あなたのみ言葉はわが足のともしび、
わが道の光です。

9月30日(木)

「女のうちの最も美しい者よ、」(雅歌5:9)

雅歌は恋愛の歌であるが、それと共にキリストと教会との関係を預言している歌だとも言われる。だとするならば、この「女の中で最も美しい者よ」というのは、教会を指しているのだ。教会が「最も美しい者」と呼ばれているのだ。これはものすごいありがたいことだ。美しい者とみられている。教会が美しい者なのだ。美しい者と主に言って頂いているのだ、周りの人々にそのように見えるのだ。主よ、あなたがわたしたちのことを、欠けだらけのわたしたちのことを、そのように見ていて下さることを心から感謝します。あなたの愛に感謝します。もっと堂々と、もっと胸をはって、主のすばらしさを空かしする者としてください。

「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。」(テサロニケ人への第一の手紙2:4)

いつもいつもこのように思っていたい。このことをしっかり心に留めていたい。私は人に喜ばれるためではなく、主に喜ばれるために、ここに生き、ここに使命をいただいている。本当にそのことにしっかりと立って、主を見つめながら、主に目をしっかりと注ぎながら、歩ませて頂きたいと思った。主よ、どうか私があなたを見つめ、あなたにしっかりと目を留め、あなたの喜ばれる歩みをすることができますように。主よ、どうか私の歩みを導いてください。あなたの語れと望まれることを語ることができますようにお守り下さい。

9月29日(水)

「愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起こすことも、さますこともしないように。」(雅歌3:5)

愛は無理矢理起こすものではない。おのずから起るものなのだ。命令ではなく、義務でもなく、本当に主に愛されていることの喜び、キリストによって赦されていることの喜び、その大きさそのすばらしさを知って、「おのずから起る」のを待ち望んでいく、そのゆとり、その信頼が大切だと思わされた。焦りがないわけではない。でも、すべてが主の奇跡であり、主の御業であり、聖霊様の働きであるならば、待ち望んでいこう。主が豊かに働かれるのを待ち望んでいこう。あの弟子たちがイエスの昇天の後、10日間ずっと祈り続け、待ち続けていたように、本当は、彼らは「今ですか!」と決起したかった。立ち上がりたかった。でも、待ち望んだ。私も主を待ち望んでいこう。主の御業を待ち望んでいこう。

「そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり・・・」(テサロニケ人への第一の手紙1:6)

苦しみの中でも、彼らは、喜びをもって御言葉を受け入れた。感謝して、喜んで信じた。福音を受け入れやすくする必要なんかない。そんな小手先のことは必要がない。ひとりの人がイエスを信じるのは、奇跡なのだ、主の奇跡なのだ。だから、わたしたちがハードルを低くするように、福音を何か水で薄める必要なんかない。迫害の中でも、彼らは福音を喜んで受け入れたのだ。そのような奇跡を祈っていこう。そのような福音を語っていこう。力ある福音を語っていこう。主よ、どうかあなたの御言葉を喜んで受け入れる人々が起こされていきますように。決してそれを人間の小手先の事で、受け入れやすくしようと、違ったものにしてしまうことがないように、主よ、お守り下さい。

9月28日(火)

日曜日の夜から、昨日一日風邪で、ヒイヒイ言っていました。一日しっかり休んで、今日はもう大丈夫です。三日分まとめて更新です。

「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」(伝道の書12:1)

あまりにも有名な言葉だけれども、もう、じぶんが「若い」なんて思わないけれども、「あなたの造り主を覚えよ」という言葉が、心に留まった。造り主を覚えよ、とは、造り主を造り主として覚えて、認めて、そして、そこに感謝して歩み始めること。主が造り主であることをエンジョイすること。主よ、あなたを覚えます。あなたをいつもいつも覚えさせてください。あなたが共におられること、あなたが私を作られたこと、私を大切にしてくださること、私を支えておられること、いつもいつも覚えていることができますように。あなたの御力によって歩む者としてください。

「神が御言のために門を開いて下さって・・・」(コロサイ人の手紙4:3)

主が御言葉のために門を開いて下さるようにと祈る。今、自分にはどれだけたくさんの御言葉の門が開かれているだろうかと思う。それを本当に自分は用いているだろうかと思わされる。主よ、どうか、あなたが、あなたご自身が御言葉の門を開いて下さい。御言葉の門を開いて、私に語らせて下さい。私がいつもいつも御言葉を語ることができますように。そのような機会を逃すことがないように、私を導いて下さい。私がそれに気がつくように、敏感な感性を与えて下さい。どうか、私のためではなく、御言葉のための門を開いて下さい。

9月27日(月)

「あなたの頭に油を絶やすな。」(伝道の書9:8)

これは直接にはもちろん、「いつでも身なりをちゃんとしてなさい」ということだろうが、今日は、これが象徴的な意味、「霊的な身なりを整える」ということとして心に届いた。いつでも頭に油を絶やすな。油は聖書では聖霊様の象徴だ。いつもいつも聖霊様に満たされて歩みなさい、という。そのためにはいつもいつも求めている、いつもいつも聖霊様を呼んでいる、ということが大切だと思う。主よ、どうか、今日も私の頭に油を注いでください。油を注ぎ続けてください。私をあなたの油で満たしてください。今日も、出会う一人ひとりにあなたの愛をあかしすることができるように、あなたの油を与えてください。聖霊よ、私を満たし、あなたの思いのままにお用い下さい。

