モーセは何度この経験をするのだろうか。何度この経験をしたらよいのだろうか?人々がつぶやき、人々がモーセの行動を攻撃し・・・。何のためにモーセは人々の上に立っているのだろうか?そのような使命を与えられて、損ではないか?しかし、モーセは使命に立って、使命に立って、民を導き、守った。破れ口に立った。問題が他の人々に広がらないようにと、守った。逃げなかったモーセの姿に大きく励まされた。そして、主がどのように判断されるか、主がどのように導かれるのか、そこに従っていった。自分がこんなことに出会ったら、逃げたくなってしまうだろう。主よ、お助け下さい。一つ一つの出来事に逃げないで、解決をいただいていくことができますように。主よ、あなたが共にいて下さることを確信して歩んでいけますように。悔い改めるべきことは悔い改め、そして、あなたを指し示していくことができますように。そして、破れ口に立つ者として下さい。
主が与えようとされる所から、恐れて逃げようとする人々。そこに進むことの目に見えるリスクに振り回されて、その背後におられて、もう「与える」と約束されている神様を見ようとしない人々。神の声を無視して、自分の判断に振り回されてしまった人々。自分はどうだろうかと思わされた。主に従っているだろうか?恐れに振り回されていないだろうか。このイスラエルの民にとって、カナンの地に進んでいくことがどれほどの大きな出来事であっただろうかと思う。どれほどの勇気が必要であったかと思う。そのような出来事に出会う時に、私は従っていけるだろうか。神様だけを信頼して、神だけを見つめて進んでいくことができるだろうか?主よ、あわれみ、支えてください。あなたの恵みの中に生かしてください。
最近、祈っていることで、願い通りにならないことに闘いを覚えていることがいくつかある。そんな私に主がこの言葉を語って下さった。「主の手が短いから、これは無理だ」ということはない。納得いかないことは納得いかない。主に祈っていこう。主がどのように導かれるのか、私自身はどのように語っていったらいいのか、主の奇跡を見せて頂こう。主よ、祈ります。祈り続けます。主がなされる大きな御業を見る者として下さい。どうか、主が力強く働いて下さい。圧倒的な御業を見せて下さい。信じます。不信仰な私を憐れんで下さい。私を遣わしてください。
その旅の間には「いつまでここに留まるのだろうか。もっとどんどん先に進みたい」と思う時もあっただろう。また「ここら辺で、少しゆっくりできないものだろうか」という時もあっただろう。しかし、滞在が短かろうが長かろうが、主の導きに従って彼らは進んでいった。主の導きの中で彼らは進んでいった。今も雲が見えたら、と思う。雲が見えるように、主の導きが見えるように霊的な敏感さを与えて欲しいと思わされた。「ああ、雲がのぼる、さあ、進んでいこう」と言えるような、霊的な敏感さ、そして、そこに共に進んでいこう、という霊的な一致が欲しいと思った。主よ、どうか、わたしたちの歩みを導いて下さい。主よ、どうか、わたしたちの歩みを助けて下さい。わたしたちの都合ではなくて、主の導き、あなたの御心に従って、あなたのご計画、あなたの祝福の道に従って歩むことができますように。あなたのご臨在の雲を見せて下さい。そして、それにすぐに従っていく勇気を与えて下さい。従順さを与えて下さい。
ここまでうったところで、NYの早朝祈祷会に行く時間になりました。車の中でも祈りつつ、また、帰ってきてからアップします。
帰ってきて、すぐお電話があって、今10時半になろうとするところです。
祈りながら車を走らせ、祈りながらNYを歩き、静まっている時だけではなく、雑踏の中でも主が語って下さることを思わされた。主が贖罪所の上から、ケルビムの間から、語られる。それは、新約時代のわたしたちにとっては、イエスの十字架から語られる、と言うことになるだろう。今日からメル・ギブソンの「パッション」が始まる。その残酷さゆえにR指定(17歳以下は親同伴)になるほどだという。実際見ていないので、内容については何も言えないけれども、イエスがわたしたちのために負って下さったことがどれほど重いものなのか、神はどれほど大きな愛をわたしたちに与えて下さったのか、それを思わされた。「語り続けよ、黙っているな、この町には私の民が大勢いる」主が語って下さったことに感謝。今日も語り続けることができますように・・・。
