どうして、すべての民を滅ぼさなければいけなかったのか、いくら偶像礼拝の民であったとしても、そうしなければならなかったのかは私達の理解を超えている。またどうして、アカンには悔い改めのチャンスも与えられなくて、滅ぼされなければならなかったのかも、理解を超えている。あのダビデは赦されたのに・・・。でも、ここから学ぶことができるのは、私達の信仰の歩みは、本当に心の隅々まで、勝利を与えられないと、出て行って勝利を得ることはできない、ということだ。内的な勝利が外的な勝利につながっていく。主よ、今日の歩みを助けて下さい。内なる勝利を与えて下さい。内なる勝利に歩ませて下さい。どうか、あなたが私の歩みを支え、導かれますように。そして勝利を得た者として、人に接することができますように、主よお助け下さい。
まさに、イエスは他人を救うために、私達を救うために、この苦しみを担われた。この屈辱を味わわれた。ここにいる人に、あざけっている人に言ってやりたい思いになった。でも、本当はこのあざけっているのは私自身なのだ、私自身の姿なのだ。本当に主が私達を愛して、私達のために命を投げ出して下さったのに、イエスの惨めな姿を受け入れることができない。すぐ美化してその苦しみを少しでも軽いものと見ようとする。ああ、主よ、どうか私を憐れんで下さい。イエスの十字架を直視することができますように。そして、自分の罪の現実、罪の結果を直視することができますように。主よ、どうか私を憐れんで下さい。助けて下さい。主よ、あなたに感謝します。私を救うため、自分を投げ出して下さったあなたの恵みに感謝します。
靴を脱ぐ。それは降伏だ。主の前への降伏だ。
戦いに出ようとする時に、自分が将軍として民を導こうとしていた時に、主はヨシュアに、み使いを遣わし、主に従うようにと全面的な権力の委譲を要求された。しかし、その時に勝利が決定づけられた。その時にこそ、勝利の道筋が示された。今日の一日を始めるにあたって、このような御言葉が示された事は本当に感謝だ。主が私に一日の主導権を要求されている。主導権を主に委譲する事を要求されている。主よ、私も靴を脱ぎます。あなたが私の一日を導いて下さい。私の一日の主であって下さい。
自分はずるい人間だと分かっている。だから、このペテロこの言葉が自分の言葉であるように感じる。
自分を守る事に一生懸命で、本当の事から逃げてしまっている。でも、主は人々がでたらめを言っておられる時は、ずっと沈黙を守っておられて、でも、本質的な事を聞かれた時には、はっきりとご自分の事をお話になっている。今日一日、主を告白する日でありたい。大胆に。そのような出会いを与えて下さい。そのようなチャンスを与えて下さい。主よ、私を伝道者にして下さい。あなたの事を伝える伝道者にして下さい。
踏み出した時に、水が引いたのだ。彼らが足を踏み出そうとした時はまだ、水があふれていたのだ。しかし、踏み出した時にこそ、水が引いたのだ。自分は水が引かないと踏み出せない方の人間だと思う。水が引いた時に、そこに渇いた道があらわれた時に、初めて前に踏み出せる。でも、この時、民は水があふれている中で踏み出していった。主よ、助けて下さい。水が渇いていない時も、川が水で満ちている時にも、踏み出すべき時があるのならば、それをさせて下さい。その踏み出すべき時を見逃さない者として下さい。主よ、あなたが語って下さい。そのために、ああ、やはり主よあなたとの交わりの中に生きる者として下さい。
どきっとした。
した方も、しなかった方も、それを主のためにしたという意識は全くなかった。
日々の歩みの中でどのように生きているかが問われている事を感じる。自分も本当に自然と与える者とならせて頂きたいと思った。本当に当たり前の様に与える事を、別に「私は与えているんだ」なんて感じる事もなく、意識する事もなく、当たり前の様に与えている生涯を送らせて頂きたいと思った。でも、本当は、受ける方が「当たり前」になってしまって、受ける方が当然の事になってしまって、感謝の思いを持たないでいるんだろうなあ、と思う。主よ、もっともっと与える事が当たり前になる生涯を送らせて下さい。
強くあれ、雄々しくあれ!主が共におられるから。主が私達と共におられるから。私達の信仰の歩みの中でも、戦いがある。でも、その中で、私達は主によって勝利がすでに与えられている。すでに勝利が約束されている。だから、恐れないで歩んでいこう。恐れないで、大胆に進んでいこう。雄々しくあれ。今日の日曜日のために、主が勇気を与え、語って下さった事に感謝します。あなたと共に歩む者として下さい。力強く歩む者として下さい。
モーセはうらやましいなあと思う。主と顔を合わせて知り合いになれたなんて・・・。でも、新約聖書を読むと、昔の預言者は私達の知っているキリストの十字架による救いの事をもっと知りたくて、もっと知りたくて章がなかったのに、私達は知る事を許されたのだと。本当に主の恵み深さを思わされる。今生かされている事の幸い、新約時代に生かされている事の幸いを覚え、感謝しよう。本当に私達はイエスの十字架を知るものとされた。そのことに感謝しつつ、もっともっと主に近く、もっともっと主とともに歩ませて頂こう。
