一年の折り返し点まで来ました。そして、あさってからは日本訪問です。楽しみです。
もちろん、日本からも更新します。
エジプトの王を用いて神が語られた。その神の言葉にあのヨシヤ王が従えなかったとは。あの申命記改革を断行した、16歳で断行したヨシヤ王が、神の言葉が、人を通して、それも本当の神を信じない人の口を通して語られたがゆえに、従えなかったとは。謙虚さがここでも問われていると思った。本当に主の前に、また人の前に、謙虚に歩むことの大切さを思わされた。神様は人の言葉を通しても語られることがある。そのことを感謝していこう。そのことを信頼していこう。主よ、あなたのみ声を聞き分ける耳を与えてください。人の言葉に全く耳を傾けないのではなく、人を通して語られるあなたの言葉にも耳を傾けることができますように。御言葉を与えてください。
鞭で打たれて、投獄されたふたり。彼らがその獄屋で賛美をささげていたというのは驚きだ。賛美を歌い続けていた時に、人々は耳をすませて聞いていた。そして、この獄吏は救われた。何か伝道していたわけではなく、seeker sensitiveに気を遣っていたのではなく、ただ、真実に、ひたすらに賛美をささげていた、祈りをささげていた。それが人々の耳に留まり、獄吏とその家族との救いへとつながっていった。これでいいのだと思う。これが伝道なのだろうと思う。ひたすら真実に主をほめたたえ、主に祈り、御言葉を語っていくことが伝道なんだと思う。主よ、どうか本当の伝道をさせてください。救われる方々が次々と起こされますように。信じて主に救われる方々が多く起こされますように。今日のコンサートも豊かに祝福してください。
アッスリヤの大軍、それも多くの国々を滅ぼし尽くして、エルサレムに迫ってきた大軍を目の当たりにして、ヒゼキヤ王は、なおも、自分と共におられる方に目を注いだ。いろいろな雑音も聞こえてきた、いろいろな声が耳に入ってきた。でも、その中で、いつも彼は自分と共におられる方の大きさ、偉大さ、力強さを信じていた。わたしもそのように生きたいと思った。どんなに難しい問題を前にしても、どんなに大きな山を前にしても、それに囚われるのではなく、主を信じて進んでいきたいと思った。このお方が共におられるのだから・・・。主よ、どうかわたしにあなたをいつもいつも見せてください。あなたの声を聞かせてください。「恐れることはない、ただ信じなさい」と。
文化的なことで教会が揺れ動いた。でも、またそれは本質的なことだった。ユダヤ人だけの教会になってしまうか、世界への教会になるか、それが問われていた。文化的なことが教会を支配しないようにと主が導いてくださったのだ。ただ、信仰だけが問われるような、ただ、主のしてくださった素晴らしいことだけがほめたたえられるような、教会へと主が導いてくださった。これをしっかり守っていこう。文化的なことが、教会を支配することがないように、ただ、主への信仰だけが一致の源になるように、祈っていこう。
人々が心を一つにできたのは、心を一つにしたのは、神の手が働かれたからだった。神の御業だった。今、わたしたちが心を一つにする必要がある。心を一つにして進んでいく必要があるけれども、そのために何が必要なのかというと、神様の手による一致だ。だから、本気で主に求めて、本気で主が一つにして下さることを期待して、待ち望んで進んでいくことが必要だと思う。主よ、あなたを待ち望みます。わたしたちを一つにして下さい。あなたの前に、あなたに従うことにおいて、一つにして下さい。あなたにお従いすることにおいて一つになることができますように。
パウロとバルナバは自分たちが去っていく時に、長老を任命して、主にゆだねていったのだけれども、ここで、彼らは、断食をして祈った。今日はその断食をして祈った、という言葉に心が留まった。心が留められた。単に「主にゆだねた」というのではなく、断食をして祈って、主にゆだねた。自分が「主にゆだねた」という時に、余りにも安っぽくそれを使っていないだろうかと思わされた。ただ、一言二言祈って、「主にゆだねた」と言っていないだろうかと。主にゆだねるために、主に信頼してゆだねるために、どれほど祈っているだろうか、食事を抜くほどに祈っているだろうか。主よ、祈ることを教えて下さい。祈りの世界をわたしにもっともっと開いて下さい。
更新一日遅れました。
ゼカリヤが語った時に、レビ人は立ち上がった。話を聞くだけではなく、聞いて、具体的に立ち上がった。わたしたちの御言葉に対する姿勢もそのようであることが大切だと思った。聞くだけではない、聞いて立ち上がることが大切で、立ち上がって進んでいくことが大切だ。礼拝の説教も、そのような時となりますように。聞くだけではなく、聞いて立ち上がって進んでいくような、ものとなりますように。私自身、座り込んでいるのではなく、積極的に進んでいくものとなりますように。御言葉に聞いて、立ち上がっていこう。
