人はパンだけで生きるものではなく、
神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものである。

5月31日(月)

「あなたは五度も六度も射るべきであった。」(列王紀下13:19)

やはり、主は求める者に与えて下さる方だ。大胆に求め求め続ける者に与えて下さる方だ。だから、今日も主を求めていこう。主は思いきり与えて下さる。中途半端で「こんなもんでいいだろう」と妥協する者たちにはそのようになさる。徹底的に、大きなモノを求め、主の大きさを信頼していくならば、主はそうして下さる。主はそのようにして下さるから、本当に大胆に求めていこう。主よ、今日の私の歩みも守って下さい。あなたと親しく歩む事ができますように。大胆に求めていきます。そして、主が与えてくださるモノに感謝しつつ歩む事ができますように。

「もし信じるなら神の栄光を見る。」(ヨハネ11:40)

「臭くなっています」これは、本当にわたしたちが感じる事であり、悩む事だ。そこを突き抜けて信じないと神の栄光を見る事ができない。石を取りのけるという事が、どれほど難しい事かを思う。でも、そこにも主が語ってくださる。主が語って下さる時に、わたしたちは信じる事ができる。主よ、今日も私にお語り下さり、あなたの御業をあらわしてください。

5月30日(日)

「主の言葉は一つも地に落ちない」(列王紀下10:10)

主の言葉は決して無駄に地に落ちる事はない。ハレルヤ!今日の礼拝のために勇気と確信を与えてくれました。感謝。ただ、感謝。主よ、あなたの御言葉は地に落ちないんですね。私の言葉はいろいろ不十分でしょうが、あなたの御言葉は地に落ちない。そこに信頼していきます。

5月29日(土)

「たとい主が天に窓を開かれても、そんな事がありえましょうか。」(列王紀下7:2)

主が天に窓を開かれても・・・って、本当に傲慢なやつだと思いながら、自分でも言葉に出さなくても、口に出さなくても、こんな風に感じてしまっている時はないだろうかと思わされた。金額が小さければ何とかなる、でも、大きな金額だと、本当に満たされるんだろうか、ってそんなことを考えているとすれば、結局わたしたちが信頼しているのは、神様なんだろうか、それとも自分たちの経済力なんだろうか、自分たちの財布をあてにして、天の窓が開かれるのをあてにしていないのではないだろうかと、そんな事を思わされた。主よ、天の窓を開いてください。天の窓を開いて、あなたが一切の必要を満たしてください。そこをあてにする者としてください。

「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」(ヨハネ10:10)

主がわたしたちに与えるいのちは「豊かな命」なのだ。豊かに命を与えようとされているのだ。ぎりぎりの命ではなく、やっとこさっとこの命ではなく、豊かないのちが与えられるのだ。あふれるような命を与えられるのだ。主よ、今日の一日の歩みの中で豊かな命を経験させてください。豊かな命に生かしてください。豊かな命にあふれ、あなたの事をあかししながら生きる者としてください。明日は日曜日です。礼拝で豊かな命にあふれて説教ができますように、私のうちに豊かな命を満たしてください。

5月28日(金)

今月もあと数日。本当に光陰矢のごとしですね。ここまで守られたことを感謝。

「主人はこのスリヤびとをいたわって、彼が携えてきた物を受けなかった。」(列王紀下5:20)

ゲハジはエリシャがナアマンのことを気遣ったのだと誤解したのか。エリシャのこの態度は単なる「遠慮」ではなかったのに気がつかなかったのか。強欲な物にはわからないのか。でも、自分も本当にそのことには気をつけたいと思った。単なる遠慮ではなく、受け取ってはいけないものがある。受け取ってはいけない時がある。そういうことに関する鋭い感性が必要だと思った。物に対する貪欲さに支配されて、見なければいけないものが見えなくなってしまうことがある。主よ、今日も私をお守り下さい。あなたのみ声を聞きながら、歩む者としてください。貪欲からお守り下さい。

「ただ一つのことだけを知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです。」(ヨハネ9:25)

そう、その一つのことだけに集中していいのだと思った。私はかつて人がどう見ているかに縛られて生きてきた。でも、今ははっきり言える。自分は主に愛されている喜び、主が私の罪を背負って赦してくださった事を感謝する喜びにあふれて生きている、とはっきりと言うことができる。そのことを証しして行くことができることを感謝します。主よ、今日も出会いを与えてください。あなたのことをお証できるように、あなたがどんなにすばらし事をしてくださったのか、お証しするチャンスを与えてください。

5月27日(木)

「あなたがたはむずかしいことを求める。」(列王紀下2:10)

エリシャがエリヤの霊の二つ分を求めた。それは難しいことだったという。二つ分というのは2倍ということか、それとも「長子」の分、ということか、でも難しい、ということは2倍だったのだろうか。エリヤの後継者という意味では、もうそれは当たり前の様な感じだったのではなかったか。いずれにせよ、難しいことを求めたエリシャ。そのような生き方をしたいと思った。そのように主に霊的なものを求めていきたいと思った。主よ、どうかわたしにあなたの霊的な賜物の多くの分を下さい。わたしも難しいことを求めます。大胆に求めます。主よ、あなたの豊かさをわたしのうちに与えてください。わたしに満たしてください。今日の2つの集会にあなたがおいで下さり、あふれてくださり、救いの御業をあらわしてください。わたしはただ、救われた人々の輝く顔を見たい。そう思います。

「もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることはないであろう。」(ヨハネ8:51)

イエスの言葉を守り、主に従って歩むならば、その人は死を見ることはない、と。本気でこの言葉を信じて、本気でこの言葉を語っていこうと思った。わたしたちは死を見ることはない。肉体において別れることはあっても、死を見る、ということはない。だったら、葬儀はもっと喜びと感謝と、平安に満ちたものとなるのではないだろうか。あのムーディーだったか、自分の葬儀に「戴冠式」と名前を付けたそうだ。教会の葬儀がすべてそのようなものとなりますように。この世を去ることが勿論寂しいこともあるだろうし、遺された者たちにとって痛みもあろうが、もし、その人がキリストにあって生きてきたならば、それは本当の意味での「死」ではなく、一時的な別離であるだけなのだ。それより、この地上の使命を果たしたのだという感謝の時となるのではないだろうか。わたしもそのように生きたいと思うし、そのようにこの世を去っていきたいと思う。主がわたしを召してくださる時、最近まで、それが余り早かったら、「やり残したことがあるのでは」と思っていたが、今では、それがいつ来ようとも、主が召してくださる時にはやり残したことなどあるわけがない、と思うようになった。「やり残したこと」にやはり自分の野望や「自分がやりたい」という思いがあったのではないだろうか。今は、主のご計画に生きることができれば、主が願っておられるように願うことができれば、と思っている。感謝。

5月26日(水)

今日はヤンキースの松井のバットが飛んできてからちょうど一周年。松井選手のためにも祈る日としたいと思います。

「主が言われた言葉のとおりである。」(列王紀上22:38)

王に都合のよい預言をする者たちの声を聞き、主の声に耳を傾けないでいながら、最後は、やはりそれを恐れて、そして、何とか助かろうと、王の装いをしないで戦いに出ていったアハブ王。しかし、それでも、一兵卒が「何の気なしに」放った矢が、鎧の隙間を射抜き、彼は死んだ。そして、主が言われたように、犬がその地をなめるということが起こった。主の言われることは必ず成就する。その厳粛さを感じさせられた。主よ、あなたのみ力をほめたたえます。あなたの御業をほめたたえます。わたしの歩みを守り、あなたの御言葉を信頼して歩む者としてください。御言葉が必ず成るのだと、そのことを見せてください。

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。」(ヨハネ7:38)

主がわたしの心に生ける水を与えてくださる。それは自分で一生懸命に「生き生きと生きよう」と思ってやることではなくて、主がわたしのうちに与えてくださるものなのだ。主よ、今日もあなたのもとに来ました。あなたのもとに来ましたから、生ける水を与えてください。わたしのうちからあふれ流れ出るような命の水を下さい。聖霊様によって満たしてください。イエスよ、御言葉通り、わたしのうちに与えてください。そして、周りの人々にもその恵みが流れ出ますように。

5月25日(火)

「スリヤびとが、主は山の神であって、谷の神ではないと言っているから、わたしはこのすべての大軍をあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを知るようになるであろう。」(列王紀上20:28)

なかなか痛快な記事だと思った。「主は山の神だ」と言われたから、そうではないことを見せてやろうと、主は平地でも勝利を与えられる。でも、わたしも主が「わたしたちの心の問題に答えを与える神だ」と思いこんでいないだろうか。お金のこと、健康のことは神はどうにもなさらないのだと・・・。でも、そうではない、主はお金のことも、健康のことも、仕事のことも、世界平和のことも、動かすことのできる天地の造り主なる神なのだ。私自身、主を狭いところに押し込まないようにしよう。そして、あらゆる分野に置いて主の主権を信じよう。主の主権を信じて、歩んでいこう。主よ、あなたがわたしの人生のすべての分野で勝利者であって下さることに、主権者であって下さることに感謝します。

「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。」(ヨハネ6:68)

しゅは御言葉を持っておられる。御言葉を持っておられる。だから、主から御言葉を頂いて歩んでいこう。他のどこかではなく、他のだれかではなく、主に御言葉を頂いて、主の御言葉によって生かされて歩んでいきたい。主よ、御言葉をお与え下さい。御言葉によって生かしてください。他のものの力によって生きることがありませんように。他のものによって生きることがありませんように。主によって生きる者としてください。わたしの心を主よ、あなたによって生かしてください。

5月24日(月)

「火をもって答える神を神といたしましょう。」(列王紀上18:24)

水を何回もぶっかけたエリヤ。それはやはり神との関係の中で、神様が必ず答えて、火をくだして下さる、そして、主が火をくだして下さるならば、多少の水なんて大した問題ではない。なめ尽くしてしまう、と知っていたからだ。今、わたしたちに、わたしの上に必要なのはその火であり、御言葉が事実として示されることであり、そして、そこに信頼できるような神様との関係に生きることだと思う。主がわたしを招いて下さっていることを感じる。主がわたしをそのような信頼関係に招いておられる。だから、主よわたしをあなたとの交わりに導いて下さい。もっともっとあなたの恵み深さを教えて下さい。あなたのなそうとしておられることを教えて下さい。

