主の旗にむかって手を上げる。

4月26日(火)

「多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである。」(サムエル記上14:6)

4月26日(火)

「多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである。」(サムエル記上14:6)

そんなこと言ったって、やはり協力者がいる方がいろんなことができる、安心してできる、そう思っている自分がいる。そう感じている自分がいる。最近、本当にそのような思いで歩んでいる。協力者が与えられていることは本当にすばらしいことだと思う。でも、その陰で、神様に本気で信頼すると言うことを忘れていないだろうか。本当に神様に祈って、神様にだけ頼って、ああ、主が導いてくださった、主が与えてくださった、主が応えてくださった、勝利を与えてくださった、そのように思い、そのように感じることを忘れてしまっていないだろうか?どんなにうまくいったように見える働きも、聖霊様が豊かに働いてくださらなければ、それはむなしいのだ。本当に人々に命を与えるような働きにはならない。協力者も主が与えてくださっているのだ、本当に謙虚に主に祈り、主に求め、主から力をいただいて、主の奇跡を見せて頂こう。勝利を与えて頂こう。

「」(ルカによる福音書5:8)

4月25日(月)

「わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないであろう。」(サムエル記上12:23)

どきっとした。祈ることを止めて罪を犯すことはしない。自分はどうだろうかと思わされた。いつの間にか、このページを更新することで祈っている様なつもりになって、ここで御言葉を味わっている様なつもりになって、本当に主の前に出ていただろうか、人々の一人一人の名前を挙げてとりなしていただろうかと、悔い改めさせられた。主よ、祈ります。あなたの前に立ちます。あなたの前にひざまずきます。あなたの癒しを与えてください。一人一人の名前を挙げてとりなしていきます。わたしを、祈らない、という罪から守ってください。

「これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です』」(ルカによる福音書5:8)

イエスの前にひれ伏したペテロ。自分自身の姿を見せつけられたのだ。主の前にひれ伏さないではいられない、そのような思いに導かれたのだった。主の前にひれ伏す。自分自身の罪を、自分自身の弱さを、自分自身の愚かさを見せつけられてひれ伏さないではいられない。ひれ伏さないでもいいというのは、そうしないで済むというのは、やはり、どこかで自分のことを信じているんだろう。自分がいかほどかの人間であると思いこんでいるのだろう。主よ、あなたの前にわたし自身、膝を折って、ひざまずきます。ひれ伏します。あなたがわたしを導いてください。あなたがわたしの「主」です。

4月24日(日)

「あすの今ごろ、あなたの所に、ベニヤミンの地から、ひとりの人をつかわすであろう。」(サムエル記上9:16)

主はサウルをサムエルの元に導いておられた。ロバがいなくなったこと、僕が、この町には予言者がいます、と言ったこと。本当に一つ一つの出来事を通して、主はサウルをサムエルところに導いてこられた。私たちの人生にはいかにそのように主の導きによって導かれてきたことがたくさんあるだろうか、と思う。いや、すべてが主の導きの中にあることを思わされる。それを知ることができたら、その導きの御手を知ることができたら、それは何という幸いだろうかと思う。主よ、あなたの導きの御手を感謝します。あなたが私をここに導いてくださったことに心から感謝します。どうか、あなたの御手に対して敏感であることができますように。あなたの導きの御手に敏感であることができますように。よろしくお願いします。

4月23日(土)

「今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください。」(サムエル記上8:5)

他の国々のように・・・。神の選ばれた国、神に使命を与えられた人々であるのに、その使命を忘れ、周りの人々の様にしたい、という人々。周りの国々のように王様がほしい、そうしたら勝てる、という人々。私たちは今何を見ているのだろうかと思う。私たちは今何を求めているだろうかと・・・。本当に主の導かれる道を見ているのだろうか。それとも時代の波にのまれ、時代のようにしたいと思っているのだろうか。周りの人々のようにしたらいい、と思っていないだろうか。主は私たちに特別な使命を与えてくださっている。私たちに使命を与えてくださって、人々に影響を与えるようにという使命を与えてくださっている。だったら、ただ、主を求めて主から答えをいただけばいいのではないか。主から答えをいただくのがいいのではないだろうか。主よ、私はあなたの導きを求めます。あなたの方法を示してください。あなたの願われる方向に私たちを導いてください。

「夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれた」(ルカによる福音書4:42)