ウジヤ王は神に祝福された王だった。神に求め、神によって栄えさせられた王だった。ゼカリヤやイザヤがそばにいた。でも、栄えた時、その栄えが高ぶりの罠となった。だから、祝福されている時こそ、主としっかりつながっていなければならない。祝福されているからこそ、主にしっかりとつながって、歩んでいきたい。今の自分もやっぱりいつもいつも主から栄養を一杯に頂いて歩んでいきたいと思う。そのように歩ませて頂きたいと思う。主よ、どうかわたしがいつもあなたから養われて、歩んでいくことができますように。
異邦人のために福音を伝えるという使命、伝えて歩くという使命を神はパウロとバルナバとのために備えておかれていた。彼らはその仕事を託されていた。その仕事を授けられていた。その仕事に当たらせなさい、と聖霊は言われた。わたしに与えられている仕事、わたしに託されている仕事、それは何だろうかと思う。本当にそこに歩ませて頂きたいと思う。その使命をもう一度確認させて頂く時を与えて下さい。そして、使命に燃えて歩む者として下さい。主よ、どうか、確信を与え、あなたの導きに従って歩む喜びを満たして下さい。
100タラントを払って兵を雇ったアマジヤ王。その彼の作戦に対し、「やめなさい」と語った主。もうお金は払った後だった。すでに払った後だった。それが惜しいと思った。雇われた人々も追い返されたら怒るだろうと想像できた。そのような中で、主に従うことがどれほど難しいことだろうかと思う。もう始まってしまったこと、もう起こってしまったこと、もう支払ってしまった後、主に従おうと思うことは何と難しいことだろうかと思う。でも、主がそれ以上のものを与えて下さる。主に従うことの方が、人々にどんなことを言われたり、目先そんをしたかのように思われることを恐れることよりも大切だ。主よ、徹底的にあなたに従う者として下さい。
ひとりの人の救出のために人々が熱心に祈っていた。心を合わせて祈っていた。その祈りに応えるように、と言うよりも、その祈りを超えて、主はペテロを救い出して下さった。祈ろう。教会で心を合わせて祈ろう。ここから祈っていこう。主よ、どうかわたしたちの祈りを祝福し、心を合わせて祈っていくことができますように。そして祈りが聞かれることを経験していくことができるように助けて下さい。主よ、熱い祈りにわたしたちを導いて下さい。
昨日もそうだったけれども、この歴代志は「賛美」の力を強調していると思う。賛美がどれほど大切で、どれほどわたしたちに力を与えるものであるかを思わされる。本当に主がわたしたちの唇に賛美を与えて下さって、こころから賛美をささげることができるようにと祈る。賛美の上に座しておられる主、というのは本当だと思う。主よ、どうかわたしたちに賛美をもっともっと祝福して下さい。心からの賛美をささげさせて下さい。言葉だけ、音楽だけの賛美ではなく、存在すべてをもって賛美させて下さい。
彼らががんばったからではなく、彼らが何か特別なことをしたからではなく、ただ、彼らが主に従ったことによって、主の御手が彼らのと共にあったゆえに、信じて救われる者たちが多く起こされた。主よ、あなたの御手がわたしと共にありますように。わたしと共に主の御手があり、救われる者たちが多く起こされますように。あなたの御手が、教会と共にありますように。それによって救われる者たちが多く起こされますように、主が御業をなして下さい。教会の主はあなたです。わたしたちの方法や、わたしたちの作戦ではなく、あなたのみ力をあらわしてください。
今日の予定で、18章が抜けていましたので、今日と明日の予定を少し手直ししました。
これはまたすごい記事だ。賛美した時に、戦いに勝利したとは!賛美が戦いの勝利の秘訣だったとは!戦いのためには作戦が必要であり、戦力が必要であり、正しく配置し、士気を高め・・・ということが大切なはずなのだが、ここでは、そんなことは何もない、ただ、主に賛美をささげた。士気を高めることには近いことがあっただろ受けれども、「戦おう」というのではなく、主が与えられるから、信じて行きなさい、ということだった。賛美の力のすばらしさを思わされた。主よ、どうか、もっともっと心から賛美させてください。賛美が教会にあふれ、人々の口にあふれますように。あなたへの賛美があふれますように。そして、賛美による勝利を経験させてください。
聖霊による宣教。聖霊の力による伝道。ああ、これが必要だと思う。聖霊様を求めていこう。学びとか、説得とか、で伝道することはできない。ただただ、聖霊様の御業が必要だ。聖霊様の働きを待ち望もう。主よ、わたしのうちに聖霊様を満たしてください。聖霊よ、わたしのうちにあふれてください。わたしのうちに満ちてください。どうか伝道の働きのために聖霊様を与えてください。もっともっと顕著にそれを見ることができますように。
