主は私達の先に立ってくださり、私達の後ろを守ってくださる。実際、後ろから追ってくるエジプトの兵隊を見たら、イスラエルの人々はどれほどの恐怖を感じただろうかと思う。女性や子供、老人や家畜も伴っての大移動中に、後ろからエジプトの精鋭部隊が追ってきたら、どんなだろうか。「落ち着いて、静かにして、主が守ってくださるから!」との言葉にほんとうに聞くことができたのだろうか。自分がこのような状況に置かれたらどうだろうかと思う。でも、そんなときにも、主は私達を守ってくださる。主は私達を支えてくださる。私達の先頭に立ち、後ろを守ってくださるのだ。次に「大あわてになるような出来事」に出会う時に、ほんとうに気をつけていよう。そして、このことを経験させていただこう。主よ、お守り下さい。私をお守り下さい。家族をお守り下さい。教会のひとりひとりをお守り下さい。教会全体をお守り下さい。主にあるひとりひとりをお守り下さい。あらゆる危険と、あらゆる誘惑と、あらゆる憎しみと、恨みの力からお守り下さい。
「これ」ってなんだろうと思うが、それはひとまずおいといて、イスラエルの解放がいつもいつも覚えられていて、語り継がれていたように、私達にとっては「救い」の出来事がいつもいつも覚えられていて、語り継がれなければならないということを思わされた。何か、信仰が長くなってくると、救いの出来事がすべてではないということが強調されてしまい、「救いのあかし」をすることも少なくなってしまう。でも、そうであってはならないのだと思う。もちろん、すべてではないのだが、いつもいつも戻るべき、原点であり、いつもいつも思い出して、感謝すべき事なのだ。子供の時に、イエスを救い主と信じて、罪を悔い改めたこと、そして、20歳の時に、主が、イエスの愛をわたしの心に深く深く刻み込んでくださったこと。そのことを思い出して、感謝しつつ歩んでいこう。そんな一日を歩んでいきたい。主が私をどんな所から救ってくださったのか、そして、どんな祝福を与えてくださったのか、与えてくださっているのか、覚えつつ歩んでいこう。主よ、この一日を喜びと感謝で満たしてくださいますように。
主を信じる者たちのうちに、イエスをキリストと信じる者たちのうちに光がある。世が、どんなに不安に包まれようとも、どんな出来事があろうとも、イエスを信じる者たちのうちには光がある。それが「自分たちだけがよければそれでいい」というレベルのことではなく、世界の希望だ。どんな苦しみの中でも自分たちには希望がある、といういことが、「自分たちは違う」という意識を与えるのではなく、「周りの人々にとっても希望になる」ようになって欲しい。そう、私達が目を留めるべき方に目を留め、苦しみや戦いの中でも光の中を歩んでいくことによって、世界の希望となっていたいと思う。そのために主よ、今も守って下さい。急に嵐が襲ってくることがあると思います。嵐に翻弄される時があると思います。主よ、そのような時にも堅く立っていくことができますように、光を掲げていくことができますように、主よ、あなたと共に歩む喜びに生かしてください。
雪の話ですが、予報通り、昨日の夜から雪になりました。でも、昨日の夜12時頃に休む時には、明け方4時頃までには上がるでしょう、ということで、15センチから20センチくらい、と予報していたのに、今朝起きたら、まだ結構降っていて、30センチは超えているみたいです。主の支配されている「天気」は奥が深いです。できればNYの早朝祈祷会に行きたかったのですが、あきらめました。ここで、心をNYに向けて祈ることにします。
アメリカの南部では「野球のボール大の雹」「ソフトボール大の雹」が降るという。ゴルフボールくらいのまでは見たことがあるが、さすがにソフトボール大というのは、想像を超える。そういう雹が降ったのだろう。たくさんの野菜や麦がやられた。でも、小麦とスペルタ麦は無事だった。パロはその「無事だった」事に甘えていたのだろう。主の前に降伏しないで、「小麦は被害を受けなかった、大丈夫だ」と思ったのだろう。自分の中に頼るモノがあると、私達は神の前に降伏しないで、自分の力で生きようとする。でも、その自分の力さえも、主の与えて下さったモノで、主が許して与えて下さったモノで、自分自身のモノなど何もないことを、忘れてはならないと思う。自分も、すべてが打ちのめされないと、明け渡すことができなかった。そのことを覚え、今日の一日も主にゆだねて歩んでいきたい。主よ、今日もあなたの御手の中で、あなたに従って歩むことを教えて下さい。主よ、自分自身で握っているモノ、「譲れない」ものを、私に示し、あなたの御手にそれをも明け渡していくことができますように。
