あなたのみ言葉はわが足のともしび、
わが道の光です。

7月31日(土)

今月も瞬く間に過ぎていったような、でも前半日本にいたことを考えると、あれは、結構昔だったような・・・。一日一日を大切に生きていきたいですね、ありきたりの言葉ですが・・・。

「自分がただ、人であることを知らせて下さい。」(詩篇9:20)

自分がただ、人であること・・・。神を信じていると、そのことがどれほど、自分の場所を自覚させてくれるか。わたしは神の前に立つ一人の人間でしかない。わたしは主の前に1人の人でしかない、たくさんの、主の前に立つ人々、その中の1人だ。傲慢になってはいけない。本当に謙虚に主の前に立たせて頂きたいと思う。主よ、明日の礼拝で、わたしが説教ではないことを感謝します。どうか、説教者を通して、わたしに語って下さい。そして、本当に主の前に立つ、何人もの人々の1人であることを覚えさせて下さい。

「わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。」(ローマ人への手紙15:2)

びしびし来るなあ。今度は主のためにだけではなく、隣人のために生きなさい、と。自分のためにではなく、主のために、そして隣人のために。ここも主に知恵と力と愛を頂いて、歩んでいきたいと思う。主が隣り人の徳のためにわたしを召して下さって、牧師の務めをさせて下さっていることに心から感謝。どうか、愛にあふれて、あふれた命を持って人を愛することができますように。ぎりぎりで人を愛するのではなく、あふれるばかりの愛を持って愛することができますように。機嫌とりではなく、人を愛することができますように。

7月30日(金)

「あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。」(詩篇4:1)

主はやはりわたしを休ませて下さる方。必要な休息を与えて下さる方。立ち上がるために癒されるために、前に進むために、必要な休みを与えて下さる方。追われて生きるのではなく、前に進もうと思わされて生きる、そのために必要な休みを、主よ、あなたにおいて与えて下さい。あなたがわたしたちに必要な休息を与え、くつろがせて下さい。

「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。」(ローマ人への手紙14:8)

昨日のところに続いて、「主のために生き、主のために死ぬ」ということ、当たり前のことではあるのだけれども、本当にそのように歩んでいるだろうかと問われているように思った。主のために生きているだろうか。一瞬一瞬主のために生きているだろうか。自分のために生き、自分の楽しみを追い求めていないだろうか?本気で主のために生きているだろうか?本気で主のために生きよう。主と共に歩もう。主が導いて下さるところに生かして頂こう。主よ、あなたのために生かしてください。あなたの御心をはっきりと示し、あなたの願われるところに喜んで進んでいく者として下さい。

7月29日(木)

予告を入れておかなかったのですが、水曜日の午後から、Wellness Campを訪問しておりました。とてもきれいな場所でとても楽しいキャンプをしておられました。JOYJOYの参考にも・・・と思いつつ、圧倒されてきました。ということで、更新は土曜日です。

「流れのほとりに・・・」(詩篇1:3)

庭とデッキに野菜を少しばかり作っているが、露地栽培は水が切れることがほとんどない。それに対してデッキに植木鉢で育てているものは、うっかりするとすぐ水が切れてしまう。水がどれほど大切なものかと思わされる。そして、ちゃんと水路から水の供給を頂いていることがどれほど大切なことかと思わされる。この「その葉もしぼまない・・・」という言葉に、最近の自分の歩みを重ね合わすと、「ちょっとしおれかけていないか」と思わされる。だから、だから、主からいつもいつも養いを頂いて、いつもいつも青々している自分でいたいと思った。主よ、どうか、わたしの歩みを守って下さい。もっともっと生き生きと、もっともっと熱く生かしてください。あなたの栄養を頂き、あなたから燃やされて、心燃やされて歩むことができますように。命の源であるあなたにしっかりとつながっていることができますように。

「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」(ローマ人への手紙13:14)

肉の欲を満たすことに心を向けるな、と。本当にわたしが聞かなければならない言葉だと思った。本当に自分自身の欲に振り回され、それに心が向けられる時に、主との関係がおかしくなり、人との関係がおかしくなる。人を愛することがどこかに行ってしまう。主イエス・キリストを着る。主と共に歩み、主の考えておられること、主の求められることを思い、主が与えておられる使命を果たさせて頂きたいと思う。主よ、どうかわたしを助け、あなたの僕として生かしてください。あなたのものとして生かしてください。あなたの願われることを求めることができますように。あなたの願われることを教えてください。

7月28日(水)

「ただ手を口に当てるのみです。」(ヨブ記40:4)

ただ、手を口に当てるだけ・・・。神の声を聞いた時に、かみが答えられた時に、ヨブは今までの様に疑問を訴えることをやめて、手を口に当てることしかできなかった。これが神に出会うということなのだろう。神に出会った時に、わたしたちは、今までの疑問が吹き飛んで、本当に手を当てることしかできないのだろう。主よ、あなたの大きさ、あなたの力をわたしにも見せて下さい。あなたの大きさの前にあなたの答えの前に、ひれ伏す者とならせて下さい。主よ、どうかわたしの心をきよめて、あなたのことで一杯にして下さい。あなたとの関係に生かしてください。

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ人への手紙12:15)

主よ、喜ぶ者と共に喜ぶ者として下さい。主よ、泣く者と共に泣く者として下さい。何か、理屈とかではなく、本当に単純に、バカの様に喜ぶ者と共に本当に喜び、泣く者と共に本当に泣く者として下さい。わたしの心を人に寄り添わせて下さい。余り考えすぎることなく、単純に生きる者として下さい。わたしの心に喜びを満たして下さい。わたしの心にあなたの愛を満たして下さい。

7月27日(火)