「あなたがたは上のものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」(コロサイ人の手紙3:2)

本当にそうだと思い、また心にあるものが問われた。今私の心は何に引かれているだろうか。上にあるもの、つまり神様の喜ばれることを求めているだろうか。地上のものに惹かれて、神様に心が向いていないことがいかに多いことか。でも、このようにして、聖書を読んで、そして、そこから語られて、もう一度引き戻されるのも大きな恵みだ。喜びだ。主よ、私はあなたのものです。私の心をあなたへの思いでいっぱいにしてください。天国のこと、あなたの喜ばれること、あなたがたたえられること、そういうものでわたしの心をいっぱいに満たしてください。この世のものに心が引かれて、あなたを見失いそうになった時には、主よ、警告を与えてくださり、もう一度あなたのところに引き戻してください。

9月26日(日)

「三つよりの綱はたやすくは切れない。」(伝道の書4:12)

ひとりより、二人、二人より、三人。わたしたちと神様との関係が大切、そして、人間は最後はひとり。でも、神様もひとりより、二人のすばらしさ、三人のすばらしさを認めてくださっている。それを語ってくださっている。仲間が与えられていることの幸いを覚えさせられる。二人で祈る時を持とう、三人で祈る時を持とう、二人で伝道したり、証をしたり、恵みを分かち合ったり、励まし合ったり、そのときを大切にしようと思った。主よ、私に仲間を与えてくださり、共に祈ることができるようにしてくださっていること、家族を与えてくださっていること、牧師同士の祈る場をも与えてくださっていることを、心から感謝いたします。どうか、共に祈り、共にみ言葉を分かち合い、ビジョンを語り合う時をお与えください。そして、本当に熱い思いであなたに従っていくことができますように。

9月25日(土)

「神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。」(伝道の書2:26)

主がわたしたちに喜びを与えてくださる。今日、この言葉が与えられたことに感謝。喜びは主が与えてくださるもの、わたしたちが一生懸命生み出そうと努力したり、作ったりするものではなく、主があたえてくださるもの。だから、主の御手の中に陥って、主のみ手の中で、安心して歩めばいい。主よ、どうか私の内側をあなたの喜びで満たしてください。あなたの喜びをわたしのうちに満たし、喜ばなければいけないと肩に力を入れた生き方ではなく、本当にあなたのみ手の中で安らぎ、あなたの守りの中で、ほっとするそのような信仰者としてください。あなたが私に「それでいいんだ」と肯定のメッセージをくださったことに心から感謝します。主よ、私の毎日に約束通り喜びを与えてください。

「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。」(コロサイ人の手紙2:9−10)

キリストにこそ、いっさいのものが満ちあふれているのだ。他のものの力を借りることではなく、他の知恵を借りる必要はなく、本当にキリストによる奇跡を見せていただけば、それでいいのだ。惑わされてはいけない。キリストのうちに、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている、それが本当に尊いのだ。主よ、どうか私をみ言葉を語る者としてください。あなたのメッセージを本当に忠実に語る者としてください。あなた力を与えてください。あなたのみ言葉を与えてください。あなたのみ言葉には力があります。奇跡を見せてください。明日の日曜日、あなたを信じて歩み始める方々が起こされますように。

9月24日(金)

「あなたは黙っている人のために・・・口を開くがよい。」(箴言31:8)

黙っている人のために口を開く。新しい事だと思う。口を開かなければ損をする社会の中にあって、「口を開かないとわからない」とあぐらをかいているのではなく、本当に口を開くことのできない人々のために口を開く使命をも与えられているのではないだろうかと思わされた。主よ、わたしに人々の心の叫びを聞く耳を与えてください。それを感じ取る感性をお与えください。口を開くことができない人々のために口を開く者としてください。愛を与えてください。人を愛する愛を与えてください。今日出会う方々一人ひとりにあなたに愛された愛を持って出会うことができますように。

「あらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り・・・」(コロサイ人の手紙1:9)

ああ、自分はこの霊的な知恵と理解力をほしいと思う。神様の願われることを深く知っていくために、この霊的な感性や力をいただきたいと思う。ただ、主のお役に立つために、ただ、人々が救われるために、この霊的な知恵、霊的な理解力、霊的な鋭さ、それを与えてほしいと思う。主よ、どうかわたしに霊的な知恵と理解力を与えてください。あなたの御旨を深く知ることができますように。人々の救いのために用いられますように。人々が福音によって、ただ福音によって、生かされ、満たされ、喜びにあふれて歩んでいくことができますように。主よ、どうか助けてください。どうか満たしてください。

9月23日(木)

「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」(箴言29:25)

これもどきっとするが、また励ましである。人を恐れるのではなく、神様を信頼して歩みなさい、そうすれば大丈夫だから・・・、と主が語ってくださっていると思った。人を恐れる必要がないんだよ、人を恐れてはいけないよ、わたしを信頼して、わたしをしっかり見て、歩みなさいと。だから、主を信頼して歩んでいこう。心から主を信頼して、主から託された働きをしていこう。主よ、あなたを信頼します。あなたを信頼して歩みます。人を恐れる思いからわたしを解放し、本当に自由にしてください。聖霊様の自由をわたしに与えてください。人を恐れるところから解放してください。あなたの御心を行う者としてください。