昨日は3−4章、今日は6−7章と、5章が抜けていました。もちろん、5章はとばしていいということではなくて、単なるミスです。すみません(スケジュール表は、先ほど直しました)。ということで、今日は5−7章を読みました。日曜日くらいから「大雪だ」と言っていますが、全然降りません。天気予報というモノは複雑なものなので、そういうこともよくあります。今の段階では、今晩、降ると予報が出ていますが、どうなることでしょうか。
主から語られて、主から召し出されて、主に送り出されてパロのところに「イスラエルを解放せよ」と語りに言ったモーセだが、現実の困難、現実のパロの反応、現実のイスラエルの人々の反応を見て、やはりひるむ。しかし、そこに主は語られる。私達の信仰は書斎のモノではない、私達の信仰は山の上のモノではない。主から語られる時に、決心が与えられる時に、私達は書斎にいるかもしれない。チャペルにいるかもしれない。山の上にいるかもしれない。祈祷院にいるかもしれない。でも、そこから私達が出て行く。家庭に、職場に、学校に・・・。その時に、人々の反応はあの祈りの場で創造したようなモノではないことが多い。祈った時にイメージしたモノではないことが多い。現実の厳しさに、御言葉が埋もれてしまうことがあるのではないだろうか。だから、主が語られる。もう一度主が語られる。ひるむ私達に、主が語って下さる。もう一度。主よ、どうか、今日も私に語って下さい。あなたの御言葉を語り、御言葉によって現実が動かされていくことを経験させて下さい。どうにもならないところに、御言葉を語って下さい。どうにもならないところに、従っていくことができますように。
主がモーセを遣わしたことのしるしは、目に見える何かと言うよりも、「主が共にいて下さる」というその事実そのものだった。そこにモーセの力があり、そこにモーセの確信があった。そして、あのマタイの28章のイエスの約束を思い出した。宣教に出て行く時に、宣教のために立ち上がっていく時に、人々に福音を語る時に、語っている時に、主が共にいて下さる。何もしないで座り込んでいる時ではなく、立ち上がって、福音を語り続けるところに主が共にいて下さる。主の証をしていくところに主が共にいて下さる。主よ、あなたのご臨在を覚える一日としてください。福音を語るチャンスを与えてください。証をさせてください。そして、そこに主ご自身が共にいて下さる事を経験させてください
主は私達の叫びを聞かれる。主は私達との約束を覚えられる。主は私達をごらんになる。主は私達を心に留めて下さる。主が私達を注目して下さることに感謝を覚える。うれしさを覚える。主に叫ぼう。主に向かって大きな声で叫ぼう。人々の救いのために、人々が本当に主に救われて、新しく生まれ変わって、命をいただいて歩むことができるように。喜びにあふれて歩むことができるように。口をついて出てくる言葉が感謝になるように。人に喜びと希望を与えるような言葉がひとりひとりの口に上るように。主に叫ぼう。主が私達のことを心に留めて下さる。私達の願いを、私の願いをはっきりと主に申し上げよう。そして、主からの答えをいただこう。主よ、立ち上がって下さい。今日のために、教会のために、集われるひとりびとりのために、この地域に住む人々のために、主よ、あなたが私達を覚えて下さい。そして、主よ、あなたが具体的に応えてくださったことを見ていくことができますように。