福音が世界に伝えられる。それまではイエスは来られない。もっともっと伝えなければと思う。もっともっと多くの人々に、もっともっとはっきりと。もっともっと大胆に。もっともっといろいろな人々に届くように。ああ、本当に大切な働きのために召されたのだなあと思う。それにふさわしく歩んでいるだろうかといつも思わされる。主よ、どうか、今日も私の一瞬一瞬をお守り下さい。導いて下さい。あなたの事を伝える者として下さい。
主の御言葉、主が語られる言葉は、むなしい言葉ではない。ただの言葉ではない。ただ、感動する言葉ではない。ただいい言葉ではない。私達への語りかけだ。私達へのメッセージだ。神からのメッセージだ。生きた御言葉だ。そこに命がある「種」だ。それこそ私達の命綱だ。いのちを与える。いのちそのものだ。今までどれだけ、御言葉によって支えられただろうか。御言葉によって元気をもらい、立ち上がらせてもらい、力をもらい、癒しをもらってきただろうか。御言葉を与え続けて下さい。私に語り続けて下さい。私が枯れそうになった時に、疲れを覚えた時に、くじけそうになった時に、そして、すべてが順調に進んでいる時にも、私を守り、私を支えて下さい。御言葉をお与え下さい。御言葉によって私の道を導いて下さい。
今日は、この章の一つ一つの言葉を読みたいと思った。一つ一つの言葉を読んだ。その中で、この言葉が目に留まった。十分の一を細かい所までささげる姿勢があっても、「公平とあわれみと忠実」を見逃しているぞ、と主は言われる。もちろん、ここ全体は、一つ一つの言葉よりも、外側だけ整えて内側はどうなんだと問われているのだと思う。本当にイエスの十字架の救いしかない事を思う。でも、「公平とあわれみと忠実」。一つ一つに注意して歩みたいと思う。公平でいたいと思う。それは単に誰にでも同じではなく、誰に対しても本当にその人にふさわしい愛し方で愛する事。あわれみ、そして、忠実。主よ、今日の一日の歩みで御言葉の意味を教えて下さい。あわれみについて、公平について、忠実について、どのように歩むべきなのか、どのように歩んだらいいのか、主よ、教えて下さい。そして、御言葉を行う者として下さい。
何を恐れているのだろうか?何を不安に感じているのだろうか。イスラエルの民は40年間、荒野で主が支えて下さったのだ。何もない荒野で支えて下さったのだ。主は荒野でも必要なものを与え続けて下さるのだ。40年といえば、自分の生まれてから今までの間ではないか。また今から最大限にこの地上で生きる可能性のある期間ではないか。その間、着物は古びず、靴も古びない、という歩みをさせた神が、私達の家族を守らない事があろうか、必要なものを与え続けて下さらない事があろうか。心配するな、思い煩うな。主がすべての必要を満たして下さるから・・・。与えよ、守る事に囚われないで、与え続ける者となれ。主よ、あなたがいつもいつも必要を満たし続けて下さる事、心から確信して歩む事ができますように。
せっかく婚宴に来たのに、そこに準備されていた礼服を着ないなんて・・・。自分の服の方がいいと思ったのだろうか。自前の方が立派だと思ったのだろうか。それとも、そんなの関係ないと思ったのだろうか。主の準備して下さった礼服・・・イエスの十字架を確実に伝えていこう。確実に手渡していこう。その礼服がどれほど大切なものであるのか、どれほど必要なものであるのか、どれほど素晴らしいものであるのか、それを死かっか理と伝えて、そして、確実に手渡していこう。主よ、今日出会う方々、話をする方々一人一人にこの礼服を手渡すチャンスを与えて下さい。主よ、どうか、あなたの導きがありますように。
この後に出てくるのは、まさに、イスラエルの歴史そのものではないだろうか。アッシリアに滅ぼされ、バビロンに滅ぼされ、ギリシャ、ローマに支配されていたイスラエルの歴史そのものではないだろうか。今まで、ここを読むたびに、この呪いの部分は読み飛ばして、祝福の部分しか読んでいなかったように思う。でも、歴史的に成就したのはこの呪いの部分の方だった。現在、イスラエルが再建されているが、でも、最近、本当にそれが神様の祝福なんだろうかと、疑問を感じ始めた。あまり政治的な論争に巻き込まれたくないが、ヘブル人への手紙の手紙を見ると、アブラハムに約束された、約束の地は、究極的には「天のふるさと」だったのだ、とある。アブラハムとアブラハムの子孫である者たち(新約では、わたしたちのこと・・・)に約束されたのは天の御国のことだったのだ。そして、わたしたちをその「天のふるさと」という約束の地に導くために、罪の呪いが最終的にはイエスに集中して、イエスがまさにこのようなのろいの究極の呪いを受けて下さって、十字架にかかって下さったのだ。自分も、ただ、天のふるさとを望み見て歩む寄留の民でいたいと思う。
