主がわたしたちの羊飼いであってくださる。教会の羊飼いであって下さる。感謝。主が養って下さり、癒して下さるのだ。主よ、あなたがわたしたちの牧者であって下さることに心から感謝します。わたしのなすべき事を教えて下さい。そして、あなたに導かれたことをすることができますように。わたしのなすべき事をどうか教えて下さい。そして、それを実行する力を与えて下さい。あなたの愛をわたしのうちに満たして下さって、あなたのようにすることができますように。人々をあなたの許に導くことができますように。あなたの豊かさに導くことができますように。
主の教えにとどまる。そこにしっかりとどまっている。それが大切なことだと思う。時代と共に人々のニーズは変っていく。それを追いかけたくなる誘惑もある。でも、御言葉はいつも変らない。天地は過ぎゆく。でも、イエスの言葉は変らない。そこにわたしたちは立っていくのだ。私自身はそこに立っていくのだ。主よ、どうかわたしの歩みを導いて下さい。あなたの御言葉によって支えて下さい。
国のために取りなし、警告をする者が与えられる。戒める者が与えられる。その使命をわたしはいただいているのかと思う。主から与えられて、主から任されて、今ここに置かれているのかと思う。預言者としての、警告する者としての使命をいただいているのではないかと思わされた。ラッパを吹く使命があるならば、ラッパを吹かなければいけないのではないかと思わされた。主の警告、罪の恐ろしさ、それについて語らなければならないのだろうと思わされた。主よ、どうかわたしの心を導いて下さい。あなたが語るようにと願っておられることを語ることができますように。わたしが人を恐れることがありませんように、あなたを恐れる者としてください。
主が答えて下さると信じて歩んでいくこと、本気で信頼すること、今自分に求められていることだと思った。主が信じていいいと言って下さっている、しゅが信じなさい、と求めておられる。だったら、本気で信じて、そこにかけていったらいいのではないだろうか?綱渡りの名人を信頼してそこに命を託して載せて頂いたのだから、本気で信頼して、上でじたばたしないで、お委ねして、任せきったらいいのではないだろうか。主は必ず答えて下さる。主は与えて下さるのだから、主が聞き入れて下さるのだから、信頼していこう。主よ、あなたに信頼します。あなたにお委ねします。あなたがわたしが祈る祈りを聞き、御業を進めて下さることを信頼します。感謝!
「わたしの美は完全である」の次は、「わたしがこれを造った」か。でも、どちらかと言えば、この方が自分が陥りやすいところだと思った。自分のががんばったからできた、自分の能力でできたと思いやすい者だと思った。だから、一つ一つのことが主の御力であり、主が与えてくださったものであることを、しっかりと覚えていきたいと思った。主よ、どうかわたしを守ってください。あなたの御力によって生かされていることを忘れることがありませんように。あなたの御力によって一つ一つのことをさせて頂いていることを忘れることがありませんように。どうかあなたの御業を見せてください。会堂のためにあなたの奇跡を待ち望みます。あなたの奇跡を祈ります。主よ、あなたが道を開いて下さい。御業をなしてください。あなたが建てて下さい。
これはものすごい言葉だなあ。一つの都市が神の前に言い放った言葉。でも、今も人間が神の前に言っていることではないのだろうかと思わされた。わたしは神の前に本当に謙虚に歩んでいるだろうか。神様の喜ばれる道を歩んでいるだろうか。そのことを問われたような気がした。そのことを神の前に問われているように感じた。おまえはどうなんだと。自分のことを誇っていないだろうかと。イエスを本当に誇りとしているだろうかと。でも、本当に主こそがわたしの誇りだと思う。自分の中で誇れるものは主だけだと思う。主の愛だけだと思う。そのように思わされている自分は幸いだと思った。主よ、あなたがわたしの誇りです。わたしの力です。わたしの美です。わたしの頼りです。主よ、あなたを頼りとします。どうかあなたの御業を拝させてください。更に更に多くの人々があなたに出会い、あなたによって人生が変えられますように。そのようなところへと導くメッセンジャーとしてください。
わたしたちが愛し合うのは、主がわたしたちを愛してくださったから・・・。その一点に尽きる。主がわたしを愛してくださった。主がわたしを愛してわたしのために命を投げ出してくださった。だから、わたしは人を愛することができる。その一点に尽きると思う。本当に主がわたしを愛してくださったんだなあ、そのことをもっともっと味わって、ああ、愛そう、そういう思いにされたいなあ、と思う。主よ、どうかわたしを助けてください。わたしを導いてください。わたしをあなたの愛でいっぱいにしてください。あなたに愛されている喜びでいっぱいにしてください。そして、人を愛することができますように。あの第2次世界大戦中に敵である日本を愛してくださった多くのクリスチャンの愛をわたしにも与えてください。わたしも人を本当に愛することができるように助けてください。