「なおりたいのか」(ヨハネ5:6)

本当にこの言葉に語られた。自分の今自分の中に感じている問題について「なおりたいのか」と主が聞かれたら、自分はどのように答えるだろうか。この人と同じように、言い訳をしてしまうのではないだろうか。言い訳をいろいろして、結局自分は直りたいのかどうかわからないのではないだろうか。でも、それでも、「直りたいのか」と聞かれるのは本当に大切なことだと思わされた。「なおりたいのか」と聞かれて、初めて自分の気持ちが見えてくるような、初めて自分が何を求めているのか、いや求めないでぬるま湯につかっていないだろうか、そんなことを問われたような気がした。主よ、どうかわたしを癒し、あなたのお役に立つ者としてください。

5月23日(日)

「かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。」(列王紀上17:16)

主が与えてくださる時に、それは人間の常識とは違うことがなされる。わたしたちが考えていなかったような方法を主はとられる。カラスに養われ、貧しいやもめに身を寄せたエリヤ。自分だったらこのように生きられるだろうかと思わされた。しかし、主はかめの粉が尽きないように、ビンの油が尽きないように満たしてくださる。主ご自身が供給者であり、主ご自身が与えて下さる方であることを覚える時に、何の不安もなくなる。主は必ず与えて下さる。そして、主にとってはこのエリヤを養うことも、わたしを養うことも、わたしの家族を養うことも、また教会堂を与えることも何の違いもないはずだ。そこに希望を持ち、信頼をもちながら歩んでいきたい。

5月22日(土)

「アサの心は一生の間、主に対して全く真実であった。」(列王紀上15:14)

ああ、このように言われるような一生を送りたいとおもわされた。一生主に真実であったと言われるような生涯を送りたいと思わされた。嘘のない、曇りのない心。そんな真実さを持たせて頂きたいと思う。主のことで、主のことで心が一杯になりますように。人々への愛で、わたしの心が一杯になりますように。わたしの心が主への愛と、人々への愛とで一杯になりますように。どうかわたしの心を守ってください。満たしてください。あなたへの思いであふれるように、あなたの愛を満たしてください。今日の一日を守ってください。

「目を上げて畑を見なさい。はや色づいて刈り入れを待っている。」(ヨハネ4:35)

畑は色づいて刈り入れを待っている。これはまたすごいチャレンジだ。刈り入れを待っている人々がいる。だから、わたしたちは出て行きたいと思う。主よ、刈り入れをさせてください。刈り入れをさせてください。主よ、救われる方々が起こされますように。刈り入れを待っている方々のところにわたしたちを送って下さい。主よ、わたしたちを遣わして下さい。わたしの霊の目を開いて下さい。わたしの霊の目を開いて、刈り入れを待っている畑を見せて下さい。幻を見せて下さい。

5月21日(金)

「この事は罪となった。」(列王紀上12:30)

ヤラベアムがこの事を思いついた事もわかるし、その理由ももっともだと思う。でも、そのもっともな理由で始まったことが大きな罪をもたらした。それらしく聞こえる理由、それらしい言い訳。でも、それが落とし穴になることを忘れてはいけないと思わされた。主にのみ仕える、その事に集中していく時に、主が祝福してくださることを単純に信じていこう。いろいろもっともらしい言い訳、もっともらしい理由付け、あるだろう。でも、愚直に、単純に主を第一にして、主を信頼して歩んでいきたい。感謝。

「神がお遣わしになったかたは、神の言葉を語る。」(ヨハネ3:34)

主のご計画の中に生かされていることの幸いを感じた。今まで、自分では感じていなかったし、考えているつもりもなかったけれども、どこかで自分のしたこと、「功績」のようなものを求めていた自分がいた。それが人数だったり、洗礼式だったり、教会堂だったりしたのかも知れない。でも、このヨハネの言葉に、もっと大きな視野が開かれた。大きな視野で見ていくことの大切さを思わされた。主と同じ思いで人々を愛させて頂きたいと思った。主と同じ思いで、人々の救いのために歩ませて頂きたいと思った。一人に福音を伝え、一人が造りかえられ、主に用いられるだけでもいいと思った。主がそれを望まれるならば、妻だけでも、子供達だけでもかまわないと思った。主がそれを望まれるならば・・・。主と同じ思いで人を愛していきたいと思った。主よ、どうかわたしを用いてください。あなたのために。

5月20日(木)

「兄弟よ、あなたが下さったこれらの町々はいったい何ですか。」(列王紀上9:13)

ソロモンはつまらない町々をヒラムに与えた。そして、ヒラムはそれに「こんなつまらないモノ・・・」と応じた。何かやるせなくなってくる。つまらないモノを贈る者、そして、それに対して「これはひどい」と文句を言う者。でも、自分もまた主に対してそのような態度を取っていないだろうかと思わされた。主に最高のものをおささげしているだろうか。つまらないモノ、余り物、余裕があるから、とささげものをしていないだろうか。最高のものをおささげよう。そして、人々に「こんなモノ」と言われているかも知れない、私自身を主が喜んで受け入れて下さっていることに感謝して歩んでいこう。

「しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、また人についてあかしをする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることをしっておられたからである。」(ヨハネ2:25)

わたしたちは主のお役に立てるのだろうか?主のお役に立って歩んでいくことができるのだろうか。これは十字架と復活の前の人々の事であって、今は十字架と復活の福音を知った者たちを宣教につかわしておられるのだけれども、一体、自分は主の信頼を受けることができるのだろうかと思わされた。ただ、主が土の器である私自身を通して、私自身を通して、その栄光の輝きをあらわしてくださることを祈るだけだ。ただ、真実な主の器となることができますように。

5月19日(水)

「しもべがこの所に向かって祈る祈りをお聞き下さい。」(列王紀上8:29)

やはり神殿は「祈りの家」だったのだ。それはどこまでいっても、「祈りの家」だったのだ。神の臨在のあふれる場、ささげものをささげる場、だったのだが、でも、そこは祈りをささげる場であり、祈るところであった。わたしたちが今自分の身体が神の宮であり、聖霊の宮である、というが、本当に、主に祈る生活の中で、それが本当のことになるのだと思った。祈りの足らない者であり、祈りを知らない者であることを痛感させられる。でも、わたしの身体を主が聖霊の宮にしようとしてくださっているのだから、そこに感謝しながら、祈りの生活を送っていきたい。

「きて見なさい。」(ヨハネ1:46)

主の許に人々を連れて行こう。「来て、見なさい」と。ただ、それだけでいい。ただ、それだけで十分。主の許に人々を連れて行けば、主が触れてくださる。主が示してくださる。わたしが一生懸命説明することよりも、説得しようとすることよりも、主を紹介すること、主に紹介すること、あの中風の人をイエスのもとに連れて行ったあの四人の人々の様に、主に紹介することが大切なんだと思った。「来て、見なさい」。そのように語らせて頂こう。

5月18日(火)

「ソロモンはこれを建てるのに七年を要した。」(列王紀上6:38)

七年か。ものすごい年月だと思った。ものすごい年月を要したんだと思った。今、自分がこの教会の牧師として立たされてからもうすぐ七年が経とうとしていることを考えると、その長さが実感できる。そこには忍耐も必要だっただろうし、いろいろな困難もあっただろうし、考えていなかったような出来事も起こってきただろう。でも、そのような中で、ソロモンは忠実に、忍耐をもってそれに取り組んできた。自分に必要なものもそれだと思う。忠実さと忍耐。本当に結果がすぐに出なくても忠実に忍耐を持って主に従っていく、それが自分に必要だと思った。主よ、どうかわたしの日々の歩みを支え、あなたに忠実に従う者としてください。

「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて・・・」(ルカ24:45)

聖書がわかるためには主がわたしたちの心を開いてくださらなければ、いけない。であるならば、本当に「わかりやすく」語ることよりも、「人々の心を開いてください」と祈ることの方が数倍大切ではないだろうか。勿論、努力を怠ってしまう、ということではないだろう。でも、そこに頼って行くのではなく、主が与えてくださる悟り、主によって心が開かれて、心の目が開かれて、人々に主がはっきりと示されていくこと、それを求めていくことが本当に大切なのだと思った。主よ、祈ります。一人一人の心が開かれて、あなたの御言葉が一人一人の心に留まりますように。

5月17日(月)

「あなたの求めないもの、すなわち富と誉れをもあなたに与える。」(列王紀上3:13)

主の気前のいいこと。主はソロモンが求めた知恵を与えただけではなく、富や誉れをも与えた。求めないものさえ与えて下さる主。その主がおられることを本当に感謝していこう。何か肩の力が抜けて、主がわたしたちが気がつかないもの、わたしたちが求めないものさえも与えて下さる、そのことにゆだねて歩んでいこう。そして、求めなければいけないもの、祝福を求めなければいけないもの、それを求めて、そこに集中して歩んでいこう。主よ、御言葉を下さい。御言葉によって生かしてください。

「そして、その声が勝った。」(ルカ23:23)

ピラトが何とかイエスを釈放しようとした姿が心に留まった。でも、人々の声に負けた。でも、すべては主のご計画、旧約聖書に預言されていたことの成就だった。もちろん、そこに従ったのは、イエスだけで、他の人々はピラトにしても、弟子たちにしても、民衆にしても、自分の心の中の「恐れ」に支配され、「恐れ」の声に従っただけなのだが・・・。結局誰が勝ったのか。やはり、イエスがこの十字架にかかることによって勝利を得られ、そして、わたしたちのために救いの道を開いてくださったのだ。十字架はイエスの勝利だったのだ。感謝。

5月16日(日)

「わたしの命をすべての苦難から救われた主は生きておられる。」(列王紀上1:29)

