あなたのみ言葉はわが足のともしび、
わが道の光です。

10月31日(日)

いっぺんに更新は心苦しいけれども、これは聖書を読んで祈る時間の方を、このページの更新よりも大切にしたかったから。この更新に一生懸命になることを、主の前に祈り、主から恵みをいただくことよりも優先したくなかったから。でも、世界中で、このページの更新を待っていた方々には申し訳ないと思います。でも、わたしと神様との関係が祝福されることが、すべての始まりだと思いますので、お赦し下さい。

「彼らは、手軽にわたしの民の傷を癒し」(エレミヤ書6:14)

人間の心の傷なんて、そんな簡単に癒えるものではない。神様の奇跡がなければ癒えるものではない。なのに、なんと気休めのような、癒しや、慰めがはやっているのだろうか。本当に恐ろしいと思う。そして、人の痛みが簡単に癒されるように思いこんでいる人々のいかに多いことか。簡単に言うな、と思う。無責任な気休めなど言うな、と思う。自戒の思いもある。自分が今まで、どれほど、気休めのようなことを語ってきたか。本当の人の傷を本気で、見てきたか。と思わされる。主よ、どうかわたしの口を守って下さって、無責任な、気休めのような言葉を語ることがないように守って下さい。そして、主よ、本当にあなたによる癒しをなしてください。あなたの癒しの御業を表して下さい。そのためにわたしを用いて下さい。

10月30日(土)

「自分の心の前の皮を取り去れ」(エレミヤ書4:4)

形ではなく、心を本当に真実にして、主の前にひれ伏す。わたしにとってそれがどれほど大切なことであり、どれほど大きな恵みであろうかと思う。主の前にひれ伏して、ありのまま出る。そのまま、カッコを付けないで、ありのまま。主よ、感謝します。あなたの前にありのまま立てることに心から感謝します。どうか、あなたの恵みに生かして下さい。あなたの前にそのまま出られることが、ありのまま出られることがわたしの喜びです。わたしを受け入れて下さることに心から感謝します。いつもいつも真実であることができますように。真実に歩むことができますように。

「『幕の内』にはいり行かせるものである。」(ヘブル人への手紙6:19)

幕の内に入ることができる。それは「至聖所」と呼ばれるところであろう。主がおられるところ、主の臨在の幕の内、主との親しい交わりの中。そこに私たちは入れられる。今週、その恵みを経験させて頂いた。それは痛みから始まったことだけれども、痛みによって引き起こされたことだけれども、本当に主に祈ることを教えられ、そこで慰めをいただき、力をいただき、立ち上がることができた。痛みの意味にも目が開かれた。本当に主のそばに行くことがどれほど力であり、平安であろうかと思う。主よ、どうかわたしの歩みを祝福し、あなたの恵みの中に生かして下さい。歩ませて下さい。あなたとのもっと親しい関係の中にわたしを歩ませて下さい。

10月29日(金)

「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生まれないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした。」(エレミヤ書1:5)

主がわたしを主のために召され、わたしが生まれる前から、そのように知って、導いて下さっていた。そのことを今日は個人的に、自分に語られていることとして感じた。主がわたしを生まれる前から、母の胎に宿る前から、選んで下さっていた。わたしにその使命を与えて下さっていた。主よ、あなたに感謝いたします。そのことを教えて下さってありがとうございます。主がそのことに気づかせて下さったことに心から感謝します。どうか、あなたが導いて下さい。わたしを用いて下さい。大きく用いて下さい。あなたのために生かせて下さい。あなたを待ち望みます。

「永遠の救の源となり・・・」(ヘブル人への手紙5:9)

永遠の救い。私たちの一時的な「ほっとする」とか、そういうレベルだけではなくて、永遠の救いを主は私たちに与えて下さる。永遠の世界における救いを与えて下さる。そこに私たちの慰めがある。いつもは「この地上での救い、この地上での喜び」の方がぴんと来る。でも、今はこの「永遠の救い」がどれほどありがたいものであり、力強いものであり、支えであろうかと思う。主よ、あなたが私たちのために私たちに永遠の救いを与えて下さるお方であることを心から感謝します。あなたの守りの中で、永遠の世界に安らえることに心から感謝します。どうか、あなたの休みをわたしに与えて下さい。わたしに満たして下さい。

10月28日(木)

「彼らはわが栄光をもろもろの国民の中に伝える。」(イザヤ書66:19)

わたしたちは主の栄光を表すために生かされている。わたしたちの使命は神のすばらしさを人々の間に伝えることなのだ。そのために生かされているのだ。主よ、どうかわたしの歩みを守り導いて下さい。あなたの栄光を表す器として用いて下さい。どうか一つ一つの言葉、一挙手一投足が主のすばらしさをあらわすものとなりますように。主がわたしを用いて下さい。あなたの器として下さい。わたしは土の器にすぎません。ですから、あなたの輝きを表して下さい。

「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」(ヘブル人への手紙4:16)

本当にいつでも主のところに行けることが、わたしたちの救いであり力であることを思う。どんな時でも、どんな場合にも、主のもとに駆け込んでいける。その幸いを思わされる。わたしたちの歩む道は晴れ続きではない。雨の日もあり、土砂降りの日もあり、嵐の日もある。だから、そんなときにも主のもとに飛び込んでいける。そして、そこに行けば受け入れられ、力が与えられる。だから、主のもとに飛び込んでいこう。主のもとに行こう。主よ、感謝します。あなたのもとに行けることに、あなたの前に出れることに感謝します。あなたのもとに歩める日々の故に感謝します。