昨日読んだ所では、主に信頼して勝利を頂いたアサ王が、今日のところでは、主を信頼しないで、スリヤの王に助けを求めた。主よりも、手近な助けの方が、目に見える助けの方がほしかったのだ。そして、そのことを指摘された時に、預言者の前に悔い改めるのではなく、怒って獄屋に入れてしまった。主は最後まで信頼することを、徹底的に信頼することを求めておられる。それをわたしたちに期待しておられる。そして、力を表わそうとされている。そして、聖霊様がそれを指摘する時に、わたしたちに示す時に、それを無視することは、それを閉じこめてしまうのは、預言者を獄屋に入れてしまうのと同じだ。主よ、どうかわたしがあなたに徹底的に信頼することができますように。そして、聖霊様が「お前は主を見上げているのか」と語りかけらえる時、その語りかけに素直に聞くことができますように。
事情を話すアナニヤ。それに対して、「そんなことはわたしは知っている。しかし、わたしには別の計画があるのだ。さあ、行きなさい」と送り出された。わたしたちの言い訳。その愚かさを思わされた。言い訳や事情はいろいろあるだろう。でも、主はそんなものすべてご存じで、「さあ、行きなさい」と言われている。「わたしは才能がない」「今時間がない」「こっちの方が心配」・・・など、いろいろな理由付けはあるだろう。でも、そんなことは主は全部ご存じで、「さあ、行きなさい」と言われる。主よ、あなたの導きを示してください。あなたに信頼して進んでいきます。あなたの導きに従うことができますように。言い訳をしないで従うことができますように。
1+無限大も、1000+無限大も、無限大だ。そうなんだ。主が働かれる時、主が御業をなさる時、わたしたち自身の力がどんなに小さくても、主は御業をなされる。主は勝利を取られる。だから、主を信頼していこう。そして、主を信頼して大胆に歩んでいこう。主よ、感謝します。あなたの御力に感謝します。どうかあなたの無限大の力を弱く小さなわたしたちのうちに表わして下さい。あなたの無限大の力をあらわしてください。
ピリポはこの洗礼を受けたばかりのエチオピアの兄弟のことが心配にならなかったのだろうか?この後もフォローアップしたいと思わなかったのだろうか。思わなかったわけはないと思う。でも、聖霊様が導かれた所、聖霊様の導かれるところにわたしたちは行かなければならない。いや、それこそが喜びであり、感謝である。聖霊様が導かれるならば、それが最高の働き場である。エチオピアの兄弟のことは主にゆだねて、進んでいったピリポ。わたしもそのようにいつもいつも主の導きに忠実でありたいと思う。主よ、教えてください。行くべきところを教えてくださって、そこにわたしたちを遣わしてください。
野外礼拝で朝から動き回っていたので、更新が月曜日になりました。昨日はカラッと晴れ渡り、最高の天気で、たくさんの方々と野外礼拝ができました。感謝。
主に仕えることと、主を信じない人々の使えることの違い・・・。主に仕えることがどれほど安心で、励みになり、喜びになるか・・・。でも、自分の弱さは、「主に仕える」といいながら、人に仕えることができないことだ。本当に自然に人のことを考えられる人はすごいと思うけれども、自分はいつも自分のことで精一杯で、後になってから、「ああすれば良かった」「こうすべきだった」と思わされる。主よ、あなたに仕えることの喜びをもっともっと味わわせて下さい。そして、それと共に、あなたに仕えることが人に仕えることなのだ、ということを経験させて下さい。もっともっとあなたと人に仕える者として下さい。
国の分裂も主から出たこと・・・。何とか分裂を力で阻止しようとしたユダの人々に対して、主が言われたこと・・・。この言葉にいろいろなことを考えさせられる。「主から出たこと・・・」と。何のために主はなさったのだろうか。神に従わなかったソロモンに対する裁き?イスラエルの人々の不信仰に対する裁き?それはまた信仰への招きでもあった。いろいろな問題、苦悩、それを力で解決しようとするのではなく、悔い改めることを主は待っておられる。悔い改めることを主は求めておられる。神殿の奉献の時のソロモンの祈りのように、悔い改めを主は求めておられる。主よ、悔い改めるべきことを示して下さい。悔い改めるべきことを教えて下さい。悔い改めるべきことがあれば、悔い改めます。ひとつひとつの問題も主に解決を求めます。力による解決ではなくて、あなたによる解決を求めます。主よ、お助け下さい。
神の栄光が現れた。でも、それはステパノを守り、苦難の中から生きて返すためではなかった。ステパノをご自身のところに迎えるためだった。この殉教も主の御手の中にあったことだったのだ。ステパノが生きて帰ることではなく、殉教する中に神の栄光が現れた。そして、サウロの救いへとつながっていく。ステパノは生きている間にサウロの救いを見ることはできなかった。でも、サウロは救われた。ああ、主よ、わたしを近視眼的な視野から解放してください。永遠の視野からものを見る者として下さい。あなたの世界を見せて下さい。あなたの視野でものを見る者として下さい。