イエスは寂しいところに出て行かれた。朝早く、夜が明けると共に出て行かれた。静かなところに。私の日常はどうだろうか。明け方に主の前に静まって、一日を始めよう。毎日を主の前に静まって始めよう。それが私の力の源だから。そこに命の泉があるのだから。主よ、あなたの前に静まる時に、主よ、あなたが語ってください。私に語ってくださって、毎日毎日が喜びにあふれた日々となりますように。主が私に必要なものを、必要な恵みを、必要な御言葉を与えてくださいますように。力をいただいて出ていくことができますように。

4月22日(金)

「その次の朝また早く起きて見ると、ダゴンはまた、主の箱の前に、うつむきに地に倒れていた。そしてダゴンの頭と両手とは切れて離れ、しきいの上にあり、ダゴンはただ胴体だけとなっていた。」(サムエル記上5:4)

痛快な話だ。偶像が主の前に砕かれていたとは。でも、これを人ごととして見ないで、自分の問題として見るとどうだろうか。この偶像が私の心の中の偶像を指しているとするとどうだろうか。主よ、どうか私の心の中を探り、あなたより大切にしているものがあるならば、それを示して下さい。そして、それを私の心の中でこのダゴンのように打ち砕いて下さい。私を砕き、私のうちにある偶像を砕き、あなたにだけ、仕えていく者としてください。「生きることはキリスト」と言うことのできる、胸を張って、そのように言うことのできる、あなたを第一として歩む生き方に私を導いてください。

「神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。」(ルカによる福音書3:2)

神の言葉がヨハネに与えられた。神の言葉が語られる時に、与えられる時に、臨む時に、私たちを動かす。私たちを生かす。大切なのは主の言葉が語られるかどうかだ。主が語ってくださるかどうかだ。主よ、あなたが語ってください。私に語り、私を動かしてください。ヨハネが神の言葉が与えられた時に立ち上がったように、私たちも主に語られて立ち上がることができる。立ち上がらせて頂ける。主よ、どうか私を導いてください。どうか私を立ち上がらせてください。御言葉を今日も与えてください。

4月21日(木)

「そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。」(サムエル記上3:1)

今はどうだろうかと思った。今は聖書が与えられているけれども、そういう意味では恵まれた時代だと思うけれども、神の言葉を聞くことが単なる知的な作業に成り下がっていないだろうか?主は語ってくださっているのに、私たちの耳は開かれているだろうか?私たちは聞く耳を持っているだろうか。神の言葉を聞こうという意志や時間を持っているだろうか?主よ、どうか御言葉をお語り下さい。あなたのみ声に耳を傾ける時をお与え下さい。あなたが語ってください。あなたのみ声を聞かせてください。主よ、どうか御言葉によって私たちに語ってください。御言葉によって導いてください。

「神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。」(ルカによる福音書2:20)

羊飼い達は、イエスに会いに行った帰りは、心が躍っていた。イエスにお会いした後には、喜びがあふれていた。賛美があふれていた。そのような礼拝を守ることができたら何という幸いだろうかと思った。そのように私自身も主にお会いして、その喜びの中に生きる者とされたいと思った。私自身にとってあの20年前の主に出会う経験は決定的だったし、その経験で生きているんだと思う。けれども、それだけではなく、日々の歩みの中でも主にお会いして、主から語られて、主から教えられて、歩んでいきたいと思う。喜びにあふれて歩んでいきたいと思う。主よ、どうか私のうちにあふれ、あなたの御業をして下さい。あなたの命を満たして下さい。

4月20日(水)

「この子は一生のあいだ主にささげたものです。」(サムエル記上1:28)

これが本当なんだと思う。子供達は、みな主にささげたもの。主のものなのだ。もともと主のものなのだ。主よ、私の子供達を用いてください。彼らはあなたのものです。あなたが導いてください。あなたが育ててください。私のものであるかのような錯覚から私を守ってください。子供達を私の思い通りにしようとする誘惑から私を守り、あなたが導いてくださる道を教えてください。あなたが導いてくださる方向を示してください。主よ、あなたの赦しと支えゆえに子供達を育てられる幸いを心から感謝します。

「神には、なんでもできないことはありません。」(ルカによる福音書1:37)

本気でこれを信じるようにと問われたような気がした。主は私にこれを本気で信じるようにと導かれていると思わされた。神には本当に何でもできないことはないと。主にとってはすべては可能であると。主はおできになる。可能だ。主よ、あなたを信じます。あなたには何でもできないことはないと。簡単にあきらめる、最初から信じようとしない私を赦してください。そして、信仰に堅く立たせてください。あなたを信頼する者としてください。あなたを信頼して歩ませてください。神には何でもできないことはない。あなたの御言葉に心から感謝します。

