私たちは主にあって強い。私たちは主にあって、どんなことでもすることができる。私たちは主にあって大胆に歩んでいくことができる。主が共におられることは、主が私たちの味方であることはどれほど私たちに勇気を与えてくれることだろうか。主は今も私たちと共にいてくださる。主が私たちを導かれる。この天地を作り、今もこの世界を支えておられる主が私たちと共に歩んでくださる。今も私たちを正しい道に導いてくださる。今もすべての必要なものを与えてくださる。だから、大胆に進んでいきたいと思う。積極的に歩んでいきたいと思う。恐れないで歩んでいきたいと思う。主よ、どうか必要な力を今日もお与えください。
いよいよ新約も開始。
今年は新約は英語の聖書(NIV)で読もうと思っているが、そこでは"Do not afraid"と訳してある。ここにも恐れと戦いつつ、神の言葉に支えられて、恐れに勝ち、歩んだ一人の人が出てくる。本当に私たちは主にあって、主の御言葉によってのみ、恐れに勝つことができるのだと思う。恐れにかって歩んでいくことができるのだと思う。主よ、今日も御言葉によって支えてください。そして、御言葉によって、勝利を頂いて歩んでいくことができますように。恐れないで歩んでいくことができますように。
どきっとするような言葉だと思う。神の導きの中にあるのに、あたかも災難に遭っているかのように主に対してつぶやく、それは決して彼らの姿だけではない。それが荒野であるから、そこで好きなものが食べられないから、主が与えてくださったものに不満を言い、自分の望んでいるものを与えてくれるようにとだだをこねる。ああ、主よ、どうか私の心を探り、自分勝手な欲望に振り回されているような私をきよめてください。あなたの与えてくださるものを感謝して頂き、感謝しつつ歩む者としてください。主よ、あなたの与えてくださっているものに目をとめることができますように。
今週一家族日本に帰られた。今日も日本に帰られる方がおられる。そして、また洗礼を受けて日本に帰られようとされる方がおられる。もっと共に歩むことができれば、もっといろんなことを祈り合えて、整えられて日本にお送りすることができれば、と思う。でも、何よりも主ご自身が共におられる。主語自身が導いてくださる。道を進む時、主の臨在の雲が私たちと共に歩んでくださる。主よ、あなたが一人一人のうちに豊かに働いてくださっていることを、聖霊様が臨んでいてくださることを心から感謝します。どうかあなたの導きの中に、守りの中に一人一人をお守りください。お導きください。そして、そのことを私自身が、教会のお一人一人が知ることができますように。
人を「ささげる」という感覚は私たちには余り無い。けれども、ここにあるように特定の人々を特定の働きのためにささげるとは、このような真剣なものであるのだ。私たちが教会でそれぞれの働きのために「任命」を受けるのも、このような真剣さ、その働きのために特別に聖別するという特別なものであるべきなのだと思わされた。私自身がもっと自分の働きのために、また教会のお一人一人の一つ一つの奉仕のために祈り、備えていくべきことを思わされた。主よ、あなたの語りかけに感謝いたします。あなたが私を祈りの手を上げるために召していてくださることを感謝いたします。どうか祈り続け、あなたのご栄光を拝する者としてくださいますように。
主のみ顔。それを求めなさい、それを慕いなさい、と言われる。主が私たちをごらんになっておられる。主が私たちを顧みておられる。それが私たちの支えであり、力である。そこに私たちの祝福がある。だから、主よ、どうか私と共にあってください。あなたが共におられることを慕います。あなたご自身を慕います。私ではなく、あなたが、あなたが一人一人に語ってください。触れてください。
1章では、「戦いに出ることのできる者」が数えられていたのに対して、ここでは「会見の幕屋で働くことのできる者」が数えられている。それぞれに働きの場が与えられている。それぞれにふさわしい働きの場があるのだ。それぞれに与えられた働きの場があるのだ。私たちは自分一人ですべてのことができるわけではない。自分一人で全部を全部はできないのだ。だから、主に与えられた働きを果たさせて頂こう。自分自身に与えられた人生を生きよう。そのように求められているのだ。そのように生かされているのだ。主よ、私に与えられた使命の故に感謝します。どうか、自分に与えられたことを精一杯することができますように。そこに生きることができますように。