子供たちの口に賛美を与えられた主。子供たちの賛美はなんだか、本当にうれしい。大人も、あの子供たちのように単純に、賛美をささげられたらと思う。いろいろ考えすぎるのかもしれない。いろいろな状況に捕らわれすぎるのかもしれない。いろんなことに囚われているんだろう。不自由なんだろう。そう、大人はいろんなことが分かっているんじゃない。いろんなことに囚われてしまっているのだ。恐れてしまっているんだ。幼子になろう。幼子のように、ただ、主に従っていこう。幼子のように主をほめたたえながら歩んでいこう。
主にささげるものは、残り物ではなく、最初に選び、最初のものをささげなければならなかった。余裕があるからではなく、みんなが十分食べてからではなく、最初にささげる。最初のものをささげる。今の自分の主へのささげものは本当にそのような思いでささげているだろうか、ルーティーンになって、当たり前だから与えられたものの十分の一を計算してささげている、という感じだろうか。最初に、主に持っていこう、最高のものを主に持っていこう、残りがあるからではなく、ゆとりがあるからではなく、最高のものを、主におささげしよう。それは時間も、労力も、才能も、そうだ。主が任せて下さったものの中で、最高のものを主に用いて頂こう。
今日はNJの早朝祈祷会。帰ってきてから新約をアップします。
10時半です。帰ってきたのは8時過ぎ。更新遅れましたが、マタイによる福音書の言葉をアップします。
この神のあわれみを感謝。夕方5時に来た者に対しても、同じようにしようとして下さる、同じように気前よくして下さる神に感謝。本当に自分は甘いと思うし、弱いと思うし、このたとえ話の一日働いた人ではなく、夕方に来たような者だけれども、そのような者にも良くして下さる、一杯の恵みを下さる神様は素晴らしいと思った。そして、その報いはこの地上だけではなく、天の御国において、もっともっと大きいことを思うと、楽しみで仕方がない。この地上でもこんなに主と共に歩むことが幸いなのに、天国の歩みはどんなんだろうか。感謝。
主がわたしたちを祝福して下さる。人がのろう時にも、主がそれを祝福として下さる。そして、何よりも、イエスがわたしたちの受けるべき呪いを受けて下さった、ただそれによってわたしたちは赦されている。祝福を受け継ぐ者となっている。主よ、あなたの祝福を見せて下さい。主よ、あなたの祝福を感じさせて下さい。あなたの祝福に気付かせて下さい。一昨日から、今ひとつ体調がすぐれないでいる中で、ああ、何て、自分は体の調子に心まで左右され易い者かと思わされている。主よ、どうか、体の調子がすぐれなくても、その中で主よ、あなたの祝福を知る者として下さい。
人の救いのことがここではいわれている。人が救われることは本当に主の奇跡だ。人にはできないこと、でも、神には何でもできないことはないのだ。その神の奇跡をもっともっと見せて頂きたいと思った。そのために、もっともっと祈らなければ、と思った。人が造りかえられ、救われて、喜びにあふれて歩むことができるように、主が助けて下さいますように。人にはいろいろなこだわりがあって救われるのは難しいかもしれません。お金、名誉、仕事、家族・・・でも、主よ、あなたには何でもできないことはありません。主よ、祈ります。あなたが救いの御業を見せて下さい。
イエスは木にかけられた。イエスは木にかけられて、のろわれた者となられた。すべての罪をその身に負われて、木にかけられた。のろいを受けて下さった。人の怒りが自分に向く時に、そのことを知る時に、ものすごいエネルギーを吸い取られる。イエスはあの十字架の上でわたしたちの罪をすべて負われて、神の怒りをその身に負って下さった。ああ、なんという犠牲、何という愛。自分はそんな立場に立ったら、やはり逃げ出したくなるだろう。自分の失敗が原因でも、人の怒りを受ける時には逃げ出したくなるものだから・・・。でも、ある時には、いわれのないことで怒りを受けることがある。そんなとき、イエスさまの苦しみを少しだけでも、分けて下さっているのかもしれない。イエスさま、あなたがわたしのために十字架にかかって下さって、のろわれて下さったことを感謝します。あなたのみ思いをもっともっと知り、あなたの痛みをもっともっと知り、あなたに感謝できる者として下さい。今日の礼拝を祝福して下さい。あなたを中心とした礼拝となりますように。
この戦いの時代のメッセージを現代のわたしたちが受け取る時に、それは人生の中の戦いについてのメッセージとなる。人生の歩みの中で戦いがある。自分との戦い、悪の誘惑との戦い。その中で恐れないで歩んでいくことを主はわたしたちに求めている。大勢の軍隊、自分たちよりも強いものを見ても恐れるな、と主は言われる。主ご自身がわたしたちと共にいて下さるからだ。主よ、今日の一日の歩みを支えて下さい。今日の一歩一歩も戦いの歩みであり、サタンに勝利していく歩みであることを覚えさせて下さい。あなたの勝利を与えて下さい。わたしと共にいて下さいますから感謝します。