10月27日(水)

「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって彼らを救い・・・」(イザヤ書63:9)

主のわたしたちに対する愛、熱い思いを感じさせられた。主がわたしたちの悩みに寄り添ってくださる。主がわたしたちの痛みを自分の痛みとしてくださる。わたしたちの痛みをわかっていてくださる。しかし、それだけではなく、救ってくださる。わたしたちを立ち上がらせてくださる。主よ、どうかわたしたちを助けてください。そして、痛みを覚えておられる方々一人ひとりを助けてください。どうか、主よ、あなたの力を拝させてください。あなたを待ち望みます。主よ、どうか支えてください。感謝します。

「もしわたしたちが、望みの確信と誇りとを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。」(ヘブル人への手紙3:6)

最後まで希望と誇りとを持ち続けることが大切だとこの聖書の箇所は語っている。最初の確信を、最初の信仰を持ち続けることが大切なのだ。主よ、わたしの心を守ってください。わたしは弱い者です。どうかわたしの心を守り、支え、導いてください。最後まで信仰を持ち続けて歩むことができますように。どうか主よ、お助け下さい。わたしを支えてください。導いてください。あなたがわたしの頼りであり、あなたがわたしの力です。お願いします。そして、教会に連なるお一人ひとりをお守り下さい。お導き下さい。

10月26日(火)

「もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。」(イザヤ書60:3)

わたしたちはこの地にあっては主の大使である。神の国の代表である。自分の事を弱い者、小さい者だと思っていても、主に使命をいただいて立たされている者である。神の国の代表として生かされている者である。だから、本当に堂々と歩むべきだと思う。胸を張って、福音を語り、人々の叫びに耳を傾ける者でありたい。主よ、どうかわたしを助けてください。あなたがわたしをあなたの僕として、この地に立たせてくださいました。この地に使命を与えてくださいました。ですから、主よ、どうかあなたが力を与え、あなたに仕えさせてください。あなたの力を満たしてください。

「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。」(ヘブル人への手紙2:18)

イエスがわたしたちのために、わたしたちのことがわかるために、わたしたちの不条理の中で悶々とする思いがわかるために、わたしたちのすべてがわかるために、試練を受けられた。そんな必要はなかったのに、そんな義務はなかったのに、わたしたちのために試練を受けられた。主よ、感謝します。あなたがわたしたちのことをわかっていてくださることを感謝します。わたしたちはあなたのことがわからないときがあります。でも、あなたの方ではいつもわかっていてくださっていることを心から感謝します。これからも共にいて下さい。わたしと共にいてください。

10月25日(月)

「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55:9)

わたしたちのわからないことがある。わたしたちには理解できないことがある。それをそれとして受け入れる勇気が欲しい。それを受け止める平安が欲しい。自分は余りにも近視眼的にしか周りのことを見ることができない。だから自分の考え、自分の理解を絶対にしない謙虚さを持って歩んでいこう。主よ、あなたの思いはわたしの思いを超えていること、本当に謙虚に思わせてください。そして、あなたの思いを求める者としてください。自分の考えを絶対化することがありませんように。そして、主よ、あなたの思いを教えてください。あなたの御言葉を与えてください。

「この終わりの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。」(ヘブル人への手紙1:2)

それまでは預言者たちによって語られたことが、イエスによって、語られている。聖書を読むならば、それによって神の御心がわかる。イエスの十字架をみれば神の愛がわかる。なのに自分はなんて鈍感なんだろうと思う。もっともっと聖書を読んでもっともっと神様のことを知りたい。もっともっと聖書を愛する心を持ちたい。主よ、どうかわたしを助けてください。わたしが聖書から、イエスから、御心を知ることができますように。どのようにあなたが願っておられるのか、見せてください。どうか、わたしにあなたのみ思いを教えてください。もっともっとあなたのみ思いに敏感な者となしてください。

10月24日(日)

「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。」(イザヤ書53:11)

イエスの思いはいつも人々の救いにあった。いつもわたしたちの救いにあった。イエスはそればかり考えられて、そして自分を与えられた。それに比べて自分はどうだろうか?自分は本当に人々の救いだけを見ているだろうか?主よ、わたしに祈らせてください。一人ひとりの方々の救いを祈り続けさせてください。それだけを見つめていくことができますように。立派な建物、大きな教会、そのようなものよりも、人々の救いを見つめさせてください。

10月23日(土)

日本では大きな地震で被害が出ているようです。阪神の時に比べるとインターネットの発達で、ずいぶん早く情報が入るようになっていますが、それ故に、遠く離れていることの歯がゆさを感じます。困難と恐れ、不安の中にある方々のためにお祈りいたします。できることがあったら、お知らせ下さい。

「わたしを義とする者が近くおられる。だれがわたしと争うだろうか。」(イザヤ書50:8)