今日は朝7時から教会での出勤前の祈り会の日。祈りつつ、本当に多くのビジネスマン・ビジネスウーマンがわたしたちの教会にはおられるんだなあ、と思わされ、本当に一人一人のお仕事のために、信仰者として仕事の中で主の御業を見ていくことができるように、と祈らされました。

「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた。」(ヨブ記38:1)

主はヨブに答えられた。主が答えてくださった。主が答えを与えてくださった。あんなに苦しみ、あんなに訴えていたヨブに、神は答えられた。そして、主の答えこそが、ヨブの待っていたものだった。たとえそれが厳しいものであったとしても、主の答えが与えられたことがヨブにとっての救いであり、解決であった。わたしにとってもそうだ。主が語って下さる、主が答えてくださる、それがたとえ自分に責められるような言葉であったとしても、悔い改めに導かれるような言葉であったとしても、本当に主が語って下さる時に、解決が与えられる。主よ、わたしがほしいのはあなたのお答えです。主よ、わたしに答えを与えて下さい。

「しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。」(ローマ人への手紙11:23)

ユダヤ人の救いの希望について、パウロが語っているところ、本当にそうだなあ、と思いながら、読んだ。根がわたしたちを支えている、とあるように、ユダヤ人の祝福があったところにわたしたちクリスチャンもつがれた。だから、本当にユダヤ人の救いのために、ユダヤの人々がイエスのもとに来ることができるように祈ることが大切だと思った。ユダヤ人がイエスを殺した、なんて誰が言ったんだろうか?聖書にはそんなこと、彼らに罪を着せるなんてことは全然書かれていないのに・・・。それよりも、わたしたちが感謝すべきことがたくさんあることが書かれているのに・・・。本当に御言葉に従って、御言葉にひれ伏して、へりくだって、歩まなければならない。主よ、ユダヤ人もイエスを信じることができるように、導いて下さい。あなたを信じる者として下さい。

7月26日(月)

上の娘が簡単な手術を受けたため、朝から出かけていました。それも、朝6時半に電話がかかってきて、キャンセルがでたから、できるだけ早く来てほしいとの連絡。慌てて飛び出して、7時半には病院に入りました。以上、更新遅れの言い訳。でも、すべて順調に守られて、この更新をしている火曜日の朝は普通通りキャンプに出かけていきました。感謝。

「あなたが罪を犯しても、彼になんのさしさわりがあるか。あなたのとがが多くても、彼に何をなし得ようか。」(ヨブ記35:6)

今年は、本当にエリフの言葉に納得がいかない。人間が罪を犯しても、神に何の関わりがあるか?と。本当にそうだろうか。本当に神は人間が罪を犯しても何の差し障りのない方なのだろうか。たしかに、神様が「困る」ということはないだろう。でも、主はわたしたちの罪を悲しまれる。主はわたしたちの罪に心を痛められる。そして、主はわたしたちを罪から救うために身を乗り出して救いの御業をしてくださった。主はわたしたちの罪に超然としておられる方ではなく、心を痛め、その問題の解決のためにイエスを送って下さった方なのだ。主に感謝。

「聞いたことがない者を、どうして信じることがあろうか。」(ローマ人への手紙10:14)

主の救いを知らない人がどうして信じることができるだろうか。「知らなかった」「そこまで教えてくれなかった」「仲良くしていたのに、教えてくれなかった」と周りの人々に言われたくない、と思う。主がわたしたちを愛して命まで差し出して下さったのに、そのことを人々に伝えないでいては申し訳ない。だから、誤解されたとしても、大胆に福音を語る者となりたいと思う。主よ、どうかわたしを用いて下さい。主よ、あなたがわたしを用いて、あなたのことを伝えさせて下さい。出会う一人一人に福音について語るタイミングを教えて下さい。そのようなチャンスを与えて下さい。

7月25日(日)

「あなたが『彼はわたしの言葉に少しも答えられない』といって、彼に向かって言い争うのは、どういうわけであるか。」(ヨブ記33:13)

毎回思うのだけれども、エリフは正しかったのだろうか、それとも他の3人の友のように誤った言葉でヨブを責めたのか・・・。今回、どうしても、エリフの言葉を受け入れることができなかった。ヨブの方に味方したい自分がいた。いろいろな説明書を読むと、エリフの言葉が正しいことであるかのように書かれているものばかりだけれども・・・。高ぶりの罪を指摘したのだと・・・。でも、このヨブの神に対する訴えは、大切なのではないかと思った。神に対して訴えて、神ご自身から答えを頂く。それがわたしたちにとってどれほど大切なことだろうかと思う。ヨブはやはり主ご自身の答えを頂いて立ち上がった。主よ、どうかわたしもあなたとの交わりに生かし、あなたとのつながりの中に、あなたと共に歩む喜びの中に生かしてください。

7月24日(土)

続けて、日曜日に更新中。

「あの時には、神の親しみがわたしの天幕の上にあった。」(ヨブ記29:4)

「神の親しみ」っていい言葉だなあ、と思った。神がわたしたちと共にいてくださる。神が共に歩んでくださる。でも、この時のヨブの心境は、それは過去のことであって、今は「わたしがあなたに向かって呼ばわっても、あなたは答えられない」というものだった。でも、おもしろいのは、これはやはり神に向かっての言葉であり、人に対しての言葉ではなく、独白でもないことだ。主に向かって訴えている。これはやはり神への訴えなのだ。彼は神に訴えている。神に求めている。苦しみの中で、訴えるところがある。それがわたしたちの力だろう。主よ、今日のために力を与えてください。慰めを与えてください。平安を与えてください。

「実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。」(ローマ人への手紙9:3)