今日は、まず「どんな願い事でも」ということが心に留まった。どんな願い事でも、っていうのはものすごいことだなあと。そして、ふたりが・・・とイエスが言われた時に、もちろんそれはどんなふたりでも良かったのだろう。でも、今日は、今日初めてだけれども、このふたり、を「夫婦」と感じた。もっともっとふたりで祈りたいと思った。先週の日曜日の礼拝では、夫婦は一体である、ということを読んだ。本当に一体の歩みをしてきただろうかと問われたような気がした。もっともっとふたりで「心を合わせて」祈ろう。主よ、わたしたちをもっともっと夫婦として下さい。
傷のないささげもの、この言葉を読んだ時につらくなった。傷のない、欠けのない者でなければならないのだったら、自分はダメだ、自分は主にささげられる価値のない者だと思わされた。でも、思いめぐらしているうちに思わされたのは、これはイエスさまご自身のことだということ。イエスご自身が傷なき者としてご自身をささげられたゆえに、傷だらけ、欠けだらけのわたしが主に受け入れられている。わたしのような者も受け入れられている、わたしのような者も主に用いられる場がある。感謝。主よ、どうかわたしをもっともっとあなたのために用いて下さい。そのために整えられなければならない所、与えられなければならないこと、主よ、あなたの御手にゆだねます。あなたの思いのままに形作って下さい。主よ、わたしの今日の一日をあなたにささげます。どうか一日の一瞬一瞬をあなたが導いて下さい。
この言葉はチャレンジだ。弟子たちがこの子供を癒せなかったのは、神の御心ではなく、この子の父親の信仰ではなく、弟子たち、イエスに従う弟子たちの信仰の問題だったという。わたしたちはいかに多くの場合「御心だから」ということで片づけていないだろうか。もちろんそういう場合もあるであろう。でも、余りにも簡単にそのことを言っていないだろうか?わたしたちの信仰を増して下さい。わたしの信仰を増して下さい。あなたを本当に信頼し、あなたの奇跡を見ることのできる者として下さい。主よ、どうかわたしを助けて下さい。あなたを信頼します。あなたに祈らせて下さい。信じて、信頼して祈る者として下さい。今日の祈り会を主が導き、あなたの御業を拝させて下さい。
主の前に楽しむ。主にささげものを持って、集まるのは、聖会をもつのは、「楽しみ」だという。何か自分の感覚の中に、「おつとめ」のようなイメージが抜けきらないのに対して、主はこのように何度も何度も、それは「楽しみ」なんだよ、と語って下さるように思える。主の前に出ることを、もっともっと楽しみ、喜びとしたい。主がわたしたちを招いておられる。わたしたちと楽しもうとされている。何か緊張して、裃着て、いつもと違う自分で、楽しみはまた別に・・・というのではなく、主の前に出ることを楽しんで歩みたいと思う。自分の中に飢え渇きがある。主よ、わたしを満たして下さい。あなたの御言葉で、あなたの語りかけで、主よ、あなたの前に出ることがもっともっと楽しみとなりますように。
イエスが建てられた教会。ただ、ただ、イエスをキリストと告白する信仰の上に建てられた教会。誰がでななく、誰かの働きではなく、本当に主が「イエスを主とする」信仰だけを土台にされた教会。わたしもそこに生かされている。主よ、いつもあなたが教会の中心であって下さいますように。あなただけがあがめられて下さいますように。あなたがほめたたえられ、あなたが注目されますように。「主は素晴らしい」という声があふれますように。あなたが建てて下さった教会に仕えることができることに心から感謝します。
主がわたしたちを選んで宝としておられる。主がわたしたちを宝とされた。それ故に命じられていることがある。それ故に要求されている歩みがある。もちろん、ここに出てくる食べ物の規定とか形のことではないであろう。でも、イエスに救われたから、イエスの十字架によってどうせすべて赦されるのだから・・・ということではなく、主の宝としてわたし自身が主から求められていることがあるのではないだろうかと思わされた。主よ、今日の一日もあなたの御手の中で、あなたの導きの中で歩ませて下さい。何をすべきか、あなたが教えて下さいますように。
この言葉がものすごくありがたく感じた。主は言われる。「空腹のままあなたを帰らせはしない」「人々を空腹のまま帰らせたくない」と。主よ、あなたは今もわたしたちを御言葉によって養い、御言葉によって解決を与え、御言葉によって満たして下さる方です。感謝します。どうか、わたしに御言葉を与えて下さい。今日生きるための分、毎日毎日、主よ、あなたが御言葉を与えて下さいますように。主よ、御言葉をお与え下さい。そして、それを人々に分かち合うことができますように。
主がその名を置くところを、決められた。それはこの当時はエルサレムであった。エルサレムを選ばれて、その名を置く神殿を造られた。そして、イエスはそこで十字架につけられた。今、この十字架こそ、神がその名を置かれるところだった。神ご自身が選んでその名を置かれるところだ。今、十字架の許でこそ、主の名に寄る礼拝をささげることができる。そして、わたしたち自身が神様がその名を置かれるところだ。主はわたしたちが主の名で呼ばれることを喜んでいて下さる。あなたのものとなっていることを感謝します。その厳粛さ、その責任の大きさを思わされます。どうか、主がわたしをあなたの名にふさわしい者として整えて下さい。わたしの今日の歩みを守り、言葉を守り、あなたの愛に満たされて、喜びに満たされて歩む者として下さい。