民は進んでいく方向を向いていたのではなかった。これから進んでいく方向を向いて一致していたのではなかった。主の臨在の象徴であった幕屋を注目していたのだった。私たちはどこを向いて歩んでいるだろうか。一つの目標を作って、そこに一致していく、それはふつうのやり方だ。でも、主は彼らに幕屋にむかって一つになるようにと命じた。私たちはただ、主に向かう、と言うそのことにおいて一致するものでありたい。そして、主に向かっている時に、主に向かうというこの一点にあって一つになる時に、主が与えてくださる一致、そして、主が与えてくださる方向性、そこに歩ませて頂きたいと思った。主よ、どうか私たちがあなたをしっかり見つめて歩むことができますように。あなたを第一とすると言う点において一致させてください。そして、あなたご自身が私たちの進むべき道を教えてください。
これはまた人間心理をよくついているなあ、と思う。10番目に通る羊が気に入っている羊だったり、価値が高い羊だったりしたら、他のものと取り替えたくなるものだもんなあ。そう姑息なことをしてはいけないんだよ、という主の戒め。私たちが与えられたものはもともとすべては主のものであり、私たちは正しく使うために、愛をもって使うために、主からそれらを任されていること、それを忘れないでいたいと思う。主よ、どうか私の心をお守りください。主が与えてくださったもの、主から任されているものを、あなたの喜ばれるように用いる者としてください。それらのことについても、あなたの導きを示してください。
今日は洗礼式。感謝。ハレルヤ!
私たちが地上では旅人にすぎないことを忘れないでいたいと思った。私たちが「落ち着く」のはただ、主と共にいる、というそのことに集中していたいと思った。いつもいつも私たちは旅人で、何かに執着しないで歩んでいきたいと思う。主が導かれるところにいつもいつも素直に従っていくものでありたい。主よ、あなたがいてくださることに心から感謝します。あなたが私の主であってくださることに感謝します。あなたご自身が私のふるさとであり、あなたに満たされることを喜ぶ毎日でありますように。主よ、私自身がこの世では旅人にすぎないことを、覚えさせてください。忘れないようにしてください。天に宝を積む者としてください。
隣人を愛する。それも仇を返したり、恨みを抱きたくなるような隣人を愛する。本当に大変なことだと思う。でも、簡単に「できない」と言わないで、「愛を与えてください」と祈り続け、求め続ける、そこに主が力を与えてくださるのだと信じる。主よ、今日も私のうちにあなたの愛を満たしてください。愛を与えてください。愛にあふれさせてください。愛する喜びを満たしてください。愛する喜びに生かしてください。ここ一番という時に、私のうちに、あなたからの愛を与えてください。
主は私のために孤独になられた。絶対の孤独を経験された。呪われたものとなって、罪の固まりとなって、父なる神に捨てられた。孤独を味わわれた。主よ、あなたに感謝します。あなたが私たちの身代わりとなってくださり、私が経験すべき痛みを、苦しみをになってくださったことに心から感謝します。そして、いつもあなたが私と共にいてくださることに感謝します。今日も、あなたが共におられることを感じることができますように。あなたのご臨在を身近な者としてください。
祭司がここで判断して宣言したことが、病気にかかった人の人生にどれほど大きな影響を与えることになったか、そのことを思う時に、祭司の働きがどれほど重いものであったかを思わされる。今、私たちみんなが祭司だと言われる。キリストが大祭司で、私たちのためにとりなしをしてくださると共に、キリストを信じる者たち、すべてが祭司だと言われる。「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい」と宣言する責任を私たち一人一人が持っている。もちろん、私自身もその責任を持っているのだ。その責任の大きさを今日は思わされた。イエスを救い主として信じ、受け入れた人々に大胆に「あなたの罪は赦されたのだ」と宣言していきたいと思う。大胆に語っていきたいと思う。主よ、どうか私を今日も用いてください。あなたのご用をさせてください。