4月19日(火)

「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます。」(ルツ記4:6)

この言葉にどきっとした。でも、これが普通なのだと思った。自分のものを犠牲にしてまで、あがなうことはないのだ。でも、主は私たちのためにご自分を与えてくださった。ご自分の命を与えてくださった。主がご自分の命を与えてくださったから、私たちは主の前に出ることができるのだ。ハレルヤ、主よ、あなたに感謝します。あなたはご自分を犠牲にしてまで私たちを救おうとしてくださいました。私たちを救ってくださいました。感謝します。あなたが私たちを救ってくださったことを心から感謝します。あなたの愛を心から感謝します。

「そして、彼らは『だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか』と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。」(マルコによる福音書16:3−4)

石を転がすのは私ではなくて主なのだと、思わされた。私たちは自分で一生懸命石を動かそうとしている。そして、その石の大きさに、「どうしたらいいのだろう」と思っている。多くの場合、「もうどうにもならないよ」とあきらめている。でも、主はご自身で石を動かされるお方だ。ご自身で石を動かしてくださるのだ。今日はものすごい励ましをいただいた。主は石を動かしてくださる。主よ、あなたの御業を信じます。私たちが自分で石を動かさなければいけないと思っています。でも、主よ、あなたはあなたご自身で石を動かしてくださる、生ける主です。よみがえりの主です。感謝します。あなたを信頼していきます。

4月18日(月)

「どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように。」(ルツ記2:12)

ルツは主の下に身を寄せた。イスラエルの人々の生き方に共感した部分もあっただろう。ナオミを心配したり、ナオミをしたっていた部分もあっただろう。でも、それによって、彼女は主の下に身を寄せた。人を通してという出発点はみんなそうだと思う。でも、そこで主に出会い、主の翼の下に身を寄せることができるのは何という幸いだろうかと思う。主よ、私もあなたの下に身を寄せます。あなたが私の身を寄せる方です。あなたを信頼します。あなたと共に歩ませてください。

「そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(マルコによる福音書15:38)

神殿の幕は上から下に向かって裂けた。主の方から裂けたのだ。私たちの方からではない。私たちの方からではなく、主の方から神と人との間に必要な幕が裂かれたのだ。主はそのように熱く、私たちに臨んでくださっている。私たちに近づいてくださっている。主は情熱を持って私たちのところに来てくださっている。感謝。本当に主が私たちのところに来てくださっていることに感謝。主よ、あなたの愛の中に、歩む者とならせてください。あなたと共に歩む者とならせてください。あなたの情熱を無視したり、軽んじたりすることがありませんように。

4月17日(日)

「そしてイスラエルの人々は上って行って主の前に夕暮まで泣き、主に尋ねた、」(士師記20:23)

彼らは神の前に泣いた。願ったように道が開かれなかった時に、願ったのと正反対に物事が進んでいった時に、神の前に泣いた。主の前に泣く。自分はどうだろうかと思わされた。道が閉ざされた時に、主の前に行っているだろうか?自分で解決して、何とかなるようにと画策して、神の前に出ているだろうか?主よ、私もあなたの前に出ます。毎日毎日の歩みの中で、あなたの前に出ます。どうかあなたが道を開き、あなたの恵みの中に生かしてください。

4月16日(土)

「そのころイスラエルには王がなかったので、人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った。」(士師記17:6)

ここから士師記の最後までは、本当になんだか訳がわからない。神様についての言及はあるのだが、誰一人として本気で信仰を持っている人がいるかどうかわからない。本当にひどい話が続いていく。その中で、この言葉がなるほどと思わせられる。みんな、自分の基準でよかれと思うことをしていた。自分の基準だけで生きていた。神の基準を語る人がいなかった。主よ、私に謙虚な思いを与えてください。自分だけの基準、それで生きていくことがありませんように、主の基準を求めて歩んでいくことができるように導いてください。主の基準を生きて行かせてくださいますように。

「そして思いかえして泣きつづけた。」(マルコによる福音書14:72)

NIVで he broke down and wept と訳されていたので、それが目に留った。口語訳には訳し出されていない。「くずおれて」とでも訳すべきところなのだろうか。打ちのめされて、泣いた。そのペテロの心を思わされた。神の前に打ちのめされて、自分の弱さに打ちのめされて泣き続ける。主の前にそのように泣いたペテロはやがて立ち上がっていく。私も弱い人間だ。弱さを思い知らされてきた者だ。でも、いつの間にか、それが当たり前になってしまっていないだろうか。弱くて当たり前、だから、泣くこともなくなってしまった、そんなのではないだろうか。主の前に本当に打ちのめされて泣く、そのような純粋さをいつまでも持ち続けていたいと思った。主よ、あなたのきよさをもっともっと教えてください。あなたの清さの前に泣く者でありますように。