このアロンの祝祷を初めて一つ一つの言葉に目を留めながら読んだ。そして、最後の祈り、「平安」を祈る祈りが心に留まった。今まで教会のひとりひとりのために「平安」を祈ってきただろうかと思わされた。具体的な問題、「祝福」のためには祈った。でも、「平安」主から与えられる「平安」のためにどれほど祈ってきただろうか。祈りたいと思った。ひとりひとりの心の中に、魂の中に、闘いの中で、苦しみの中で、問題の中で「平安」があるように、と。教会の方々の闘いに耳を傾けていると、それは、私自身の通ったことのないような問題ばかりだ。自分の経験で勝負しようとするとどうにもならない。でも、主が平安を与えて下さるように、主が御顔を向けて、主ご自身からの平安を下さるようにと祈ることはできる。そして、それこそが今の教会にとって何よりも大切なことだ。私自身の経験で何かを言うことよりも、主ご自身に語って頂く、触れて頂く、出会って頂く、それが何よりも大きな力なのだから。
今日も聖書を読んでも、何も心に感じることがなかった。でも、今日は心当たりがあった。神と私とを隔てているものがあることを・・・。その過ちを悔い改め、そして祈った。その時に、心に示された言葉がこの言葉だ。大祭司イエスによって、わたしたちも祭司とされ、レビ人とされ、聖なる働きに関わる者とされたのだ。主のものとされたのだ。主があの救いの御業をなさった時に、ほんとうは私が裁かれるべきだった。罪を明らかにされ、神に見捨てられるべきだった。その者が赦され、救われていることに感謝。そして、神のものとされ、神のために仕えることが許されている。どうか、主よ、私をお守り下さい。あらゆる罪の誘惑からお守り下さり、私をあなたのお役に立つ者として下さい。あなたとの交わりの中に生かしてください。
今日、何をここから分かち合えるだろうかと思った。でも、主が私をこの場所に導いて、この聖書箇所に導いて下さったのだ、と思って、もう一度読み返して、「主よ、お語り下さい」と祈って読んだところ、心に留まった言葉がこれだった。もちろん、自分にとっては、「霊的な戦い」のことをいっている。霊的な戦いに出る備えができているだろうか。この朝の祈りの時を守ろうとする時にやってくる霊的な戦い、人と話している時にやってくる霊的な戦い。「妥協」をさせようとする霊的な戦い、そのようなもの一つ一つに勝利していく備えはできているだろうか。あのエペソ人への手紙にあるように、神の武具を身につけているだろうか。そして、自分だけではない、教会のひとりひとりをその霊的な戦いに出ることができる者として訓練し、導いているだろうか。そのために祈ってきただろうか。主よ、伝道者の歩み、牧会者の歩みが甘い考えではできないことをもう一度思わされました。どうか、自分自身の戦いの備えのために、そして、教会のひとりひとりの戦いの備えのために助けを与えて下さい。
現代のイスラエル=クリスチャンは、もうすでに神の僕なのだ。神の僕になろう、というのではなく、もうすでに神の僕なのだ。今年のレントの学びのテーマは「仕える喜び」だ。そのために主が語って下さったことを感じる。主に仕える者としてもう召されたのだ。主のしもべとなっているのだ。わたしも、そして、周りのクリスチャンのひとりひとりも主のしもべなのだ。主よ、主のしもべとして生きることの意味を教えて下さい。今年のレントの学びの中でもあなたのしもべとして生きることを教えて下さい。頭でわかるのではなく、実際にそこに生きる者として下さい。わたしを理論家ではなく、実践者として下さい。一つ一つの出来事の中でわたしを訓練して下さい。
この時代、神にささげるものだから、傷のあるものでいいじゃないか、という誘惑はなかったのだろうか。一番、自分に取ってどうでもいいものをささげようという誘惑はなかったのだろうか。わたしたちのささげものは、最高のものをささげるべきである。自分のために最高のものを取っておいて、自分に必要のないもの、自分にはいらないものをささげるべきではない。ほんとうに自分の手元に置いておいたらいいもの、役に立つもの、自分に大切なものを主にささげるのだ。主よ、私にとって最高に大切なものは何でしょうか?わたしの心を探って下さい。あなたにささげる事を教えて下さい。自分を捨て、自分の十字架を負うことを教えて下さい。