主はきよいお方。そして、私たちもきよくなることを求めておられる。主よ、あなたのきよさを恐れます。あなたのきよさを感謝します。そのあなたが私たちと共に歩んでくださるお方であることを感謝します。どうか私の一歩一歩を守り導き、キリストに似た者とならせてください。そのように私を作り替えてください。イエス様がいつもいつも私たちの救いを見据えながら十字架に進んで行かれたように、私も人々の救いを見据えながら、いつも祈りながら進んでいく者としてくださいますように。
主が火をもって応えてくださった。主が栄光を表し、火をもって応えてくださった。新約の時代ではやはりこれは聖霊様の象徴であろう。聖霊様の圧倒的な臨在をもって応えてくださる主に祈っていきたいと思った。超常現象を強調しようとは思わない、感情的なことを強調しようとは思わない。でも、やはり聖霊様がはっきりと臨んでくださり、それが一人ひとりに見えて、クリスチャンではない人々にも「何が起っているのだろう?」という思いを与えるようなそのような聖霊様の圧倒的な働きを見せて頂きたいと思う。主を待ち望んでいきたいと思う。主よ、3500年前、火をもって人々にご自身を表されたように、私たちのうちに聖霊様の満たしをもって臨んでください。御業を見せてください。
「値積り」という言葉に心が留まった。値積られて、値積って・・・ということは怖いような気がする。でも、思いめぐらしているうちに、主が私たちを、一人子イエスを与えようと思われるほどに値積られた、ということに思い至った。主が私たちをそのように見てくださっている。そのように値積ってくださっていると言うことは驚きであり、また感謝だ。主よ、あなたに感謝します。あなたがそれほど高く、私たちのことを値積っていてくださることに、感謝します。それほど私たちのことを大切に思ってくださっていることに心から感謝します。その値積りに感謝して、私自身をあなたに用いて頂きたいと思います。あなたのために私を用いてください。あなたのご用に用いてください。そのために必要な訓練はどんどん与えてください。どんどんください。整えてお用いください。
完全なものを主にささげる。適当に見繕ってではなく、完全なものを主にささげる。主の前に最高のものを持っていこう。最善のものを持っていこう。今日は礼拝。主をあがめる礼拝。最高のものを主に持っていこう。主は真実を愛される。主は悔いた砕かれた心を喜ばれる。裸の心で礼拝を守ろう。鎧を置いて、飾りを置いて、礼拝をささげよう。最高のものを主の前に持ち出そう。主よ、あなたをほめたたえます。あなたの愛の故に感謝します。あなたに生かされていることに感謝します。今日の礼拝を祝福してください。最高のものを主の元に持って行きます。
主は雲によって人々を導かれた。主の導きに彼らは従った。これは実は楽なことなのだ、ということを思わされる。主に従うのは「むずかしい」と私たちは思う。でも、この時、雲が幕屋にとどまっている時に、そこに安心してとどまっていればよかった。そして、雲が上った時に、安心して従っていけば良かった。いずれにしろ、安心していられた。私たちも目に見える雲はないけれども、主がこれを導いておられるかどうか、祈りの中に知ることができるならば、そこには安心がある、そこには平安がある。主よ、あなたの導きに対して敏感な者としてください。そして、安心して歩んでいく者としてください。あなたの御手の中に歩んでいく者としてくださいますように。感謝しつつ。
何という贅沢、何という「むだ」。純金で贖罪所を造るなんて。でも、この贖罪所はイエスの十字架の象徴。そう、主は私たちのために一番大切なものを与えてくださったのだ。一番尊いものを与えてくださったのだ。それが主のなさったことなのだ。私たちのために「ああもったいない」ということをしてくださったのだ。主のしてくださったことはなんとすばらしいことだろうかと思う。主のしてくださったことはなんと大きなことだろうかと思う。主よ、あなたに感謝します。あなたのしてくださった大きなこと、あなたが与えてくださった尊いもの。主よ、あなたの恵みを、あなたに頂いたものの大きさを忘れない者としてください。