4月15日(金)

「彼は主が自分を去られたことを知らなかった。」(士師記16:20)

彼の悲劇は、主が去られたのに、それを知らなかったことだ。でも、人のことを言えるだろうか?私という人間はそんなことを言える者だろうか?本当に敏感な者、主のなさることに敏感な者、霊的に敏感な者でありたいと思った。そのような歩みをさせて頂きたいと思った。主が共におられることに敏感で、主を悲しませることがあるならば、そのことにも敏感で、主の愛と力に敏感で、主のすばらしさを思いっきり教えて頂きたいと思わされた。主よ、あなたが共にいてくださることに感謝します。どうかあなたの恵みの中に生かしてください。あなたと共に歩ませてください。あなたが悲しまれる時に、私も悲しみを覚えることのできる者としてください。あなたの思いを私の思いにならせてください。

「語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。」(マルコによる福音書13:11)

語る者は聖霊である。聖霊様が語ってくださる。聖霊様が私たちのうちに働き、私を用いてくださる。聖霊様が語ってくださる。何といううれしいことだろうか?自分はそのために用いて頂きたい。聖霊様の道具とならせて頂きたい。聖霊様、私を用いてください。私を通して、あなたが語ってください。私のうちにある、あなたの邪魔をするものをすべて除き去り、あなたの御業を拝することができますように。あなたの御業を見ることができますように。あなたの栄光を現してください。あなたの御言葉を聞かせてください。あなたの救いの御業を見せてください。楽しみです!

4月14日(木)

「父母はこの事が主から出たものであることを知らなかった。」(士師記14:4)

主がなしてくださること、主から始まること、それに対して、自分がどれほど敏感になっているか。いや、いろいろな出来事、ある時には「困ったなあ」という出来事の中にも主の御手を認めることができるか、それが問われているように思った。私は主の御手に、主のなさろうとしていることに、本気で、従順に歩んでいるだろうか?歩んでいきたいと思う。主は私の人生の導き手で、ここまでも一つ一つを導いてくださってきた。本当に主はそのようにしてくださってきたのだ。それなのに、時々、いろいろな出来事の中で、主の御手をみないで、信頼しないで、途方に暮れてしまうことがあるのではないだろうか?主よ、どうか私を導いてください。いろいろな出来事の中で私の目を開き、あなたの御業を見せてください。

「神のものは神に返しなさい」(マルコによる福音書12:17)

神のもの、私に与えられている「かみのもの」それは、時間であり、お金であり、才能であり、自分自身であり・・・。それらを主に返すように、主のために用いるように言われている。今日、やはり自分が一番に思わされるのは「時間」。時間を聖別して、主のために用いて、主の喜ばれるように用いて、主のみ思いに沿うように用いて、主の御力を一杯見せて頂きたいと思う。主ととも歩む喜び、主と共に出て行く喜びにあふれさせて頂きたいと思う。主よ、私の時をあなたにささげます。これも、本当はあなたのものです。あなたのものです。どうかあなたの喜ばれるように用いさせてください。

4月13日(水)

「エフタは彼女を見ると、衣を裂いて言った」(士師記11:35)

エフタは娘が出てきた時に、その衣を裂いて悲しんだ。でも、もしも、これが娘ではなかったら、なんと言うこともないことなのだろうか。召使いの女の子だったら、エフタは何とも思わなかったのだろうか。自分の娘、それも一人娘が迎えに出てきたことに悲しんだとするならば、そうではない者が出てきた時には何とも思わなかったのだろうか。エフタの誓いの言葉の愚かさを思わされる。自分の命をささげればよかったのに・・・。本当に愚かだと思った。主よ、私の行いを守ってください。私が主に仕えている、主にささげている、主を第一としている、といいながら、自分は痛みを覚えないで、家族や教会の人々に痛みを負わせるようなことがないように、私の行いを、あなたへの誠実さを守ってください。人を大切にする者としてください。自分のために人を利用するようなことがないように、私を守ってください。

「また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。」(マルコによる福音書11:25)