人のたくらんだ悪、それは否定することができない。兄たちの仕打ちが悪だったことは変わらない。でも、それをも神は用いることができた。良きに変わらせることができた。主のなさることはすごいと思う。人の悪で神の計画が狂ってしまうと言うよりは、人の悪をも主はお用いになられるということだ。自分自身の失敗もたくさんある。自分自身の心がコントロールできなかったことによる失敗もある。そして、他人の悪意ある言葉に翻弄されたこともある。でも、それさえも、主はお用いになることができる。主はそれをも良きに変えることができるお方だ。その主の御力を信頼して、信じて歩んでいきたいと思う。歩ませて頂きたいと思う。主よ、わたしの心をお守り下さい。主よ、わたしの心を守り、主が自分の過ちや、人の善意の中での過ちや悪意でさえも良きに変わらせることのできる方であることを信頼して歩んでいくことができますように。
いつの間にか、自分が生まれてから40年が経った。40年かあ。ヤコブのことを考えたらこれから100年てことだろうけれども、おそらく、もうすでに半分は折り返しているだろう。もう、半分なんてとてもとても、もしかしたら、9割くらいいっているかもしれないし、99パーセントいっているかもしれない、私達にはいつ主のもとに召される時が来るかわからないのだ。まあ、いずれにせよ、ずいぶん来たんだなあ、と思わされた。そして、その来た道を振り返るならば、自分の失敗や、できなかったことばかり目に留まる。ヤコブがたくさんの失敗をしながら、しかし、自分は主によって養われてきたのだ、と言えたように、私も見るところを調整すべき事を教えられた。何を見ていくべきなのか、主がして下さった素晴らしいこと、主が自分の失敗の中にも働いてすべてを益にして下さったこと、主のなして下さったことを見ていく目が自分には必要だと思わされた。毎日毎日の歩みの中で、主のして下さった素晴らしいことに目を向けていこう。そして、主のして下さった素晴らしいことを書き留めていこう。感謝の中に生きていく者となりたい。
これはまたものすごい言葉だ。兄たちに売り飛ばされて、それからの何年か、本当につらいつらい日々を送ってきた。トラウマという言葉が使われて久しいが、まさに、兄たちの姿は彼にとって痛みを思い出させるものでもあったであろう。長男が生まれた時に、「マナセ」と名前を付けたのも、「家でのつらかったこと、売り飛ばされてつらかったこと、その後のいろいろなつらかったことを神が忘れさせて下さった」という思いからだった。しかし、神はそれをもう一度思い出す時を与えられた。そして、それをしまい込むのではなく、「それも神がよしとされて、導かれたことだったのだ」と思うところにまで導かれたのだった。あのつらいこと、あの困難、あの悩み、それを誰かの責任にしてしまうのではなく、神の御手の中にあったことなのだ、と、思いめぐらしてみた。そうすると、一つ一つの出来事がパズルのように、はまっていくことを感じる。そして、痛みが和らいでいくことがわかる。「嘆くことも、悔やむこともない」主の御手の中に生きるとはこういう事なのか、と思わされた。主よ、わたしの信仰の目をもっともっと開いて下さい、主よ、あなたの御手を一つ一つの出来事の中に見ていくことができますように。
私達は、この大臣がヨセフだと知っている。しかし、知らなかったヤコブとその子らにとって、どれほどの恐怖があっただろうかと思わされる。どれほどの不安があっただろうかと思わされる。そんな中で、ヤコブが頼ることができたのは、彼自身を旅の間中支え守って下さった、「全能の神」だった。35章で語られた、「全能の神」だった。何でもおできになる方が、大いなる力を持っておられるお方が、息子たちと共におられて、そして、彼らを無事に返して下さるようにと、願うことだった。あんなにこだわっていたヤコブが、あんなに「ラケルは死んだ、ヨセフもいなくなった、これでラケルのいのちと引き替えに生まれたベニヤミンもいなくなったら・・・」とこだわっていたヤコブが、「彼を失うなら失ってもいい」と言えるまでにはどれほどの祈りがささげられただろうかと、思う。いや、自分が子供たちを送り出す立場ならば、祈れば祈るほど、「神様、返して下さい」と叫ばないではいられないだろう。その中で、神がいいようにしてくださる、わたしを旅の間支えてくださった神がいいようにしてくださる、と信じることができたのではないだろうか?祈る者となりたい、祈って答えをもらって進んでいく者とさせて頂きたい。主よ、わたしもあなたの「全能」を知る者としてください。