弟子たちは、もう「自己責任」で済ませたかった。自分たちで、めいめい買い物をして食べればいいと思っていた。第一、自分たちにはどうにもならないことだとわかっていた。だから、自己責任で済ませたかった。でも、主はそれを許されなかった。あなたがたの手で食物をやりなさい、と。いわれても、できないことはできなかった。でも、主にあってはできないことではなかった。自分の力でできないことでも、主が「しなさい」と言われるのなら、その力を主は与えて下さる。主が奇跡をなして下さる。主の力を信じていこう。今日も、わたしが出会う一人一人の方々に主の愛を与えていくことができますように。あなたの力によって、人を愛し、受け入れ、与えていくことができますように。
今日読んだ全体のメッセージからは少し離れるのかもしれないけれども、この言葉が心に留まった。今自分がまさに「寄留の他国人」であるからに間違いない。この感覚は本当に特別な感覚だ。何となく根が張っていないというか。もうこちらに住んで10年以上が経つのにだ。子供たちはほとんどこちらの経験しかないのに、だ。寄留の他国人。でも、最近はずっとこの感覚を持って生きていくんだろうと思う。聖書によるとわたしたちはこの地上ではいつも「旅人」だという。ただ、主の備えてくださっている「ふるさと」を目指して歩む者なんだと思う。主よ、どうかわたしの一歩一歩をお守り下さい。そして、わたしたちが受け入れられたように、新しい人々を受け入れる者として下さい。
最近、このような言葉が語られることが多い。今まで、ずっと頭で考えていたのかもしれない。祈りが聞かれない時に、「御心ではないんだ」とすぐに神様の責任にしていた。でも、イエスさまが御業をなさろうとしてもなされない環境もあるんだ、わたしたちの不信仰という・・・。簡単にあきらめていたところもある。そっちの方が楽なのかもしれない。でも、それこそ、不信仰だ。イエスもゲッセマネで祈り続けられた。パウロも自分の肉体のとげが取り去られるようにと何度も祈った。その向こう側に「御心がなりますように」という祈りがあり、「わたしの恵みはあなたに対してじゅうぶんだ」というお答えがあったのだ。主よ、どうか不信仰な私をおゆるし下さい。不信仰な私を憐れんで、あなたの奇跡を見ることができる者として下さい。
この有名な言葉は、荒野でイスラエルの民が食べ物がなくて苦しんで、その中でマナが与えられた事を思い出して、モーセが語った言葉である。試練ということを思う時に、どうしてこのような事が起こるんだろうということの中で、もっとこの祈りが聞かれて、ものごとが順調に進んだ方が信仰の歩みも守られるのでは、と浅薄にも思ってしまうこともあるのだが、そうではない。その中で、主から語られて、主から御言葉をいただいて、立ち上がっていくことが大切なのだ。今の自分もそうだ、人の励ましや、人の言葉ではなく、主ご自身の語りかけをいただいて、立ち上がっていく者でありたい。御言葉によって生かされていることを教えてください。今日の礼拝のためにあなたの助けを与えてください。あなたが導いてください。あなたを中心とした礼拝を守れますように。
ものごとが順調にいっている時、満たされている時、自分がどのようなところから神に守られてきたか、どのように導かれてきたか忘れてしまうことのいかに多いことか。慎んで歩むことのいかに難しいことか。だから、いつも神の言葉を、神の語りかけを忘れないで、目の間に、手に、しるしとしてつけておくことが必要なことを思わされる。主よ、私に謙虚な心を与えてください。あなたに従うことができますように。あなたの前にひれ伏すことができますように。どうかいつもあなたの導きと守りの中で今日まで来られたことを忘れることがありませんように。
イエスさまがわたしたちのことを母と呼んでくださり、兄弟と呼んでくださる。わたしたちのことを受け入れ、わたしたちのことを家族として迎えてくださる。主よ、あなたの恵みを感謝します。あなたの家族として受け入れられていることに感謝します。わたしにも、教会にもこのような大きさを与え、人々を家族として、喜んで受け入れることができますように。主よ、どうかあなたがわたしたちにあなたの大きさをお与え下さい。わたしたちを通して、あなたの大きさをあらわしてください。
主が共におられる。つねに。わたしたちが気がつかない時にも、わたしたちが神を遠く感じる時にも、わたしたちが見捨てられたように感じる時にも、主がわたしたちと共におられる。だから、安心していこう。自分の実感のような曖昧なものを頼っていくのではなく、御言葉を信頼していこう。主が今日も共におられる。わたしたちのうちに悔い改めるべきものがあって、神様が共におられるのに、そのことを喜べないように邪魔をしていることもある。主よ、私の罪をゆるし、わたしの心をきよめ、あなたが共におられることをいつも喜ぶ者として下さい。いつも感じることのできる者として下さい。いつも感謝して歩む者として下さい。