祈りの聞かれる秘訣。それは人を赦すこと。NIVではこれは"if you hold anything against someone"となっている。「恨みごと」と言うと特別な感じがするが、「腹に一物持っている」というと、よくある話なのではないだろうか。その一物ゆえに、主との間に溝ができてしまうならば、それは本当にもったいないことではないだろうか。主は祈りを聞こうとされている。主は私たちの祈りを聞いてくださる。ならば、本当に裸になって、主の前に出て、解決をいただこうではないか。人を赦そうではないか。そして、祈りが聞かれるんだ、という経験をたくさんしようではないか。主よ、私の心を探ってください。赦せない、腹に一物持っている人がいるならば、そこから私を解放してください。

4月12日(火)

「それで主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった。」(士師記10:16)

神に背いてばかりいたイスラエルの人々。けれども、彼らが悔い改めた時には、主は彼らの苦しみを見るのに忍びなくなったという。主は私たちの苦しみをご覧になっておられる。主は私たちの悩みをご覧になられる。そして、憐れんでくださる。本当に主の前に立つことなんかできないはずなのに、どの面下げて、主の前に出られるだろうか、という者であるのに、主は私たちを、私たちの苦しみ、痛みをご覧になってくださる。主よ、今も私をご覧になっておられることに感謝します。あなたのまなざしのゆえに、あなたが覚えていてくださることのゆえに心から感謝します。どうか、私の歩みを支え、あなたの喜びと命とで満たしてください。あなたの癒しを与え、あなたと共に歩む喜びに導いてください。

「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた」(マルコによる福音書10:21)

NIVでは、"looked him and loved him" と訳されていた。イエスはこの財産を手放せない、そこにしがみついているこの人を本当に愛されたのだと思った。何とかわかってほしい、何とか生まれ変わってほしい、そのような願いを持ちながら、イエスはこの人に語られた。その愛のまなざしが、私にも注がれていることに感謝したいと思った。私も愛されていることを思わされた。今も主は私を愛の目で見つめておられる。私が弱いゆえに従いきれない時にも、主は私に愛の目を注いでくださっている。しゅよ、あなたの愛を感謝します。あなたの愛のまなざしをありがとうございます。あなたが私を愛してくださっていることに心から感謝します。今日の、私の歩みもお守りください。

4月11日(月)

「だれでも恐れおののく者は帰れ」(士師記7:3)

13万5千人の敵の軍勢を目の当たりにして、味方はわずか3万2千人。よく集まった方といえばそうであろうが、一人でも大切な時だったと思う。一人でも多い方が助かる、という状況だったと思う。しかし、そこで、主はギデオンに「恐れる者は帰れ」と言いなさい、と言われた。ギデオン自身だって、最初は恐れていたし、何度も、神様本当ですか、本当に私を用いようとされているのですか、と確認したほどに慎重な人間だった。その彼が、「恐れるなら帰れ」なんてどうして言えるだろうか。この言葉は、やはりギデオンに、「おまえは何を頼りにしているのか、人数を頼りにしているのか」と問われた言葉だったと思う。主が彼に、さあ、本気で私を頼りなさい、と言われた言葉だったと思う。主よ、どうか私を助けてください。私も同じように主を頼りにしていきたく思います。「恐れる者は帰れ」と言える者としてください。主よ、あなたを信頼して、そう言える者としてください。

「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」(マルコによる福音書9:29)

祈りだ。本当に祈りに招かれている。主は私を祈りに招いておられる。そう、祈りの手を挙げ続けよう。祈りによらなければ・・・。主よ、あなたに祈ります。祈りを捧げます。心にかかっていること、一人一人のことをあなたの前にささげます。どうか主が御業をなさってください。どうか、あなたが、御手を動かして、勝利をお与えください。あなたの御力を拝させてください。あなたに祈り、悪霊さえも、おびえて逃げ出すような、そのような御業を拝させてください。祈ります。どうか、奇跡を見せてください。

4月10日(日)

「あなたがもし一緒に行ってくだされば、わたしは行きます。しかし、一緒に行ってくださらないならば、行きません。」(士師記4:8)

これが神様に対しての言葉だったらわかるのだけれども、これが人に対する言葉、預言を語った人に対する言葉であるところに問題があった。しっかり主につながっていくことがとても大切なことだと思う。人を通して働かれる主の励ましをいただくことができるのは本当にすばらしいことだと思う。しかし、いつの間にか、私たちは目に見える人に頼ってしまいやすい。神様につながっている誰かにつながっていることで自分もつながっている気分になっていることが多いのではないだろうか?主につながろう、主が与えてくださる恵みをいただいていこう。主が与えてくださる力をいただいていこう。主から満たされて、主から語られて、喜びを与えられて、立ち上がっていきたい。主よ、どうか私の歩みを守ってください。私の歩みを導いてください。