ソロモンの知恵は、シバの女王にも、他の国々の王にも、感嘆されるようなものだった。単に霊的なことだけではなく、単に神との関係だけではなく、神のことを余り知らない人々にも、その知恵を見られて、「神があなたを祝福しておられる」と言わせるようなものだった。その知恵の始まりは「主を恐れること」であり、知恵も自分でがんばって身につけたもの、というよりは、主が与えて下さったものだった。そして、それが一般の社会で認められて、神の栄光を表わすようなものだった。主よ、わたしたちにとって、何よりも大切なのは、主が共にいて下さることであり、主に愛されていることであり、罪から救われていることです。でも、それだけではなく、この世の基準でも、神を知らない人々にも「主があなたを祝福された」と言われるような、あらゆる面での祝福を与えて下さい。主の豊かさが、単に霊的な面だけではないことを信じます。あらゆる面で祝福して下さい。
信頼してまかせる。それが大切なことだと思った。それはその人たちを信頼したという以上に、「御霊と知恵とに満ちた」とあるように、その人々に宿る、その人々の生活にあふれる聖霊様に信頼した、ということだ。何か問題が起こると、自分で動き回り、そして、「配慮」という言葉の許に筋からはずれたことを言う・・・という自分の姿勢を悔い改めらされた。問題の中にある悔い改めるべき罪をはっきりと指摘し、その方の信仰と聖霊様に信頼する、そのような牧会が必要だと思った。主よ、今も教会をお守り下さい。サタンも急所を知って攻撃してきます。破れ口に立って祈ります。どうか、あなたがお守り下さい。教会の中に本当の悔い改めを与えて下さい。本当の飢え渇きを与えて下さい。そして、あの骨が生き返ったように、そのような御業を与えて下さい。
主の目がいつも主の宮に注がれている。主の心がいつも主の宮に向けられている。主の宮はイエスの十字架である。そして、イエスの十字架を信じる者たち自身である。だから、今日も主に向かって祈ろう。今日もイエスの十字架に向かってわたしの心を向けよう。わたしの思いをイエスの十字架に向けよう。今もそこにささげられる祈りを、主は無視されない。そこにささげられる祈りにいつも耳を傾けておられる。どうか、主よ、わたしの祈りを導いて下さい。今日の一日をあなたへの祈りのために聖別します。そのために頂いた一日として受け取ります。主よ、今日の祈りを助けて下さい。「もっばら祈りと御言のご用に当ることにしよう」と使徒たちが言ったように、わたしも今日の一日を与えられた一日としてそのために聖別しよう。
ここでも投獄されて、命の危険を感じるような弟子たち、しかし、その彼らの態度ははっきりしていた。「人間に従うよりも神に従う」と・・・。自分に必要なことだと思った。自分がほんとうにここに立たなければいけないと思った。人間に従うより、神に従う。人々の声、人々の顔色ではなく、神の導きに従っていく、そのためにはいつもいつも神に聞いていくことが大切なことだと思う。主よ、どうかわたしの心をお守り下さい。いつもいつもあなたに聞き、あなたに従っていく者でありますように。
この大胆な信仰。大きな神様だから、大きな家を建てよう、という思い。この信仰の態度には動かされた。やはり、自分の中の信仰が小さくなってしまっていたように思う。大きな神様なんだから、最高のものを、大きな神様なんだから、大きなものを、と思わされた。「いいです、ちいさなもので、最低限で・・・」なんてのは謙虚なようなふりをした不信仰だ。無用な贅沢をする必要はない。でも、大きな神様を大胆に証ししていくために、主よ、どうか最善のところへとわたしたちを導いて下さい。大きなものを与えて下さい。たくさんの方々にあなたのことを伝えたいのです。できるだけたくさんの方々にあなたのことを伝えたいのです。主よ、どうかわたしたちに最高の会堂を与えて下さい。
脅迫されたから、守って下さい、とかではなく、脅迫されたから、やめようではなく、脅迫されたから、主よ、そこに目を留め、わたしたちに思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい、だった。ほんとうにすごいと思う。でも、これがほんとうなんだと思う。困難の中で、大胆に御言葉を語らせて下さい、なんだと。主よ、どうか私を憐れんで下さい。どうか私を用いて下さい、私を用いて、あなたの御言葉を語る者として下さい。大胆に思い切って語る者として下さい。