わたしを義と認めてくださる。わたしの味方になってくださるお方がここにおられる。だから、わたしは恐れない。わたしは人の言葉に振り回されない。わたしは人の顔色をうかがわない。わたしにはわたしを愛し、わたしのために命を投げ出されたイエスがおられるから、わたしは恐れない。わたしは逃げない。わたしは大丈夫だ。主よ、あなたが共にいて下さるからありがとうございます。どうか、わたしが今日出会う一人ひとりにあなたの大きさ、あなたとともいることのすばらしさを伝えることができますように。言葉だけではなく、態度や行動を通して、あなたのすばらしさが表れていきますように。

「彼がしばらくの間あなたから離れていたのは、あなたが彼をいつまでも留めておくためであったかもしれない。しかも、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟としてである。」(ピレモンへの手紙15−16)

ピレモンにとってオネシモの犯した不始末は本当に頭に来ることだっただろうと思うし、忘れてしまいたいような出来事であったであろう。でも、神はそのような出来事をも良きに変えて、新しいことをしてくださった。神は大きな事をしてくださった。ピレモンを兄弟として返してくださったのだ。人間の思いを超えた出来事をしてくださった。その神様がわたしの人生にも関わってくださっている、ということは本当に大きな事だ。わたしの人生に起った、余り思い出したくないようなこと、そのようなことも良きに変えてくださることのできるお方なのだ。だったら、安心して歩んでいこう。いろいろな起ったことを悪い思い出として思い出したり、逆にふたをして思い出さないように押さえたりしないで、本当に主のみ手にゆだねて、歩んでいこう。主よ、わたしの人生にもピレモンにしてくださったような出来事を与えてください。あなたにはそれがおできになることを感謝します。

10月22日(金)

「生まれ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。」(イザヤ書46:3)

主がわたし自身を作ってくださっただけではなく、わたしを運んでくださる。わたしを持ち運んでくださる。いや、もうすでに今まで持ち運んでくださっていた。これからも主はわたしを持ち運び続けてくださる。わたしが今ここにいるのも、主がわたしを持ち運んでくださったからだ。わたしを運んでくださったからだ。だから、これからの歩みも心配しなくていい。これからの歩みも主に運んで頂けばいい。主よ、あなたのみ手にゆだねます。わたし自身の歩みも、わたしたち家族の歩みも、教会の歩みも、あなたが一歩一歩導いてくださることを感謝いたします。あなたのみ手の中で、あなたの運ばれるままに歩んでいきます。どうか、あなたのすばらしさを見せてください。わたしに拝させてください。

「わたしは、あなたがそれらのことを主張するのを願っている。」(テトスへの手紙3:8)

主はわたしたちが福音を伝えることを願っておられる。はっきりと聖書の語るメッセージを伝えることを、宣言することを願っておられる。わたしに対するメッセージとして受け取った。主よ、わたしはあなたのメッセージを主張します。わたしはあなたが救い主であることを、唯一の救い主はイエスであることを、あなたに向かって告白し、そして、人々に対して主張します。どうか、わたしが福音を語るときに、本当に恐れないでそれを語ることができますように、そして、本当にわかるように語ることができますように助けてください。あなたに祈ります。祈りを聞いてください。救われる方々を起こしてください。

10月21日(木)

「あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。」(イザヤ書45:5)

わたしたちが主を知らないときから、主はわたしたちのことを知っていてくださって、わたしたちを強くしてくださる。わたしたちが気がつかないときにも主はわたしたちに力を与えてくださっていた。今も、主を知らない方々にも主は力を与えてくださる。だから、わたしたちは希望がある。わたしたちはとりなしの祈りができる。主よ、わたしたちの周りにも、このイスラエルの民のように、まだあなたを知らない方々がおられます。どうか、その方々にもあなたの力を注いでください。そして、やがての日、あなたを知るものとされて、「ああ、あのときの力は主から与えられていたのだ」と気がつくことができますように。主よ、今日も、祈ります。わたしの出会う一人ひとりにあなたのメッセージを運ぶことができますように、お伝えすることができますように。わたしに今日、そのチャンスが与えられなくても、主よ、あなたは触れ続けてくださる方であることを感謝します。待ち望みます。

「すべての人を救う神の恵みが現れた。」(テトスへの手紙2:11)

「すべての人を・・・」なのだ。すべての人を主は招いておられるのだ。すべての人の前に主のプレゼントが差し出されているのだ。だから、すべての人にそれを受け取ってほしい。すべての人に伝えたい。すべての人を主は救おうとされているのだ。主よ、あなたの恵みに感謝します。わたし自身がその喜びに生かされていることに感謝します。どうか、このプレゼントを人々に語らせてください。どうか、そのようなチャンスを与えてください。わたし自身が一瞬一瞬、あなたの与えてくださる「恵み」を感謝して生きていくことができますように、その中で、語ることができますように。会話を守ってください。

10月20日(水)

「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、・・・」(イザヤ書43:19)

主は新しいことをしてくださる。わたしたちのうちに新しいことをしてくださる。なんだろうか?今まで経験したことのないようなことだろう。主よ、あなたが新しいことをしてくださることを感謝します。わたしたちが過去を振り返って生きるのではなく、前に向かって歩いていけることを感謝します。どうか、あなたが新しいことをしてくださいますように。それを信頼して歩んでいくことができますように。今からあなたがどんなことをしてくださるのか、楽しみです!待ち望みます。