本当だと思う。本当に自分の周りの人々が救われるためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわないと思う。それは辛いだろうけれども、人々が神を信じないで、この喜びを、この平安を知らないで歩んでいくことが、辛くして仕方がない。どうしようかと思う。どうしたらいいのかと思う。もしも、自分がのろわれることによって人々が救われるなら、のろわれてもいいと、今日、この時、本当にそのように思う。主よ、どうかわたしを用いてください。人々があなたを知ることができるようにわたしの存在を用いてください。あなたのすばらしさをあらわす器として用いてください。

7月23日(金)

帰ってきてからもう1週間経つのに、ペースがつかめなくて、ちょっと苦労しています。日曜日に更新中。

「見よ、主を恐れることは知恵である。悪を離れることは悟りである。」(ヨブ記28:28)

今回読んで、ヨブは本当にわかっていたんだと思う。主を恐れ、悪から離れて生きていた。自分の苦しみは納得がいかなかった。どうして、こういうことがおこるのかわからなかったし、自分が生きていることが苦しかった。でも、やはり、彼は最終的には神を信頼して、知恵が神のうちにあることを信じて、ゆだねて歩んでいたのだった。ヨブの信仰でいいのではないかと思った。主はわたしたちの知恵を超えた方だ。だから、主の前に恐れ、ひれ伏して歩んでいく。主が与えられるもの、それを受け止めて、納得は行かないとしても、それを受け止めて、歩んでいく。それが大切なのではないか。主よ、どうか、今日も、あなたが与えられるものが、最高のものであると信頼して歩んでいくことができますように。

「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」(ローマ人への手紙8:2)

聖霊様はわたしたちに自由を与えてくださる。聖霊様はわたしたちを解放してくださる。だから、もっともっと主を求め、もっともっと聖霊様を求め、もっともっと聖霊様に満たして頂きたいと思う。聖霊様について語ると、「アブナイ」なんて思われることを恐れてはならないと思う。危ないことを恐れて、正しいことを忘れてしまってはいけないと思う。もっともっと聖霊様の働きを求めて、聖霊様に導かれて、歩んでいこう。特定の聖霊様の働きを求めるのではなく、聖霊様ご自身を求めていこう。

7月22日(木)

「見よ、これらはただ彼の道の端にすぎない。」(ヨブ記26:14)

ヨブはここで、神はわたしたちの知るところを遙かに越えた存在であることを認めている。自分が知っているところはホンの一部であることを。自分の苦しみの中で、悩みの中で・・・。わたしたちにはわからないことがある。わたしたちには理解できないことや、納得いかないこともある。でも、その中でも主を信頼して、わたしたちの知恵を超えたお方である主を信頼して歩んでいくことが大切であると思う。わたしたちの思いはわたしたちの知恵は限界がある。だから、本当に主の大きさを信頼して、わたしたちの考えを超えた主を信頼して歩んでいきたい。

「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ人への手紙7:24)

罪があばかれ、示され、自分の力でもどうにもならないことがわかって、だれが救うことができるだろうか、とパウロが叫んだ時に、神様の前に出た時に、聖霊による救い、聖霊様に満たされて、支配されて歩むことの大切さが開かれる。本当に自分の力の限界、自分の力のなさに、本当に自分に絶望した時に、聖霊様に明け渡すことができる。「救って下さるのは神様しかいない!」と言うことができる。主よ、どうか、この聖霊様の力をみんなが経験することができますように。私自身が経験して、私自身がもっともっと経験して、人々に分かち合うことができますように。主よ、どうかわたしをきよめ、あなたのものとしてください。

7月21日(水)

「彼は大いなる力をもって、わたしと争われるだろうか。いな、かえってわたしを顧みられるであろう。」(ヨブ記23:7)

やはりヨブは神に訴えながら、神と議論しながら、神様を信頼して、最終的には自分の味方になって下さる方として信じていたのだ。神様は彼にとっては自分を責め立てる方ではなく、自分を弁護して下さる方なのだと信じていた。そして、それは正しかったのだ。サタンが彼を責め、彼の善を疑っていた。でも、神は彼を弁護し、彼を信頼した。本当にそうだったのだ。わたしのこともそうだ。主はわたしを弁護して下さる方。他の誰かが責め立てたとしても、わたしを落ち込ませようとしたとしても、主はわたしを弁護して下さる。主よ、あなたに感謝します。あなたがわたしの味方でいて下さることに心から感謝します。あなたを信頼して歩んでいきます。あなたの赦しを信頼して歩んでいきます。あなたに感謝します。

「自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。」(ローマ人への手紙6:13)

わたしのすべては、わたしの体は、主の為にある。主のためにおささげしたものだ。わたしの人生は主のものだ。だったら、そのように生きよう。主にすべてをささげた者として生きよう。主が私の為に命を投げ出して下さった。主が私のために命を与えて下さった。十字架に死んで下さったのだから、わたしも主のために生きよう。一度あそこで、人生を主にささげたのだから、主よ、どうかわたしの人生を守り導き、あなたのために献身して生きていく者として下さい。主よ、あなたの武器として用いて下さい。

7月20日(火)

「全能者は何者なので、われわれはこれに仕えなければならないのか。われわれはこれに祈っても、なんの益があるか。」(ヨブ記21:15)

ヨブが人々の考えとして語った言葉。もしも、主と共に歩む喜びを知らなかったら、このように感じる事もあるだろうと思う。この世の喜びしか知らなかったら、この様に感じるのも無理はないだろうと思う。悲しいことだと思う。虚しいことだと思う。主よ、どうか、わたしを用い、あなたの思いを伝えていく者として下さい。あなたの救いのすばらしさ、あなたと共に歩む者のすばらしさを語らせて下さいますように。主に仕えることがどれほど素晴らしいことなのか、自分自身がもっともっと喜びにあふれ、もっともっと大胆に語る者として下さい。用いて下さい。主よ。