わたしたちに休みを与えて下さる主。わたしたちの尻をたたいて、働け働けとせきたてるのではなく、主の許で休むことを与えて下さる。主の十字架の許にある安らぎ、平安。何か最近、主にあって休むことが必要だなあ、と思わされている。主よ、あなたにあって、あなたのもとに休む者として下さい。そして、周りの方々にも安らぎを与える者として下さい。主の許に安らいで歩む者として下さい。
主が守ってこられたのに、ここまで守ってこられたのに、人々は闘いに進んでいくことを恐れた。自分たちの小ささと相手の大きさを考えて、恐れた。今まで彼らを守ったのは神ご自身であったのに、闘いを前にして、自分の小ささに恐れた。相手の大きさに恐れた。神が見えなくなっていた。でも、これはわたしたちが歩んでいく中で、良くあることであると思わされた。主がわたしたちを守られるのだから、主がここまでわたしたちを抱いてこられたのだから、これからの歩みでも主を信頼していこう。主に従っていこう。主を見上げていこう。わたしたちが歩んでいく中ではいろんな困難や闘いがある。そこに進んでいこう。
新約でも恐れることはない、と語られた。主のためにご奉仕する時に、主を伝える時に、恐れることはないと。わたしたちは主に守られている者だ。だから、結果がどうであれ、大胆に語っていく者、大胆に伝えていく者でありたい。主がわたしたちを守られる。困難が来るとしても、それは主の御心だ。主の試練だ。だから、恐れることはない。主よ、私を遣わしてください。あなたのことを伝える者として下さい。今日の集会でもはっきりとあなたの事をおあかしすることができますように。
逃れの町が備えられていた。不慮の事故で人を死なせてしまった人々が復讐に遭わないようにと・・・。その逃れの町の境から出るならば、その人は復讐されても文句は言えなかった。もちろん、これは新約の時代ではイエスの十字架の守りを言っている。十字架の恵みの許に、十字架の恵みの許にいる時だけ、わたしたちは赦されている。イエスがわたしたちのために血を流して下さったから・・・。主よ、どうか私を守ってください。あなたの十字架の許にいつもいつもおらせてください。
また終わる前にNYに行く時間になってしまった。早朝祈祷会。新約のアップは昼頃になります。
そして11時過ぎ。
信じるようになる。信じないならば、少ししか期待しないならば、それなりの答えを主がなさる、という事を語られた。もちろん、主のなさることはわたしたちの信仰を超えていると思う。でも、人々の不信仰で主が御業をできなかったという聖書の箇所もある。それを思う時に、やはりわたしたちは大胆に主に求めていくことを期待されているのだと思う。主を信じて、主のしてくださることを大きく期待して、主にはできないことはないことを信じて、進んでいく者でありたい。主よ、あなたを信じます。大胆に信じます。今日のために、また明日のために、主よ、あなたを信じます。どうか私の思うところを超えて主が御業をなしてください。
40年の荒野の旅路、それは失敗続き、不信仰続きの40年だった。それを一つ一つ書き記すのは大変なことだっただろう。忘れてしまいたいことだらけだっただろう。でも、それをあえて書き記すのは何のためだったのか、と思わされた。その時にあの詩篇103:2の言葉「そのすべての恵みを心に留めよ」という言葉が心に浮かんだ。主がなしてくださったこと、主がなしてくださったすべての良いことを心に留めよ、と主は言われる。誰かがほめられるためではなく、また誰かが批判されるためではなく、ただ主のしてくださった恵みに心をとめるため。主がしてくださった、主が、わたしたちのあらゆる失敗にもかかわらず、守ってくださったこと、支えてくださった事に心をとめるように、主は言われているのではないだろうか。ただ、主だけがほめられますように。
自分は小心者で、嵐が嫌いだ。嵐はいやだ。嵐は怖い。そんな嵐を逃げながら歩こうとしている自分に対して主が言われているように思う。「なぜ怖がるのか。私がいるではないか」と。だから、嵐が襲ってこようとも主に従って歩んでいきたいと思う。主が導かれるところに進んでいきたいと思う。主よ、あなたが語って下さい。語り続けて下さい。あなたの願うところに主よ、導いて下さい。
ヨルダン川を渡るのを前にして、目の前に家畜を飼うのにちょうどいい地があって、そこで、ガドとルベンの人々は、「ここにいたい」と思った。無理もないことだと思う。最終的にはそこを相続することが許されたのだが、それは本当なら神が喜ばれることではなかった。そして、戦いに進んでいくことを要求された。わたしたちの霊的な戦いにおいても、日々の生活の中で何を選び取り、何を拒否していくのか、という闘いにおいても、闘わないで、のほほーんと過ごした方がいかに楽だろうかと思う。サタン(悪魔)だって、生ぬるい信仰者はほおっておくだろうし、そうしていたら何て楽だろうかと思う。でも、主が約束された祝福の生涯のためには闘いは、ある。主よ、あなたの祝福をください。半端なクリスチャン生涯ではなく、あなたの準備された祝福のすべてをください。そのための闘いに勝利を与えてくださいますように。