「信仰を同じうするわたしの真実の子テトスへ。」(テトスへの手紙1:4)

信仰を同じくする人々、そのような人々が与えられているとはなんという幸いだろうか。なんという恵みだろうか。同じ信仰を与えられ、同じ信仰に生かされている人々が周りにいるとはなんという恵みだろうか。その恵みを忘れてはならないと思った。そのことを軽く見てはいけないと思った。主が与えてくださった友、主が与えてくださった同労者。だから、感謝して歩んでいこう。同じ信仰を持っていることに集中していこう。考え方の違いや、性格の違い、習慣の違いに目を留めるのではなく、同じ信仰を持っているんだという事のすばらしさに目を留めていこう。主よ、あなたが信仰を同じくする方々をこんなにたくさん与えてくださってありがとうございます。更に救われる方々を多く起こしてください。

10月19日(火)

「しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない。」(イザヤ書40:8)

神の言葉はいつまでも変らない。いつも変らない。どんなに世界が移り変わっていっても、どんなに動いていっても、神の言葉はいつも、いつまでも変らない。だから、その主の言葉を信頼して、その主の言葉の力を信頼して歩んでいこう。進んでいこう。主よ、どうか私がいつもあなたの言葉を見つめながら、信じ続けていくことができますように。どうか、主が私に御言葉を語り続け、その確かなことをあなたご自身が証明してくださいますように。御言葉を語ってください。

「しかし、わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて、すべての異邦人に聞かせるように、主はわたしを助け、力づけてくださった。」(テモテへの第二の手紙4:17)

主が御言葉が語れるように励ましてくださる、力づけてくださる。助けを与えてくださる。主よ、今日もわたしの歩みを助けてください、力づけてください。わたしがあなたの言葉を語ろうとするときに、余すところなくその福音を語ることができるように、どうかわたしを助けてください。今日の一つ一つの集会を祝福してください。どうかあなたの御言葉を大胆に語らせてください。

10月18日(月)

「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙を見た。」(イザヤ書38:5)

主がヒゼキヤの涙の祈りに答えて、彼に15年の命をいただいた。これはすごい答えだなあと思う。もう、わたしたちは自分の寿命なんて決まっていて、全然変えられるようなものではないとおもっている。でも、ここで、主はヒゼキヤの涙の祈りを聞かれて、それを延ばされたのだ。祈りをバカにしてはいけないと思った。本当に真剣に祈りたいと思った。本当に心から祈って、私も聞いて頂きたいと思った。主よ、祈りへと招いてくださってありがとうございます。祈りへと励ましてくださってありがとうございます。どうか、救われる方々が起こされますように。私の祈りも聞いてください。イエス様を信じてあなたの元に帰ってくる方々をさらに起こしてください。お願いします。

「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(テモテへの第二の手紙3:12)

迫害を受けるのは当然なのだとこの聖書の言葉は語っている。主はわたしたちが迫害を受けることをご存じなのだ。わたしたちは迫害を受けるとわかっているのだ。わたしたちが世に対して妥協したり、媚びを売ったりする必要はない。本当に堂々と信じていることを語ればいいのだ。そこで迫害があるかもしれない。波風はいやなものだ。でも、本気で福音が語られて、福音が生きられるときに、軋轢は起るものだ。主よ、私の心守り、あらゆる恐れから守ってください。どうか、あなたのことを真実に証して行く者としてください。迫害や反対を恐れない勇気を与えてください。大胆さを与えてください。

10月17日(日)

「あなたはアッシリアの王セナケリブについてわたしに祈ったゆえ・・・」(イザヤ書37:21)

ヒゼキヤ王が祈ったときに、主はそれを聞かれた、祈ったゆえに主は答えてくださった。さあ、祈ろう。困っていることについて祈ろう。願っているように進まないことについて祈ろう。主が聞いてくださることを信じて祈ろう。心から願って祈ろう。主は祈る者に対して、答えを与えてくださる。頭で考えているだけではだめだ。悩んでいるだけではだめだ。願っているだけではだめだ。祈ること、求めることを期待しておられる。主よ、あなたに祈ります。主よ、お応え下さい。どうか、主を信じて生まれ変わる方々が次々と起こされていきますように。主よ、どうか、救いの御業をなしてください。

10月16日(土)

「主にあがなわれた者は帰ってきて・・・」(イザヤ書35:10)

ただ、主のあがないによってのみ、主のあがないの故にのみ、わたしたちは、主に生かされているし、主の元に行くこともできる。祈ることもできるし、このように聖書の言葉が私の心に意味のあるものとして響いてくる。主よ、あがないの故に感謝します。あがないが与えられていることに感謝します。自分の力ではなく、自分の誠実さではなく、よいことをしようとか、愛を与えようとか、滅私奉公をしようとか、そのようなことではなく、主よ、あなたがあがなっていくださったがゆえに生きることができるものであることを感謝します。もっともっとその意味の深さを感じさせてください。経験させてください。

「主の僕たる者は争ってはならない。誰に対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。」(テモテへの第二の手紙2:24−25)