神殿を建てるために人々が「真心からみずから進んで主にささげた」。喜んでささげた。そして、ダビデが祈った。「あなたから受けたものをあなたにささげたのです」と。先日も教会堂のことについて話した。16年が経って、今もアメリカの教会の会堂をお借りしている。いさせて頂いている。快く貸して頂いている。でも、いろいろな活動の制限もある。最近どんどん、それが広がっている。実際、現状維持以上のことはできなくなってしまっている。大胆に主に求めていこう。大胆に主に求めて与えて頂こう。そして、一人一人が喜んで主から与えられたもの、任されたものをおささげすることができるように、この地域の日本語伝道のために、主よ、どうかわたしたちをもっと大きく用いて下さい。
考えてみれば、この時代、この教会にも会堂はなかった。でも、どんどん伝道は広がっていった。会堂の制約は否定できない。でも、でも、主の御業はそれを超えている。それを超えて進んでいる。大切なのは「わたしにあるもの」だ。「キリストの名によって歩きなさい!」という宣言ができるかどうかだ。いつもいつも主に力をいただいて、主から力をいただいて歩んでいきたい。その時に、結果として与えられるもの、結果として導かれる所があると思う。主よ、どうかわたしたちの伝道が中身のある伝道となりますように。わたしたちの伝道が主の力を表わすものとなりますように。主の力を感じるものとなりますように。主よ、導いて下さい。
訓練され、熟練した兄弟たち、という言葉に心が留まった。賛美をする者たちも、主に歌う者たちも、訓練され、熟練した者たちがいた。わたしも訓練をいとわないものとなりたい。熟練したものとなるために、訓練をいとわないものとなりたいと思う。主よ、どうかわたしを訓練して下さい。そして、人の言葉を謙虚に聞く心を与えて下さい。金属が火の中で精錬されるように、訓練され、精錬されて用いられる者としてください。
主がそのことをして下さった。主が人々を仲間に加えて下さる。わたしたちの力ではない。わたしたちの努力ではない。わたしたちのがんばりではない。聖霊様の力であり、神の力でそれをして下さる。主ご自身がわたしたちに仲間を加えて下さる。そのことを信じていこう。これからも多くの方々がここからまた遣わされていく。でも、さらに主は日々、救われる者たちを仲間として下さるのだ。主よ、どうかわたしたちの伝道を祝福して下さい。あなたの御業を拝させて下さい。
ダビデがソロモンを励まして語った言葉。神殿を建てるために、ソロモンを励ました言葉。そこには神の約束と、神の臨在と、神の守りを確信しているダビデの姿があった。そこで、恐れてしまっては、そこでたじろいでしまっては、主の約束の成就を見ることはできない。主の臨在を知ることはでできない、神の守りを経験することはできない。恐れないで、進んでいく時に、神の御業を見ることができる。石を取りのける時に、神の栄光を見ることができる。主よ、今日のわたしにも勇気と信仰をお与え下さい。あなたのご栄光を見ることができますように。愛を与えて下さい。愛によって大胆に説教を語ることができますように。
主に悔い改める時に、主に感謝をささげる時に、主に従っていく時に、「犠牲」が伴う。犠牲が伴ってこそ、主に従っている。でも、その時には別に自分は犠牲を払っている、という気にはならないから不思議なのだ。だから、主のために生きることは素晴らしいと思う。ここで、「ちょっとしんどいけど・・・がんばってやっている・・・」となるとやはり疲れてしまうだろう。主に従うことは楽しい、犠牲を払わないわけではないんだろうけれども、主に従うことが力になるから、生き甲斐になるから、感謝。
この「ただ・・・」という言葉に心が留まった。「神の国の実現」について心はやっていた弟子たちに対して、「そんなことは気にするな、それよりも、聖霊を受けて、力をいただいて、わたしの証人になるのだ」とイエスは、証人として生きることの大切さを語られた。キリストの証人として生きること、そのすばらしさを経験させて頂いているわたしたちは幸いだと思う。「神の国が来ますように」とわたしたちは祈る。不条理な世界、争いの尽きない世界から、平和な世界が来ますようにと祈る。でも、今日もイエスはわたしたちに語っておられると思った。「ただ」わたしたちは与えられた使命、「キリストの証人」として生きるという使命に生きるのだ。ハレルヤ、感謝します。あなたの福音をただ、愚直に語る者として下さい。
主がわたしたちのために家を建てられる。わたしたちが、わたしたちががんばって主のために家を建てるのではない。わたしたちが「献堂」するのではない。主がわたしたちのために与えられる。主の方がわたしたちのために必要なものを与えて下さる。先日、ある教会を訪問してそのことを痛感した。主が与えて下さった会堂、という思いがした。主よ、わたしたちもあなたから会堂を与えて頂きたいです。あなたが与えて下さるものを喜んで頂きたいです。主よ、導いて下さい。主が必要を与えて下さって、会堂をも与えて下さい。あなたのために、あなたの福音の前進のために、多くの人々があなたを知ることができるために、主よ、あなたご自身が道を開いて下さい。