主が与えられるものは「良いもの」。いつでも、「良いもの」。だから求めていこう。最高のものを求めていこう。求め続けよう。そして、与えられたものが最高のものであることを疑わないで、感謝して、歩んでいこう。主はわたしたちに「良いもの」を与えてくださるお方だと約束されている。主よ、私に良いものをこれからも与えて続けてください。もっともっとあなたはわたしに準備しておられるものがあると信じます。更に豊かに与えてください。
年に一回、何の労役もしないで、ただ、主の前に出る時、そのような時が本当に必要なんだなあ、と思わされている。もちろん、毎日一回は主の前に出るわけだし、週一回は主の前に心からの礼拝をささげるわけだけれども、年に一度、特別な時を設けて、何の働きもしないで、主の前に出る時が必要だと思う。他のことをすべて忘れて主の前にひとりの人間として出て、主に取り扱って頂く、そのような時が必要であることを思わされる。主よ、どうか私が動くことばかりではなく、静まることを大切にする者となることができますように。主よ、どうか助けて下さい。主よ、あなたによって生かされ、あなたによって歩む者としてください。今年、特別な時を設けて、あなたの前に出て、あなたから語られて、あなたに答えをいただいて立ち上がる時を与えてくださいますように。
カナンの地に入る直前に、主の元に召されなければならなかったモーセ。彼の無念さ、彼の痛みはどれくらいだっただろうか。それは自分のためではなく、人々のために、民のために思わないではいられない思いだっただろう。だから、神に「牧者」を求めた。リーダーを求めた。ああ、主よ、あなたが私をこの教会の牧師として立てておられる間、私を牧者として下さい。形だけの牧師、メッセージを語って、仕事をこなしているつもりになるのではなく、本当の意味で、牧者として下さい。群れを一つにして主の導きのもとに導いていく牧者として下さい。また、私がここを去らねばならない時が来るならば、その時に、主が牧者を与えて下さい。主ご自身が牧者になって下さると共に、群れを導く牧者を与えて下さい。
新約は祈り会から帰ってきた後、昼頃にアップします。
今日は早く帰って来れました。9時40分です。今朝の祈り会はとても素晴らしい一時となりました。やはり教会は祈りを中心にしないとどこかおかしくなっていく、と思います。祈りに導いて下さった主に感謝!
主がよいことをしてくださる。主は私が心配する以上に心にかけてくださっている。主は私が愛する以上に教会を愛して下さっている。神の国と神の義を求め続けていく時に、主は必要なものすべてを与えて下さる。感謝します。私の必要も、教会の必要も、私が心配する前から、私が心配する以上に心配して下さって、与えて下さるお方であることを感謝します。あなたを見上げて、あなたを信じて歩んでいきます。どうか、主よ、あなたの与えてくださる者によって満たされていく者としてください。あなたの豊かさに満たされていく者としてくださいますように。
「これは旧約のことだから」と素通りできないものを感じた。自分の中に、「義憤」のようなものが失われていないかという思いがある。イエスが言われたように、「裁いてはならない」のだが、同じイエスが神殿が強盗の巣になっていた時に、鞭をつくって商売人たちを追い出されたのだ。罪が平気で行われているのに、それに対する怒りもなくなり「世の中はそういうものだ」とわかったような振りをして、本当は単なる「無関心」だったりすることはないだろうか。罪に対する怒りさえ失っていないだろうか。主よ、わたしが罪に対して敏感になることができますように。罪を犯し続ける人々のために祈る者として下さい。罪に涙する者として下さい。無関心ではなく、愛を持って歩んでいくことができますように。
完全な者となりたいと思った。そのようになりたいと思った。自分によくしてくれる人によくするだけではなく、自分に敵する人、にも愛を注げるような、そんな「完全な者」となりたいと思った。主といつもいつも深くつながっている完全な人になりたいと思った。主よ、どうかあなたと共に歩ませて下さい。
バラムは神の前に降伏した。バラムは欲に心惹かれて、バラクのもとに出て行ったけれども、み使いに出会い、神の前にひれ伏す経験をした。そして、目が開かれて預言をする者とされた。自分は今何に動かされて生きているだろうか。昨日、ある方と話をしながら、自分が神の前にひれ伏した時の経験を語ることに導かれていた。その時、はっきりと自分の原点はあそこにあり、やはり、今も、「わたしのために主が十字架にかかって下さった」ということの喜び、感謝が自分の歩みの原点であり、自分の動かしているものであることに気がつかされた。主よ、他のものがわたしを動かそうとする時に、他のものがわたしの行動を左右しようとする時、それが欲であったり、それが恐れであったりする時に、わたしを戒めて下さい。わたしの道を開かないで下さい。いつもいつもあなたの愛に突き動かされて生きる者として下さい。あなたに砕かれて、生きる者として下さい。