預言者の務めは何と過酷なのだろうかと思った。妻が死んだ時に、妻が取り去られた時に、涙を流さずに、声を上げずに嘆くようにと命じられるとは。こんなことは想像もできない。エゼキエルはそれに従ったという。エゼキエルはそれに従って歩んだという。自分だったらどうだろうかと思った。本当にここまで従えるだろうかと。でも、従いたいと思った。主に忠実でありたいと思った。どこまでも、主にしたがっていきたいと思った。主よ、あなたに従う道を教えて下さい。何があなたの御心であり、何があなたが願っておられることなのかを教えて下さい。そして、そこに忠実に従っていく者としてください。
主はわたしたちが求めるもの、わたしたちが願い求めるものは何でも与えてくださる。何でもいただける。だったら、大胆に求めようと思った。大胆に求めていこうと思った。そこに条件があるとするならば、それは互いに愛し合うことだという。だったら、単純に愛し合おうではないか。愛し合うことを主はわたしたちに求めておられる。わたしたちが互いを愛することを求めておられる。わたしたちが愛し合う時に、主はわたしたちが求めているものを与えてくださる。本当に単純に御言葉に従っていきたい。御言葉に従って、愛を与えていくものとなりたい。主よ、どうかわたしのうちにあなたの愛を満たしてください。与える愛を与えてください。たくさん満たしてくださって、思いっきり与えることができますように。思いっきり人を愛していくことができますように。教会を愛し、教会にまだ来ていない多くの人々を愛していくことができますように。
罪に対して嘆く。主の厳しさの前に嘆く。心砕けるまで・・・。自分の罪に対する態度をもう一度反省させられた。もう一度考えさせられた。いつから自分は心がくじゃくじゃになることを恐れるようになってしまったのだろうか。心が苦しくなることを恐れるようになってしまったのだろうか。罪に対して、苦しみ、嘆くことを、自分の罪に対して、そして人々の罪に対して怒り、嘆くことをおそれ、それ故に心の底まで鈍感になってしまったのだろうか。罪を犯してしまう自分に怒ることもなく、罪を犯している人々に対して嘆くこともなく、へらへら生きていないだろうか。主よ、どうかわたしにあなたの嘆きを分かち合って下さい。わたしにあなたの嘆きの一部を分かち合って下さい。そして、あなたの罪に対する憎しみ、悲しみ、痛みをわたしの痛みとして下さい。
肉の欲、目の欲、持ち物の欲、本当に手強い相手だと思う。だから、それに対して、毅然とした態度を取らなければならないのだと思う。そのように示された。お金はあればあるほど、消えていってしまうものなのだ、財布を一回大きくしたら、なかなか小さくするのが難しい。主よ、どうかわたしの心をお守り下さい。わたしの心が神様、あなたのことでいっぱいになりますように。わたしの心が人々の救いのことで、いっぱいになりますように、わたしの心を人々に対する愛でいっぱいにして下さい。あなたの愛を満たして下さい。あなたの命を満たして下さい。そして、他のことへの欲でわたしの心が支配されてしまうことがないようにお守り下さい。
主はやはりすべての者の救いを望んでおられる。すべての者の悔い改めを望んでおられる。待っておられる。期待しておられる。主は忍耐しておられる。だから、そのメッセージを、悔い改めへの招きのメッセージをしっかり語っていこう。「翻って生きる」ことが大切なのだ。それが私たちの救いなのだ。主よ、どうかわたしの歩みを導いてください。いつもいつも御言葉を与えてください。いつもいつも大胆に語らせて下さい。あなたに用いられたいのです。あなたによって、罪が示されて、はっきりと悔い改めに導かれる方々が起こされていくのを見たいのです。あなたもそれを望んでおられることを知っています。どうか、あなたの器としてお用い下さい。
わたしたちの喜びが満ちあふれる。クリスチャンの歩みの醍醐味は、やはり喜びが満ちあふれる歩みだと思う。自分にとって、辛いことやきついこともあるし、無気力に襲われる時もある。でも、主が語って下さる時に、主が御言葉を通して愛を与えて下さる時に、自分が救われた時の、神の愛を本当に深く知った時のことを思い出す時に、主はわたしに喜びを満たして下さる。ああ、愛されているんだなあ、と元気を与えてくれる。主よ、あなたがわたしを生かして下さっていることに心から感謝します。もっともっとあなたの命にあふれさせて下さい。もっともっとあなたの喜びを満たして下さい。どうか、御言葉を読む時に、祈りを捧げる時に、主がわたしの心を満たして下さい。