「主は生きておられる。」とそれだけ言えばいいところを、彼は、「わたしの命をすべての苦難から救われた主」と言った。彼にとって、主はそういう方だったのだ。主はすべての苦難から彼を救い、彼を支え、生かして下さった方だったのだ。あのサウル王の剣から、そしてアブサロムの謀反から、たくさんの闘いの中でも守って下さった方だったのだ。わたしにとって、主はどんな方だろうか。わたしだったら、どのように言うだろうか。主はわたしの歩みを一歩一歩導いて下さった方。一歩一歩支えて下さった主。感謝します。

5月15日(土)

「よろず備わって確かなとこしえの契約」(サムエル記下23:5)

主がわたしたちのために備えて下さるもの、それはすべて十分に与えられている。主はすべてを備え、確かに与えて下さる。そして、いつまでもそれは変わることがない、という。教会堂も、働き人も、経済的な必要も、知恵も、方法も、霊的な力も、霊的な感性も、主はすべてを備え、完全に満たしてくださるのだ。感謝。うれしい。心から喜びが湧いてくる。安心だ。「よろず備わって確かなとこしえの契約」が今やイエスによって、イエスを信じる者たちに与えられていることに、心から感謝しよう。何ということだ。書いているうちにどんどん喜びと平安があふれてくる。主よ、感謝します。

「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」(ルカ22:32)

主がわたしのために祈っていてくださる。今年はまたこの言葉がいつもにまして深く心に響いてくる。だれかが祈ってくださっている。それも感謝。でも、それ以上に主が、イエスさまご自身がわたしのために、わたしの信仰のために祈っていてくださる。ああ、何とありがたいことだろうか。何と素晴らしいことだろうか。主よ、どうかわたしの信仰を支え、わたしの心を守り、あなたとのパイプを支え、祝福し、あなたの命にあふれて生きる者としてください。

5月14日(金)

今日から楽しみにしてきた、修養会。明日、あさっては、更新がお休みになります。祝福を祈ってください。

「この後、神はその地のために、祈りを聞かれた。」(サムエル記下21:14)

何かとても複雑な思いでこの聖書の箇所を読んだ。神が祈りを聞かれるために、整えられなければならないものがあるのだろうか。ここの箇所は「たたり」ではないことは明らかで、「恨み」の問題だと思う。新約聖書のマタイ5章の「恨まれていることを思い出したら、ささげものはそこに置いて、先に和解しなさい」とある事をも思い出したが、和解というよりは、子孫達を処刑することによって怒りを収める、という方法だった。でも、この細かい状況は別として、祈りが聞かれるために、整えられなければならない部分があるのだろうかと思った。もしそうであるならば、そのことを経験させて頂きたい。味わわせて頂きたいと思った。主よ、わたしが祈る時に、あなたがわたしに触れてください。ただ、わたしの思い通りにではなく、私自身を変えてください。主よ、わたしの魂に触れてください。

「あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。」(ルカ21:15)

これはすごいと思った。主が言葉を与えてくださる、知恵を与えてくださる。主が私達のために、わたしのために言葉を与えてくださって、誰も反論もできないような、否定もできないような言葉だという。主よ、今日も、聖霊様を待ち望みます。あなたの御言葉を与えてください。あなたの御言葉に生かしてください。一つ一つの会話の中にあなたの語りかけが豊かにありますように。

5月13日(木)

「わが子アブサロムよ。ああ、わたしが代わって死ねばよかったのに。」(サムエル記下18:33)

この嘆きは何の嘆きだろうか?自分の命をねらっていた息子、兄アムノンの過ちの故とはいえ、彼を殺してしまった弟息子。そのアブサロムの死にダビデは大泣きをして、大将のヨナタンに諫められる。でも、これは父親としての嘆きだろう。謀反を起こしても息子は息子。どんなに逆らっても、どんなに非行をしても、息子は息子。息子との和解を求めていたのだろう。その息子が死ななければならなかった。その悲しみ。その痛み。事のきっかけが性的な罪であることを思う時に、ダビデ自身の過ちの遠い結果がここに現われていることを感じていたのではないだろうか。どうしようもない嘆き。どうしようもない悔恨。罪の結果の悲惨さを思わされる。その罪のために、その罪からの救いのためにイエスが送られた。イエスが十字架にかかってくださった。罪が十字架の上のイエスに置かれたことは、どれほどの事だったのだろうかと、こういう結果さえも負われたとすれば、その結果故の痛みさえも負われたとすれば、それはどれほどの苦しみだっただろうか。感謝します。

「見えのために長い祈りをする。」(ルカ20:47)

どきっとした。自分の祈りは見えのための祈りではなかったかと、どきっとさせられた。主よ、あなたとの交わりに生かしてください。あなたとの交わりを楽しませてください。人の目を気にして生きる者ではなく、あなたのとの交わりの中で、命を頂き、喜びをいただきながら歩む者としてくださいますように。

5月12日(水)

今日は朝起きるのが遅かったのだろうか。早朝祈祷会に行って、その後、面談日で一日が過ぎていき、更新が遅くなってしまった。でも一日に感謝しつつ・・・。

「主はきょう彼の悩みをのろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない。」(サムエル記下16:12)