誰に対しても親切で・・・って、難しいなあ、と思う。自分の弱さはそこにあるなあ、と思う。なんて弱い存在で、なんて自分勝手な人間なんだろうかと思わされている。だから、誰に対しても親切になりきれない自分がいる。きつい態度を取ってしまったり、ちょっとしたことで人を傷つけたり。このような言葉を読むと結構ぐさっとくるなあ。テモテはどんな風に感じただろうか?一般論として読めただろうか?それとも、自分の足りなさにまた落ち込んだりしなかっただろうか?主よ、私は誰に対しても親切にできるほど人間ができていないことを痛感します。どうか、私を助けてくださって、愛を与えてください。もっと「できた人間」になれるように、主が必要な訓練を与えてください。

10月15日(金)

「助けを得るためにエジプトに下り、馬にたよる者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない。」(イザヤ書31:1)

私は本当に主にたよっているだろうか。日本から新しくこちらに引っ越して来られるクリスチャンの方がおられると期待し、誰かが他の地に移られると寂しがる。本当に主にたよっていくならば、必要な方が送られてきて、他のところで必要な方がおられると、そちらに導かれていくだろう。それを本気で信じて信頼していくことが、今の自分には本当に必要なことだと思う。主よ、あなたを信頼します。人に信頼するのではなく、財力に信頼するのではなく、人も必要なものも与えてくださるあなたご自身に信頼します。どうか、あなたがわたしたちに必要なもの、すべて与えてください。すべての源である、あなたに目を注ぎ、あなたに期待し、あなたに信頼します。どうか、あなたが勝利を与えてください。

「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」(テモテへの第二の手紙1:7)

主がわたしたちに与えられるのは、臆病な霊ではなく、強い霊だ。それは力を与え、愛を与え、そして慎むことを教えてくれる霊だ。そのような霊をわたしたちに与えてくださっているのだから、その聖霊様に信頼して歩んでいくことが大切だと思う。主よ、あなたが私の主であることを感謝します。あなたがもうすでにわたしのうちに力と愛と慎みとの霊を与えてくださっていることに心から感謝します。どうか、私を用いてください。どうか私自身があなたの与えてくださっている力によって、確信を持って歩んでいくことができますように。確信にあふれて歩んでいくことができますように導いてください。

10月14日(木)

先週末から、いろいろなことがあり、なかなか更新に取りかかれませんでしたが、守られ、支えられてきました。まとめて更新します。

「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。」(イザヤ書30:18)

主が私のことを待っておられる。私自身はばたばたして、本当に静まって神を待ち望むことのできないものだけれども、そんな私を主は待っていてくださる。私が静まるのを待っていてくださる。主よ、感謝します。あなたが今日を待っていて、あなたの前に出るのを待っていて、私に恵みを注いでくださることに感謝します。あなたと共に歩めることを、あなたが私のペースで歩いてくださることを心から感謝します。どうか、あなたと共に歩む喜びを満たし、感謝に生きさせてください。

「わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように。」(テモテへの第一の手紙6:17)

わたしたちがたよるのはお金ではなく、物ではなく、神様ご自身。神ご自身に望みをおくことが大切だ。主がわたしたちに必要な物を与えてくださるのだから。どんなにわたしたちが物に対する欲望に弱い者で、愚かな者だろうかと思う。そして、物自体を求めてしまうことが多いことか。主よ、どうか私の心を守ってください。どうかわたしがあなたを求め、あなたご自身に望みをおいて生きていくことができますように。主よ、導いてください。あなたがいつもいつも必要なものを満たしてくださることに心から感謝します。

10月13日(水)

「信ずる者はあわてることがない。」(イザヤ書28:16)

信じる者はあわてる必要がない。あわてなくていい。あわててはいけないのではなく、あわてなくてすむのだ。主を信頼しているから、主を当てにしているからあわてなくていいのだ。主よ、感謝します。あなたがおられること、あなたが支えてくださること、あなたに祈れること、主よ、あなたに感謝します。あなたを信じて、恐れなくてよいことを感謝します。私の心をお守り下さい。守り続けてください。あなたの守りの中に生かしてください。私が恐れなくていいように、これからもあなたと共に生かしてください。

「自分をきよく守りなさい。」(テモテへの第一の手紙5:22)

主よ、あなたが私にきよくあることを望んでおられることを知っています。そのように教えてくださったことを感謝します。どうか私の一つ一つの行動を守ってください。私の心の思いを守ってください。あなたが私にいつもいつも語りかけ、あなたの願っておられることを教えてください。私をきよくしてください。私の心を守ってください。

10月12日(火)

「主はとこしえに死を滅ぼし・・・」(イザヤ書25:8)

このメッセージはものすごいと思う。ものすごいメッセージだと思う。主はとこしえに死を滅ぼされると。私たちにとって死はどれほど恐ろしいものだろうかと思う。死はものすごい力をもっていると思う。死はおしまいだ、別離だ。死は私たちを孤独にする。死は私たちを恐れさせる。でも、主はその死をとこしえに滅ぼしてしまわれる。主よ、あなたの約束に感謝します。すでにイエスの十字架によって死は骨抜きにされてしまったこと、死は恐れるに及ばないことを知っています。でも、やはり私たちは不安や恐れを覚えます。だから、主よ、約束通りに、死を全く滅ぼしてしまってください。どうか、早く死を滅ぼし、私たちが永遠の命を100%楽しむことができるように、どうかあなたの勝利を完全にとって下さい。