聖書の字面を読んでいくと、どこにいても、どんなに苦しい中にいても、主が共にいて、祝福されたヨセフの生涯の中で「悩み」とか「苦しみ」というのは無縁のようにも思える。しかし、実際に、売られた時の心の痛み、孤独感、そして、冤罪で投獄された時の悔しさ、給仕役が彼のことを忘れた時の落胆、2年間忘れられていたことの惨めさ、それらを思う時に、ものすごい悩みと苦しみ、痛みの連続だったんだろうと思う。その中で、大臣に引き上げられ、振り返ってみた時に、「悩みの地でわたしは豊かにされた」と告白しないではいられなかったんだと思う。しかし、本当にそうだと思う。主はわたしの悩みの地で、わたしのことを豊かにされ続けたのだと思う。もちろん、もうあの苦しみ、あの悩みには遭いたくないと思う。もう勘弁して欲しいと思う。でも、その中で、主がわたしを取り扱われ、豊かにされてきたことを、豊かなものを与えてくださったのだと思う。主よ、あなたに感謝します。あなたが悩みの中で、わたしに語って下さったことを、わたしに語り続けて下さったことを。主よ、どうかわたしの歩みをこれらかも守り、試みの中で、闘いの中で、あなたの豊かさを知るものとして下さいますように。
言い寄る主人の妻に対して、ヨセフは近くに寄ろうともしなかった、共にいることさえも避けた。私達のいろいろな誘惑に対する正しい態度だと思う。誘惑をもてあそぶのではなく、誘惑に身をさらそうとするのではなく、危ない橋を渡りつつ、「誘惑に勝った」と言うのではなく、誘惑には近づかない。そこに共にいることさえしない、その決然とした態度が必要だと思った。主よ、わたしをあらゆる誘惑から守り、罪から守ってください。今日も、わたしの弱いところに、あなたの砦を造り、わたしを守ってください。今日も、教会の一人一人を誘惑からお守り下さい。そこに近づくことからもお守り下さい。
主が彼のすることを栄えさせられるのを見た、というのはわかるが、もう一つの「主が彼と共におられること」が主人にわかった、というのはどういう事なのだろうか。どういうことであれ、わたしの人生の中にもこの事が起こって欲しいと思う。わたしの歩みの中に神さまが共におられることが、説明しなくても、大きな声で言わなくても、宣伝して回らなくても、周りの人々に見えるような、そんな歩みをさせて頂きたいと思った。主よ、わたしの歩みの中に、ご自身をあらわしてください。土の器の中から宝の輝きがあらわれるような、そんな歩みをさせてください。
ねたみの力の恐ろしさを思わされた。このヨセフの無邪気さに問題があったのでは、と思ったこともあった。ヤコブの偏愛に問題があると思ったこともあった。でも、それでも、兄たちにはそのねたみに支配されない自由もあったのではないだろうかと思う。ねたみに心を許し、ねたみに支配されるままになり、見上げるべきお方をみるのではなく、不公平ばかりに目がいってしまった兄たち。その結果は彼らの心がすさんでいくことだけではなく、父親にも悲しみを与え、ヨセフにも苦難を与えるものとなった。主よ、ねたみからわたしを守って下さい。わたしがねたみに支配されることがないように、わたしがねたみに振り回されることがないように。主よ、ねたみに支配されている方々を解放してください。癒やしてください。主よ、あなたがどんなに私達を愛されたか、私達が救われるためにどれほどの事をしてくださったか、主よ、あなたが示してください。そして、主よ、あなたのご栄光をあらわしてください。あなたの力、あなたのすばらしさをあらわしてください。
主ご自身が「祭壇を造りなさい」と言われる。34章で地元の人々とトラブルが起こり、たくさんの血が流れ、痛みを覚えている時に、また自分の娘が辱められるという事件が起こった時に、主は「さあ、行って、祭壇を造りなさい」と言われる。今、私達に、そして、私自身に主が求められているのはこの祭壇、祈りの祭壇ではないだろうか。主よ、祈りの祭壇を築きます。主よ、どうかわたしの歩みを支え、わたしの歩みの中で、いつもいつも主よ、あなたとの関係が、あなたに聞き、あなたに祈り、あなたにこたえていく関係が、いつもいつも中心となりますように。