思いっきり憎たらしい言葉でダビデを呪うシメイに対して、「神がそうさせるのかも知れない」と言うダビデ。都落ちの不安の中にあったのかと思ったらそうでもなかったようだ。神がなさることを信頼していこう、という姿勢がここにあるように思えた。本当に静かな確信とでも言うべきものか。そのようなものを感じた。主が与え、主が取られる、主の御名はほむべきかな、と言ったヨブと同じように・・・。主よ、あなたの御手を信じる者としてください。そして、あなたに祈る者としてください。あなたとの交わりの中に平安を頂いて、確信を頂いて歩む者としてください。

「もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい。」(ルカ19:31)

何のために解放されたか。何のために救われたか。それは主がお入り用だから。主が私を用いようとされたから。だったら、用いて頂いたらいいではないか。思いっきり用いて頂いたらいいではないか。主が私を用いようとされている。主がご用のために私を用いようとされている。そのために救われたのだ。そのために主のものとされたのだ。そのためにあの解放を味わったのだ。主よ、あなたのご用をさせてください。人々の救いのために私を用いてください。あなたのメッセージを語るために私を用いてください。

5月11日(火)

「王子よ、あなたは、どうして朝ごとに、そんなにやせ衰えるのですか。わたしに話さないのですか。」(サムエル記下13:4)

アムノンは友を持っていた。普通は友を持つことはよいことだと思われるが、このアムノンにとって、ヨナダブは最悪の友だった。彼の事を理解して知恵を与えてくれる友であったが、最悪の友だった。本当に大切なことを語ってくれなかった、一時の欲望が満たされることだけを勧めた友だった。だから、アムノンはタマルをてごめにした後、彼女を憎み、最終的にはアブサロムに殺されてしまう。すべてはこのヨナダブの助言から始まった。主よ、私を人々の友とならせてください。言いにくいこともはっきりと言うことのできる友とならせてください。その場しのぎの助言をすることがないようにお守りください。遣わしてください。無関心の罪からお守りください。

「イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。」(ルカ18:1)

失望せずに祈ること。本当に大切なことだと今日、語られた。今日、早朝祈祷会で教会に行ったけれども、本当に祈り続けること、その大切さを思わされ、祈らされた。主よ、もっともっと祈ることを教えてください。祈らせてください。主よ、祈りを聞いてください。しつこいくらい祈ります。主よ、どうか、祈りに応えて御業をあらわしてください。

5月10日(月)

「しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので・・・」(サムエル記下12:14)

主を侮ることの恐ろしさ。それは大きな結果となる。真実に主に従い、真実に主を敬っていく、それが本当に大切なことだと思う。主をバカにしてはいけない。どうせ赦してくださるよ、と侮ってはならない。失敗はあるかもしれない。過ちを犯すかもしれない。でも、主を侮ってはならない。主よ、今日、語って下さったことを感謝します。あなたを侮らないように、あなたを侮ったりしないように守って下さい。そのようにします。あなたの私達にして下さった大きな事のゆえに感謝します。

「大声で神をほめたたえながら帰ってきた。」(ルカ17:15)

昨日の礼拝の時に、賛美の歌を私があまり大きな声で歌うので、周りの子供達が振り返ったり、うるさいって顔したり、ちょっと恥ずかしかった。でも、恥ずかしいと思う自分がバカだなあと思う。思いっきり大きな声で歌えばいいじゃん!と思う。どう思われたって、音痴だって思われたって、いいじゃないか。自分は神様に賛美しているんだから、自分の最高の賛美をしているんだからいいじゃんか。主に歌っているんだから、大声で歌わないでいられないんだからいいじゃないか。もっと大声で賛美しよう。もっと心から賛美しよう。私の口に賛美を与えて下さった神様、感謝します!

5月9日(日)

「わたしはヨナタンのために、その人に恵みを施そう。」(サムエル記下9:1)

今日のところは、何が語られているのか、何か分かち合うことがあるか、本当に何もないようにも思った。だから、何度も何度も読み返してみた、いろいろな本も開いてみた。その中で、この言葉が浮き上がってきた。ヨナタンのゆえに、その家の残った者を大切にしようとしたダビデ。その姿と、ダビデの子である、本当の王である、世界の王であるイエスの姿が重なった。イエスはご自分の血潮のゆえに、イエスはご自分が流された血のゆえに、まさに「死んだ犬に等しい」わたしを憐れみ、赦し、主に従うことの遅い私を赦し、用いようとされている。感謝が湧いてきた。本当に主の憐れみによって生かされていると思う。主の憐れみによって支えられていると思う。用いられていると思う。主よ、どうか、今日の一日もあなたが支えてください。あなたが用いてください。礼拝のご用のためにあなたの油注ぎを与えてください。

5月8日(土)

「あなたのために家を建てる」(サムエル記下7:11)

ダビデが主のために家を建てようとしていた時に、神は「わたしがあなたのために家を建てる」と言われた。主が与えられる。主が備えられる。私達の教会もそうだ。本当に真実に主に従い、主の愛を伝えていく時に、主が与えてくださるのだ、主が与えてくださるので、私達ががんばるのではなく、私達が無理をするのではなく、ただ、私達は私達の使命を果たさせて頂くことが大切なのだ。主よ、どうか、わたしの歩みを守り、あなたの与えてくださるものを見せて頂くことができますように。明日のために主よ、御言葉を与え、人々がイエスによって造りかえられる奇跡を拝させてください。

「彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう。」(ルカ16:29)

私達には御言葉が与えられている。御言葉が与えられている。どうか、わたしを御言葉に生きる者としてください。聖書の言葉に生きる者としてください。何か奇跡とか、不思議なこととか、そのようなことに求めるものではなく、聖書の言葉を語る者としてください。明日の礼拝のためにあなたを求めます。あなたの御言葉を頂いて、御言葉を真実に語る者としてください。

5月7日(金)

「そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。」(サムエル記下6:14)

力をきわめて主の前に踊ったダビデ。本当に周りの目なんか気にならないくらい、主に心が向いていて、賛美であふれて、賛美していた。さげすんでいる妻の目も全然気にならなかった。何てすごいんだろうかと思った。そして、そのような賛美に生きたいと思った。そのような賛美にあふれて歩んでいきたいと思った。主よ、私の心をあなたのことで一杯にして下さい。あなたへの思いで満たし、生かしてくださいますように。あなたが私の心を支配してください。あなたで心を一杯にしてください。モノに惹かれて、それで心が一杯になることがないように、主よ、お守りください。

「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはありません。」(ルカ15:29)

この兄息子、自分のことで一杯だった。自分はこんなにやってきた。こんなに仕えてきた。こんなに従ってきた・・・と。旧約のダビデの賛美とは対照的だと思った。本当に主の前に出て、主に向かって賛美をささげたダビデ、彼の心は主のことで一杯だった。でも、一生懸命仕えたこの兄息子、彼は、自分のことで一杯になっていた。ああ、主よ、わたしの目を自分自身ではなく、あなたに向けさせてください。あなたの愛、あなたの力、あなたの奇跡、そこにわたしの目を向けさせてください。主よ、どうか私の心を満たしてくださいますように。

5月6日(木)

「わたしの命を、もろもろの苦難から救われた主は生きておられる。」(サムエル記下4:9)

ふたりの者が「あなたの命をねらっていた敵サウルの子の首です」と持ってきた時に、そして、「主が報復されました」と言ってきた時、彼らに対してダビデはこう言った。わたしを救われたのは主だ、と。そして、彼らの不法を裁いた。だから、ダビデは人間関係を神との関係の中で理解したんだと思う。神との関係の中に人がいて、直接の「敵対関係」とかではなかったのだ、と。サウルはねたみに振り回され、自分の命をねらっているけれども、主がわたしを彼の手に渡さない限り、自分は守られる、そして、彼もまた自分と同じように油注がれた者である、そのように受け取っていた。今日出会う人々も神様が出会わせてくださる人々。神様が導いてくださる人々。だから、誠実に、主の証し人として主を指し示していきたい。主よ、今日の出会いを祝福してください。あなたが導いて出会わせてくださる方々に、真実に接することができますように。

「道やあきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。」(ルカ14:13)

主が招いておられる。無理矢理にでもひっぱって連れてきなさい、と言われる。無理矢理でも、実際来てみたら、その宴会は何と素晴らしい時だっただろうか。そのような確信、主がなさることは、主が私達を招かれるところは、本当に素晴らしいのだ、という確信の中で、無理矢理にでも、ひっぱってきて、主の恵みを知って頂く、そのような者とならせていただこう。主がわたしに与えてくださった恵み、喜び、勝利、確信、それを本当に大胆に証しし、イエスさまのところに、無理矢理にでも導かせて頂きたい。「無理矢理にでも導いてくれてありがとう」と言われてみたい。「こんな素晴らしいところだったら、何で今まで無理矢理にでも連れてきてくれなかったのですか」と言われないようにしたい。

5月5日(水)

「わたしはユダの一つの町に上るべきでしょうか。」(サムエル記下2:1)

サウルと神様との関係に比べて、このダビデと神との関係はどれほどしっかりしたものであっただろうかと思う。主に尋ね、主から御言葉を頂き、お答えを頂いて歩んでいく、サウルは神からの答えがほしくて、霊媒師にまで頼ったのに、ダビデは神に尋ね、神からお答えを頂いて進んでいった。この違いは何だろうか。わたしはダビデのように歩ませて頂きたいと思った。ダビデの様に主に従って歩んでいきたいと思った。主よ、あなたとの親しい関係を持っていくことができますように、主よ、助けてください。そして、今日で結婚14年になります。あの結婚の時の約束の様に、私達の存在を通して、私達の結婚を通して、主が多くの人々を救いに導いてください。そのために、私達の夫婦の関係を豊かに祝福してください。ふたりで心を合わせてあなたの前に出ることができますように。

「そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。」(ルカ13:8)

主の忍耐、主の憐れみ、それによって支えられていることを今日も思わされる。それによって赦されていることを思わされる。感謝します。あなたの憐れみと赦しとに感謝します。今日の一日もあなたが与えてくださっている大切な一日です。どうかあなたの恵みの中に歩ませてください。