「長老の按手を受けた時、預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない。」(テモテへの第一の手紙4:13)

私が与えられている恵みの賜物。それは何だろうかと思わされた。そして、それを自分は軽視していないだろうかと思わされた。本当に本気で主の恵みの賜物を喜びとして、感謝して、それを用いているだろうかと。私に与えられたもの、与えられた経験を本当に主に用いて頂いているだろうか。主よ、私はあなたからたくさんのメッセージをいただき、賜物もいただいています。経験も与えられました。どうか、私がそれを本当に大切にして、そして、それを用いて主の栄光を拝していくことができますように。どうか、あなたのすばらしさを人々に示していくことできますように。主よ、どうかあなたの賜物をもっともっと大切にしていくことができますように。

10月11日(月)

「しかしあなたがたはこの事を成された者を仰ぎ望まず、この事を昔から計画された者を顧みなかった。」(イザヤ書22:11)

自分の力で勝ちを得たと思っていた人々。でも、本当は主がそのことを成してくださっていたのだ。主がそのことを成されたのだ。そこから目をそらして、そこから目を背けて、自分の力ですべてをやったかのように思ってしまった。その愚かさを主は責められた。私はどうだろうかと思った。本当に主を見ているだろうか。本当に主に感謝し、主に従っているだろうか。すべてが主のみ手の中にあることを覚え、祈ったことが聞かれたときに感謝をささげているだろうか。主よ、どうか私をあなたに感謝をささげる者としてください。あなたに感謝をささげ、あなたの導きに従って歩む者としてください。

「自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。」(テモテへの第一の手紙3:5)

厳しい言葉だ。でも、本当に祈り深く、神を見上げながら妻や子供に接していないで、教会で「牧師だから」と急に霊的な者であるかのように振る舞っても、そんなのはむなしい。本当に日々の歩みの中で、主と共に歩み、家族を霊的に導いているならば、それが自然と教会の方々や、周囲の方々への牧会につながっていくのではないかと思った。その点では自分自身大いに反省すべきところがある。本当にprivateな生活の中で、主と共に歩み、家族の心を主に招いていく者でありたいと思った。主よ、どうか、私の家庭生活を祝福してください。家庭においても、家族を主に招いていくことができますように。その自然な姿が、教会でも本当に人々を主にお招きすることにつながっていきますように。

10月10日(日)

「主はこれを撃たれるが、またいやされる。それゆえに彼らは主に帰る。主は彼らの願いをいれて、彼らをいやされる。」(イザヤ書19:22)

癒されるが故に、神の元に帰るのか、神の元に帰ったが故にいやされるのか。どちらなんだろうか。ここを読むと、どちらとも読める。主が癒されるが故に、主に帰るようにも読める。私たちは逆だと思っている。帰るから癒される・・・と。でも、その反対もあるのだろうと思う。いやしてくださったが故に、主の元に帰ろうと思う。思える。だから、とにかく主に祈ろう。主が癒しの主であり、慰めの主であり、まだ主に帰っていない人々にも、私たちの存在を通して、神の癒しが届くように。神の恵みが届くように。それによって救われ、慰められ、立たせられる人々が起こされていくことを待ち望みながら・・・。主よ、あなたの癒しを求めます。私の周りの人々に、私が出会う人々に、私を通してあなたの恵みが届きますように。

10月9日(土)

「その日、人々はその造り主を仰ぎのぞみ、イスラエルの聖者に目をとめ・・・」(イザヤ書17:7)

人々は自分たちを造られたお方を仰ぎのぞむという。自分が造った神ではなく、自分が考えた神ではなく、造り主を仰ぎのぞむようになると言う。やがてそういう日が来るのだ。やがて人々はそのように思うのだ、と楽観的に見ることができるのは本当に素晴らしい力だと思う。主よ、わたしの歩みを導いてください。人々は必ず神を信じ、自分を造られた神を信じるようになるのだという信仰に立って伝道させてください。「難しい、無理だ」という思いに支配されることがないように。人は必ず造り主を求めるのだ、と言う確信に立たせてください。そして、大胆に語る者となりますように。福音を語る者となれますように。

「神はすべての人が救われて真理を悟るに至ることを望んでおられる。」(テモテへの第一の手紙2:4)

神はすべての人が救われることを望んでおられる。すべての人が・・・。私たちの側で制限を付けたり、判断を下したりしてはいけないんだと思う。私たちの方で決めつけてはいけないのだと思う。主はそのように願っておられる。だから、私たちはいつも力を尽くして主の愛を伝えていこう。主よ、私の歩みを導いてください。どうか、いつでも、誰に対しても、福音を自然に伝えることができるように、神の愛を伝え続けていくことができるように助けてください。すべての人が神の元に帰ることをあなたが望んでおられることを決して忘れることがないように・・・。出会うすべての人々の救いを願いながら、歩んでいきます。主よ、人が救われるのを見せてください。経験させてください。

10月8日(金)

「その枝はさきにはヤゼルにまでいたり、荒野にまではびこり、そのつるは広がって海を越えた。」(イザヤ書16:8)