この時、人々は喜んで持ってきたという。心動かされ、喜んで主の元に持ってきたという。そして、人々が持ってくるものが、あふれて、余って、「もう、持ってこなくていい」というほどに与えられたという。これはすごいと思った。そして、このすごいことを主は私たちのためにもしようとしておられると、幻を与えられた。主が満たしてくださる。主が必要を与えてくださって、もう人々に、「それ以上持ってこないでください」というほどに与えられるという幻を与えられた。主よ、あなたに感謝します。あなたが私たちを豊かに満たしてくださり、必要を与えてくださる方であることに心から感謝します。御言葉通りに御業をなしてください。すべてを満たしてください。私たちの心を感謝で満たし、御言葉にあるように、すべてが満たされるという経験を与えてください。
主の前に出た時の輝き、主と交わり、主から語られた時の輝き、それを自分は知っているのだろうか?経験してきただろうか。この輝きを頂きたいと思った。第二コリント3章にあるように、これはモーセだけに与えられたものではない。私たちにも与えられている。聖霊によって与えられると約束されている。どうか、私をあなたとの交わりにもっともっと預からせてください。どうか、あなたの輝きを私のうちに表してください。私に与えてください。あなたの栄光で満たしてください。主よ、あなたの輝きに生かしてください。
罪を犯した人々、愚かな過ちを犯した人々に対して、モーセは自分の体を張って、とりなしの祈りをしていく。彼らを責める以上に、とりなしの祈りをしていく。何という愛、なんという力だろうかと思う。逃げないで、彼らの側に立ち、神の前にとりなしをしたモーセ。自分はいったい何をしているのだろうか?自分はいったい何をしてきただろうかと思わされる。イエスはまた私たちのために命を捨ててくださった。私たちのためにとりなしをしてくださっている。主よ、あなたに感謝します。どうか私をとりなし手としてください。今日も、人々のために祈る者としてください。人々を愛する力を、愛する愛を与えてください。
幕屋は主の栄光によって聖別される。幕屋は新約時代には何なんだろうか?ヨハネの1章を考えるとイエス様のことだと思う。イエス様は主の栄光によって、聖別されておられる、ということか。十字架のうちに神の栄光が輝いているということだろうか。でも、私たちは聖霊の宮である、という言葉を考えると、それはまた、私たちのことをさしているようにも思える。聖霊の宮である私たちは、主の栄光によって聖別されるのだ。イエスの十字架の輝きは私たちのうちにも分け与えられて、私たちも輝く存在になることができる。そのように招かれているんだということを感謝して歩んでいきたいと思う。主よ、私たちを輝かせてくださっていることを感謝します。その輝きを隠さないで、その輝きを枡の下に入れないで、高いところで輝かせてください。そうです、人間的な「謙遜」や、自分に対する自信のなさに縛られることなく、ただ、私たちに何事でもさせてくださる。何事でもする力を与えてくださる主を信頼して、その輝きを世に伝えていくことができますように。
祭司たる者、その胸にイスラエルの民族の名前の入った石をつけ、彼らのことを覚えて、主の前に出た。彼らの代表として、彼らのためにとりなす使命を覚えて主の前に出た。人々の名をその胸に主の前に出た。私も同じ使命を頂いていると思う。主からその使命を頂いていると思う。とりなし手として、人々のために祈る者として、戦いの中にある人々のために手を上げ続ける存在として、招かれて、生かされていると思う。この場に生かされていると思う。主よ、どうか私の日々の歩みを守って下さい。自分のことだけで精一杯のような者です。どうか、人々のために祈る使命を果たさせてください。手を上げ続けることができますように。モーセをアロンとホルが支えたように、祈りの支えても与えてください。祈ります。