「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」(ローマ人への手紙5:20)

主の恵みの圧倒的な力、圧倒的な勝利。罪も大きい。罪も深刻だ。そのことから目を背けてはならないと思う。でも、その深刻な罪をも飲み尽くす神の恵み。神の力。本当に主に感謝。主の力に支えられて歩んでいけることの幸いを思わされる。お金がどうとか、人間関係がどうとか、わたしたちは余りにも神様以外のものに振り回されすぎていないだろうかと思う。主よ、どうかわたしたちの歩みを守って下さい。あなたに赦され、あなたに救われて歩んでいる幸いの土台の上に歩んで行かせてください。

7月19日(月)

「わたしは肉を離れて神を見るであろう。しかもわたしのの味方として見るであろう。」(ヨブ記19:27)

主が私の味方である。これほどの喜びはあるだろうか。これほどの力強い言葉があるだろうか。仲間にも非難され、理解されない中で、本当に主が私の味方であり、わたしを理解して下さる方である。これほどの大きな事はあるだろうか。感謝。私自身もこの事を感じる。幸い、多くの良い方々に囲まれている。多くの理解者がある。でも、最後の最後は主が私のことを理解して下さり、私の味方となって下さる。そこにわたしの支えがある。どうか、主よ、わたしの今日の一日を守り、あなたの守りの中で一歩一歩を歩んでいけますように。

「神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、彼は義と認められたのである。」(ローマ人への手紙4:22)

神は約束されたことを成就することができる、そのことを確信した時に、彼は義と認められた。主の約束を信じる所にわたしたちの信仰があり、わたしたちの救いがある。主には何でもできないことはない。主は真実だから、必ず御言葉通りなして下さる。本当にそのことを信頼して進んでいこう。主よ、あなたの約束をはっきりと教えて下さい。そして、主が約束して下さったことを必ず実現して下さると信頼して歩んでいくことができますように。主よ、どうか、あなたの御業をなして下さい。

7月18日(日)

「わたしの友はわたしをあざける、しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。」(ヨブ記16:20)

妻も友人も自分の気持ちをわかってくれない中で、四面楚歌のような状況にあって、ヨブには涙を注ぐところがあった。主に向かって涙を注ぎ、主に向かって泣くことができた。わたしもそうだ。素晴らしい家族がいる。素晴らしい教会の仲間がいる。でも、それよりも、何よりも、主がおられる。主がおられて、主が導いてくださっている。主に向かって訴えることができ、主に向かって泣くことができる。主よ、あなたがおられることに感謝します。あなたこそ、わたしの命の源です。どうか、わたしを守り、導いてください。

7月17日(土)

「しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。」(ヨブ記13:15)

苦しみに出会ったから、それで愚かな道に行くのではなく、苦しみの中でも主の前に自分の道を守り抜く、その大切さを思わされた。ストレスを感じる時もある。苦しみに出会う時もある。でも、そんなときにも、主に聞き、主に従い、主に出会っていく、それがわたしに必要なことだと思う。主にこそ解決があることを、主にこそ答えがあることを思わされる。主よ、あなたの答えを求めます。あなたが答えを与え、あなたが導かれる所に導いてください。

「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(ローマ人への手紙3:24)

価なしに義とされる。主がわたしたちを義とされるのは、キリストのあがないによる。わたしたちが何かをしたのではない。わたしたちが何か立派なのではない。本当に単純に信じる時に、主が力を与え、喜びを与え、賛美を与えてくださる。本当に主がわたしたちを救ってくださる。義と認めてくださる。主よ、一人一人の心に巣くわれた喜びを与えてください。教会のお一人一人が主との関係をしっかりと持って歩めるようにしてください。

7月16日(金)

帰ってからもまた再時差ボケで、日曜日に金曜日の分から更新です。

「彼が大いなる事をされることは測りがたく、不思議な事をされるのは数知れない。」(ヨブ記9:10)

主がなさることはわたしたちの知恵を超えているということを、ヨブはもうここで告白していた。「こんな目に遭うんだから、きっとこうに違いない」と決めつけていた友人たちの言葉に対して、神の主権を告白していた。神様のなさることは、わたしたちがこうしたから、こうなった、という自動販売機の様なものではない。わたしたちは真実に生き、熱く祈る。しかし、神がどのようにわたしたちを導いて行かれるかは本当にわたしたちの知恵を超えているのではないだろうか、と思う。主よ、どうかわたしをあなたの最高の道へと導いて下さい。

「なぜ人を教えて自分を教えないのか。」(ローマ人への手紙2:21)

自分が救われていることに安住して、本当に主に従っていかないならば、それはまたこの割礼に安住したユダヤ人と同じ事になってしまうのではないだろうか。御旨を知り、そこに従っていくことがわたしたちの使命ではないだろうか?律法主義を恐れる余り、本当に主に従うことをおろそかにしてしまっていないだろうか。主はわたしたちの罪深さにかかわらず、赦してくださった、罪をあがない、わたしたちが自分の行いではなく、主の恵みによって救われた。であるならば、本当に感謝して、主の御心を求めて、そこに確信を持って従っていこう。主よ、どうか、わたしが御声に従って歩むことができますように。御霊の細き御声を聞かせてください。

7月15日(木)

「わたしにどんな力があって、なお待たねばならないのか・・・」(ヨブ記6:11)