モアブの国も、このころは興隆を誇っていた。豊かだった。でも、そのモアブにも滅亡が迫っていた。これはモアブだけではない、アッシリアの国にも、まだ勢力を広げる前のバビロンの国にも、主のさばきの宣告がなされる。本当に今豊かな国も、やがては衰えていく日があるのだ。主の前には、本当に小さな存在なのだ。いつの間にかアメリカだけは大丈夫なような神話ができてしまっている。日本も大丈夫じゃないかと漠然と思っている。でも、この時代の人々にとって、アッシリアの滅亡は想像できただろうか?イエスの時代の人々にローマ帝国の滅亡は想像できただろうか。本当にわたしたちは最後に頼れるのは神様しかいないのだということを忘れてはならない。忘れたくない。主よ、どうか私を支え、あなたが私のたよるべきお方、ただ一つのたよるべきお方であることを教えてください。覚えさせてください。

「わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。」(テモテへの第一の手紙1:12)

主は私を強くしてくださる。強くしてくださった。私は強い。そして、その力の源は主だ。私を強くするのは、自己暗示でもなければ、何かをやり遂げた自信でもない。ましてや誰か他の人の存在や、人の励ましでもない。ただ、主が私を強くしてくださる。ただ、キリストが私を強くしてくださる。だから、主だけを見上げて、主だけを信頼して歩んでいこう。主よ、どうか私を強くしてください。もっともっとあなたと近く歩み、あなたの御力によって生きる者としてください。

10月7日(木)

「異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結びつらなり・・・」(イザヤ書14:1)

神様がわたしたちを解放なさるとき、救われるときに、まだ神の元に来ていない人々もそこに招かれ、加えられ、結びつけられる。まさに、「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」という言葉の通りだと思う。そして、それは単に「家族」だけではなく、周りにいる多くの人々の祝福となっていくのだ。主はそのことを約束してくださっている。だから、恐れないで、大胆に歩んでいきたいと思う。主の祝福を託された者として、喜びにあふれて出て行きたいと思う。今日の集会においても、私自身をあなたの祝福を持ち運ぶ者としてお用い下さい。教会の一人ひとりをあなたの祝福を持ち運ぶ器としてお用い下さい。

「どうか主の言葉が、あなたがたの所と同じように、ここでも早く広まり、また、あがめられるように。」(テサロニケ人への第二の手紙3:1)

本当にこれはまた私の祈りでもある。主よ、あなたの御言葉がここにおいても多くの人々に広まっていきますように。多くの人々があなたを受け入れることができますように。主よ、どうか救われる方々が起こされますように。人があなたのことを信じて喜びにあふれて歩んでいく姿を見せてください。あなたの喜びをわたしたちのうちに満たし、わたしたちの周りの人々に満たしてください。主よ、どうかお願いします。

10月6日(水)

「彼は主を恐れることを喜びとし・・・」(イザヤ書11:3)

これはキリストのことを預言している言葉だが、「主を恐れることを喜びとする」ということはどういう事だろうかと思った。主を恐れる、とか、主を喜びとする、とか、それぞれの意味はわかるけれども、主を恐れることを喜びとする・・・とは。主の前に歩むことを喜びとする、ということなのだろうか。そういえば、主を恐れる、ということは、決して「怖がる」ということではない。主を恐れるとは、主を主とする、ということ。主を神として、その前にひれ伏すこと。それならば、私にとってもそれは喜びだ。主は私を愛しておられるから。主は私のためにひとり子をも与えてくださるほど、私のことを愛してくださるから、主の臨在を覚えて、主の前にひれ伏すことは私の喜びだ。私の力だ。主よ、教えてください。あなたを恐れることを・・・。それが私の喜びでありますから。今日の私の歩みをあなたの喜びで満たしてください。

「いま彼を阻止しているものがある。」(テサロニケ人への第二の手紙2:6)

今、サタンの働きが止められている。サタンが自由に働けないように止められている。だから、わたしたちが本気で働くのは今だ。今本気で働かなければ、今、本気で主を伝えなければ、サタンが自由に働きを始める。それもやがてイエスの来臨によって滅ぼされるのだが、でも、今本当に主を伝えなければ、時がよくても、悪くても・・・。主よ、どうか私の歩みを導いてください。私に今日、福音を語らせてください。もっと祈り、もっと備え、用いられたいのです。人々が救われていく姿を見たいのです。主よ、どうか私を導き、私を用いてください。今日、私にあなたの福音を語らせてください。あなたの愛を語らせてください。

10月5日(火)

「その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者にたよらず、真心をもってイスラエルの聖者、主にたより、残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る。」(イザヤ書10:20−21)

主にたよる。人間の中で力のある者、能力のある者にたよるのではなく、主にたよる。それが今の私にとって一番大切なことだと思わされた。主が私の主であり、私の救い主であり、神であり、力の源だ。だから、だから、主にたよる。主に待ち望み、主から答えをいただいて進んでいく。主よ、どうか私をあなたとのもっともっと親しい交わりの中に入れてください。あなたとの交わりの中に生きる者としてください。主よ、あなたが私の主です。あなたが私の力です。どうか、私を満たし、私を生かしてください。あなたの命を与え、知恵を与え、どこで何をするべきなのかを教えてください。

「あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばき・・・」(テサロニケ人への第二の手紙1:5)