「わたしを強くしてくださるかたによって、何事でもすることができる。」(ピリピ人の手紙4:13)

主がわたしに何でもできる力を与えてくださる。主がわたしに力をくださる。何でもすることができる。主の力によって、自分の力だったら、できない。できっこない。でも主の力を与えられて、わたしたちは歩むことができる。わたしは何でもすることができる。主よ、あなたの力を与えてください。あなたの力を注いでください。そして、主よ、わたしにできないことを、主がしてくださった。主の奇跡を拝させて頂いた、その喜びに生かしてください。何事でもすることができる!ハレルヤ!あなたの力を感謝します。

9月22日(水)

「あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」(箴言27:5)

心の問題ではなく、行動の問題。人の顔色をおそれているのは結局その人を愛しているのではなく、自分を守ろうとしているだけ。本当に愛しているから、語らなければいけないものもあるのに、逃げていることがあるのではないだろうかと思わされる。主よ、本当に人を愛することができる者としてください。完全な愛は恐れを取り除く・・・。み言葉通りに人を愛することのできる者としてください。恐れから解放し、心から愛する者としてください。ひそかに愛して、でも、本当は自分が一番かわいくて・・・。そういうずるい自分を主が赦し、造りかえ、体当たりで人々を愛していく者としてください。

「わたしたちの国籍は天にある。」(ピリピ人の手紙3:20)

天を見上げて生きよう。主に注目して生きよう。天国を目指して生きよう。神様と共にあることを感謝して生きよう。わたしの国籍が天にあること、心からあなたに感謝します。あなたがわたしをあなたの国の国民としてくださったことに感謝します。どうか、あなたの恵みの中に生きる者としてください。いつもそこに目を留めて生きる者としてください。わたしの心をあなたの愛でいっぱいにしてください。あなたがしてくださったこと、あなたが与えてくださったことに感謝して生かしてください。

9月21日(火)

「もしあなたが悩みの日に気をくじくならば、あなたの力は弱い。死地にひかれゆく者を助け出せ、滅びによろめきゆく者を救え。」(箴言24:9−10)

悩みの日というのは、自分がうじうじ悩んでいる日、というのではなく、人々が苦しんでいる時、人々が滅び行こうとしている時だ。そのときに、自分はどうするだろうか。そんなときに、本当に強くありたいと思う。そんなときに、人々にイエスによる救いのすばらしさを語っていきたいと思う。主よ、どうかわたしを助けてください。わたしを悩みの日に用いてください。堅く立って動かされず、大胆に福音を語り続ける者としてください。イエスにこそ救いがあることを、神の愛こそがわたしたちに勇気を与え、力を与え、支えてくれるものであることを、語り続ける者としてください。

「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(ピリピ人の手紙2:4)

主よ、本当にわたしが自分のことばかりを考える者ではなく、人々のことを考える者としてください。人を心から愛する者としてください。人のことをよく考え、人のために生きる者としてください。わたしのうちに愛を満たしてください。わたしを愛に生かしてください。愛する者としてください。お願いします。あなたに愛されていることを感謝します。もっともっとあなたの愛を教えてください。あなたの愛を感じさせてください。

9月20日(月)

「戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主による。」(箴言21:31)

本当にそうだと思うし、本当に大切なことだと思った。わたしたちは戦いの日のために馬を備える。準備をする。本当に真剣に準備をする。でも、勝利を与えてくださるのは、主ご自身だ。主ご自身がわたしたちに勝利を与えてくださるのだ。どんなに準備が完璧でも、どんなに一生懸命やっても、主ご自身がわたしたちに勝利を与えてくださらなければ、勝利を得ることはできない。主よ、どうか、いつもいつもあなたに頼ることを忘れないようにしてください。あなたに頼って、あなたを信頼して歩んでいくことができますように。あなたの力、あなたの救いを経験することができるように助けてください。

「わたしの身によってキリストがあがめられることである。」(ピリピ人の手紙1:20)

わたしを通して、わたしの身を通して、キリストがあがめられる。そのすばらしい経験をわたしは求める。わたしはイエス様がほめられてくださること、神様ってすばらしい、って人々が語り合うようになること、それを求める。それを願う。本当にわたしが生きている時であれ、死んだ後であれ、わたしの身を通して、主があがめられてくださるなら、それほどすばらしいことはあるだろうかと思う。主よ、どうかわたしを導いてください。わたしを用いてください。わたしを通して、あなたがあがめられてください。あなたのすばらしさがあがめられますように。あなたのことがほめたたえられますように。

9月19日(日)

「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたのはかるところは必ず成る。」(箴言16:3)

なすべき事を、ゆだねる。なすべきはなす、ではなく、なすべき事をゆだねる、と聖書は言う。なすべき事をしながら、結果を主にゆだねる、ということだろうか。主に期待して、主を信頼してなすべき事をしていく、ということだろうか。それが「必ず成る」という約束を与えられていることを心から感謝しよう。その約束を心から信頼していこう。主よ、あなたの約束の故に心から感謝します。どうか、私の道を導いてください。私のはかるところも必ず成る!ということを見せてください。主よ、あなたのみ声を聞かせてください。あなたのビジョンを見せてください。そして、そこを信じて歩んでいく者としてください。