偶像を心の中に持ちながら、神に祈ることができるだろうか、と主は言われている。本当に主に真実であるかが問われていることを感じる。でも、それも、祈ることをしなかったら、祈ろうとしなかったら、誰がそのことに気づくだろうか?祈る時に初めて、自分の心が探られるのではないだろうか?主が私たちの心を探ってくださるのは、私たちが祈ろうとする時ではないだろうか?主よ、私は探られます。あなたの前に私の心が真実であろうかと。あなたを本当の意味で主とあがめているだろうかと。偶像を心の中に持っていないだろうかと。主よ、あなたの前に真実に歩む者としてください。あなたに祈る者としてください。あなたから答えをいただく者としてください。
主は私たちすべての者が悔い改めに至ることを望んでおられる。そして、私たちクリスチャンに対して忍耐しておられる。待っておられる。私たちの伝道を信頼していくださっている。主よ、私を用いてください。教えてください。なすべき事を示してください。あなたの忍耐に感謝します。どうか私を用いてくださって、あなたのメッセージを大胆に語る者としてください。大胆に福音を伝える者としてください。主よ、私の出会う一人ひとりに福音を語ることができますように、そのようなチャンスをお与え下さいますように。
主は私たちの苦しみの中でも、私たちの痛みの中でも、私たちと共にいて下さる。私たちと共に歩んでくださる。主御自身が私たちのとどまるところとなってくださるのだ。主よ、あなたのご臨在に感謝します。あなたが私がどこにいる時にも、困難の中にいる時にも、共にいて下さり、支えてくださる方であることを心から感謝します。どうかあなたの命を与え、あなたが共にいて下さることをもっともっとはっきりと感じることができますように。経験することができますように助けてください。もちろん、自分の感覚に頼ろうとは思いません。でも、あなたが共におられることをもっとはっきりと教えて頂きたいのです。主よ、私にお語り下さい。
私たちをあがなってくださった主。その主のあがないを否定するなんて考えられないけれども、そのような偽教師が現れるのだという。本当に注意していなければならないと思った。主のあがないよりも、他のメッセージ、人にうけるからと言って、主のあがないではなく、耳に心地よいメッセージを語ろうとする誘惑はある。でも、私たちの喜びは、私たちの力は、何よりも、主のあがないのすばらしさだ。主が私たちを愛し、私たちのために命を投げ出してくださったことだ。主よ、どうかこのメッセージをいつもいつも語る者としてください。このメッセージをないがしろにしようとするすべての力から私をお守り下さい。
罪に対しての嘆き悲しみ。罪に対する憎しみ。それを自分は持っているだろうかと思わされた。自分は本当に罪に対してそのような厳しさを持っているだろうか。それが問われたような気がした。「神は罪に対して『いいよ、いいよ』といい加減な赦しはできません。だからイエスが十字架にかからなければならなかったのです」と言いながら、本当にその深刻さが分かっているのだろうかと・・・。主よ、あなたの痛み、あなたの悲しみ、私に分かち合ってください。どうかわたしも、あなたと同じように罪に対して嘆き悲しむ者としてください。人を愛する愛を与えてください。愛するが故に嘆き悲しむ者としてください。
人のつえとするパン。それを主は砕かれると言われる。頼りとしているもの、それを主は砕かれる。私はどうだろうか。私は何を頼りとしているだろうか。私はなにをもって、これがあれば大丈夫だと思っているだろうか?主はそれを砕かれる時がある。何のために?本当に頼りとするべきものは何か、ということを問われるためにだ。本当に主を頼りとしているだろうか?ということが問われているように思った。私が頼りとする者は、主だけだ。私が頼りとするのは神様だ。主よ、どうか私が本当にあなたを頼りとして歩んでいくことができますように。あなたご自身を私の頼りとして歩んでいくことができますように、主よ、どうかあなたを頼りとして歩んでいくことのすばらしさを経験させてくださいますように。もっともっと経験させてくださいますように。
信仰だけでとどまっている必要はない。信仰がどれほど大切なことなのか、福音がどれほど大切なものなのか、今まで本当にそのすばらしさ、慰めをいっぱいにいただいてきた。だから、たくさんいただいたのだから、そしてこれからもたくさんいただけるのだから、信仰に「徳」が与えられ、知識が与えられ、節制ができるものとなり、忍耐ができるものとなり、信心と、兄弟愛と、愛と、求めていきたい。実を結ばない者にはなりたくないから、実を結ばないで、口先だけの者にはなりたくないから。だから、本当に実を結ぶような者とされるように、求めていこう。主よ、私に徳を与えてください。もっと人を愛する思いを満たしてください。自分のことで精一杯の状況から自由にしてくださって、節制することができますように、忍耐することができますように、主よ、どうか私を助けてください。愛を与えてください。人を愛する心、あなたを愛する心を与えてください。