主が私を神の国にふさわしい者にしようとされている。その中には、苦しみもあり、悲しみもあり、困難もある。それによって、私が神の国にふさわしい者と整えられていく。主よ、苦しみに遭うときに、困難に遭遇するときに、どうか、その中で忍耐をもって、信仰を持って歩むことのできる者としてください。私があなたの導きに信頼して歩んでいくことのできる者としてください。あなたが与えられるものは最高の者以外ではないことを覚えさせてください。どうか私をさらにあなたの国にふさわしい者としてください。そのために必要なものは何でも与えてください。

10月4日(月)

「主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。」(イザヤ書8:17)

主が隠れておられるように思うとき、主がここにはおられないように感じるとき、そのときにも本当は主はおられる。主はわたしたちのことを心にかけておられる。だから、だから、わたしたちはいつも主を待ち望もう。主を待ち望んでいこう。どんなに絶望的な状況の中でも、どうしてこんな事になるのだろうと思うような状況の中でも、主を待ち望んでいこう。主よ、どうかわたしたちがどんな時にも、いかなる時にも主を待ち望んでいけますように、主よ、お助け下さい。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ人への第一の手紙5:16−18)

正直なところ、自分は日々のいろんな出来事の中では、喜べないこともある。自分で自分にそう命令してると、苦しくなってくる。でも、イエスが私のためにしてくださったこと、神が私のために注がれた愛、そのことに目を留めると、感謝があふれてくる。そのことを考えると、うれしくなってくる。愛されているって、本当にすごいことだなあ、と思う。だから、もっともっと神様の愛を、十字架に示された神様の愛を知る経験を与えてください。それを味わうことができるようにしてください。主よ、どうか私をあなたの喜びで満たしてください。あなたの与えてくださる喜びで満たしてください。他のものによる喜びではなく、あなたの喜びで満たしてください。

10月3日(日)

「夜は煙と燃える火の輝きとをつくられる。」(イザヤ書4:5)

主はわたしたちの輝き。夜、暗闇の中で天からわたしたちを照らす光。主よ、あなたの光を輝かせてください。そして、今日、わたしたち自身をまた光としてください。わたしたちを世の光としてください。あなたの光の中に歩む者としてください。あなたの光を人々の前に輝かせる者としてください。主よ、どうかわたしたちをあなたが照らし、満たし、新しい力にあふれさせてください。今日の礼拝を祝福してくださって、あなたの輝きを教会の中に満たしてください。

10月2日(土)

「雪のように白くなるのだ。」(イザヤ書1:18)

雪のように白くされる。これをまともに信じているだろうか。自分のがんばりではなく、一生懸命精進するのではなく、主がそれをしてくださる。雪のように白くしてくださる。主がそれをしてくださることを、本当に待ち望んでいこう。主がわたしたちと論じてくださる。わたしたちを説得してくださる。どんなに今私が汚れていても、主は私を雪のようにしてくださる。教会も、町も、国も・・・。主よ、感謝します。「そんなことできない」なんて申しません。あなたの御業を待ち望みます。私の心をきよめ、教会を、町を、国を、世界をきよめてください。憎しみや醜さが洗い流され、本当に心から主に従っていく、主の御心を求めていく者としてください。

「神のみこころは、あなたがたが清くなることである。」(テサロニケ人への第一の手紙4:3)

これは偶然だろうか。旧約聖書でも「私はあなたを雪のように白くする」と言われ、新約聖書でも、主のみこころはわたしたちが清くなること、と語られた。ああ、主の御業を覚える。主が招いておられることを覚える。私を清くしてください。私の心と思いを主がきよめ、ただ、主の栄光だけを、主がほめたたえられることだけを求める歩みとしてください。主がほめたたえられることを求める者としてください。

10月1日(金)

「愛は大水も消すことができない。洪水もおぼれさせることができない。」(雅歌8:7)

愛はどんなものをもってしても、それを消すことはできない、という。主が私に注いでくださっている愛もそうだ。どんなものをもっても消すことはできない愛なのだ。その愛を信頼する信頼が自分の中にあるか。本当にとんでもない出来事が起ってきたときにも、主の愛を信頼して生きていけるだろうか、そのように、今日も思わされた。主よ、あなたの愛の強さ、あなたの愛の大きさ、そこに信頼していく平安を教えてください。平安のうちに歩むことのできる者としてください。私に強さを与えてください。あなたに愛されているが故の強さ、「愛は大水も消すことはできない」といいきることのできる強さを与えてください。

「わたしたちは患難に会うように定められているのである。」(テサロニケ人への第一の手紙3:3)

苦しみに遭うように定められている・・・。そのことを忘れないでいなければならないと思った。いつの間にか、神様に愛されているんだから、患難の方が逃げていく、と勘違いしていなかっただろうか。やはり、何事でもうまくいくような気になっていたのではないだろうか。聖書ははっきりとわたしたちが艱難に遭うように、苦しみに遭うようになっているのだと、告知しているのだ。主よ、あなたの与えられる患難の中で、あなたに従っているが故に襲ってくる艱難の中で、主よ、どうかあなたを信頼して、堅く立っていくことができますように。しっかりと信仰に立って歩んでいくことができますように。主よ、どうか私をお守り下さい。問題が起ってきたときにあわて惑うのではなく、それが当然のことであることを忘れないように、忘れないで、立ち向かっていくことできますように。テサロニケの教会の人々のような堅い信仰をお与え下さい。

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