9月18日(土)

「謙遜は、栄誉に先だつ。」(箴言15:33)

謙遜。この箴言で教えられることだ。箴言を読みながら、自分はいつの間にか、どんどん傲慢になっていないだろうかと思わされる。主が警告しておられるように思う。主が謙遜に招いておられることを思う。主よ、どうか私を謙遜な者としてください。本当に人の言葉に耳を傾けることのできる者としてください。もういやと言うほど、自分の弱さは、自分の不足は知っているはずなのに、劣等感がどこかにあるからでしょうか、自分の態度は、本当の謙遜とはほど遠いものであるように思います。どうか、私を内側から造りかえ、謙遜な者としてください。そのような強さ、大きさ、広さをお与えください。

「すべての聖徒たちのために祈り続けなさい。」(エペソ人の手紙6:18)

これはそのまま受け取った。祈り続けなさい、すべてのクリスチャンたちのために祈り続けなさい。もちろん、クリスチャンたちだけではなく、ほかの周りの方々のためにももっともっと祈ることの大切さを思わされるが、クリスチャンの兄姉、一人ひとりも祈りを必要としている一人ひとりであることを日々覚えたい。「祈り続ける」その使命を感じた。主よ、祈ります。一人ひとりの兄姉が支えられ、用いられ、強くされ、生かされて歩んでいくことができますように、今日も一人ひとりがその使命を覚え、そこに生きることができますように。

9月17日(金)

「愚かな人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる。」(箴言12:15)

自分が批判されたり、勧められたりすることに対して、それを受け入れることができないのは、結局、自分に自信がないのだと思う。劣等感なのだと思う。自分は弱い人間なんだと思う。懐の深くない、人間なんだなあ、とつくづく思わされる。おそれているのだと思う。神様に愛され、神様によって生かされていることを本当に経験していたら、もっともっと経験していたら、もっと人の言葉を聞くことができ、それを生かすことができるのに、と思う。主よ、知恵ある者としてください。主よ、あなたが私を強くしてくださって、人の言葉にもっともっと耳を傾けることのできる者としてください。あなたに愛され、あなたに使命をいただいて生きていることをもっともっと深く味わい、それによって、強くされ、人の勧めを受け入れることができるほどに、強くしてください。

「明らかにされたものは皆、光となるのである。」(エペソ人の手紙5:14)

私も光とされる。私自身も主によって照らされて、本当の姿が見せつけられて、それで落ち込むのではなく、光とされるのだ。光として用いられるのだ。何という幸いだろうか。何という祝福だろうか。主がわたしをもお用いになる。私を用いられる。だから、主に本当に真実に歩んでいこう。光で照らして明らかにしていただこう。そして、その明らかにされた中で、感謝して歩んでいこう。主よ、どうか私の一歩一歩を導いてください。あなたの光で照らしてください。そして、私をあなたの光として用いてください。

9月16日(木)

「わたしの教えを守ること、ひとみを守るようにせよ。」(箴言7:2)

ひとみを守るように・・・。そのような繊細さと、大切にする思いをもって、主の教えを守る、守り続ける。主がお語りになることを、わたしたちに語られることを、大切に、大切に守っていく。そのような態度、そのような主への愛。そのような暖かさ、真実さ、真剣さ、自分には必要だと思わされた。だから、この言葉を主が語ってくださったのだと思う。主よ、私はあなたの語られることを、自分のひとみを守るように守ります。大切にします。尊いものとして守ります。どうか主よ、あなたが私に語ってください。あなたの教えを語ってください。どうか私の歩みをあなたが導いてください。

「あわれみ深い者となり・・・」(エペソ人の手紙4:32)

あわれみ深い者・・・。こういう言葉には本当に自分の弱さや、自分の不足を思わされる。自分の足りなさを痛感させられる。あわれみ深い者でありたいと思う。でも、本当に自分は元々本当に愛のない人間だと思うから、どうしたらいいのかと思う。主よ、あなたが愛してくださった愛をもっともっと味わって、自然に内側からあふれてくる愛で満たされて、人を愛することができますように、主よお助けください。主よ、私を愛で満たしてください。愛のあふれる者としてください。あわれみ深い者としてください。主よ、あなたにはそれができると信じます。どうか、あなたの愛で私を満たしてください。

9月15日(水)

「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れるからである。」(箴言4:23)

ほんとうだなあ、と思う。油断することなく心を守ること、本当に大切なことだなあ、と思う。心が神様以外のものに、神様が悲しまれる者に支配されると、本当に命全体が枯れてしまう。でも、自分は本当に油断しやすい人間だ。すぐ誘惑に負けてしまう人間だ。だから、主よ、どうか助けてください。私が油断しているときに、聖霊による警告を与えてください。人からの警告、出来事からの警告、良心の警告、主よ、それらの方法をすべて用いて、私を守ってください。私に警告を与え、油断して、サタンに心を奪われることがないように、神様が悲しまれるもので心がいっぱいになることがないように、助けてください。主よ、あなたを待ち望みます。

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くしてくださるように。」(エペソ人の手紙3:16)