主の御言葉が語られる時に、そのことを語りなさい、と。それは静的な「これこれこうしなさい」という掟ではなくて、神の語りかけだ。ダイナミックな神の語りかけだ。主が私たちのために語って下さること、主が私たちに語りかけること、それを聞いて、お応えしていく。それを聞いて、今度はまた語っていく、それが私自身の使命でもある。私たちの使命でもある。だから、主が語って下さること、主が語ろうとされることに敏感な感性を持っていたいと思った。主よ、どうかあなたの御言葉、あなたの語りかけに敏感にお応えしていく者とならせてください。あなたの御言葉をいただいた時に、勇気を持って、恐れずに語っていく者としてください。主よ、どうかわたしをあなたの御言葉を聞いて、語る者としてください。
群れの模範となる。本当にそれはプレッシャーだなあと思う。それはできない相談というか、最初からあんまりそんなこと考えていなかったので、このように御言葉が語られると、御言葉がわたしの心を捕えると、やはりそのことを主が求めておられるのか、と思う。主がわたしに与えてくださった使命、それは本当に忠実に果たさせて頂きたいと持った。誠実に、謙虚にその使命を果たさせて頂きたいと思った。だから祈る。主よ、どうかわたしの歩みを導いてください。あなたがわたしに群れの模範となるように、と言われますが、わたしのうちにはその力がないことを知っています。どうか、日々の歩みの中で力を下さい。わたしを内側から造りかえ、あなたの愛する人々の模範となるような働きをすることができますように。どうかわたしを導いてください。
私たちが自分の状況にとらわれている時に、その中で、主の恵み、いつくしみ、あわれみがどれほど素晴らしく、永遠に与えられていることを覚えることができるのは何という幸いだろうかと思う。主は私たちを愛しておられる。私たちにいつも愛を注いでおられる。そのことを忘れないでいたい。そのことをいつも覚えて、主を信頼して歩みたいと思う。主よ、私たちを取り巻く状況がどれほど厳しくても、どれほど大きな困難があっても、主よ、あなたを信頼して歩む者としてください。御言葉を与えてください。困難のまっただ中で、主を見上げることができるように、そのことを経験させてください。主よ、どうかあなたの御言葉に生かして下さい。
苦しむこと。この地上で苦しむことは私たちにはもう与えられていることなのだという。苦しむように召されているのだという。だから、驚き怪しんだり、不思議に思ったりする必要はない。私たちは主を信じる者であるのだから、苦しむようになっているのだ。だから、恐れないで、そのために備えていよう。主が与えて下さっている力によって、私たちは勝ち得てあまりあるのだ。主よ、あなたの御力を与えて下さい。あなたの御力を与えて、わたしを生かして下さい。苦しみが襲ってくることは分かっています。だから、その時にあわてたりしないですむように、どうかあなたの御力を与えて、苦しみに対して堅く立っていくことができますように。
更新が滞っていましたが、土曜日から月曜日まで、ミネアポリスの日本人教会のお招きをいただき、献堂10周年の礼拝のご用に行って参りました。10年前に自分たちの会堂を買われて、主に仕えてこられた教会の方々にお会いして、会堂のために更に祈ることを教えられています。主がミネアポリスの日本人教会をも豊かに祝福してくださいますように。また私たちの教会にも会堂を与えてくださいますように。
これは今も私たちに与えられているチャレンジだと思った。そのように聞こえた。単に昔のことではなく、今のわたしに対するメッセージのように思えた。心を注ぎだして祈ること、心を注ぎだして神様の前に出ること、そこに招かれていることを思う。主に向かって両手をあげよ、と招かれている。主よ、祈ります。どうかわたしもあなたの前に心を注ぎだして祈ります。この地域の子供たちのためにわたしは使命があると思います。子供たちの魂のために、子供たちの心のために、わたしは使命があると思います。祈る責任と、出て行く責任があると思います。主よ、どうかわたしを遣わしてください。子供たちの救いのために、わたしを用いてください。子供たちだけではなく、この地域に住む人々のためにわたしを用いてください。わたしを遣わしてください。
神様との関係が第一なんだなあ、とここでも思わされる。わたしが主によって召され、主のものとされたのは、わたしが祝福の起点となり、どんなに悪を受けても、悪口を受けても、祝福を発信していく、そのためだったんだと思う。だから、主との関係をしっかり持って、主の恵みをいっぱいにいただいて、主の力をいっぱいにいただいて、満たされていることが大切なのだ。主よ、どうかわたしの心をお守り下さい。あなたの恵みに満たしてくださって、悪を受けた時にも大胆に愛を与え、祝福を与えていくことのできる者としてください。主よ、どうかわたしの心をお守り下さい。