これは「旧約聖書だから・・・」と無視してしまうことのできない言葉だ。ペテロの手紙にも出てくる。主が聖なる方だから、主は主が聖であられるくらいわたしたちも聖なる者であることを願っておられる。ということは、わたしたちが聖なる歩みをすることができるようにしてくださるお方だと言うことはできないだろうか。単に「罪人のままだけど、赦してくださる」というだけではなく、わたしたちの内側をも造りかえて、聖なる者として生きていくことができるようにしてくださるのではないだろうか。主のきよさの前にあのイザヤは「わざわいだ!わたしは汚れている」と叫んだように、主のきよさはものすごいものだろうけれども、そのものすごいきよさをわたしたちも持つことができるのではないだろうか。主よ、私の今日の一日を守ってください。誘惑から守り、そして、あなたの愛を持つ者として下さい。「聖」を求めるのが、「罪を犯さない」という逃げの姿勢ではなく、「愛に生きる」という攻めの姿勢となるように助けて下さい。あなたのきよさはそのようなものですから・・・。
このやぎの姿もまたイエスの姿に重なる。わたしたちのすべての罪を背負われて、わたしたちの罪を祖のみに負わされ、父に捨てられた。主がわたしたちのためにしてくださったこと、主がわたしたちのために負われたことの大きさ、深さ、ありがたさを思わされる。それに対して、自分が主の前にささげる悔い改めはなんて薄っぺらいのだろうかと思う。主の前にささげる解放の求めはなんていい加減なんだろうかと思う。主よ、あなたの恵みを思う時に、また自分の不真実を思わされます。あなたの愛の深さを思う時に、自分の罪深さ、いい加減さ、浅はかさを思わされます。それでも受け入れてくださる主に感謝します。どうか、あなたの愛を、あなたの熱さを、あなたの真実さを私の内側にも与えてくださいますように。「受けるより与えることが幸い」ということを日々の歩みの中で経験していくことができますように。そのことを行うことができますように。
詩篇51篇に出てくるヒソプの大本はここだったんだ。この病が癒えた時に、きよめの儀式の中で使うヒソプが、あの罪のきよめを求める詩の中に出てくるのだった。わたしたちの罪は、このレビ記に出てくる病のように深刻で、しつこいものだ。私もダビデと共に祈らないではいられない。「主よ、私をきよめてください。雪よりも白くしてください」と。地面の雪もずいぶんとけた。でも、ほんとうにまぶしい。降ったばかりの雪はなんてきれいなんだろうと思う。そのような雪よりも白い心。主よ、ほんとうにそのようにしてください。私の内側をきよめ、雪よりも白くしてください。
祭司が異火をささげた時に、主の前から火が出て、彼らを焼きつくした。どうしてそんなに主は厳しい裁きを下されたのだろうか。彼らが故意に主の御心に反する事をしたのだろうか。9節を見ると、「幕屋で奉仕をする時には、酒を飲むな」と書いてあるので、彼らは酒を飲んで奉仕をして間違えたのかもしれない。いずれにせよ、厳粛な思いになった。姿勢を正されるような思いになった。本来、主に仕えるなんて、とんでもないけれども、恐ろしくてできないと思った。主の憐れみと、赦しと、そして、ことあるたびに主が示される方向修正。何よりも、多くの方々のとりなし。それによって支えられているのだと思った。主よ、どうかわたしの心を守って下さい。主よ、あなたの御心を、御言葉を聞いて、語る者として下さい。自分の思いではなく、あなたの御思いを求めていく者として下さい。祈らせて下さい。あなたとの交わりに生かしてください。
主の前から火が出て、祭壇の燔祭を脂肪とを焼きつくした。そして、その時に、人々の中に主をあがめる思いがあふれ、喜びの声が挙がる。主の力ときよさを人々が見た時に、そのような御業が起こった。わたしたちの礼拝でも、主の前から火が出て、わたしたちの心をきよめ尽くし、燃やし尽くす時に、初めて集った人々に主を礼拝する思いがあふれるのではないだろうか。主よ、まず私を燃やし尽くし、主の御力を拝させてくださって、主への恐れを持って、礼拝に臨むことができますように。エンターテインメントではなく、主のきよさ、主の前の畏れをもって、礼拝に臨むことができますように。主よ、今日の礼拝を祝福し、何よりもあなたの愛、あなたの力を覚え、人々が主の前にひれ伏すような礼拝となりますように、主よ助けてください。御前から火をくだして下さいますように。