ペテロもアンデレも、ずっとその世界で生きてきた。そして、網を捨てるということは、ただ、新しいところに進んでいくだけではなく、周りの人々との軋轢もあっただろうと思う。「説明してくれ」と迫った身内もいただろうと思う。そんな中で彼らは網を捨ててイエスに従った。「すぐに」。主よ、わたしもあなたが導かれる道に、すぐに従っていく者でありますように。あなたの導きに忠実な者でありますように。
バラムは一度神に「行くな」と言われたのに、2回目により身分の高い使いがやってきて、厚遇を与えることを告げられた時に、心が動いた。そして、もう一度神に求めた。ああ、何と自分もやりそうなことなんだろうかと思った。神の導きがわかっていながら、何が善で何が悪であるか、わかっていながら、物に目がくらみ、人々の待遇に左右され、人々の言葉に動かされ・・・。何と御心に従うことに足りない者であるかと思わされる。主よ、どうか、あなたの御心を求め続ける者として下さい。あなたの御心に真実に従う者であることができますように。自分の願いの元がどこにあるのか、本当に主に従って求めているのか、それとも自分の物質欲や名誉欲で求めていることはないだろうか、いつもそこに敏感である者として下さい。
聖霊と火によるバプテスマ。燃やされ、焼きつくされるバプテスマ。弟子たちが求めるように言われ、求めて求めて与えられたバプテスマ。今、私自身の中に、また教会の中にそのバプテスマが与えられることを求めよう。そのことを示された。このレントの期間、日曜日を含めるとあと40日くらい。本当に焼きつくされ、燃やされる聖霊によるバプテスマを授けて頂くことができるように、それに燃やされて前に進むことができるように、求めて行こう。主よ、わたしを満たして下さい。砕いて下さい。きよめてください。
主がほめたたえられますように。本当にそのことを追い求め、そのことに集中することができますように。このモーセとアロンの失敗。それは、水を岩から出す時に、主が求められた方法ではなく、怒りにまかせて岩を打ってしまったこと、またその言葉「われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さねばならないのか」と自分たちがするかのような言葉を使ったこと。でも、自分もいかにそのような態度を取ってきたことの多かったことか、と思う。主の栄光、主の御業、そのことだけが拝され、あがめられるように。本当にそのことを求め続けていこう。主よ、お助け下さい。あなたの御業をたたえる者として下さい。ただ、あなただけがほめられますように。
この章全体に流れる、星、御言葉、夢、それらを通しての神の導き。その力を感じた。主に導かれて歩みたいと心から思った。主が共におられる。主がわたしの人生、たった一回の人生、本当に主の導かれる最善の所に歩んでいきたいと思った。主よ、どうか、わたしもこの博士たちやヨセフたちと同じように、あなたが導いて下さい。どうか主よ、確信の中に大胆に歩んでいく者として下さい。あなたを待ち望みます。
早いもので今年も3月になりました。今日から新約聖書も読み始めます。村上宣道先生は聖書「愛読」という言葉を使っておられて、「通読」よりも、こっちの方がいい言葉だなあ、と思い始めています。「根性読」「気合読」「魅読」「惹読」・・・など(最初に思いつく言葉自体に、まだまだ未熟さを自分で感じてしまう。「根性」で読んでいるんかって・・・)、いろいろな言葉を考えましたが、今のところ「愛読」にかなう言葉は見あたりませんねえ。もう少し考えてみます。
この言葉は自分たちの結婚式の時に、小林先生が開いて下さった聖書の言葉。あれはもう14年前。一晩で咲いたアロンの杖の花に対して、自分たちの夫婦関係はどうだろうかと思わされた。実を結んでいるだろうか。夫婦を通して、たくさんの人々が主に導かれると信じて、使徒行伝11:21を信じて歩んできたが、どうだろうか。もっともっと豊かな歩みをさせて頂きたいと思った。そして、神に選ばれた者の杖は花が咲き、実を結ぶことを本当に見せて頂きたいと願った。ああ、もっともっと主に近く、もっともっと主とともに歩ませて頂きたい。今、祈りの中に歩ませて下さい、主とともに歩む歩みに生かしてください。死んだ木のはずである杖から芽が出て、実を結ぶような御業を見せてください。
いつも読んでいるこの言葉が今日は違った響きを持って聞こえてきた。主はもう、わたしたちと共にいてくださる。わたしたちが神と共に歩もうと思う前から、わたしたちと共にいて下さる。イエスにあって、イエスのうちには、もう、すでにわたしたちと共にあろうという神の大きな、ご決意が、断固としたご決意があったのだ。ああ、感謝します。待っていてくださって、受け入れてくださってありがとうございます。今日からの歩みをあなたの恵みの中にどっぷりと生かしてください。