バビロンは主によって用いられた。しかし、バビロンはその時にやはり傲慢になった。主の器であり、主の道具であることを忘れてしまった。わたし自身も主の道具だ。主の器だ。それはとても光栄なことであるが、忘れてはならない、わたしは主の器にすぎない、ということを・・・。主よ、傲慢からわたしを守ってください。そして、いつまでも主の器であり続けることができますように。主の器として生き続けることができますように。わたしはあなたのものです。あなたのすばらしさを表す器です。そこにだけ生かして下さい。そこにだけ歩ませて下さい。主よ、どうかわたしをお用い下さい。
このイエス様の姿が私たちの模範であるという。私たちはこの主の模範を仰ぎながら歩むように招かれているという。ののしられても、ののしり返さない生き方を与えられているという。これはものすごいことだと思う。ものすごいチャレンジだと思う。ののしられた時に、悔しくて、ののしり返したくなる。侮辱された時には、自分を弁護して言いたくなることがある。悔しくてたまらない。でも、主はそれを耐えられて、私たちをもそこに招いておられる。主よ、どうかあなたの恵みの中に命の中に生きる者としてください。あなたの喜びに生きる者としてください。イエス様がののしり返さないですんだその平安をわたしのうちにも満たしてください。あなたが分かっていてくださる、あなたがわたしの理解者であって下さる、そこに喜びを覚えて生きる者としてください。
わたし自身は何を頼りにしているか、また問われたように感じた。旧約聖書で何度も何度も問いかけられることだ。わたし自身は本当に主を頼りとしてきただろうか?本当に主に信頼してここまで来ただろうかと・・・。主がわたし自身に「わたしを信頼しなさい、わたしを信頼していいんだよ」と言ってくださってきたのに、わたしは主を信頼してきただろうか?本当に思わされる。主よ、あなたを信頼します。あなた以外のものではなく、あなたを信頼します。どうかあなたを信頼することのすばらしさを味わわせてください。ああ、あなたに信頼して良かったという経験をもっと与えてください。主よ、あなたを待ち望みます。
わたしは御言葉によって造りかえられた。御言葉によって生かされた。御言葉によって慰めを受け、御言葉によって導きをいただいてきた。本当に御言葉の力はすごいと思う。もっともっと御言葉によって生かされたいと思うし、それを語っていくこと、それを与えていくことの大切さも思わされる。本当に御言葉によって生かされる者たちが起こされていくことが教会の力でもある。主よ、どうかあなたの御言葉を与えてください。教会の一人ひとりを御言葉によって取り扱い、御言葉によって生かして下さい。御言葉によって歩むことのすばらしさを経験させて下さい。わたしを御言葉に仕える者としてください。
主は遠く離れている時にも、私たちの主だ。主は遠いところにいる時にも私たちの主だ。主はただ、私たちのところにおられるだけではない。イラクにもおられ、北朝鮮にもおられる。日本にもおられ、アメリカにもおられる。主にとっては世界のどのところもみ手の中なのだ。だから、主を信頼していこう。どこにわたし自身が遣わされていったとしても、教会の誰かが遣わされていったとしても、主はそこに共におられるのだ。このミネアポリスの町にもニュージャージーと同じように主がおられて、共にいて下さるのだ。だから、安心して行こう。主よ、今日もあなたがここにも、共にいて下さることに感謝します。そのメッセージに感謝します。あなたの御力を顕わしてください。あなたを待ち望みます。
主の言葉に対して、主の御言葉に対して挑戦したくなることがある。納得いかなくて、違うのではないかと思うことがある。そんな自分に対しての主からの語りかけのように感じた。主がわたし自身に向かって挑戦しておられるように感じた。分かっているのだ。自分は分かっているのだ。自分のちっぽけな頭で考えることと、主の御言葉とがどちらが正しいのかくらい分かっているのだ。だから、本当に素直にそれに従えばいいのだが・・・。でも、このように主が語って下さること自体が力であり、主が語って下さること自体が喜びであると思う。今日は本当に思う、主よ、あなたの御言葉の確実性故に感謝します、と。主よ、あなたの御言葉を感謝します。もっともっとあなたの御言葉をわたしに語って下さい。わたしに教えて下さい。御言葉によって生きる喜びを与えて下さい。
どきっとする言葉だ。宝を蓄えようとする自分に対して、そんなものはもう必要ないのだと言われる。だけれども、これはやはり主を信頼していないと、主がすべてを与えて下さり、支えて下さるのだと信じていないとなかなかできないことだと思う。宝を蓄えるのは愚かなことだと思いながらも、少しくらいは備えがなければと言い訳をして、たくさん蓄え込んでいないだろうか?主よ、どうかあなたを信頼して歩む者としてください。あなたが必要なものはすべて備えてくださり、与えてくださるのだということに確信を持たせてください。そこに歩む者としてください。そこに確信を持って歩む者としてください。