やはりヤコブはここですでに確信を得ていたのだろう。目を上げ、立ち上がった。そして、自ら家族の先頭に立って進んでいった。もし、兄が攻撃してきてもかまわないという姿勢で進んでいった。恐れと平安。こんなにも人を変えるのだろうかと思う。主がおられる、主が支えておられる、主が祝福してくださる、それがこんなにも人を変えるのだろうかと思う。自分の歩みの中で、もっともっとこの主がおられる故の平安に満たされて、大胆に主の福音を語る者とされたいと思う。主が共にいてくださり、もし、それで攻撃されても、信念をはっきりと語ることができますように。主が確信を与え、大胆に歩むことができますように。
今朝は思ったより雪がたくさん降ったようで(といっても10センチくらいかな)、子供たちの学校が休みになってしまいました。それほどでもないと思ったのですが・・・子供たちが学校に行かないでうちにいると調子が狂ってしまいます。アップが遅れました。
ヤコブが故郷に帰ろうと決意したのは、ラバンの風当たりが厳しくなったからではなかった。約束のようにリベカが「もうそろそろ帰ってきて大丈夫だよ」と使いをやったからではなかった。主がそのように語られたからだった。しかし、ヤコブは「エサウが400人を連れて迎えに来る」という情報を聞いて、恐れた。そして、いろいろな方法で兄の怒りを和らげようと必死になった。また兄が攻撃をしてきても少しでも逃げられるようにと考えた。それでも平安はなかった。彼が立ち上がるためには、主と格闘して、本当に平安をいただかなければならなかった。砕かれて、そこに主の力が注がれなければならなかった。わたしも通り一遍の「語られた」と言うことでわかったような気にならないようにと思う。本当に心を満たす平安、行動へと駆り立てる平安。恐れないで進んでいくことのできる平安。その平安を求めて、主からの祝福を求めて、祈ろう。静まって、時を聖別して祈ろう。
外はマイナス14度C。寒そうだなあ。6時35分になりました。お約束通りアップしてから、NYの早朝祈祷会に行って参ります。
愛の力を思わされた。愛がある時に、7年間の苦労も何と言うことはなかった。愛がどれくらい大切かと思わされる。わたしたちが喜んで主に仕えて行くことができる、そこに愛が必要であると思った。愛が、燃えるような愛が欲しいと思った。それと共に、いや、何よりも、主がわたしたちに対して、このような思いを持っていてくださる、イエスがわたしたちのためにいのちを投げ出してくださったのには、このような愛があったことを思わされた。主が本当に熱い思いを持って、「無理に」ではなく、もちろん、そこにはゲッセマネの悩みがあったのだけれども、わたしたちの救いのために熱い思いを持って、ご自分を与えてくださった。7年が数日に思えるような愛をもったヤコブと同じように、主はわたしたちに熱い思いを持っておられる。祈ろう、もっともっと主に心を向けよう。主に祈ろう。どうか、今日の一日全体が主への祈りの日となりますように。
今日は早朝祈祷会、個人的な相談と続き、アップが遅くなりました。朝、早朝祈祷会前にアップできたらと思っていたのですが、もう少し早く起きなければ生けませんね。明日はできれば6時半までに・・・と自分にプレッシャーをかけておきます。
このリベカの言葉の迫力に打たれた。彼女はどうしてこんなにも一生懸命になったのだろうか、それは、彼女が御言葉をもらっていたからだ。25章で、途方に暮れる中で祈り、ヤコブが主の祝福を受け継ぐと御言葉をいただいていた。それをおそらく、イサクにも伝えていただろう。何度も語っていただろう。でも、イサクはリベカの言葉に耳を傾けず、エサウを祝福しようとした。その中でリベカは自分がのろわれてもかまわない、という決意をもって、ヤコブに父のところに行くようにと命じたのだ。自分の言葉に耳を貸さない夫、そのために彼女は悲壮な決意を持ってヤコブを父のところに送った。御言葉に従う、御言葉を聞くことの大切さを思わされた。そこに徹底的に従っていくことの大切さを思わされた。わたしも主に従っていきたい。徹底的に従っていきたい。御言葉を語って下さい。そして、そこに従っていくことを教えてください。