「その栄光の富にしたがい・・・」とある。主の豊かさにしたがって、主は豊かなお方だから、私の内に大きな力を、豊かな力を与えてくださる。与えてくださるのだ。それこそ、私にとって一番大切なものだ。一番大切な力だ。主よ、どうか私の心を満たし、あなたの豊かさをわたしのうちにいっぱいにしてください。どうか、あなたのみ力を表してください。どうかあなたの喜びで、あなたの大きさで、私をいっぱいに満たして、そのいっぱいのものをもって、出て行くことできるようにしてください。力を満たしてください。今日出会う一人一人にそれを分かち合うことができますように。

9月14日(火)

「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)

「すべての道で」という言葉が今日は心に留まった。一日のうちの一部分ではなく、生活の中の一部分ではなく、「すべての道で」。生活のあらゆる分野で、あらゆる場所でだ。あらゆる場所で主を認める。主の働きを認める。主が共にいてくださることを認める。主のみ力を計算に入れる。その中で、主がわたしの道をまっすぐにしてくださるのだ。
主よ、あなたのことを私の生活にお迎えします。生活のあらゆる場面で、あらゆる分野でお迎えします。どうか、私の歩みを導いてください。私の生活のある分野であなたをお迎えしていないところがあったら、そのことを教えてください。それを知らせてください。そこもあなたにお任せしたいと思います。その分野もあなたに明け渡したいと思います。どうか、生活のすべての歩みがあなたと共に歩む歩みとなりますように。

「敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ人の手紙2:16)

敵意、あらゆる敵意は十字架の上で滅ぼされてしまう。今、世界の中にあふれている敵意。それも主が十字架の上で滅ぼされる。わたしたちの日々の歩みの中で、わいてきてしまう敵意、それも主が十字架の上で滅ぼされる。ああ、何と今十字架が必要だろうかと思う。イデオロギーではなく、「宗教」ではなく、十字架が必要だろうかと思う。主よ、私をお守りください。わたしのうちに敵意がわいてくることがあれば、それを十字架の上で滅ぼしてください。そして、その敵意が滅ぼされることによって与えられる自由を味わわせてください。そして、十字架の上で敵意が滅ぼされることを世界が知ることができますように。それによって、敵意が滅ぼされますように。聖書に、世の終わりには人々の愛が冷えるであろう、とあることを知っています。でも、でも、十字架によって敵意が滅ぼされる、その御業を少しでも、表してください。そのために私自身も用いてください。

9月13日(月)

「若い男子、若い女子、老いた人と幼い者よ、彼らをして主のみ名をほめたたえさせよ。」(詩篇148:12)

賛美にあふれた人々の中に生かされている自分は何と恵まれていることかと思う。昨日も賛美しながら、中学生、高校生たちが力一杯賛美している姿に本当に励まされ、自分自身ももっと賛美したいとも思わされた。そして、それだけではなく、年上の人々も力一杯賛美する。もっともっと賛美したい。もっともっと主をほめたたえたい。主もそれを待っておられる。それを期待しておられる。だから、もっと賛美しよう。もっともっと心から主をほめたたえよう。主よ、歌をもってあなたを賛美することができることを感謝します。わたしたちの体に与えられた「声」という楽器の故に感謝します。あなたをもっともっとほめたたえたい、そのように思います。どうか、私を、また私の周りの一人一人を賛美に導くことができますように。もっともっとあなたをほめたたえさせてください。知恵を与え、方法をもっともっと与えて下さい。いつもいつも新しい歌をわたしたちの唇に与えてください。

「この教会はキリストのからだであって、すべてのものをすべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ人の手紙1:23)

教会は、神様が満ちあふれていてくださるところ。わたしたちが主の臨在を求める前に、わたしたちが主に共にいてください、と祈る前に、主はそこにあふれていてくださる。教会はそういうところだ。「おまえが祈る前から、私はそこにいてあなた方を招いていた。共にいてください、と祈るなんて筋違いだ、私の方から、あなたを招いていたんだから・・・」と言われたような気がした。本当だ。主よ、あなたが教会にあふれていてくださること、満ちあふれていてくださることに感謝します。そのことに気がつかせていただいて感謝します。ありがとうございます。あなたをもっともっと信頼して、歩んでいくことができますように。私の日々の歩みの中でもあなたが共にいてくださるから感謝します。あなたが招いてくださっているから感謝します。

9月12日(日)

「主は心の砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。」(詩篇147:3)

主よ、お言葉通り、御業をなしてください。あなたのお言葉通り、傷ついた方、痛みを覚えておられる方、主がいやしてください。主ご自身がいやしてくださいますように。今日の礼拝にあなたがご臨在くださり、あなたがおられることを、集う一人一人に表してください。一人一人の心にあなたがふれてください。あのヨブの痛みがあなたの語りかけで、癒されたように、あなたが今日、一人一人に語ってくださって、あなたの与えられる解決を見ることができますように。

9月11日(土)