エジプトに行くっていうのは、やはり神を信頼することよりも、目先の安全をあてにするっていうか、目先の軍事力をあてにするっていうか、そこにとどまってしまうことなんだろうなあ。だから、私たちは主をあてにして、他のものをあてにしないことが大切なんじゃないかと思う。主をあてにする、主を信頼する。たとえば、会堂取得のことなど、やはり主をあてにしなかったら、単に自分たちの経済的体力をあてにしていたら、やっぱり「無理だ」と思う。でも、主は「金もわがもの、銀もわがもの」と言われる。主は天の窓を開くと言われる。本当にそこに信頼していく信仰が私には必要だと思う。主よ、あなたを信頼します。あなたご自身を信頼して、他のものをあてにしません。主よ、あなたにしっかり目を注いで、あなたの奇跡を拝させてください。他のものに信頼する誘惑から私を解放してください。
そうだなあ、と思った。どきっとした。主が喜ばれることをする者として召されているのに、それを審判する者になってしまっていないだろうか。主がすべての者を裁かれるのだ。主が審判者なのだ。私たちは、そこに従っているだけなのだ。だから、本当に自分の使命に、自分の使命だけに忠実に歩み、忠実に語る者とされたい。本当に主の御言葉を与えられて、そして、主の御言葉を語る者とされたい。また祈る使命を果たさせて頂きたい。主よ、どうか、私を使命に忠実な者としてください。
本当に主により頼むって、どういうことかということを考えさせられる。「主が守ってくださるから・・・」と勝手に決めて、主のみ声を聞こうとしないで、徹底抗戦を誓うことではなく、この時には、降伏することが主に信頼することだった。だから、私たちが主の御心を勝手に決めつけて、今までこうだったからとか、あのときこうだったから・・・というのではなく、本当に主に聞いていく、主から答えをいただいていくことが大切だと思った。主よ、あなたが私を導き、私に与えてくださっている御言葉の故に感謝します。しかし、私が日々あなたの御心を求め、あなたに聞いていくことができますように。あなたの御声を聞いて、従っていくことができますように。あなたを信頼することを本当に教えてください。
党派心ではなく、上からの知恵によって、歩む。本当に自分の心に党派心はないだろうかと探られるような思いがした。本当に私はいつも上からの知恵によって歩んでいるだろうかと・・・。そのためにはやはりいつもいつも主から聞いていることが大切だと思った。主から聞いて、主からのメッセージによって生かされることが大切だと思った。人の言葉や、人の力に振り回されるのではなく、また、自分の中の党派心やねたみによって振り回されるのではなく、主に聞いていくことが本当に大切だと思った。主よ、お語り下さい。私にあなたの知恵をお与え下さい。
愚かな王だと思う。本当に愚かだと思う。神の言葉を焼いても、その巻物を焼いても、主の言葉はそんなことでは無にならない。言葉は残るのだ。どんな迫害や、どんな困難や、痛みや悲しみを通っても、御言葉は変らない。御言葉は私たちを生かす。私たちを裁く。御言葉ってすごいなあ、と思う。主よ、御言葉の故に感謝します。これからも、御言葉によって導き、御言葉によって生かして下さい。これからも、どんどんわたしにお語り下さい。
信仰と行いが一緒に行く・・・か。信仰と行いが一つであることは素晴らしいことだと思う。そのようにありたいと思う。自分は行いがついて行かない方だ。このようにありたいとか、このようなことをしたい、という気持ちに行動が伴っていかない。でも、いつも思うんだけれども、やはり行動なければ、気持ちには意味がないのだ。信仰のままに生きることのできる者としてください。信仰に生きる者としてください。
そうなんだと思った。主はわたしが主に求めることを待っておられるのだと。わたしが主に呼び求めることを待っておられて、わたしに語ろうとしているのだと。問題があるとすれば、わたしの方が主を呼んでいないからなのではないだろうか、そのように思わされた。主がわたしに「求めなさい」と言っておられる。語っておられる。ならば、単純に求めよう、単純に主を呼び求めよう。そして、主の答えをいただこう。主よ、あなたの名を呼びます。あなたに求めます。どうかあなたが御心を開いて、教えて下さい。あなたの御思いを教えて下さい。「わたしはあなたに答える」というあなたの約束を信じます。
主の御言葉には力がある。本当にそう思う証しを伺うこともあるし、求道者の方と接していてそれを感じることもある。御言葉には力がある。それを本気で信頼して、大胆に語るものでありたいと思う。大胆に語り続け、御言葉をどんどん魂に撃ち込んで行きたいと思う。わたしに力があるのではなく、主に力があり、御言葉に力があるのだから・・・。御言葉の力を信頼して、歩んでいこう。主よ、わたしを用いて下さい。あなたの御言葉を語る者としてください。あなたから語って頂いて、大胆に語る者としてください。