ききんに見舞われたイサク一家にとって、状況は死活問題になっていた。そして、彼はエジプトに行こうとしていた。そこに与えられたのが、この言葉だった。状況はエジプトに行く方が得策だっただろう。また、そうアドバイスする人々もいただろう。経済的にはその方が恵まれた歩みができるように見えただろう。ここに留まることも決してやさしいことではなかった。実際、26章全体に渡って地域の人々との軋轢が書かれている。しかし、主は、約束の地に留まるようにと語られた。昨日の礼拝の箇所もチャレンジだった。主は必要のことは心配するな、と言われる。ただ、魂の問題、心に忍び込むパン種を注意しなさい、と言われる。でも、わたしたちの歩みはいかに経済的なものに支配されやすいか、ということを思わされる。主よ、どうか、私の歩みを守ってください。私の歩みが、経済的なモノによって支配されてしまうことがありませんように。そうではなくて、御言葉に支配され、あなたに対する愛に支配されますように。御言葉に従って歩んでいくことができますように。
み使いがわたしたちの行く道、先に行く。いや、主ご自身がわたしたちに先立っていってくださる。これからどんな道が待っているのかわからない。どんなことが起こるのかわからない。でも、そこにも主ご自身が先に行ってくださって、道を備えていてくださる。だから、安心して歩んでいこう。もっともっと違うところに目を向けよう。このリベカが「水を下さい」と言われて、「らくだにも差し上げましょう」と言ったような積極性、そのような前向きの力、外向きの力、主よ、それを満たしてください。自分のことを心配して、主が守ってくださる、主が支えてくださる事について心配してしまうのではなく、そのエネルギーを、前向きに、外向きに、使っていこう。主よ、今日も新しい出会いを与えてください。それが初めてお会いする方ではなかったとしても、「新しい出会い」をお与え下さい。
主がすべてを備えて下さる。それをよく言うが、これはアブラハムが最愛の子、約束の子、神さまが与えて下さった子供、イサクをささげたときに、主が備えて下さったのだ。彼がささげたときに、主はイサクを生きて返して下さった。ささげることはどんなことだろうかと思う。私が今主から「ささげなさい」といわれていることは何だろうかと思う。主の恵みをもっともっと知りたいと思う。もっともっと主に用いられたいと思う。主よ、あなたが示して下さい。主よ、あなたが教えて下さい。ささげるべきものを手の中に収めているのではなくて、握りしめているのではなくて、あなたの御手におゆだねすることができますように。
何度も読んできたところだけれども、主が、アブラハムの祈りに応えて、譲っていかれた姿に新しく励ましをいただいた。わたしはこのように祈ってきただろうか?主に求めて、主からの譲歩を勝ち取ったことがあっただろうか?いや、譲歩なんかではない、神さまご自身がわたしたちの祈りを待っていて下さるのだ。祈ろう、主に対して膝を詰めるようにして・・・。
ソドムの王の報いを断ったアブラム。しかし、彼は、神ご自身からの「はなはだ大きな報い」の約束をいただいた。神の報いをいただくことができるなんてなんて素晴らしいのだろうか?神の与えて下さる報い。それだけを求めていこう。わたしたちは人の報いにどれほど心奪われやすいか?人がどう思っているかにどれほど左右されやすいか。人のほめる言葉を、人の感謝の言葉をどれほど求めやすいかと思う。主よ、私をあなたの報いを求め、あなたのほめて下さる言葉を求める者として下さい。人の歓心を買おうとしたり、人がほめる言葉に満足したり、それを心の中で密かに求めるような所から私を自由にして下さい。解放してください。あなたの報い、あなたが天国で与えてくださる報い、それを見ながら生きる者として下さい。イエスさまが言われたように、天で報われることを求める者として下さい。