今年もこの日が巡ってきました。
やはり朝から心が重いです。
今もあの日から、生活が変ってしまった方々、心に大きな傷を受けた方々、家族や友人を失った方々のために、特別に祈りたいと思います。
一方で、今年は大統領選挙の年だからか、政治的な立場からの発言をする人の言うことはずいぶん変ったように思います。本当に人の心は移ろいやすいものだと思います。自分は、といわれると、やっぱり自分という人間も移ろいやすい人間だと思います。だから、どんな時も、そのようなものに振り回されないで、聖書のみ言葉に立って、時代が変っても変ることのない真理を語っていく使命を感じます。

「主よ、悪しき人の願いをゆるさないでください。その悪しき計画をとげさせないでください。」(詩篇140:8)

本当に心からこれを祈りたい。先週のロシアのテロも、本当にひどいことだと思う。歴史的に何があろうとも、政治的に何があろうとも、学校の始業式を襲って、そこに子供たちをすし詰めにして、爆弾をいくつもつるして・・・。主よ、これから毎日祈り続けます。悪しきの者たちの計画を遂げさせないでください。今まで真剣にそのように祈ってこなかったことをお赦しください。祈りの手を挙げていきます。破れ口に立って祈ります。主よ、悪しき者たちの謀を地に落としてください。悪しき者たちの願いをとどめてください。今日も、今日も、悪しき者たちの計画をとどめて、子供たちを、人々を守ってください。そして、わたしたちが、あなたの守りの中で生かされていることを知ることができますように。

「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤ人の手紙6:14)

本当にそうだと思う。もう一度ここに引き戻された。わたしにとっては、わたしにとってはキリストの十字架以外に誇りとするものがあってはならない。それだけが喜びであり、それだけが人々に言って回りたいことだ。キリストがわたしのために十字架にかかってくださった、命を投げ出してくださった。愛を注いでくださった。そのことだけだ。本当にそれだけだ。そのことを誇りにしていこう。そこに立っていこう。そのことだけを語っていこう。バカでいい。自分は十字架バカでいこう!主よ、イエスの十字架に心から感謝します!そのことに喜ばせてください。そのことに喜んで一日を過ごさせてください。毎日を過ごさせてください。

9月10日(金)

「わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。」(詩篇139:9−10)

主はわたしがどこに行っても、どこで歩んでも、わたしを守り、わたしを導き、わたしを支える。この言葉を与えられていることはわたしにとって本当に大きなことだ。わたしがどこにいたとしても、主ご自身はわたしと共にあり、わたしを支えてくださる。地上では旅人だと思っていても、わかっていても、一つのところに腰を落ち着けたい自分。でも、主はわたしがどこに行こうとも、わたしと共にあってくださる。わたしを支えてくださる。主よ、どうか、わたしをあなたの願うところで生かしてください。あなたの導かれるところで歩ませてください。主よ、どうか、わたしと共にあり、わたしを導き、わたしを支えてください。待ち望みます。あなたの使命をもう一度覚えさせてください。

「御霊によって歩きなさい。」(ガラテヤ人の手紙5:16)

聖霊様、どうかわたしの歩みを導いてください。どうか、わたしが肉の欲に振り回されてしまうことがないように、わたしが欲や情や、自分勝手な思いに支配されてしまうことがないように、どうか、わたしをいつもいつも聖霊様が支配してくださいますように。守ってくださいますように。わたしのうちに満ちて、わたしのうちにあふれてくださいますように。お願いします。今日、聖霊様に対して心を開かせてくださって、思い出させてくださって、ありがとうございます。

9月9日(木)

「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇133:1)

本当にそうだと思う。自分の心を開いて安らげるところ、本音で共にいて同じ方向を向いて進んでいけるところ、そのようなところに歩めることがすばらしいと思う。そのような交わりをもっともっと経験したいと思う。形だけの、表面だけの、ただニコニコしているだけの「兄弟姉妹」ではなくて、信頼して文句を言ったり、納得いかないところは、「それは違うと思う」と言ったり、共に喜んだり、共に泣いたり・・・そのように共にいることをもっともっと経験したいと思う。ヤマアラシの夫婦のようではなく・・・。主よ、本当にそのような交わりをお与えください。甘えではなく、本当に心からの尊敬をもって、交わりをもてるような、表面ではなく、心がふれあうような、そのようなところに導いてください。

「あなたがたの内にキリストの形がなるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」(ガラテヤ人の手紙4:19)

今日は、ここを自分に対する神の愛、神の痛み、キリストの痛みとして読んだ。わたしのうちにキリストの形がなるまでは、主はわたしのために痛みをもって見ておられる。わたしのために産みの苦しみをしてくださるという。「キリストの形がなる」ということ自体、本当に大きなことだと思う。そのようなことを主はわたしのうちになそうとしておられる。主よ、どうかわたしのうちに御子の姿を作ってください。わたしの心をいっぱいにしてください。あなたの愛で、あなたの力でいっぱいにしてください。そして、主よ、あなたのみ手の中で生きる者としてください。どうか、イエス様に似た者にわたしを造りかえてください。

9月8日(水)

「わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。」(詩篇131:2)

この131篇を何度も何度も読み返した。自分の力の及ばないところはおゆだねして、主にお任せして、小さな子供が母親の胸に安らうように、心を静め、魂を静め、主に望みを置き、そして、謙虚に、あくまでも謙虚に、主の導きに、主の胸の中で歩んでいきたいと思った。主よ、どうかわたしの心に謙虚な思いを与えてください。わたしの心に、あなたの前に人の前にへりくだる思いを与えてください。そして、わたしも主の胸に安らいます。自分の力の及ばないところは、主に祈り、主にゆだね、平安な思いで、主に従っていきたい。主よ、お応えください。わたしの使命をお示しください。あなたの願うことを教えてください。