4月9日(土)

「しかし、イスラエルの人々が主に呼ばわったとき、主はイスラエルの人々のために、ひとりの救助者を起して彼らを救われた。」(士師記3:9)

士師記を読んでいると、人々が何度も何度も主を裏切るところに本当に心が痛む。しかし、それと共にここにあるように、主が人々の祈りに答えて、人々の叫びに答えて、何度も何度も彼らを救われるところにも心が留った。主は私たちが叫ぶ時に、何度も失敗を繰りかえす私たちが叫ぶ時に、その叫びを聞いてくださって、祈りに応えてくださるお方なのだ。なんてすばらしいことだろうか。何という愛だろうかと思う。主よ、どうか私を赦してくださり、私をあなたの恵みの中に、あなたの命の中に生かしてください。生かし続けてください。どうか、あなたに叫び声をあげますから、あなたの救いを見せてください。

「すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、『サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」(マルコによる福音書8:33)

マルコはペテロの通訳をしていたとよく言われる。そのマルコの福音書にもこれほどのペテロの失態が書かれているということは、ペテロ自身がこの出来事を大切な主からのメッセージとして受け取っていたということなのだろう。「神のことを思わないで、人のことを思っている・・・」この言葉は本当に厳しい言葉だと思う。私自身も問われている言葉だと思う。私は本当に主のことを思っているだろうか。主を見ているだろうか。主の御手を見つめているだろうか?主よ、どうか私の心があなたの御心を求め続けますように。あなたの御心をいつもいつもしたい求めますように。

4月8日(金)

「イスラエルの神、主に、心を傾けなさい。」(ヨシュア記24:23)

主に心を傾ける。他のことにではなく、主に向かって心を傾ける。他のこともいろいろなことが私たちの周りにあって、私たちの興味を引く。しかし、その中で、主に心を傾ける、ということが本当に大切なことだと思った。私自身、本当に主に心を傾けていきたいと思わされた。主よ、あなたの語りかけに感謝します。「私に心を傾けなさい」といわれた言葉を聞きます。どうか私が心を傾ける時に、私の心を捕らえ、あなたの恵み、あなたの愛、あなたの喜び、あなたの力で私をお守りください。どうか私の心をあなたのことで満たしてください。あなたを愛します。

「けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。」(マルコによる福音書7:25)

この必死さ。イエスがそこで休もうとされていたのに、そのことを聞きつけた時に、すぐに飛んでやってきた。この女の人の必死さ。この真剣さを私も持ちたいと思った。このように真剣な歩みをしたいと思った。主よ、今、私はあなたの前に立っています。あなたの前に立っています。あなたに求めます。あなたが私を満たし、私を生かし、私を喜びにあふれさせてください。もっともっと生き生きと生きたいのです。大きく用いられたいのです。喜びにあふれて歩みたいのです。どうかあなたの恵みと命を私の内側に満たしてください。

4月7日(木)

「さあ、われわれは一つの祭壇を築こう。燔祭のためではなく、また犠牲のためでもなく、ただあなたがたと、われわれとの間、およびわれわれの後の子孫の間に、証拠とならせて、われわれが、燔祭と犠牲、および酬恩祭をもって、主の前で、主につとめをするためである。」(ヨシュア記22:26−27)

この祭壇は、本当の祭壇ではなく、イスラエルの統一の象徴であり、記念のためだった。それは認められたのだった。私たちにとっても、究極の祭壇である十字架こそが、一致の象徴なのだ。この十字架にこそ、この十字架にだけ、私たちの一致がある。私たちが一つになることができる。主イエスよ、あなたに感謝します。あなたが私たちのために十字架にかかってくださったこと、その一点にこそ私たちの救いがあります。いろいろな考えがあり、理解があり、立場があり、経済的な状況があります。その中で一つになることができるのは十字架があるからです。イエス様の十字架に感謝します。どうか、教会をこの一点において一つにしてください。

「パンは幾つあるか。見てきなさい。」(マルコによる福音書6:38)

あなたの手の中にあるものは、何か?と聞かれている。主はあなたの手の中にあるものは何かと問うておられる。本当に自分の手の中にあるものは、ちっぽけなものだと思う。けれども、それを主の元に持っていく時に、主はそれを用いられる。恐れないで、主の前に「パンが五つと、魚が二匹あります」とそのまま申し上げよう。私の手の中にあるのはこれです。どうかあなたのために用いてください、そのように申し上げようと思った。主よ、どうか私の手の中にあるもの、そのまま持って参りますので、どうかお用いになってください。あなたの御力で用いてください。