若い頃はどこでも歩き回っているけれども、年をとってからは、行きたくない所に連れて行かれる、というペテロへの預言。自分も自分の好きな所をあちらこちら歩き回れるとは限らないのだという当たり前のことを今更のように感じた。主がわたしたちを用いられる時に、どんな方法があるかわからない。いろいろな方法があるのだと思う。だから、与えられている時、思いっきり導かれることをさせて頂きたいと思った。もしも、主から「思いのままに歩き回る」ということがゆるされているなら、そのことをさせて頂きたいと思った。主よ、どうかわたしを用いて下さい。そして、「行きたくない所に」導かれる時にも、そこに従うことができますように。
この主の前の喜びと主の前の恐れ。その恐れの方を決して忘れてはならないと思った。罪人が手をさしのべるだけで撃たれてしまうほどのきよさをもった主。そんな主がわたしたちと共に歩み、わたしたちのために身代わりになって下さったことを感謝しよう。賛美しよう。そして、主の御前にあることのすばらしさを感謝しよう。主と共にあることを喜びとしよう。主よ、今日の一日をあなたと共に歩ませて下さい。今日の一日は今日しかないことを忘れないで、あなたと共に歩むことができますように。今日出会う方々との語り合いを祝福して下さい。
イエスによって息を吹きかけられた弟子たち。復活のイエスにお会いした弟子たち。でも、そんな弟子たちであっても、同じ弟子の仲間である、イエスと共に歩んだトマス一人に、イエスの復活を確信させることはできなかった。そして、イエスが入ってこられて、トマスに触れられた。わたしたちの伝道もそうなんだろうと思った。わたしたちのできること、どんなにわたしたちが聖霊様を頂いて、歩んでいたとしても、どんなに大胆に、確信に満ちて主を証ししていても、わたしたち自身の力での伝道は実を結ぶことはない。ただ、主が入ってこられて、主が触れられて、初めてその方も主を信じることができる。復活の主に、人々をお招きすることができますように。今日も、わたしを整えてお用い下さい。今日の集会でも主よ、あなたを紹介し、あなたのもとに人々をお連れすることができますように。
夜の更新となりました。忙しいからこそ、その前に祈り、み言葉に支えられてスタートする大切さを感じながら・・・でも暑かった。
喜びをもって、人々が集まってきた。ささげものをもって・・・。元々教会はそういうものであるべきだと思った。喜びをもって人が集まってくる。もうそれは何かの義務とか、おつとめとかではなく、喜んで、主を求めて集まってくる、そういうところだ。ああ、主よ、わたしたちの教会もそのようにして下さい。そのように一人一人が喜びを持って集まってくる、ささげものを持って集まってくる。義務感からではなく、喜んで集まってくるところ・・・。主よ、そのようして下さい。そのようにあなたの喜びを満たして下さい。わたしのうちに、教会のうちに、集う喜びを満たして下さい。
主がわたしたちのためにすべてを完成して下さった。救いのために必要なことをすべて完成して下さった。だから、わたしたちにとっては、完成したプレゼントを「ありがとうございます」と受け取ることが大切なんだ。今日も、ある方とお話ししていて、そのことを感じた。もう、主がすべてを完成して下さった。だから、わたしたちは、その完成された救いを喜んで受け取ることができる、それだけでじゅうぶんだ。主よ、感謝します。ほんとうにあなたの御業に感謝します。あなたの喜びを感謝します。どうか、主を信じた方の心を守って下さい。あなたがして下さったことのすばらしさを味わうことができますように。
主が彼と共におられた、と言われた人は何と素晴らしいことだろうか。歴史の中で、ほとんどの人々が名前が羅列されているだけの中で、この「主が彼と共におられた」という言葉が残されていることが、何という幸いだろうかと思う。でも、インマヌエルの主が来て下さってからは、わたしたち一人一人が、イエスにあって「主が彼と共におられた」と言って頂ける。その幸いを感謝しよう。このピネハスが経験した神経験よりももっと豊かな「主が共におられる」という経験をさせて頂けるとは何という幸いだろうかと思う。感謝。
イエスがはっきりと「わたしは王である」と言われているところに出会った。今までも何回も読んでいるところであるけれども、「わたしは王である」とはっきり言われていることには、あまり注意していなかった。主はわたしたちの王である。わたしたちは王に従う、王に支配されることを喜びとしている。主の愛に満たされると言うことは、主に従うということは、何という幸いだろうかと思う。主よ、どうかわたしの歩みを導いて下さい。あなたが用いたいようにお用い下さい。わたしはあなたに用いられたいと思います。そのために必要な訓練をお与え下さい。