「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう。」(ガラテヤ人の手紙3:8)

これはアブラハムへの約束だけれども、9節にあるように、それと共に、信仰による者たちに与えられている祝福でもある。ああ、なんという約束だろうか。わたしによって、わたしたちの存在によって、祝福が周りの人々、いや、すべての者たちに及ぶ、という。本当にすばらしいことだと思う。そのような生き方をしたい。本当に人々が祝福を受けるような歩みをしたいと思う。主よ、どうかわたしの歩みをお守りください。あなたへの信仰によって歩むことができますように、あなたを信頼して、あなたのみ手に陥って、歩むことができますようにしてください。どうか、わたしの周りの一人一人、教会の一人一人、近所の方々、家族、親戚、主よ、周りにどんどんあなたの祝福が流れていきますように。わたしの心を今日もあなたの命の水で満たしてください。

9月7日(火)

「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。」(詩篇127:1)

主が建ててくださること、主がそれを願われ、それを導いてくださることが一番大切だ。主が守り導いてくださることが大切だ。だから、わたしたちは本当に真実に主に聞き、主に求め、主が答えてくださることを祈ること、主に祈ること、それが何よりもわたしたちにとって大切なことだ。主よ、わたしたちの教会も会堂のために祈っています。でも、本当に主がそれを喜んでくださり、いや、主がイニシアチブをとってくださることが、一番大切です。それがなければ、「むなしい」と聖書は言っています。どうか、主よ、あなたの導きを示してくださり、あなたの喜ばれることを知ることができますように。主の導きに大胆に従っていくことができますように主よ、どうか語ってください。主よ、お語りください。しもべは聞きます。

「わたしは神の恵みを無にはしない。」(ガラテヤ人の手紙2:21)

福音以外のもので、たとえば良い行いなどで救われるとするならば、それは「神の恵みを無駄にすることだという」なぜなら、もしそうだとすると、キリストが十字架で死なれたことが無駄だったということになってしまうから・・・。本当にそうだなあ、と思う。本当にそれ以外に救いはないなあと思う。主よ、どうか、わたしを徹底的に福音の使者にしてください。福音を語り続ける者としてください。福音に生き続け、福音だけを語る者としてください。イエスの十字架の死のメッセージを、ほかの何よりも情熱をかけて語る者としてください。もっともっとそのことがわたしのうちにはっきりと示され、そこに喜びを感じていく自分でありますように。

9月6日(月)

「見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。」(詩篇123:2)

主よ、わたしもあなたの手に目を注いで待ち望みます。あなたを待ち望みます。どうか、あなたのみ手を動かしてください。あなたの奇跡をなしてください。特に人が救われる、という奇跡を求めます。待ち望みます。どうか、あなたがみ手を動かして、人々の心にふれ、魂にふれ、どうか、人が心を開いてあなたを受け入れますように、救われる人々が起こされますようにお願いします。主よ、あなたのみ手に目を留めます。どうか、あなたの奇跡を見せてください。あなたの御業を見せてください。

「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。」(ガラテヤ人の手紙1:10)

本当に自分の心の奥底をのぞかれるような思いがする。本当に自分は何を見ているのだろうかと。本当に主に目を注いで、主の言葉に耳を傾けているだろうかと。自分は人の顔色を見ていないだろうかと、人の期待に答えようとしていないだろうかと、思う。主よ、どうか、あなたの導きのみ手を見せてください。あなたの導きのみ手に従っていくことができますように、あなたのみ声に耳を澄ませて聞いていくことができますように。主のみ声に従っていくことができますように。主がわたしに語ってください。わかるように語ってください。そして、確信をもってあなたの見声に従っていくことができますように。

9月5日(日)

「わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります。」(詩篇119:67)

苦しまない前にはわからないことが、苦しむことによって見えてくることがある。苦しむことによってわかることがある。この詩人はみ言葉に従うこと、そこに生きることがどれほど大きな祝福であるか、そして大きな力であるか、それがわかった。それが見えた。わたしもそのようになりたいと思った。そして、教会に集う一人一人がそれを経験してほしいと思った。主よ、どうかわたしたちを取り扱ってください。苦しみの中で、痛みの中であなたとの出会いを経験する人々を起こしてください。あなたとの出会いを与えてください。わたし自身、苦しみの中にある人々に対して語る言葉のなさを覚えます。弱さを覚えます。どうか、あなたが答えをお与えください。あなたが解決をお与えください。新しく見えるものを与えてください。その目を開き、あなたの御業を拝させてください。

9月4日(土)

「主に寄り頼むは人にたよるよりも良い。主に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い」(詩篇118:8−9)