70年のバビロン捕囚の中で語られた主の言葉だ。バビロン捕囚も主の計画の中で、災いを与えようとするのではなく、平安を希望を与えるために用いられた。この主の不思議に心躍らされるようだ。わたしが今自分で納得がいかなくて、苦しみを覚えたり、痛みを覚えたりすることも、主の大きな計画の中では、私たちに平安を与え、希望を与えるために用いられる。信仰がないんだなあ。と思う。それを本当に信じて平安をいただく信仰がないんだなあ、と思う。主よ、どうかわたしに平安を与え、希望を与えてください。今の苦しみや不条理も主が平安のために、用いてください。主が希望のために用いてください。いや、あなたがそのようにしてくださるというのですから、それを信じて、信頼して進んでいく信仰を与えてください。
主が私たちのために都を用意してくださっている。地上ではやはり旅人なのだ。この地上にしがみついたり、ここの持ち物に執着したり、ここでものを集めようとしたり、そのようなものによっては私たちの心は満たされないし、それはそれで終わってしまうのだ。だから、主の都、主が与えようとしてくださっている天国の恵みを本当に心に覚えて、感謝して歩んでいきたいと思う。主よ、どうかわたしの歩みを導き、地上のものに心奪われることがないように助けてください。
人間のあがきと、神の力。それを見せつけられるような逸話だと思った。神の名を語りながら、人気取りに終始したハナニヤ。しかし、現実の歩みの中で、人々の意見に振り回されたり、人々が語って欲しいと思うことを語ろうとする誘惑は本当に強いと思う。だから、いつもいつも主につながっていなければいけないと思った。だから、いつも主から聞いていなければいけないと思った。主よ、どうかわたしにいつもいつも語り続けてください。そして、主よ、あなたの御言葉をいただいて語る者としてください。人の顔色を恐れたり、人気取りに終始したりすることがないように導いてください。あなたにしっかりとつながっていくことができますように。
主の言葉は火。主の言葉は鎚。焼き尽くすもの、不純物を除くもの。また岩を打ち砕くような力のあるもの。その主の言葉を預かっている私はどれほど大切な使命を与えられているかと思わされる。その使命に対して忠実であるかと、もう一度反省させられる。主よ、あなたの御言葉に感謝します。主よ、あなたの御言葉をいつもいつも語り続けてください。いつもいつも与え続けてください。そして、あなたの与えられた言葉を、感動を持って、感謝を持って、喜びを持って語っていく者としてください。あなたのみ力を受けて歩む者としてください。感謝します。あなたの御言葉があるから感謝します。自分の知恵や、自分の経験から得たものでは勝負できません。どうか、あなたの御言葉を与えてください。
私たちに約束されているのは、神の前に恐れおののく歩みではなく、主に会って、喜んで、パーティーをして、感謝をして歩む歩みだ。神の前に出たら、私たちは恐ろしくて逃げ出したくなるのが本当かもしれない。でも、そうではなく、主の前に出るならば、主の前に出て歩むならば、そうではなくて、主の喜びにあふれ、主の命にあふれ、力にあふれ、感謝して歩む歩みが与えられるのだ。主よ、感謝します。あなたが約束されている祝福の故に感謝します。どうかわたしの喜びを満たし、感謝を満たしてください。わたしの心の痛みを癒し、あなたの喜びでわたしを満たしてください。
私たちの決断が大切な時がある。行く道が救いの道か滅びの道か分かれる時がある。この場合も、徹底抗戦が滅びの道であり、降伏が救いの道だった。人々に人気があったのが徹底抗戦の道であり、戦いの道だったけれども、主は降伏の道を選ぶように語られた。でも、そのどちらを選んだらいいのか、実際の選択はどれほど困難なものであっただろうかと思う。わたしがここにいたら、どちらの道を選んでいただろうかと思う。本当に主の語ることに、主の導かれることに敏感でありたいと思った。主よ、どうかあなたの導きを教えてください。あなたに近く歩む者としてください。あなたの思い、あなたの内なる思いをわたしにも分かち合ってくださって、あなたと同じ思いで人と接し、あなたと同じ愛で人を愛する者としてください。
私たちはこの地上では旅人だ。そのことを教えられたのは本当に幸いだと思う。わたしは天国に向かって旅をしている旅人だ。だから、この地上のものに心惹かれそうになる時に、そのことを覚えることは幸いだなあと思った。わたしは旅人、天のふるさと、天の故郷に向かって歩いている旅人。わたしは天にあこがれる。そして、この地上の旅を楽しむ。この地に執着しないで、持ち物に執着しないで生きることができるのだ。主よ、わたしはあなたのところに行くのを楽しみにします。あなたのところで生きることを楽しみにします。どうかわたしの心をそのあこがれで一杯にしてくださって、与えられたものをあなたの願うとおりに用いる者にしてください。