心から喜んでする者。ここから喜んで捧げる者。自分はいったいどうだろうかと思った。主に救われた喜び、主に愛されている喜び、それにあふれて、心から喜んで主に捧げているだろうか?主のしてくださったことに心を集中したいと思う。計算に集中するのではなく、主がしてくださった恵み、主が与えてくださったことに集中して歩んでいきたいと思う。主よ、あなたの恵みに感謝します。あなたのしてくださったことに思いを馳せます。そこから喜びがわき上がり、捧げる喜びにあふれさせられますように。計算よりも、感謝によって捧げる者としてください。
主は私たちの前に、私たちが進んでいく所の前に、私たちの先に、御使いを送られる。そして、私たちの行く道を守ってくださる。私たちが道を切り開くのではない。私たちが開拓者なのではない。主が開いてくださっているところを歩ませて頂くのだ。御使いが先立って行くところに従っていくのだ、ついて行くのだ。主の大きさを信じよう、主の御力を信じよう。安心して従っていこう。安心してついて行こう。主がわたしを導かれるのだから。この世界を造られた方、宇宙を造られた方が先立ってくださるのだから。主よ、あなたの導きに感謝します。あなたに導かれて歩む歩みの故に感謝します。あなたが先に行ってくださいますから大丈夫です。信頼して従っていきます。その信仰をお守りください。今だけではなく、実際に先に進むのに勇気がいるような場面があっても、主が支えてくださいますように。
今、日本でもアメリカでも刑法はこんなに厳しくはないだろうけれども、本来はこうなんだろうと思った。殺人、誘拐、本当に心を痛める事件がたくさん起っている。そして、被害にあった人々、またその家族の傷を考えると、命をもって償うくらいの大きな罪を犯しているのだと思う。ここまで、考えて、またイエスの言葉を思い出した。怒る者、ののしる者は、その殺人の罪を犯したのと同じように罪深いと。心の中で女性のことをもてあそぶ者は、実際にその罪を犯したのと同じように罪深いと。イエスは行動として犯す罪が、たとえ思いの中だけでとどまっていたとしても、同じように罪深いものなのだと、言われた。だとするならば、自分もその罪深い者たちの一人なのだ。そのことを決して忘れないようにしたいと思った。主よ、私自身がただ、あなたの哀れみによって、あなたの守りによって、多くの人々の祈りによって支えられている存在であることを忘れることがないようにお守りください。イエスの十字架によって罪赦されている幸い、その大きさをもっともっとわからせてください。今日の一日も私の喜びをお守りください。私を喜びで満たしてください。
本来、神様を見るということはこういうことなのだ。本来、神様に近づくということはこういうことなのだ。しかし、今、私たちは、神の前に出ることが赦されている。私たちは主の前に出て祈ることが赦されているし、神様が共にいてくださることを本当に喜んで歩んでいくことができる。特別なことなのだ。イエスが十字架にかかってくださったが故に可能になった特別なことなのだ。本当は特別なことなのに、いつの間にか当たり前のようになってしまっている。甘えた心を抱くようになってきてしまっている。この本当は神様の前に出ることはとんでもないことなのだということを忘れないで歩んでいきたいと思った。忘れないで生きていきたいと思った。主よ、あなたと共に歩める幸いを感謝します。どうか、そのためにあなたがしてくださったこと、注いでくださった愛を忘れることがありませんように。どうかあなたに頂いた愛に感謝して歩んでいく者としてくださいますように。
祈りの手を上げる時に、主の御業がなされる。私たちは神様の思いが私たちの願いを超えていることを知っているが故に、私たちが祈っても祈らなくても、神様は御心を行われるのだ、のような考え方をしてしまっていないだろうか?でも、聖書には、何回も、祈りに答えて主が御業をなされる様子が記されている。頭でっかちの信仰になってしまっていないだろうか?祈りの手を上げよう。祈りが必要な方々、戦いのさなかにある方々のために、祈りの手を上げよう。祈りの手を上げ続けよう。そして、主による勝利を見せて頂こう。主よ、お語りくださりありがとうございます。あなたが私を祈りに招いてくださったことに感謝いたします。どうか、祈る祈りに答えてくださって、昔イスラエルに勝利を与えられたあなたが、今、霊的な戦いのまっただ中におられるお一人一人のために勝利をお与えください。祈ります。祈り続けます。