いつも喜んでいなさい。

12月11日(日)

今日はJOYJOYクリスマス。多くの子供達が来てくれることを祈りながら・・・。

「わたしがイスラエルをいやすとき」(ホセア書7:1)

勝手なことをしていたイスラエルの人々だけれども、そんな彼らでも、主は癒してくださる時が来る。その様な彼らをも造りかえてくださる時が来るのだ。主の憐れみをおぼえる。わたしたちが勝手に、この人は変わらない、と決めてしまわないようにしよう。主の憐れみによって造りかえてくださることを信頼していこう。造りかえてくださる主を待ち望んでいこう。主よ、この国を癒し、日本を癒し、この地域の日系コミュニティーを癒してください。

12月10日(土)

「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア書6:6)

形だけの犠牲よりも、主は主に聞き従うことを喜んでくださる。献金や奉仕よりも、ただ、主に従って歩むことを喜んでくださる。人にはどう見えるかわからない。でも、誠実に主に従っていくこと、そのことをいつもいつも第一としていきたい。ああ、なんて弱い自分だろうかと思う。神様よりも人を恐れ、また自分の弱さを隠そうとする。でも、このように主がいつもいつも原点に引き戻してくださるから、感謝だ。主よ、どうかわたしを守ってくださり、あなたのすばらしさを表させてください。あなたの愛を生きる者としてください。

「小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。」(ヨハネの黙示録8:1)

これはほんとうに恐ろしい情景だ。罪の裁きがなされていく時に、多くの「あって当たり前」のものが滅ぼされていく、水、天体、海、木や草。それらのものがどんどん破壊されていく。その時にあったしばしの静かな時。それはどんなものだったのだろうか。そのしばしの静かな時。それが何とありがたいことだろうかと想像出来る。わたしたちの日常もそうだ。多くの戦いがある日常。でも、その中でのしばしの静かな時。それをほんとうに大切にしていきたいと思う。主よ、どうかわたしの歩みを守り、あなたの前に静まる時を守ってください。

12月9日(金)

今日は雪のため、子供達はみんな学校休み。大喜び。こちらは雪かきという仕事が増えた。

「あなたは長くわたしの所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。」(ホセア書3:3)

もちろん、自分はこの神様以外の方を拝むことはないだろう。でも、神様以外のものに心が奪われてしまう可能性はいつもあることを忘れないでいたいと思う。いやいつもいつも神様のことで心がいっぱいになるような歩みをさせて頂きたいと思う。他のことに心が奪われて、神様が見えなくなってしまうことがないようにと願う。主よ、どうか助けて下さい。私を守って下さい。他のことに心が奪われてしまうことがないように。あなたをいつもいつも第一とさせて下さい。

「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」(ヨハネの黙示録7:14)

最近、苦しみときよさとが深い関係にあることを教えられている。ここでも、苦しみを通って、その中で衣がイエス様の血で洗われて、白くされたとある。わたしたちの心がきよくされるのには、神様は苦しみを用いられる。苦しみの中を通る時に、主はわたしたちをきよい者にしようとされるのだ。だったら、苦しみから逃げてはいけないと思う。苦しみを引き受けなければいけないと思う。主よ、私が苦しみから逃げようとする時に、私を守ってください。そこから逃げないで、きよい者とされますように。主よ、私をきよくしてください。

12月8日(木)

「また賢い者のうちのある者は、終りの時まで、自分を練り、清め、白くするために倒れるでしょう。」(ダニエル書11:35)

清くなりたいと思う。もっともっときよい者とさせて頂きたいと思う。もっともっと自分のことよりも人のことを思い、人々のことを愛する者とならせて頂きたいと思う。どうか主よ、私をきよめてください。そのために苦しみがあるかもしれません。どうしてこんなこと・・・と思うことがあるかもしれません。それでも、私は清くされたいのです。主よ、どうか私をきよめてください。あなたのきよさにあずからせてください。

「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。」(ヨハネの黙示録6:16)

主の怒り。本来ならば、わたしたちがこの主の怒りを受けてもおかしくないのだ。文句は言えないのだ。なのに、主はわたしたちを憐れんでくださって、イエスがこの怒りを受けて下さって、わたしたちは怒りから逃げる必要はないのだ。ほんとうにすごいことだと思う。すごいめぐみだと思う。感謝。地震やハリケーンも怖いけれども、主の怒りをまともに受けたらすさまじいものなのだろう。主よ、あなたの憐れみに感謝します。まともにあなたの怒りを受けたら、ひとたまりもない者です。どうかお赦しください。あなたの赦しに感謝します。

12月7日(水)

「あなたが祈を始めたとき、み言葉が出たので、それをあなたに告げるためにきたのです。」(ダニエル書9:23)

祈りをはじめた時に、御言葉が出た、という。ということはダニエルが祈らなかったら、ここには御言葉が語られなかったのだろうか。もちろん、聖書のあちらこちらに、人々の祈りに答えて、ではなく、一方的なめぐみとして神様が御言葉を語ってくださっている場面がたくさんある。でも、ここでは、「祈りをはじめた時に御言葉が出た」とある。だから、祈ることの大切さを思わされた。祈ることによって主が御言葉を語ってくださる、その様な場面があるのだ。主よ、祈ります。御言葉を与えてください。祈らせてください。祈ることを思い出させてください。常に祈ることができますように、どんな時にも祈ることができますように。

「巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。」(ヨハネの黙示録5:8)

ここにも祈りが出てくる。わたしたちの祈りが神様への香りなのだ。香のように神様の許にのぼっていくのだ。これもまた、わたしたちが祈らないならば、神様の許にのぼっていかないのだと思った。主よ、あなたがわたしたちの祈りを喜んでくださることに心から感謝します。どうか、もっともっと祈らせてください。

12月6日(火)

今朝の雪も予報よりもずっと少なかったですね。学校が休みになるかも、始まるのが遅くなるかも、と思っていた子供達はがっかりでしたが、ほっとしました。でも、今晩からぐっと寒くなるようです。寒さと乾燥に注意。

「そこで王は大いに喜び、ダニエルを穴の中から出せと命じたので、ダニエルは穴の中から出されたが、その身になんの害をも受けていなかった。これは彼が自分の神を頼みとしていたからである。」(ダニエル書6:23)

神を信頼して歩むとは何というすばらしい歩みだろうか?神を信頼して歩む時に主はどれほどすばらしいことをしてくださるのだろうか。主が守ってくださる。自分で自分を守ろうとすると守られないのだろうか。そうだとするとほんとうにこれはものすごいメッセージだ。主の力によって守られていくことを求めていくこと、主の力によって、支えられていくことを求めていくことがどれほどすごいことなのか、どれほど力強いことなのか、思わされた。主よ、どうかわたしの歩みをお守り下さい。私は本気であなたがすべてを守ってくださることを信頼します。あなただけを頼りとして、自分の力で自分を守ろうとはしません。あなたがそれをしてくださることを信じて歩みます。教会もそうです。あなたご自身が守ってくださることを信頼して、歩んでいきます。主よ、どうかお守り下さい。

「御旨によって、万物は存在し・・・」(ヨハネの黙示録4:11)

すべてのものは主のみ思いの中で存在する。ならば、私がここにいることは神様がその様に願ってくださっていることなのだ。私がここで歩んでいることは、ここに存在していることは、私の存在自体が、神様の願っておられることなのだ。ああ、それはほんとうに大きなことだと思う。大きな幸いだと思う。主が願っておられるからここにいる。それはやはり使命があることなのだ。私がここにあることは主が使命を与えてくださっていることなのだ。主よ、心から感謝します。あなたが私をここにおいてくださっていること、今日もこの地上でいのちを与えてくださっていること。もしも、私のこの世での歩みが今日で終わるとしても、ここに今日を与えてくださったことに感謝します。スティーブ・ジョブスが言った、「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」この問いかけ、今日、確信を持って、YESと言えることを感謝します。

12月5日(月)

すっかり冬。昨日も雪。そして、今夜もまた雪の予報。冬も主が造られたものなんだよね。でも、きついな。もう春が待ち遠しいのも事実。でも、そんなこと言っていないで、「冬を楽しむ」ことを考えよう!今日からダニエル。

「それからダニエルは家に帰り、同僚のハナニヤ、ミシャエルおよびアザリヤにこの事を告げ知らせ、共にこの秘密について天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚とが、他のバビロンの知者と共に滅ぼされることのないように求めた。」(ダニエル書2:18)

主が秘密を明かされる。主が特別な秘密を明かされる。わたしたちがお互いに心の内を明かして、秘密を打ち明けるのは、いつもいつも特別な信頼関係の中にいる人だと思う。主がその心の内を明かして、秘密を打ち明けてくださるとするならば、それはどんなにすばらしい関係だろうかと思う。どんなに親しい関係だろうかと思う。その様な主との親しさを経験させて頂きたい。その様な親しさの中に歩みたいと思う。主よ、あなたが私にその思いを開いて、教えてください。あなたの心の中にあることを私にも分かち合ってください。その様な関係に私を導いてください。

「わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。」(ヨハネの黙示録3:2)

今日のダニエル書の言葉から、自分の主との親しさが、どれくらいか、思い知らされているところに、この御言葉が心に語られた。ああ、主よ、悔い改めます。あなたとの間に、何も隔てになるものがないように、何も邪魔するものがないように私を守ってください。主よ、私を赦し、あなたとの深い深い交わりに私を導いてください。あなたとの交わりに生かしてください。もっともっと祈ることを教えてください。もっともっと教会の一人一人を愛することを教えてください。与えることを教えてください。

12月4日(日)

「この川の流れる所では、すべてのものが生きている。」(エゼキエル書47:9)

人々が生き生きと奉仕するために必要なのは、組織ではなくて、川の水が流れ込むことだ。組織をどうにかしたところで、何かが起るわけではないだろう。聖霊様が働いてくださることだ。聖霊様があふれてくださることだ。聖霊様をお迎えすることだ。その時に、一人一人が生かされて、一人一人が満たされて、主の栄光を見ていくことができるのだ。主よ、あなたを待ち望みます。聖霊様を与えてください。聖霊を満たしてください。私をこのいのちの水にあふれさせてください。そして、教会に連なる一人一人がそのあふれる泉からいのちをいただいて、あなたに仕えていくことができますように。