本当にヨブはどんなに辛かっただろうかと思う。忍耐の力があるから、苦難が与えられる、ということが言われることもあるけれども、でも、このヨブの言葉にあるように、わたしたちが苦難が与えられる時に、そんな力があるとは思えない時がある。そんなことで、苦しみに遭わせないでほしいと思うことがある。ヨブの苦しみは自分はわからない。自分の理解を超えている。でも、それでも、主に従っていきたいと思う。主が与えられる試練、苦しみ、自分の理解を超えていても、主に信頼して歩んでいきたいとおもう。主よ、どうかお助け下さい。

「あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて・・・」(ローマ人への手紙1:11)

霊の賜物というものは、何か、神様から直接一人一人に与えられて、人から人へ与えられるものではないかのように思ってきた。でも、この箇所を読むならば、そうでもないようだ。人から人へと分けあたえられるものであるのだ。だったならば、霊的な賜物を持っておられる方々との交わりをもっともっと持っていきたい。そのような方々を神格化したり、人間的な弟子になってしまうことは恐ろしいことだと思うけれども、本当の主のしもべであるならば、自分を教祖様のようにすることを心から嫌うはずだ。そのような主のしもべにその霊の賜物を幾分かでも分け与えて貰いたいと思う。主よ、出会いを与えて下さい。主の導かれる所に進んでいきます。どうか、導いて下さい。

7月14日(水)

「われわれは神から幸をうけたのだから、災をも受けるべきではないか。」(ヨブ記2:10)

幸いを受けたから、災いをも受けるべき。これはそんなに簡単には言えないことだろうなあと思う。幸いだけがほしい。幸いを受ける時だけ、主をほめたたえる。災いをうけたときに、「主は与え、主は取られる、主の御名はほむべきかな」と言えるだろうか。どうして、どうして・・・と苦しまないだろうか。ヨブも3章以降を読むと、やはり苦しんでいるのを見るのだけれども、やはり、このように主が与えて下さるものは、何でも受けようと思うことができればと思う。主よ、わたしに必要なものを与えて下さい。

「はばからず、妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え続けた。」(使徒行伝28:31)

念願のローマに着いたパウロ。ある程度の自由を与えられて、神の国を伝える喜びを与えられた。自由を与えられた。この長い長いローマへの歩みの最後は本当にあっけないほどに単純だ。自由に福音を語ることを許されて、2年間、その生活が続いた、という。主のなさることは不思議だなあと思う。でも、自分が今ここに行かされていることも、本当に不思議なことだと思う。主が私をそのように生かしてくださっている。そして、ここまで至る所には主の不思議な導きがあり、特別な介入があったことを思う。主よ、どうかわたしの歩みを導き、これからもあなたの奇跡を見せてください。

7月13日(火)

「この月は彼らのために憂いから喜びに変わり、悲しみから祝日に変わったので・・・」(エステル記9:22)

主は具体的に、悲しみを喜びに変えてくださる。勿論、わたしたちがどんな困難になっても、その中で、主を信頼していくことができるのはものすごい幸いなことだ。でも、主の恵みはそれだけではなくて、本当に具体的に、問題を解決してくださるのだ。解放を与えてくださるのだ。今、苦しんでいる人々に語らせて頂きたい。主はあなたをその状況の中で救うことができるお方だ。でも、それだけではなく、その状況から救うこともおできになるお方だ。主があなたを救ってくださる。あなたを導いてくださる。あなたに勝利を与えてくださる。そのことを経験して頂きたい。味わって頂きたい。主よ、どうか、この憂いが喜びに変わる時を、一人一人に経験させてください。

「パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたとあなたに同船の者を、ことごとくあなたに賜っている。」(使徒行伝27:24)

「恐れるな」とは、わたしたちが恐れるから、主が語って下さることだという自分自身の仮説に従えば、この時、パウロは恐れていたのだ。パウロは嵐の中で、「もう、自分もダメではないか」と思ったのだ。だから、主はここで、「恐れるな」と言われているのだ。パウロも恐れた、と思うと、すごく聖書が身近なものとなってくる。そして、主はパウロに、あなたとあなたの同船の者を、与える、と言われた。わたしたちにも、主はわたしたちの周りの人々を与えて下さっている。まかせて下さっている。わたしたちが語り、わたしたちが伝え、わたしたちが導くようにとわたしたちにまかせて下さっている。出会わせて下さっている。主よ、どうか、わたしの周りにいる人々のためにわたしの使命を果たさせて下さい。

7月12日(月)

「あなたがこの国に迎え入れられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう。」(エステル記4:14)

エステルへのこの言葉は、また私への言葉であると確信する。主が私をここにおいてくださるのは、日本に生まれさせ、主のものとしてくださり、そして、今ニュージャージーにおいていて下さるのは、主が何かの意味を与えて、生かしてくださっているに違いない、と思う。主よ、どうか私の歩みを支え、導いてください。あなたの与えられる使命に確信を持って生きる者として下さい。救われる方々を更に与えて下さい。多くの方々を送って下さい。

「わたしが神に祈るのは、ただあなただけではなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみな、わたしのようになってくださることです。」(使徒行伝26:29)

本当にそうだなあ、と思いながら読まされた。本当にわたしの願いはわたしの言葉を聞いた人、みんながイエスを信じる者となり、イエスの証し人となることだなあ、と思った。主が私を用いて下さって、出会う一人一人がイエスさまに出会って頂きたいなあ、と思う。求道者のお一人一人の顔を思い出しながら、ああ、この人も、あの人もイエスさまに導かれて、救われてほしいなあ、と思わされる。主よ、わたしの祈りでもあります。わたしもこのパウロと同じように祈ります。主よ、出会いを与えて下さい。人との出会いを与えて下さい。その中で、あなたの証をすることができますように。そして、その方々がイエスを主として受け入れることができますように。

7月11日(日)