5月4日(火)

「その主が賜ったものを・・・」(サムエル記上30:23)

これは主がお与え下さったものなのだという思い。それが大切だと思わされた。自分の手柄とか、自分の力とか、そうではなくて、主が与えてくださったものなのだという思い。そのような思いで周りを見渡すと、どれほど多くの賛美を、どれほど多くの感謝をささげるべきだろうかと思わされる。昨日もひとつ感謝すべきものが届いた。来るべくして来たのだけれども、それを受け取った時に、夫婦で主の前にひざまずいて感謝をささげるべきだったんじゃないだろうかと、本当に主に感謝をささげることの遅い者だと、鈍い者だと思う。主よ、感謝します。一日一日を感謝します。与えられているものに感謝します。どうか、分かち合う者としてください。あなたから与えられているものに感謝して、分かち合う者としてください。

「自分の持ち物を売って、施しなさい。・・・天に尽きることのない宝をたくわえなさい。」(ルカ12:33)

主が与えてくださることを本気で信じていく時に、与えることが恐ろしくなくなる。主が与えてくださっているんだから、主がこれからも与えてくださるのだから、だから、恐れないで、与えていく者とならせてください。主よ、あなたが今日もわたしの必要を満たしてくださっていることに感謝します。どうか、あなたが私の心に確信を与え、平安をお与えください。私の心がいつも天に向かっていくように、天に宝を蓄えさせてください。私の心が自分のことに囚われないように、人々を愛することができるように、主よ、本当に心から愛で満たしてくださいますように。

5月3日(月)

「わたしは、ひじょうに悩んでいます。」(サムエル記上28:15)

非常に悩んでいたサウル。でも、彼は神の前に悔い改めの心は持たなかった。なぜ神が答えられないのだろうか、神が答えられないから困っている、という思いはあったが、それを手っ取り早く霊媒師のところに行って解決しようと思った。霊媒師のところで、何とか、自分がこれからどうしたらよいかを聞きたかった。神の前での本当の悔い改めではなかった。自分も都合のよい時に、何か導きを知りたい時に、神にすぐ答えをもらおうと祈ることがある。でも、本当は毎日の歩みの中で、主につながっていれば、主とともに歩んでいれば、本当に主からの導きを頂いて進んでいくことができるはずだ。手っ取り早い答えがほしくて、主の前に出ることよりも、他の方法で答えをもらおうとすることもある。主よ、本当にあなたと共に歩ませて下さい。あなたの答えをもらいながら、あなたの導きを感じながら、歩む者としてください。

「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊をくださらないことがあろうか。」(ルカ11:13)

天の父の与えられる祝福。天の父は私達に求めているものよりももっと素晴らしいものを与えてくださるのだ。主が与えてくださるのは私達が願うもの以下ではなく、以上のものだ。主に求めよう。求め続けよう。主は与えようとして待っておられる。主はわたしにも与えようとしてうずうずしておられる。主よ、「求めなさい。そうすれば与えられる」との御言葉に従って、あなたに求めます。どうか主が与えてください。どうか主が満たしてください。

5月2日(日)

「主はわたしがナバルの手から受けた侮辱に報いて、しもべが悪を行わないようにされた。」(サムエル記上25:39)

侮辱を受けた時にも、主が報いて下さった。ダビデは本当に主に信頼する者だったのだと思わされた。次の章には自分の命をねらうサウル王が自分の手に落ちるのだが、そこでもダビデは自分で手を下さなかった。主にゆだねていた。自分も油注がれた者だった。その油そそぎをとても重んじたのだと思う。主のなさることに信頼していたのだった。自分もそのように歩みたいと思う。自分でじたばたするのではなく、主が導かれるところに進んでいく。主が与えて下さっているものを感謝して歩んでいく。そのような者となりたい。

5月1日(土)

「サウルは日々に彼を尋ね求めたが、神は彼をその手に渡されなかった。」(サムエル記上23:14)

神がダビデを守られた。神こそがダビデを守られる方だったのだ。主が共におられるということはどういう事だったのか。どういう事なのか、それを思わせらせられた。すべては主の御手の中にあるのだ。わたしの悩みや恐れやそういうことをも含めて、すべて主の御手の中に守られ、支えられている。だから、恐れる必要はないし、ひるむ必要もない。こそこそする必要もない。本当に真実に堂々と歩んでいくことが求められていると思わされた。主よ、どうか、わたしの道をこれからも守ってください。一つ一つを切り開き、主が導いておられることをはっきりと示してください。主が導かれるところに素直についていく者としてください。

「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」(ルカ10:42)

主が私達に「無くてならぬものは一つだけだ」と言われた。イエスのために一生懸命やっているマルタに対しての言葉であることに大きな意味があると思う。一つだけだ。この一つだけ、そう、御言葉に聞き、そこにひざまずいて聞くこと以上に大切なことがあるわけがない。この一つのことに命をかけていこう。その一つの事にすべてをかけていこう。主よ、どうか、わたしが御言葉のご用のために、それだけに、力を注いでいく者となることができますように。まず御言葉を聞くことに命をかけていくことができますように。主よ、お助けください。

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