この「ヤベツの祈り」だが、正直なところ、今年はほかの所から語られないかと思っていたのだが、やはり、この言葉の力に引き込まれるように導かれていった。「神は彼の求めるところをゆるされた」というところに心が留まり、それでは、彼は何を求めたのか、ということの中で、この「国境を広げ・・・」という言葉が語られた。勿論、今の時代、戦いで国境を広げていくことではない。働きの場、主の恵みを経験させて頂く場が広げられる、ということだ。ほんとうにそのようにさせて頂きたいと思った。わたしの国境を広げさせて頂きたいと思った。机に向かい、コンピューターに向かっている時間はいらないから、主に祈りながら歩いていくから、もっと多くの場において主の恵みを、主の力を味わわせて頂きたいと思った。主よ、どうかわたしを憐れみ、わたしを用いて下さい。あなたの働きのために、わたしを用いて下さい。
主の御名によってわたしたちが守られる。主よ、今日も一日教会の一人一人を守って下さい。あなたの御名によって守って下さい。いろいろな戦いがあると思います。怒りに支配されたり、苦しみに支配されたりするのではなく、あなたの愛に支配される一人一人として下さい。人の力が届かないところにもあなたの御業はなされることに感謝します。あなたがわたしたちを遣わし、必要なところに送って下さい。わたしを必要としているところに送って下さい。
いやあ、今日から数日間はこの「系図」が続く。ここから何を主が語ろうとしておられるのかを知るのはほんとうに難しい。でも、それがゆえに、いろんなことを思いめぐらされる。今日も、自分のことを思いめぐらしていた。もし、主が世の終わりにわたしの系図について語って下さるとしたら、どんな思いでそれを見るんだろうかと。「学は基を生んだ」って。そこには決して名前の羅列だけではない、ストーリーが浮かんでくるだろうと思う。誕生の喜びや共に歩んだ生活の喜び、苦労や悩み・・・。そこにある神の御手。神との出会い。主よ、どうか今日もわたしたちの一日をお守り下さい。子供達の一日をお守り下さい。
最近、アップロードのペースが乱れてきました。今日も夕方になってしまいました。
ちなみに、昨日は夜9時頃のアップロードだったのですが、こちらはサーバーの問題でした。朝、アップロードしようとしたら、パスワードが違う、と拒否され、一日できなくて、夜、問題を直してもらって、アップロードしたわけです。
今日は、早朝祈祷会に行って、その後、ずっと日曜日の礼拝の準備。でも、本当は礼拝の準備より先に、日々の祈りの時を持たなければいけませんね。反省。
個人的には、この様な苦しみが主から来る、というのはしっくり来ないのだけれども、もちろん、聖書に聞く姿勢が大切なんだけれども・・・。そんなことを思いめぐらしている時に、自分が苦しみに出会った時に、それは神様の栄光のために用いられることは確かだけれども、それが時には、「悔い改め」への招きなのかも知れないと思った。わたしたちが苦しみに遭う時に、それはいろんな可能性があるだろうけれども、その中で大切なのはわたしたちを悔い改めに導くことであるのではないだろうか。今、わたしは大きな苦しみの中にはいないと思う。いろいろな戦いや、悩みがないわけではない。でも、大きな苦しみの中にはいない。それは感謝しよう。でも、次に嵐が襲ってきた時に、もしかしたら、主がわたしを悔い改めに導こうとされているのではないだろうか、ということを忘れないでいたい。そして、主がわたしを愛して下さっているから、訓練されるのだということも・・・。
聖霊様がわたしたちに与えられていることのすばらしさをもう一度思わされた。主がわたしたちのところに聖霊様を与えて下さっている。イエスご自身がおられるよりも、こちらの方が素晴らしいというのだから、驚きだ。イエスさまが今一緒にいて下さることを想像すると、それは何て素晴らしいんだろうかと思うけれども、聖霊様が共にいて下さり、わたしに語って下さる、わたしに教えて下さる、そのすばらしさはもっとすばらしいというのだから、そのすばらしさをもっともっと知らせて頂きたいと思った。主よ、お語り下さい。明日の日曜日の礼拝のために主よ、あなたがお語り下さい。
ヨシヤ王は神殿の中から見つかった申命記を読んで、その衣を裂いた。それほどに嘆き、それほどに怒り、それほどに真剣に悔い改めて、その国中にはびこる偶像礼拝を滅ぼして回った。その真剣さ、その怒り、それを忘れてはならないし、それをいい加減にしてはならないと思った。罪に対する怒り、罪に対する悔い改めの真剣さ、それが、いつの間にか、いい加減になっていないだろうか。そんなこともあるよ、と、わかったような振りをして、本当のことを見失っていないだろうか。主よ、どうかわたしをあなたのみ言葉に対して、真剣にならせてください。罪を犯した人を受け入れる愛と、罪を憎む真剣さを与えてください。無関心の罪からお守り下さい。