「アハシュエロス王は酒のために心が楽しくなり・・・」(エステル記1:10)

なんてかっこわるい話だろうと思った。そして、何て身勝手なんだろうと。王は酒飲んで楽しくなったから、奥さんをみんなに見せびらかしたくて、その美しさを見せびらかしたくて、呼んだけれども、どうしてかわからないけれども、ひじ鉄を食らわされて、それで怒って、その妻を王妃の位から退けて・・・。身勝手だなあと思う。ワシテも悪かったのかも知れない。でも、かっこわるいのは酒飲んで、いい気になって、人を自分の好きなように動かそうっていう王様の方だ。だけど、今日、ここで思わされたのは、これがなかったら、この愚かな王様がいなかったら、エステル記のメッセージは伝わらなかった。このエステルが召し抱えられて、王妃とされ、ユダヤ人が救われる、ということも怒らなかった。わたしたちの愚かさも、主に用いられる。わたしたちの愚かな歩みも主に用いられる、そのことのすばらしさを思わされた。主よ、私は自分の愚かさに落ち込むこともあります。でも、どうか、その愚かさも、主よ、どうか、あなたが良きに変えてくださいますように。

7月10日(土)

この更新は火曜日の朝、西宮の高姉のお宅で書いています。更新が遅れました。日曜日は深川教会の献堂式でした。ものすごいたくさんの方々が来られました。感謝。でも、本当に暑い日が続いています。私はもう間もなくNJに帰りますが、こちらの皆さんのご健康が心配です。

「神が彼らを大いに喜び楽しませられたからである。」(ネヘミヤ記12:43)

木曜日の言葉もそうだったけれども、主がわたしたちに与えられるのは喜び。礼拝は喜び。主を中心としたまじわりはいつもいつも喜びでなければならないのだと思う。喜びであらせて頂きたいと思う。形式ばった礼拝、喜びよりも、我慢の集会、そのようなものではなく、礼拝自体が喜びにあふれるものとなりますように。自分の人生、自分の問題は喜べないようなものであっても、主を喜ぶことのできるような、礼拝を持たせて頂きたい。自分が幸せだから、礼拝が楽しい、礼拝後の人々との交わりが楽しいから、礼拝は我慢する、みたいなのではなく、自分の人生は問題がある、でも、礼拝で主を見上げると喜びが湧いてくる、そのような教会へとわたしたちを導いて下さい。

「フェストはユダヤ人の歓心を買おうと思って・・・」(使徒行伝25:9)

ここに人々の顔色をうかがいながら生きている人々の姿がいろいろ出てくる、アグリッパ王はフェストに敬意を表し、そして取り調べでは大いに威儀を整え、そして、フェストはユダヤ人の関心を獲ようとしている。本当に彼らはみんなそうだ。みんな人々にどう見られるか、どう思われるかで動かされている。でも、それとは全く違うレベルでパウロがローマに送られようとしている。ローマに派遣されようとしている。主から派遣されようとしている。その主の御手を見ることができるのは何という幸いだろうかと思う。わたしたちの日々の歩みの中でも、そのような主の御手を見ながら歩むことができれば、どんなに幸いかと思う。見える所だけではなく、見えないレベルの御業を見ながら、見えない主の御手を見つつ、歩むことができれば、どれだけ幸いだろうかと思う。主よ、あなたの御手を見せて下さい。あなたの御手の御業が見えるように、わたしの目を開いて下さい。しかし、それだけではなく、あなたの御手が見えない時にも、それを信頼して歩む勇気を与えて下さい。

7月9日(金)

「天から食物を与えてその飢えをとどめ、岩から水を出してそのかわきを潤し・・・」(ネヘミヤ記9:15)

主が天から食物を与えて下さる、主が岩から水を出して下さる。天から、岩から・・・。だから、荒野の歩みは、辛いけれども、厳しいけれども、本当に幸いだと思う。主がわたしたちのために必要なものを与え、潤し、生かしてくださるのだ。主よ、感謝します。主よ、あなたをほめたたえます。あなたがいつもいつも必要なものを与え、それも、思いがけない所から与えて下さる方であることを感謝します。どうか、私の必要を、わたしたちの必要を今日も満たして下さい。JCCNJの一切の必要もあなたが満たして下さい。

「ペリクスは不安を感じてきて・・・」(使徒行伝24:25)

パウロのメッセージで、ペリクスは不安を感じたという。自分が語る言葉は、人々に不安を与えているだろうか。つまり、キリストを信じなければ不安でしょうがない、というほどまでに、はっきりとメッセージを伝えているだろうか。見せかけの平安、見せかけの安らぎを提示していないだろうか、そんなことを思わされた。主よ、どうか私に御言葉を与え、あなたのメッセージを語らせて下さい。

7月8日(木)

時差ボケも落ち着いてきて、朝早く起きなくなってきてしまって、更新が金曜日になってしまいました。

「この日は主の聖なる日です。憂えてはならない。」(ネヘミヤ記8:11)

律法を読んだ時に、人々は泣いた。自分たちの愚かさに泣いただろうし、罪深さに泣いただろうし、情けなさに泣いただろう。でも、そんな彼らにネヘミヤとエズラは「この日は聖なる日だから泣くな。主を喜びなさい」と語った。そう、主の前に出る時に、わたしたちは自分のことばかり見てしまっている。自分のことばかり見て、涙を流したり、ダメだなあ、と思ったり、落ち込んだり・・・。でも、日曜日の礼拝の中心は主だ。主を見ているならば、喜びになる。喜びがあふれて来る。それがわたしたちの力だ。それがわたしたちの救いだ。主を見る。主を喜ぶ。それがわたしたちには必要なんだ。主よ、あなたを喜びます。私にあなたの力を満たして下さい。