4月6日(水)

「たとい、あだを討つ者が追ってきても、人を殺したその者を、その手に渡してはならない。」(ヨシュア記20:5)

この町を守る人々はどれほどの責任を持っていたことだろうか、と思わされた。どこまで危険な仕事だっただろうかと思わされる。仇を討とうとする者たちは、決して冷静ではない。本当に何とかして犯人を見つけ出して、仇を討とうと思っている。だから、自分も殺されるかもしれなかっただろう。まさに彼らは体をはって、逃げてきた者たちを保護する責任を持っていたのだった。この「逃れの町」がイエスの救いの予型であるならば、イエスがどれほどの真剣さを持って、私たちを守ってくださっているかということを思わされた。主が私たちを守られる時に、主が私たちを救われる時に、本当に文字通り、体を張って、私たちを守ってくださるのだ。イエス様、あなたに感謝します。あなたがどれほど熱い思いで私を守ってくださっているか、今日、また新たに思わされました。これからも、私をお守りください。敵の攻撃から私をお守りください。

「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコによる福音書5:36)

主は本当に私に信じて従っていくことを、安心して信頼して信じていくことを求めておられるのだと思う。本当にこの言葉はその通り、頂いた。いただこうと思った。主よ、あなたを信じます。信頼します。どうかあなたの御業を見せてください。あなたの大きな御力を表してください。あなたの偉大さを経験させてください。信じて歩んでいきます。感謝。

4月5日(火)

「あなたは数の多い民で、大きな力をもっています。それでただ一つのくじでは足りません。山地をもあなたのものとしなければなりません。それは林ではあるが、切り開いて、向こうの端まで、自分のものとしなければなりません。カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます」(ヨシュア記17:17−18)

主を信頼して、「山地をください」と言ったカレブとは対照的に、このエフライム部族とマナセ部族の人々は、「あっちには強い人がいるから・・・」と恐れ、動こうとしなかった。新しい地を切り開こうとはしなかった。主が彼らを支え、導かれるのに、勝利を与えられるのに、なかなか動こうとはしなかった。私たちにもそのような不信仰はないだろうか?主を信じて大胆に進んでいくべきところで、躊躇して、物怖じして、尻込みしていないだろうか?主よ、参ります。あなたの導かれるところに、どうかそこに確信を与えてください。あなたが導かれているところは〜である、という確信を与えてください。進んでいく勇気を、信仰を、そして、あなたとの近さを与えてください。

「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」(マルコによる福音書4:40)

怖がるということは信仰がないということ。本当に主を信頼していたら、いいのに、と思う。本当に自分は信仰の薄い者だなあ、と思わされる。主がわたしを愛しておられるのに、主がわたしを守ろうといっておられるのに、主がわたしと共にいてくださるのに、主がわたしを祝福の基としようと言っておられるのに、自分はいかに信仰のない者か、信仰の薄いものかと思わされる。そして、戒められたような気がした。信じなさい、といわれたような気がした。主よ、信じます。信じて、歩んでいきます。どうか信仰の弱い私を憐れみ、私を導き続けてください。どうか見捨てないで、私を守り導いてください。

4月4日(月)

「わたしに贈り物をください。あなたはネゲブの地に、わたしをやられるのですから、泉をもください」(ヨシュア記15:19)

贈り物をください、と、また泉をください、と求めたアクサ。砂漠に暮らすのに、泉は本当に大切だ。私たちの歩みも、人生が「砂漠」のようなところであることを感じる時に、どれだけ泉が必要か、泉を内側に持つことが大切かということを思わされる。主がわたしに与えてくださる泉、それが私の生命線だ。本当に大胆に泉を求めていこう。どん欲に主が与えてくださる泉を求めていこう。積極的に求めていこう。主よ、どうか私に泉をください。私の出て行く地は砂漠なのです。私が出て行くところにはいろいろな誘惑や誘いがあるのですう。どうか私を守り、あなたご自身が私を満たしてくださる方であることをいつもいつも経験していくことができますように。

「彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」(マルコによる福音書3:14−15)

私たちは主の近くに置いて頂いている。主のみそば近くに置いて頂いている。けれども、それは私たちをただ、そこに置いてくださることが目的なのではなくて、私たちを遣わすことが目的なのだ。主の目的は私たちを遣わすことだ。そのために共にいてくださる、そのために私たちに権威を与えられる。主よ、あなたのそばに置いて頂いていることに感謝します。あなたがいつも共にいてくださることに感謝します。どうか私を遣わしてください。私を遣わしてください。私を送ってください。私に権威を与え、あなたのことを伝えるものと、あなたのことを表す者としてください。どうか私をお用いください。

