと命じられて、そこに従っていった時に、「主の山に備えあり」ということを教えて頂いて、祝福を与えられて、というアブラハムの姿を見て、自分はもしかしたら、主の祝福をもっといただく大きなチャンスをみすみす逃してきたのではないだろうかと思わされた。本気で主を信頼して、主を第一にしてきただろうか、そして、主の準備して下さっていた祝福を、頂かないで過ごしてきてしまったのではないだろうかと。やはりオプションなんだと思う。主が準備しておられる大きな祝福をいただくことは、オプションなんだと思う。主に本気で従うかどうか、わたしたちに任されているのだと感じた。もしもそうだとするならば、自分は何度もそのチャンスを逸していると思う。どうか主よ、あなたに従う祝福を経験できますように。主よ、あなたを本気で信頼して歩んでいく者としてくださいますように。その喜びに生かして下さいますように。
ロトは町を出ることをためらっていた。ためらっている彼に対して、主はあわれみを施されて、彼らを町の外に連れ出した。無理矢理に。アブラハムはみ言葉を聞いて従った。ロトはためらっていた。主はためらうものに対して、ある時には、強硬手段、非常処置で、あわれみを施される。無理にでもわたしたちを守って下さる主に感謝。主のなさることはしばしばわたしたちの願いとは反対のことかもしれない。でも、それが主のあわれみなのだ。でも、できるならば、主の御言葉に従って、主の強硬手段を仰がなくてもすむように歩みたいと思った。主が無理矢理になさらなくてもいいように、主に従うものでありたい。主の御言葉にいつも耳を傾けて、主に聞いていきたい。主から語られて、その喜びの中に歩んでいきたい。
この、「信仰によって義と認められる」という言葉の最初に出てくる所。ここで、アブラハムが「信じた」というのは、主を信頼して、主の言葉を信じて、信頼して、歩み始めたということだろう。いろいろな教理を信じたのではなく、「あなたの子孫がこの星のようになるであろう」神の約束を信じたのだ。それが神が喜んでくださった信仰だ。わたしたちも神に語られる時に、聖書を通して主がわたしたちの心に語って下さる時に、それを信頼して、信じて進んでいくことが大切だと思った。信じて歩んでいく所に招かれているのだと思った。主を信頼していくことだと思った。主よ、どうか私の歩みを祝福し、私の歩みを導いて下さい。あなたを信頼します。私もアブラハムがみ言葉を信じて歩んでいったように、あなたを信頼して歩んでいきます。
アブラハムは父の家にいても良かったのであろう。状況を見るだけならば、そこにとどまっていた方が良いように見えたかもしれない。神に従うことはオプションだったと思う。しかし、神は出て行く所に祝福を準備しておられた。神を信頼して歩む訓練を与えられて、そして、神を信頼するとはどういうことなのかを教えられて、経験させられて、そして、祝福の基とされた。自分はどうだろうか、と、自分たちはどうだろうかと。主を信頼して歩んでいく、主を信頼して進み出すことなしに、状況ばかりを見て、「様子を見て」ということばかりにとらわれていないだろうか。そこにとどまっていないだろうか。主は信じ従う者たちに祝福を準備しておられるのに、それをみすみす逃していることはないだろうか。本気で主を信頼しよう。本気で主のなさることにかけていこうと思う。積極的に歩んでいこうと思う。主よ、あなたのみ言葉を感謝します。あなたの約束しておられる祝福をいただきたいのです。主よ、与えてください。 今日から平日の朝の集会が始まって、朝忙しく過ごして、朝の更新ができませんでした。残念。でも、このようにみ言葉によって歩めることを感謝しつつ。 主が「地に満ちよ」と命じられたのに、彼らは、ここで名をあげ、ここで立派な業績を上げ、地に散らされていくのを恐れ、そこから逃れようとした。何を信頼していたのだろうか、団結を信頼していたのだろうか。自分たちの力を信頼していたのだろうか。主を信頼すれば良かったのに、主を信頼すれば平安だったのに・・・。でも、自分たちもそのようなことがあるのではないだろうかと思わされた。ほんとうに主を信頼しているだろうか。自分たちの団結力や実行力や、実績や、そのようなものを考えて、安心しているではないだろうか?本気で主を信頼しよう。本気で主を信じよう。主が力の源であり、主がわたしたちを支える存在であることを信じて歩んでいこう。主よ、あなたを信頼します。人間的な力や魅力や、団結力を信頼するのではなく、あなたを信頼します。どうかあなたの御力を持って私を満たしてください。私を用いてください。
雨が降り出したのが前の年の二月十七日なので一年以上、彼らは箱舟の中にいた。箱舟が山の上に漂着したのが七月なので、それから七ヶ月くらいが経っていた。そして十二月にはノアは鳩を放ったり、カラスを放ったりしている。どれほど、彼らが外に出るのを待ち遠しく思っていたかと思う。そして一月一日には、もう地はかわいていたという。でも、ノアは神のゴーサインを待ち望んだ。それまで待った。神のゴーサインを待つこと、これは難しいことでもあるかもしれない。でも、ほんとうに大切なことだと思う。ノアがしたように、自分の目で状況を確かめることもわたしたちはする。でも、最終的には神の語りかけをいただいて、ゴーサインを受け取って、前に進んでいくんだという。主よ、状況に目を注ぐだけではなく、状況に振り回されるのではなく、あなたのみ言葉に耳を澄ませていくことができますように。あなたの語りかけを聞いていくことができますように、主よ、導いて下さい。
すごく不思議な言葉のような気がした。ノアが主に従って、箱舟に入った時に、その戸を閉じられたのは主だというのだ。そして、それはノアの「うしろの戸」と書かれている。主が閉ざされる。うしろの戸を閉ざされたというのは、もう戻れない、ということだろう。主はノアを守るためにうしろの戸を閉ざされた。ある時には、非常事態のように主が戸を閉じられることがある。それを感謝して受け止めたい。この言葉から、あのイエスの「祈る時には、戸を閉じて・・・」という言葉を連想させられた。自分の祈りはうしろの戸を閉じて、祈るような祈りだろうか。あちらこちらに行ったり来たりして、落ち着かない祈りの時を持っていないだろうか。戸を閉じて祈ろう。主の前に、主と共に時間を過ごす時を持とう。主よ、祈りの時を感謝します。今朝、語って下さったことに心から感謝します。あなたに聞き、あなたに語られながら歩んでいくことができますように。いつもいつもあなたに聞きながら歩むことができますように。戸を閉じて祈ります。あなたが戸を閉じて下さることに感謝します。