アブラハムも笑った。信じられなかった。でも、信じた。そして、神は御業をなされた。信仰はその最初から、「不可能を可能にする神」を信じることなのだ。だから、「これは無理だ」ということも、主の御手の中にあっては可能なのだ、ということを信じるのだ。不可能を可能にする神。今年、主は、私の人生に、わたしたちの教会にどんな「不可能を可能にする」御業をして下さるのだろうか。それは自分たちのがんばりですることではない、神の奇跡だ。神の御業だ。笑っちゃうようなこと、笑われてしまうようなこと、主がなして下さる。それを信じて進んでいこう。主よ、信仰の訓練を与えて下さい。それはあなたに信頼することを覚えることです。誰か人ではなく、あなたから解決をいただくことです。気分転換や、休息だけによって精神的な助け・・・本当はごまかし・・・を得るのではなく、神さまあなたからの解決をいただいて歩んでいくことができますように。あなたのもとに休み、あなたのもとで力をいただくことができますように。
12章でエジプトの人々によって富を得たアブラム。しかし、その富がまた甥とのトラブルのもとになり、その甥の住んでいた悪に満ちた町の王から、「財産はあなたが取りなさい」といわれたときに、アブラムは毅然とした態度を取った。富が幸せを与えるとは限らないこと、富がトラブルのもとになることが往々にしてあること、そして、ソドムの王のような人は「わたしがあの人を富ませたのだ」と語りぐさにするということも。戦いに出た後のアブラム。それなりの犠牲もあり、労力も使い、富を受ける資格もあっただろうと思う。でも、アブラムは毅然とした態度を取った。こんな言い方をして、ソドムの王は不愉快だっただろうと思う。でも、アブラムははっきりと語った。
主よ、私に鋭くものごとを見分ける目を与えて下さい。物質的なものに目がくらむことがありませんように。どうか、私を祝福して下さる方があなたであり、あなただけであることをしっかりと心に留めておくことができますように。主よ、あなたが私に必要をすべて満たして下さいますように。あなたが必要なものすべてを与えて下さいますように。また教会の一人一人の必要をあなたがすべて満たして下さいますように。
なぜ、散らされるのを恐れるのか?それはやはりみんなが一緒にいることを、神さまと共にいることよりも大切なことのように感じるからではないだろうか?人を神より大切にしているからではないだろうか?人を神よりも重んじているからではないだろうか?人を神よりもあてにし、人をかみよりも頼りにしているからではないだろうか?人がたくさんいることの方が、神さまが共にいて下さることよりも力強いなんて思っているからではないだろうか?自分はどうだろうか?去年、たくさんの方々を送り出していく中で、「どうしてですか」と思い、祈った。その答えはここにあったのではないか?「それはあなた方が、人よりもわたしをあてにするためだ」「それは牧師であるあなたが、マンパワーよりもわたしの力をあてにするためだ」と主は言われているのではないだろうか?「わたしに祈りなさい」と言われているのではないだろうか。主よ、今与えられている方々のゆえに感謝します。そして、何よりもあなたが共にいて下さることに感謝します。あなたを信頼します。あなたがこの地域の方々の救いのために、福音の宣教のために、御力をあらわしてください。そして、世界中に送られていった兄弟姉妹と共にあって下さって、励ましを与え、今日、あなたが共にいて下さることをお語り下さい。
150日の間水の上を漂っていた、ノアの箱舟。ただただ、漂流してい5ヶ月間。そこに神の目が注がれていたのだ。孤独を感じるような中でも神の目が注がれていたのだ。神さまは彼らを心にかけておられ、心に留めておられたのだ。主は今日も、「どこへ行くのだろうか」と思い、漂流しているかのようなわたしたちをも心に留めておらえる。どこへ行くのかわからない者たちをも、行き先が見えない者たちをも、主は心に留めておられる。わたしたちが気がつかないだけで、わたしたちを心に留めておられる。主よ、感謝します。あなたの導きがわからないことがあります。わからないことがあります。だから、主よ、御言葉に感謝します。漂流しているだけじゃないかと思えるような所にも、主が心をとめておられ、お考えをお持ちであることを感謝します。どうか、導いてください。見えなくても、行き先が見えなくてもついていく者として下さい。