4月3日(日)

「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。」(ヨシュア記13:1)

この言葉にはまた励まされた。私たちは本当に「これくらいかな」と腰を下ろしてしまうことがある。安定を求める心がある。でも、主はヨシュアにそこにとどまることをお許しにならなかった。新しく出て行って、勝利を得ることを求められた。私もそこに招かれているのだと思う。「取るべきところはまだまだある!」と。その通りだと思う。主はもう備えてくださっていて、与えようとしてくださっている。恐れるな。主がおられるから。主が多くを与えようとしておられるから・・・。主よ、あなたの励ましに、あなたの御言葉に感謝します。あなたの与えてくださるものに、感謝しつつ歩んでいくことができますように。私を用いてください。この地に住む日本語を使う方々の救いのために私を用いてください。もっともっと用いてください。あなたが多くの人々を導いてください。

4月2日(土)

「そして彼らは、そのすべての軍勢を率いて出てきた。その大軍は浜べの砂のように数多く、馬と戦車も、ひじょうに多かった。 これらの王たちはみな軍を集め、進んできて、共にメロムの水のほとりに陣をしき、イスラエルと戦おうとした。」(ヨシュア記11:4−5)

押し寄せてきた大軍。本当に多くの人々が進んできて、イスラエルと戦おうとした。どんなに恐ろしかったかと思う。どんなに脅威だったかと思う。その大軍を前にしても、主が勝利を約束してくださった。約束して「さあ出て行きなさい」と言われた。本当にすごいことだと思う。大軍を前にしたら、私たちはひるんでしまう。恐れてしまう。二の足を踏んでしまうだろう。けれども、彼らは進み出た。主が共にいてくださることを知って、信じて進んでいった。そこに勝利が与えられた。主よ、私の中にある恐れを取り除き、あなたの導きに従って、あなたが共にいてくださることを信頼して、進んでいくことができる者としてください。主よ、私を用いてください。私をあなたのご用のためにお用いください。

「イエスは彼らの信仰を見て、」(マルコによる福音書2:5)

イエスはこの病気の人の信仰というよりも、この人を連れてきた人々の信仰をご覧になって、この病気の人をゆるされ、癒された。ならば、私たちもそのような信仰を持たせて頂こう。私たちの周りの人々のために、このような信仰を持たせて頂こう。このときに人々があまりに多くて入れなかったように、またそこに屋根があったように、私たちが誰かをイエスのところに連れてこようとする時に、障害となるものがある。しかし、それを乗り越えさせて頂きたいと思った。乗り越えて進んでいきたいと思った。そして、主に私たちの信仰を見て頂きたいと思った。主よ、私もこの人達と同じように、人々をイエスのところに連れて行く働きができますように。あなたに見て頂ける信仰を持つことができますように。私があなたの元に連れて行くべき人を教えてください。

4月1日(金)

「そこでイスラエルの人々は彼らの食料品を共に食べ、主のさしずを求めようとはしなかった。」(ヨシュア記9:14)

どきっとする言葉だ。私はいったい主の導きを求めているだろうか、そのことをもう一度問われるような思いがした。自分の思いだけで動いていることがどれほど多いことだろうか?昔、お風呂にはいるのにも「主よ、いいでしょうか?」と求めた人がいたそうだが、そこまでしなかったとしても、本当に大切な一つ一つの決断の中で、主の導きを信頼して、主の導きを求めて、祈って進んでいくことがどれだけ大切なことかを思わされている。主よ、どうか私の歩みを導いてください。あなたの示されたように、そこに従っていくことができますように。あなたにいつも祈りつつ進んでいくことができますように。

「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。」(マルコによる福音書1:26)

権威ある教え、主は私にも権威を与えてくださっている。私たちが出て行く時に、権威を与えられている。何か人間的な遠慮や、自信のなさによって、権威を与えられていることを軽く見ていることはないだろうかと思わされた。主は私に権威を与えてくださったのだ。主が持っておられる権威を与えてくださり、また「私よりも大いなるわざをするであろう」と言われたのだった。だから、確信を持って進んでいきたい。主が与えてくださった権威を携えて、主と共に歩んでいる喜びに満たされて奉仕をさせて頂きたい。主よ、どうか私の歩みを支え、語らせてください。権威を持って語らせてください。

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