12月3日(土)

「彼らには嗣業はない。わたしがその嗣業である。」(エゼキエル書44:28)

主が私の財産であり、主ご自身が私が相続するものである。それはほんとうにすごいことだと思う。すばらしいことだと思う。何か、モノに執着したり、期待したり、あてにしたりする自分がなんかほんとうに愚かに感じた。主がおられるのだから、主が私の受け継ぐべきものだから、心配することなんかないのではないだろうか?安心せよ。私の魂よ。主がおられるのだから。主がすべての必要を満たしてくださるのだから・・・。主よ、あなたを信頼します。あなたを当てにします。どうか、私の歩みを守り、すべての必要を満たしてください。どうか一切の必要をあなたが与えてくださいますように。あなたほど、当てになる方はおられないことを私に経験させてください。

「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(ヨハネの黙示録2:4)

初めの愛。初めに主に対して持っていた愛、ということだろう。自分はどうだろうか?主のしてくださったことを忘れないでいたい。主が私をどこまで愛してくださっているかを、忘れないで歩んでいきたいと思う。イエスが私のためにいのちを与えてくださったのだから、そこにいつもいつも立ち返っていきたい。主よ、私は最初の愛を今も持っているでしょうか?私はあなたに対して熱い思いを持っているでしょうか?どうか、あなたに対する熱い思いに燃やしてください。燃える思いであなたに仕えて行けますように。

12月2日(金)

「祭司たちが、聖所にはいった時は、そこから外庭に出てはならない。彼らは勤めを行う衣服を、その所に置かなければならない。これは聖だからである。彼らは民衆に属する場所に近づく前に、他の衣服を着けなければならない。」(エゼキエル書42:14)

聖なること、はほんとうに厳しいことなのだと思わされた。「聖」とは他のものとははっきりと区別された、取り分けられた、ということだった。他のことには使わない、特別なものであった。その「聖」ということがはっきりされなくて、いろんなものが、だんだん、何でもいいだろう、と思われていくことに危惧を感じる。ただ、主の憐れみによって、ただ、主のめぐみによって、迎えられ、受け入れられているのに、それが当たり前のような気持ちになっていないだろうか?きよい者となりたいと思った。ただ、主のためだけに生かされる、ただ主のためだけに歩む。その様な歩みをさせて頂きたい。主よ、どうかお助け下さい。私の生涯がただ、主の栄光のためだけにあるような、歩みをさせて下さい。主の栄光のために歩む者としてください。あなたのすばらしさが私の中にあふれますように。

「目は燃える炎のようであった。」(ヨハネの黙示録1:14)

主の目は燃える炎のよう。巨人の星のまんがで、目が燃える炎のようだった。それを思い出してしまった。熱い熱い思いを主は持っておられて、私に対しても、その燃える眼差しを向けておられる。私が気合いが抜けている時にも、燃える眼差しを向けておられる。私がふと主から心が離れる時にも、主は熱い眼差しを向けておられる。主よ、あなたの熱い思いをありがとうございます。その眼差しが私にも向けられていることを教えてくださってありがとうございます。どうか、私自身がその眼差しに励まされて、熱い思いを持って歩んでいく者とならせてください。

12月1日(木)

12月だ〜!今年が終わってしまう・・・

「見よ、わたしはイスラエルの人々を、その行った国々から取り出し、四方から彼らを集めて、その地にみちびき、その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、ひとりの王が彼ら全体の王となり、彼らは重ねて二つの国民とならず、再び二つの国に分れない。」(エゼキエル書37:22)

主は二つのものを一つに合わさられる方。和解を与えられる方だ。四方から人々を招き、集められる方。教会も主が人々を招いて一つにして下さった。人々を集めて下さった。そして、そこで主はわたしたちを一つにして下さる。それを単なる絵空事ではなく、建前でもなく、人々の思いを押さえつけて、一致しているように見せるのでもなく、ほんとうに一つになって歩んでいきたい。主よ、どうかわたしを助けて下さい。教会を助けて下さい。あなたがわたしたちを一つにして下さる、そのことを信じます。絵空事ではなく、建前でもなく、そのことを経験させて下さい。聖霊様による一致を与えて下さい。人の力ではなく、神の力での一致を与えて下さい。

「愛する者たちよ。わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。」(ユダの手紙3)

信仰のために戦う。信仰が守られるように、救いが確かなものとなるように、「戦う」必要があるのだという。わたしたちは確かに、だんだん身勝手に怠けるようになっているのだと思う。罪故なのだろう。わたしたちの罪のゆえに、わたしたちは身勝手に歩むような傾向性を持ってしまっているのだろう。そんな中で「戦う」必要があるのだ。主よ、どうかわたしを助けて下さい。私は弱い存在です。あなたの使命にしっかり立っていくことができるように、主が守り導いて下さい。

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