知らなくても罪を得る。そして、そのとがを負う。その厳粛さを思わされた時に、イエスの十字架が、そこまであがなってくださる事のありがたさ、をもまた思わされた。自分の中でもいつの間にか「罪の大きさ」にレベルをつけてしまっているような気がする。「大きな罪」「小さな罪」、そして、知らずに犯したことは悪意がない分だけ「小さな事」としてしまっているような気がする。でも、その小さな事についても、主はあの十字架の上で負われたのだ。主の恵みに感謝しよう。知らずに犯していること、気付かせてください。それはつらいことかもしれないけれども、気付かせてください。どうか、そして、その時に知ることのできるあなたの恵みの深さを味わうことができますように。
自分が人の上に手を置く時、それは救いを求めて、癒しを求めて、祝福を求めて手を置く。幸いを願う思いで手を置く。でも、この時、犠牲の動物に手を置く人々はどのような思いだったのだろうかと思う。自分に代わって、自分のために犠牲になる動物たち。そこには、本来自分が裁かれ、自分が主への献身としてほふられるべき者であるのに、この動物が身代わりになってくれるのだという、感謝と申し訳なさとがいっぱいになったのではないだろうか。今も、主がわたしたちの身代わりだ。イエスが身代わりだ。悔い改めをする度に、イエスの頭の上に手を置いている・・・何かものすごく申し訳ないような気がした・・・イエスがわたしたちの身代わりになって下さっていることを覚えて悔い改めをしよう。気軽な悔い改めではなく、「いつでも赦されるから」という気軽な悔い改めではなく、イエスが身代わりとなられた事の重さを覚え、主の前にひれ伏そう。
今日は、この節の最後の部分、「彼らの旅路において常にそうであった」という言葉が心に留まった。私の旅路において、いつもいつも主が共にいて下さって、臨在して下さっている。先立ち導いて下さり、また守って下さる。これからの歩みもそうだ。これからの歩みにおいても、主が共に歩んで下さり、先に行ってくださるのだという。雲の柱、火の柱、ただ、そうなんだということなんだということだけではなく、それにはっきりと気付かせて頂きたいと思った。ああ、あの出来事が雲の柱だったんだ、ああ、あれが火の柱なんだ、と。霊的な世界というか、spiritualなsensitivityというか、そういう事に鋭い感覚をいただきたいと思った。主よ、どうか、わたしの心の目に、あなたが共にいて下さることを、あなたが導いてくださることを、教えてください。あなたの導いて行かれる所に、従って行かせてください。
ある時、「どうして、主は金で造ることを要求されたのだろうか」と思ったことがあった。金をここに使わなければ、どうせ、人々の飾りに使うだけだ、ならば、人の飾りに使うならば聖なることのために使った方がいい、と思ったこともあった。でも、贖罪所がイエス様の象徴であるならば、イエスさまを指し示しているならば、それは金でも、地上のどんな貴重なものであったとしても、ふさわしいものはない。神の御子、もっとも大切な御子をも与えた父なる神、その主の愛を示すのには、それがたとえ金であっても、足りないのではないだろうかと思わされた。主に最高のものを、主に一番大切なものを、ささげて従っていきたいと思う。私の最高のものは何か、私の一番大切にしているものは何か、それを思いながら、一日を過ごしていこう。そして、それを、主にささげて従っていこう。
人々は喜んで主のもとにささげものを持ってきたという。そして、36章を読むと、もうささげものが余ってしまって、もうこれ以上持ってこなくてもよい、と人々に言っている。ものすごいことだなあ、と思う。人々が喜んでささげものを持ってきて、そして、それが有り余って、もう必要ない、と人々に知らせるほどにたくさん集まったなんて・・・。「持ってきてください」「必要なんです」と何度もアナウンスをする必要もないくらいに・・・。ついこの間、偶像礼拝で主を悲しませた民が、ここでは、喜んで主の前にささげものをささげている。このような御業を見せて頂きたいと思った。主がひとりひとりに喜びを与え、ただ「喜んでする者」のささげもので満たされて、必要が与えられて、十分に与えられていく、無理ではなく、無理強いではなく、喜んでささげる人々のささげものによって、すべての必要が満たされますように。