「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない。」(使徒行伝23:11)

主はパウロに励ましを与えて下さった。ローマにまで遣わすと、そこでも証しをするのだと。牢獄の中にいて、この後、どのようになるか、全くわからなかっただろうパウロ、彼にとって、この言葉がどれほどの救いであり、力となっただろうかと思う。私もここで証をすることができるのはとても大きな幸いだ。とても大きな救いだ。主よ、どうかあなたの御業を拝させて下さい。あなたのご栄光を拝させて下さい。この日本滞在の間にもまだ福音を知らない方々に対しても思いっきり主を証しする時として下さい。

7月7日(水)

今日は七夕です。今日の日中は新田宅の集会、1年に1度の日本訪問でお会いできる方々がおられることに心から感謝しつつ。

「すべてわたしを恐れさせようとする者たちをおぼえて、彼らの行ったこれらのわざに報いてください。」(ネヘミヤ記6:14)

いつも思わされることだけれども、わたしにとって、大きな敵はこの「わたしを恐れさせようとする者たち」だ。恐れに支配され、そして、恐れに従った行動をしてしまう。ある時は怒り、ある時は不安になり、ある時は人におもねてしまう。何という愚かな者であろうと思う。だから、主が支えて下さる、主が導いて下さる、そこに立っていくことの大切さを思わされる。そこに従っていくことの大切さを思わされる。主よ、お守り下さい。私の心をお守り下さい。私の歩みをお守り下さい。あなたを見つめつつ、あなたの御業を信頼しつつ歩む者として下さい。御言葉の語りかけに感謝します。

「行きなさい。わたしが、あなたを遠くの異邦の民へつかわすのだ。」(使徒行伝22:21)

パウロの言葉を制止するかのように、主は彼の使命を告げられた。考えてみれば、モーセの場合もそうだった。彼の考えを制止して、「私に従いなさい」と言われた。主よ、私も本当にあなたの導きに従いたいと思います。どんな道であっても、そこがあなたの導きであれば、大丈夫です。反対に、自分の考えでどんなに合理的であったとしても、どんなに情熱があったとしても、主の導きでなければ、それは不幸です。主よ、どうか私の心に触れてください。主よ、私に語って下さい。そして、確信を持ってあなたに従っていくことができますように。

7月6日(火)

「わたしは天の神に祈って、王に申し上げた。」(ネヘミヤ記2:4−5)

王にものを申し上げるわけだから、ものすごい緊張しただろうし、恐れたと思う。そのような中で祈ったネヘミヤ。そうだろうと思う。祈らないではいられなかっただろう。そして、祈ることができること自体がクリスチャンの特権であり、幸いであると思う。わたしたちが祈ることができ、それによって生かされているのだと思う。恐れる時に、緊張する時に、主がわたしたちと共におられ、主に祈りをささげ、「主よ、お助け下さい」と祈りつつ語ることができる。今日も、王様の前に立つようなことはないかも知れません。でも、歩みの中で、何をどう語ったらいいか、そして、その願いが聞き入れられるか、不安になるような場面があるかも知れません。でも、主よ、そのような中で、恵みを覚えて生きる者として下さい。

「ついては、今わたしたちの言うとおりのことをしなさい。」(使徒行伝21:23)

主がわたしたちを導かれていく道に、喜んで従っていく、そのような者となりたい。このところで、人々は何とかトラブルが起こるのを避けようと、問題が起こらないようにと手を回した。パウロが人々に受けいられるようにと気を配った。でも、それは空しかった。神がすでにパウロをローマに囚人として連れて行こうと思っておられたのだ。トラブルどころではない。本当に大きな騒ぎになった。しかし、それを主は用いられた。小手先の配慮で問題が起こらないようにしようなんて、人間の考えることは本当に浅はかだと思う。主よ、どうか、わたしの歩みを導いて下さい。本当に大切なものを見ていくことができますように。大切なことを語っていくことができますように。

7月5日(月)

更新火曜日早朝になりました。

「この事はあなたの仕事です。われわれはあなたを助けます。」(エズラ記10:10)

主が与えられた仕事。その仕事を果たす者。それを助ける者たち。それぞれの働きがある。この言葉が語られた。あなたの仕事です、と主が与えて下さる仕事、人がそれを期待する以上に、主が与えて下さる働き。そこに歩んでいく者でありたいと思う。主よ、あなたが教えて下さい。あなたが語って下さい。祈りの中でなすべきことを教えて下さい。人の期待に答えるのではなく、人の期待を計算するのではなく、あなたの願われることをさせて下さい。日本でもう少し空いている時間があります。どうか、なすべきことを教え、あなたの願われることをなさせて下さいますように。

「あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。」(使徒行伝20:28)

主がわたしを牧会者としてお立てになっている。だから、まず、自分自身に気をつける。自分自身に気をつけることが大切だ。そして、群れに気を配る。本当に行き届かないもどかしさ、問題が起こってから、慌てる愚かさ、に落ち込むことも多い。でも、いちいち落ち込んでいることを主が望んでおられるとは思えない。悔い改めて、どんどん進んでいくことが主の与えられた使命だ。主よ、どうか、わたしのうちに、愛を与えて下さい。「受けるよりも与える方がさいわいである」ということに徹底する愛を与えて下さい。そして、あなたの与えて下さる愛にあふれて、人に心をくばる者として下さい。愛する者として下さい。本当の意味で愛する者として下さい。あなたの愛で愛する者として下さい。

7月4日(日)