罪によって、労働が骨折りになり、痛みとなってしまった。その中で、ノアが慰めとなったという。今、わたしたちは、イエスによって、労働に喜びを見いだせることがどれほどの幸いだろうかと思う。「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。しゅにあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」と第1コリントの15章にあるが、わたしたちの働きが、一見むだに見えたり、骨折りに見えたりしたとしても、主にあっては、それはむだになることはない、ほんとうに主がそれを見ていてくださり、祝福してくださるのだ。ノアが人々の慰めとなったように、イエスがわたしたちの慰めであり、わたしたちの希望であることを心から感謝します。主にあって、今日の働きも守られ、祝福されますように。今日の働きの中にも喜びをお与え下さいますように。
罪が入ってきた時の悲惨。1-2章は興奮して読んでいたが、この3-4章の読むことの辛いこと・・・。きついと思った。特にカインがアベルを殺してしまうところとか、兄弟であるがゆえの問題、ほんとうは仲良いのが望ましいのに、このように憎しみやねたみがわいてしまう。またアダムがエバのことを「あなたが下さったあの女」という所。昨日読んだ所では「私の肉の肉、骨の骨」と言うのに、罪が入ってきた時に、「あなたが下さったあの女」となるのだ。でも、その中で慰めだったのが、この言葉。主が皮の衣を造って着せて下さった。そのためには二頭の羊が犠牲になったことだろう。その犠牲の上に、主は彼らの裸の恥を覆って下さった。これはイエスの預言だという。イエスのことを表わしているという。イエスがわたしたちのために犠牲になり、わたしたちの恥を覆って下さった。主よ、あなたに感謝します。あなたの恵みを教も覚えることができたことに感謝します。イエス様の十字架の福音の故に感謝します。どうか、この事に集中してこの事を覚えて歩む者としてください。感謝しつつ、歌いつつ歩ませてください。
新しい年が明けて、最初の朝、神の前に出て一年を始められることに心から感謝。 HPにアップするには少し恥ずかしいことだが、今日は、自分たち夫婦のことを思わされた。「深く眠った時に・・・」という言葉から、これは自分の努力ではなく、主の導きだと思わされた。主が合わせて下さった妻であることを、もう一度思わされた。主が合わせて下さったのだから、それを感謝して、より豊かな歩みをさせて頂きたいと思う。主よ、愛することを教えて下さい。主よ、もっと夫婦になっていくことができますように。共に歩んでいくことができますように。共に歩むということがどういう意味なのか、教えて下さい。1月22日(金)
「どうか、しもべをこの子供の代わりに、わが主の奴隷としてとどまらせ・・・」(創世記44:33)
その一方で、このユダの言葉は、私たちのためにご自分を差し出されたイエスの恵みを思わされることだと思った。主が私たちのためにしてくださったこと、それは本来苦しまなくてよかった主ご自身が私たちのために苦しんで、道を開いてくださったことだ。人のために自分を差し出すこと、本当にその愛によって自分自身は今あることをいつも覚えていたいと思う。主よ、あなたが共にいてくださること、私たちのためにご自分を与えてくださったことに感謝します。その感謝にあふれつつ歩む者としてください。1月20日(木)
「神がわたしを悩みの地で豊かにされた」(創世記41:52)
1月19日(水)
「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり・・・」(創世記39:2)
1月18日(火)
「そして彼の夢がどうなるか見よう」(創世記37:20)
1月17日(月)
「大いなる恐れが周囲の町々に起った」(創世記35:5)
1月16日(日)
「するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけした。」(創世記33:4)
1月15日(土)
「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません。」(創世記32:26)
1月14日(金)
「わたしは今、主をほめたたえる。」(創世記29:35)
1月13日(木)
「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。」(創世記28:16)
1月12日(水)
「『こんなことでは、わたしはどうなるでしょう』。彼女は行って主に尋ねた。」(創世記25:22)
1月11日(火)
「わたしの仕えている主は、み使いをおまえと一緒につかわして、おまえの旅にさいわいを与えられるであろう。」(創世記24:40)
1月10日(月)
「わたしはあなたを大いに祝福し・・・」(創世記22:16)
1月9日(日)
「彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、二人の娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。」(創世記19:16)
1月8日(土)
「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)
1月7日(金)
「あなたは国を出て。親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。」(創世記12:2−3)
1月6日(木)
「われわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう。」(創世記11:4)
1月5日(水)
「二月二十七日になって、地は全くかわいた。この時、神はノアに言われた。『あなたは妻と、子らと、子らの妻たちと共に箱舟を出なさい。』」(創世記8:15−16)
1月4日(火)
「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」(創世記7:16)
1月3日(月)
「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働くわれわれを慰めるもの」(創世記5:29)
1月2日(日)
「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。」(創世記3:21)
1月1日(土)
「主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。」(創世記2:21)