主が共にいて下さる。私たちの傍らにいて下さる。だから、おそれることはない。だから、逃げることはない。本当に正面からぶつかっていこう。主が共に行ってくださるのだから。主が共に歩んでくださるのだから・・・。エレミヤは神のメッセージを語りながら、人々の迫害に遭い、でも、その彼に、主が共にいて下さることを示してくださった。主よ、今日、あなたがわたしと共に歩んでくださることを教えてくださってありがとうございます。あなたに従い、あなたの語れと言うことを語る者としてください。
私たちが主の前に出るときに、私たちははばかる必要がない。はばかる必要はない。私たちのために主がおられるのだから、イエスがおられるのだから・・・。何か、自分の心の中にはばかる思いがあったのではないかと思う。ちゃんとしないといけないような、このままではいけないような・・・でも、そんなのは関係ない。本当にそのまま神様の前に出ればいいのだ。はばかる必要はないのだ。主よ、感謝します。このまま受け入れてくださっていることを感謝します。主よ、わたしの中の「はばかる思い」を取り除いてくださって、あなたの前にはばかることなく出ることができるようにしてください。
自分が何に頼るか、そのことを思わされた。主がおられる。主が私たちの主だ。主が私たちの神だ。だから、本当に主に頼り、主に期待し、主の奇跡を祈ることがどれほど大切なことかと思わされた。主よ、あなたがおられることに感謝します。あなたを頼りにできることの幸いを覚えます。しかし、また、自分がいかに人間を頼りにし、人間に期待する者であるかとも思わされます。どうか、あなたを信頼することのすばらしさをもっともっと知らせて下さい。あなたを信頼することの恵みに生かして下さい。
永遠の世界、それがとても近くに感じさせられるし、永遠の世界があることに感謝する。そして、主は永遠の世界にこそ、大きな力をもっておられ、私たちと共にいて下さる。この地上で神様が共にいて下さるその近さよりも、永遠の世界に神様が共にいて下さる、その近さの方がずっと近い。そして、永遠の世界では、神様の力をもっともっと知ることができる。永遠のあがないを成し遂げて下さったから。永遠の世界にこそ、そのあがないのすばらしさがあるから。そう、私たちが「救いの喜び」という時に、この地上での喜びしか知らないけれども、永遠の世界にはもっとすごい喜びがある。それが用意されているとはなんという幸いだろうか。
最近、祈りの生活が祝福されていることに感謝。
主よ、わたしもあなたと同じ思いを与えてください。人々の罪に、涙する者としてください。人々があなたを信じようとしないことに、涙を流す者としてください。涙を流す者としてください。敏感な者としてください。自分が救われているからそれでいいと思うものではなく、あなたの思いをわたしにも分かってください。わたしにも分かち合ってください。そして、人の救いのために心から祈り、そして、福音を語る者としてください。どうか、あなたの御思いに寄り添う者としてください。
主がわたしに与えてくださっている約束、それは素晴らしい約束だ、すべてを超える約束。その約束を与えられていることの幸いを思わされる。信じる者を救ってくださり、そこに御霊を注いでくださるという約束。その約束が与えられていることに感謝。主よ、あなたの約束に感謝します。あなたがわたしを救ってくださり、わたしに喜びを与え、わたしを生かして下さるという約束。主よ、あなたの恵みに感謝します。あなたが与えて下さっていることに感謝します。どうか、わたしの今日の一日にもあなたの喜びを満たして下さい。
本当にそうだと思った。私たちの歩みは自分自身で決めることはできない。自分自身で決めているつもりになっても、それだけではないからだ。そこに主のみ手があり、主の導きがあるのだから・・・。主よ、どうか私の歩みを守って下さい。いつもいつもあなたの思いに対して、あなたの御心に対して、あなたの願いに対して敏感でありますように。あなたの導きに対して、気がつく者としてください。そして、あなたのみ手の中にあることを感謝して歩む者としてください。あなたの導きのありがたさを感謝して歩む者としてください。
「いつでも」って、この言葉がものすごい力強い。いつでも主はわたしを救ってくださる。いつでもわたしに語ってくださる。いつでも、わたしを受け止めてくださる。いつでも行っていい。「今はちょっと忙しいから、後にしてください」なんて言われない。主はわたしをいつでも受け止めてくださる。主よ、あなたに感謝します。あなたがいつでもわたしを受け止めてくださることを、わたしを受け入れてくださることを心から感謝します。今もあなたのところに行きます。あなたは朝だけではなく、昼だけではなく、夜だけではなく、いつでも受け入れてくださることに感謝します。感謝します。