人にたよるのではなく、主にたよること、その大切さを教えられている。でも、本当に主にたよっているだろうか。心のどこかで、主にたよる前に、「何とかなるさ」と勘違いしていないだろうか。本当に主に頼るということを実際にしているだろうか。本当に主が助けてくださること、導いてくださること、すばらしいことをしてくださることを信頼しているだろうか。本気で主に頼っているだろうか。主よ、どうかわたしの心を導いてください。あなたを頼ることを教えてください。何となく、「何とかなるさ」ではなく、本気で主に求め、主から答えをいただいて歩んでいくことができますように。どうか、主よ、わたしの心に語り、わたしを導いてください。あなたを信頼して歩んで参ります。どうか、大いなるあなたの御力を見せてください。

「わたしたちが特に祈るのは、あなたがたが完全に良くなってくれることである。」(コリント人への第二の手紙13:9)

主よ、わたしも祈ります。わたし自身の心が守られ、家族の一人一人の心が守られ、そして、教会の一人一人の心が守られますように、完全に清められて、あなたのために歩む一人一人となりますようにお祈りします。あなたのご栄光を求め、そのために純粋に生きる一人一人としてください。どうか、主よ、祈りを聞き、教会に連なる一人一人の心を導いてくださいますように。思いを清めてくださいますように。そのためにも、まず、わたしの心を探り、わたしの心をあなたに対してもっと真実であらせてください。

9月3日(金)

「主は岩を池に変らせ、石を泉に変らせられた」(詩篇114:8)

イスラエルの歴史の中で、荒野の旅はどれほど大きな意味のある時であっただろうかと思う。荒野の中で彼らは主こそが導き手であり、必要を満たしてくださる方であり、養ってくださる方であることを覚えたのである。主が共におられることを経験したのである。私たちの歩みの中でも、岩が泉となる、それは本当に大きな慰めだ。大きな力だ。主よ、どうか、あなたが、私に石が泉になるのを本当に見せてください。そのような経験をお与えください。つらい経験が、痛い経験がそれで終わってしまうのではなく、主よ、あなたの泉がそこからあふれ流れるのを見せてくださいますようにお願いします。どうか、あなたの御業を拝させてください。

「わたしの求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身なのだから。」(コリント人への第二の手紙12:14)

なんて素敵な言葉だろうかと思った。持ち物ではなく、あなた方自身を求めている、って。本当にこれは大切なことだと思った。わたしも本当にこのような思いをいつもいつも持ち続けていたい。意識するところはもちろん、無意識の部分までも、本当に人々を愛し、人々とふれあうことを求め、人との出会いを大切にしていきたい。主よ、どうかわたしの心をお守りください。このパウロと同じように、わたしも人間を求め、人間の持っているものに目をとめることがありませんように。どうかわたしの心を守り、わたしに清い思いを与えてください。人を大切にすることを教えてください。

9月2日(木)

「彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。」(詩篇112:7)

悪いおとずれ、それを恐れない。何ということだろうか。そのように生きることができるのだろうか。そのように歩むことができるのだろうか。悪いおとずれは、やはりいやなものだろう。でも、そこで主を信頼して歩むことができるという。主を信頼して、心が揺るがない、という恵みがあるという。主よ、どうかわたしの心をいつもいつもお守り下さい。悪いおとずれがある前に、心が整えられて、守られて、悪いおとずれが来た時にも、動かされない心であるように、守ってください。支えてください。あなたがいつもいつも共にいて、支えてくださいますように。揺るがない平安をお与え下さい。

「彼らはキリストの僕なのだろうか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。」(コリント人への第二の手紙11:23)

パウロは気が狂ったようになって、「わたしは主のしもべだ」と断言した。わたしはどうだろうか。わたしは本当に主のしもべだろうか。わたしは主のしもべだ。本当にそうだ。でも、そのように生きているだろうか。そのように歩んでいるだろうか。もっと主の声に聞いていきたいと思う。主の声に答えていきたいと思う。主が語られる声を聞きながら、主の望まれることをさせて頂きたいと思う。主よ、どうかあなたの導きに従う者としてください。あなたの僕として下さい。あなたの僕として生かしてください。もっともっとあなたのみ声を聞き、あなたの御声に従っていく者としてください。

9月1日(水)

「どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。」(詩篇107:31)

わたしたちはいかに主の恵みを忘れやすいものかと思わされる。主の恵みを忘れて、次に困難がやってきたときに、神を信頼できなくて、あたふたとしやすい存在かと思う。主がわたしたちを忘れてしまったと、勝手に言いやすいことかと思う。感謝を忘れやすい者だろうかと思う。主よ、感謝します。あなたがしてくださったひとつひとつのことについて感謝します。あなたが与えてくださった出会い、あなたが与えてくださった使命、あなたが与えてくださった試練の中での助けと解決。本当にあなたに感謝することがこんなにたくさんあったかと思います。主よ、わたしの心を守り、あなたへの感謝のうちに歩むことができますように助けてください。あなたを信頼して、あなたの最善を信頼して進んでいくことができますように。

「自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。」(コリント人への第二の手紙10:18)

主の推薦。主が与えてくださる働き場、主が与えてくださる使命。そこに立っていくことの大切さをもう一度思わされた。今、もう一度、自分の働きのために祈る時を持っている。主が推薦してくださる道、主が私を推薦してくださるところ、主が私を用いようとされているところ、主よ、それをはっきりと示してください。そして、主よ、あなたの思いをあらわしてください。そこに従っていけますように。そこに思い切って従っていくことができますように、助けてください。主よ、あなたのみ言葉を待ち望みます。

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