これは、ずっとイエスのことだと思っていた。これはイエスのことを言っていると思っていた。福音の何たるかを知った時から、ずっとこの事はイエスのことを言っているのだと思っていた。でも、今日、これが私自身に対するメッセージだと思った。自分はだれかのために自分の命を捨てることができるか、自分はだれかのために生活を捨てることができるか、自分はだれかのためにプライドを捨てることができるか、自分はだれかのために立場を捨てることができるか。そのようにしたいと思うほどに人を愛する思いが与えられたらと思う。そのように生きたいと思う。何か自分の生活が小市民のようになっていないだろうか、と思わされる。主よ、どうか、わたしが行くべきところに行き、なすべきことをすることができますように。
ヒゼキヤ王は何でこんなことを考えたのだろうか。エルサレムが包囲された時に何よりもまず神に祈ったヒゼキヤ王。自分が病気になって、余命幾ばくもないと宣告された時、泣いて祈ったヒゼキヤ王。彼はバビロン捕囚の預言を聞いた時に、なぜ、こんなことを思ったのだろうか。そして、彼の息子であったマナセが神に背を向けるということが起こってしまう。マナセが12歳で王となったというから、マナセはヒゼキヤが神から与えらえた15年の間に生まれた子供だったのだ。神から与えられたいのち、寿命のなかで、わたしたちの生き方が問われている。そして、自分のこの世を去った後も、それが影響を及ぼしていくことを忘れてはならないと思った。主よ、今日もわたしの子供達を守って下さい。教会の子供達を守って下さい。教会に関係のある子供達を守って下さい。NJの日本語を使う子供達一人一人を守って下さい。子供達を守って下さい。わたしを遣わしてください。
恐れを感じていた弟子たち、恐れに囚われていた弟子たち。イエスは「わたしは平安を残していく」「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」と言われた。そして、イエスは立ち上がって、出て行った。今まで気付かなかったが、この15章からはイエスが外に出られて歩きながら、語ったことだった。もしかしたら、ぶどう園の横をとおりながら、このぶどうの木の譬えを語られたのかも知れない。そして、十字架に向かっていった。イエスはわたしたちにも一緒に立ち上がることを求めておられる。イエスはわたしたちにも一緒に立ち上がって、愛に生きることを求めておられる。主よ、今日の一日を守ってください。あなたの愛を表わす一日となりますように。
国のために緊急を要すること、国のために特別な助けの必要な時に、敵が攻めてきて包囲されてしまった時に、ヒゼキヤ王はとにかく神に叫び、神に求めた。神に求められることは何て素晴らしいんだろうか。何て幸いなんだろうか。その神も「ダビデのために」と言われる。今で言えば、「イエスのために」だろう。イエスが十字架にかかって下さったゆえに、主はわたしたちを守り支えられる。イエスのゆえに、わたしたちを守られる。主よ、今日もあなたに声を上げます。あなたがお守り下さい。あなたがイエスのもとに歩むわたしたちをお守り下さい。
愛し合うことが主がわたしたちに与えて下さった新しい戒めだという。主が十字架で罪を背負って下さって、もう赦されて、何の戒めもない、と思ったら、そうではなく、わたしたちが愛し合うことがわたしたちの使命として与えられている。主よ、お助け下さい。あなたを愛し、人々を愛することができますように。イエスを信じる者たちが互いに愛し合うことができますように。それが何よりもの証であり、伝道であり、福音であるのだから・・・。主よ、どうかわたしたちを守り導いて下さい。争い事がわたしたちの心を支配しようとする時に、赦す思いを与えて下さい。
更新遅れましたが、6月に入って最初の日。新しいページで新しい気持ちで聖書の黙想をしましょう。
アハズ王はダマスコの祭壇の立派なのを見て、うらやましく思ったのだろうか。彼はその祭壇と同じ祭壇をエルサレムにも造って、そこで犠牲をささげた。何て愚かなんだろうかと思う。彼はユダの王として神から使命を頂き、主に従うようにと導かれているのに、事もあろうに偶像の祭壇をまねして造るなんて。でも、わたしたちもそのような失敗に陥らないようにと思う。徹底的に主に従い、主の与えられるモノ、主が導かれる事にしたがっていこう。他のものをうらやましいと思うのではなく、主に与えられるモノ、使命として与えられているものに感謝していこう。
イエスが栄光を受けるのは、イエスが栄光を受けられたのは、イエスが十字架にかかることによってだった。イエスは十字架にかかることによって栄光を受けられた。一粒の麦として、自分の命をわたしたちの救いのために与えて下さった、そのことによってイエスは栄光を受けられた。イエスの栄光は十字架の中にあるのだ。イエスの栄光は十字架のうちにあるのだ。自分はどんな栄光を求めているだろうか。イエスの様に歩かせて頂きたい。ほめられることや、大きな業績を残すことではなく、イエスの様に一粒の麦として地に落ちることを与えてほしい。主よ、イエスの御形なるようにしてください。