主が閉ざされる扉。その閉ざされる瞬間、自分たちだけがその中にいることにノアはどれだけの痛みを感じたであろうか。しかし、それにも増して、神ご自身はどれほどの痛みを感じられたであろうかと思う。どれほどの痛みであられただろうかと思う。主が戸を閉じられるとき、主が雨を降らせられるとき、どんな思いでこの地をさばかれたであろうかと思う。わたしたちも、いつも「明日がある」と思っている。でも、一生に一回だけ、「明日がある」というのが嘘になる日がある。「またいつか」と言えない日がある。いつも限りがあることを、いつもわたしたちの歩みには限りがあることを、主が戸を閉じられるときがあることを覚えて歩んでいきたいと思う。いつでも「主よ、来たりませ」と言える歩みをさせて頂きたいと思う。
あれ、元旦と二日は良かったけど、今日はなかなかアップロードしないなあ、やっぱりかきごおり牧師は三日坊主も行かないのかなあ、なんて思われた方、このページをこまめにご訪問してくださっていることを感謝します。実は今日は今年初めての祈祷会が早朝祈祷会で、教会に行っていました。行く前に聖書は読んでいたのですが、アップロードまで手が回らず、早朝祈祷会の後、教会でいくつか用事があり、帰ってくるのが昼過ぎになりました。遅くなりました。
本来、イエスが来られなかったなら、わたしも、滅ぼされてしかるべき人間だった。滅ぼされてもおかしくない人間だった。イエスが与えられて、キリストが送られて、「ただし」の特別な恵みが、わたしにも及んだ。わたしもこの「ただし」の中に入れて頂いている。この「ただし」の恵みを今日は不思議に感じた。これは当たり前のことではないのだ、これは特別なことなのだ。わたしはノアのように「清く正しい」と人様に言われるような人間ではない。神さまの目から見たらなおさらだ。でも、キリストのゆえに、十字架のゆえに、わたしも「ただし・・・」と言っていただける。感謝。どうか、この「ただし」の福音を福音として伝えることができますように。このグッドニュースのグッドさを薄っぺらなものにならないように伝えることができますように。このグッドさを思いっきり伝えることができますように、伝わる言葉を与えてください。
ほかの所を心に留めながら、そのことについて思いめぐらそうとしていたのだけれども、今日の最後の言葉に来たときに、不思議と、この言葉がわたしの心を捕らえた。主がわたしたちを招いておられる。主がわたしたちを「主の名を呼び始める」事を求めておられる。そのことを思わされた。わたしは主の名を呼んでいるだろうか?主に祈っているだろうか?主に求めているだろうか。新しい年の2日目。大きく口を開けて、主を求め、主を呼ぼう。主よ、祈ります。あなたを求めます。どうか、主よ、あなたが祈りに応えてくださることを、今年、もっともっと経験することができますように。
主が休みの日を祝福された。わたしたちはどこまでも、「働く」ことのなかに価値を見いだしている社会の中に生きているし、そこに意味を見いだしている。そして、自分も忙しく働き回っていることの中に自分の存在理由を見いだそうとしている。でも、主はあえて休まれて、あえて七日目に休まれて、主が休んだので、それを祝福されたという。休みの中に、もっともっと価値を見いだしていく、休むことの中にもっともっと神の祝福を見いだしていくような歩みをさせて頂きたいと思った。そして、何よりも、多くの人々にとって、日曜日、主の前に出ることが最高の「休み」となるような礼拝、そのような教会としてくださいと祈りたいと思った。自分自身にとっても、毎日の祈りの時が「おつとめ」ではなく、休みの時となるのだ、ということを思わされた。主よ、感謝します。どうか、この一年、あなたの前に出て、あなたの前で休みをいただいて、そこから力を受けて立ち上がってゆくことができますように。