日本時間ではもう日曜日。でも、未明の2時半。しっかり時差ぼけ。飛行機の中でも、こちらに着いてからも寝てないのに、しっかり寝てから2時間ほどで目が覚めてしまった。でも、これは主からの「祈りなさい」というメッセージ・・・と受け取って、祈りつつ聖書を読んで、更新中。今日の日曜日を主が豊かに祝福してくださいますように。

「わたしは道中の敵に対して、われわれを守るべき歩兵と騎兵とを、王に頼むことを恥じたからである。」(エズラ記8:22)

主が守ってくださるという信仰。敵がいつ襲ってくるかわからないという旅の中で、王に護衛を頼むのではなく、主に守りを祈ったエズラ。小手先のことではなく、本気で主を信頼して歩むことの大切さを、その気持ちよさを思わされる。主を本気で信頼していくならば、主はまたそれに応えて、願いを聞き入れてくださる。彼らはそれをやはり「断食」をもって祈った。その大胆さはやはり祈りの中で確かにされていくのだと思う。主よ、どうか、わたしの祈りの生活をもっともっと確かなものとしてください。確信を持って進んでいくことができるほどに祈る者として下さい。あなたとの交わりの中に生きる者として下さい。

7月3日(土)

「しかしユダヤ人の長老たちの上には、神の目が注がれていたので、彼らはこれをやめさせることができず・・・」(エズラ記5:5)

主の目が注がれているとはなんというすばらしことだろうか。それだけで、ただ、それだけで、人々がそこに手を出すことができない、という。そして、わたしたちにもその目が注がれている。主がわたしたちに目を注いでいて下さる。ああ、何という感謝だろうか。今日、日本に着いて、日本での2週間足らずの歩みが始まる。主がそこに目を注いでいて下さるのが、感謝だ。うれしい。日本に着く時に、この御言葉を主が語って下さったことに主の特別な恵みを覚える。ハレルヤ!

「神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。」(使徒行伝19:11)

すごいなあ、このエペソでの出来事。「主が異常なことを次々になされた」なんて。でも、考えてみれば、わたしたちの目から見ると異常な、特別なことかも知れないけれども、神様の目から見れば特に異常も通常も御手の中にあることなんだろう。本気で神様を信じていくことが自分には必要だと思った。主が今日も、御心ならば、そして、わたしたちの不信仰がそれを妨げなければ、このようなことをなさることがおできになるのだ。主よ、あなたの御業を拝させて下さい。あなたの異常な力あるわざを次々とあらわしてください。主よ、山を動かしてください。主よ、奇跡をなしてください。心からお願いします。

7月2日(金)

「主の宮の基礎がすえられたからである。」(エズラ記3:11)

主の宮の基礎がすえらえたことがものすごい出来事としてここに出てくる。基礎ができただけなら、それは単に途中であり、これから本番、ということであろう。でも、この時に、人々は喜びさんびし、その賛美が遠くまで聞こえるほど、喜びの声が遠くまで聞こえるほどだったという。本当に彼らの喜びはどれほどだっただろうかと思う。基礎がすえられる。それはまた霊的にもわたしたちにとってとても大切なことなのだと思う。イエスがキリストである、という基礎がすえられて、それがはっきりと、そして堅くすえられて、そこに建物が建てられていく。基礎をしっかりと造っていく時に、土台をしっかりと造っていく時に、大きな建物を建てることができる。主よ、見てくれにではなく、土台にしっかりと目を注ぎ、しっかりした土台の上に建物を建てていく者として下さい。基礎を固めることに時間を惜しまない者として下さい。

「あなたには、わたしがついている。」(使徒行伝18:10)

主がわたしに語って下さった。日本に出発しようとするわたしに語って下さった。「あなたにはわたしがついている」と。主がこの旅にも共にいて下さる。わたしの働きに、主が共にいて下さる、と。感謝。本当に主の御名をあがめる。主よ、御言葉の確かなことをまた見せて下さいますように。御言葉の確かなことを証しさせて下さいますようにお願いします。語り続けることができますように、あなたの恵みを証しする者として下さいますように。

7月1日(木)

「すべて神にその心を感動された者は、エルサレムにある主の宮を復興するために上って行こうと立ち上がった。」(エズラ記1:5)

主が一人一人の心を動かして、感動して、励ましてくださる。わたしたちが大騒ぎをするのではなく、主が一人一人の心を感動してくださって、動かしてくださる。70年の苦難の日々、嘆きの日々を超えて、主がユダヤの人々を励まして、感動してくださった。わたしたちの歩みのためにも、神が必要な時に、神がみこころの時に、一人一人を感動して、生かしてくださる。導いてくださる。だから、主に信頼していこう、祈りつつ、真剣に祈りつつ、神を信じていこう。主よ、あなたの導きに従っていくことができるようにいつもいつもあなたにつながって、あなたとの親しい歩みの中に生かしてください。

「心に憤りを感じた。」(使徒行伝17:16)

パウロは偶像のあふれた町を見て、憤りを感じたという。今の自分はいつの間にか、慣れっこになっていないだろうかと思う。神を神としない人々、罪の満ちた社会に対して憤りを感じるよりも、あきらめに似た感情が起こってきていないだろうか。ちょっとやそっとのことでは驚かなくなってしまった。でも、決して無関心でありたくないと思う。パウロが訪れたアテネも、異文化の町で、偶像があふれているのは当然と言えば当然だった。パウロだって全くそのことについて無知だったわけではないだろう。もう、ピリピでもテサロニケでも偶像はたくさんあっただろう。それでも、アテネの偶像を目の当たりにして、憤りを覚えた。そのような愛を持ちたいと思う。憤りを覚えるような愛を持ちたいと思う。主よ、あなたが人々に対して持っておられる愛を教えてください。あなたが人々に対して持っておられる愛をわたしにも与えてください。

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