主と語る時に、顔が輝く。人々が見ることができないほどに輝く。モーセ自身は自分の顔が輝いていることに気がつかなかったけれども、輝いていた。主がわたしたちの顔を輝かせてくださる。主と交わると輝く。モーセはほんとうにとっくみあいをするほどに主の前に祈った。主に食い下がった。自分はどうだろうかと思う。そこまで、顔が輝くまで主の前に祈っているだろうか。主との交わりを楽しんでいるだろうか。主との交わりに必死だろうか。主よ、どうか私をモーセのようなあなたとの親しさに導いてください。あなたとの交わりの中に一日を導いてください。そして、あなたとの交わりの中に、モーセがあかしの板を持って山を下りてきたように、主よ、御言葉を持って降りることができますように。主よ、御言葉を語って下さい。
本当のところ、誰がわたしを導いていると信じているか。本気で神がわたしを導き、ここまで支えてくださったと信じているか。もう一度自分の心を探られるような思いのする聖書の箇所だった。金の子牛を拝むことはないだろう。金の子牛がわたしを導いていると信じることはないだろう。でも、ほんとうに主がわたしをここまで導いてこられたのだろうかと思いめぐらしていた。アメリカに留学で入った時のこと、アトランタからニュージャージーに引っ越してきた時のこと、そして、「それをここに持ってきなさい」「わたしの羊を養いなさい」との語られた御言葉、一つ一つの事を思い出しながら、わたしの願いとは違った展開もいろいろある中で、主がわたしをここまで導いてこられたことを、もう一度深い所で感じさせられた。先週の礼拝から「白紙の契約」ということを思わされている。これから主がどのように導かれるのか、わからない。でも、主がそこに書き込んでくださる。主が導いてくださる所に素直に従っていく者でありたい。
今日も早朝祈祷会があり、それまでの更新ができなかったので、帰ってきてからの更新で遅くなりました。
主の栄光が幕屋を聖別する。3500年前、あのイスラエルの民が造った幕屋も、3000年前、ソロモンが造った神殿も、主の栄光が満ちた、という。どんな情景だったのだろうか。ほんとうに見てみたい。でも、今日、そのような「現象」ではなく、人々が導かれ、人々が輝く姿、それを見せて頂ける。でもでも、もっともっと見せて頂きたい。元気で、輝いている教会の人々の姿を見ていると、「この人たちは何の苦労もないんだから・・・」と思う人々もいる、と聞いている。でも、実際ひとりひとりに触れてみると、いろんな戦いがあり、悩みがあり、痛みがある。でも、たとえそうであっても、それに縛られないで、それに振り回されないで、問題に支配されてどんよりしないで、主を見上げて、輝きをいただいている。その輝きをもっともっと見せて頂きたい。そして、周りにどう思われようと、この輝きを伝えて行きたい。主の輝きを、主のもとにある輝きを、主の与えてくださる輝きを・・・。主よ、どうか照らしてください。どうか、主が教会を、わたしをあなたの輝きで照らしてください。
主の前にいつも灯火をともしておく。それが幕屋に仕える僕の使命だった。今日でも主に仕える僕の使命なのでないだろうか。でも、そのための油は主が用意してくださる。主が注いでくださる。主が与え続けてくださる。大切なのは求め続けること、主に目を留め続けること、器を整え続けることである。主がわたしたちのために油を注ごうとされている。「求めてくる者に聖霊を与えないことがあろうか」とあるように、主はいつもわたしたちに与えようと、備えて、待っていてくださる。主よ、今日もあなたに求めます。ペンテコステを待っていた弟子たちのように主の前に待っています。どうか主が与えてください。主よ、今日も油を与え、主よ、世の光としての灯火をともさせてください。
主がわたしたちのうちに住まわれるためには、備えが必要だった。あの幕屋が造られたのは、そしてそこに細かくいろいろな事が命じられているのは、主がそこに住まわれるためだった。主が今日もわたしたちの心の中に住まわれるために、イエスの十字架という備えが必要であり、イエスがわたしたちのために十字架にかかって下さったことによって、わたしたちは主をお迎えすることができるのだ。そして、わたしたちも主をお迎えする準備ができているか。心の中の掃除は主がして下さる。わたしたちの準備はただ、心の扉を開けることだけだ。一生懸命準備して、心の中をきれいにして、応接間をきれいにして、汚いのは心の奥底に「開かずの間」を造ってしまうのではなく、ただ、心の扉を開けて、主をお迎えすることだ。奥の間まで主に明け渡してしまうことだ。主がきよめてくださるから・・・。主よ、わたしの心にお住まい下さい。そして、あなたがわたしをお用い下さい。わたしの願ったような道でないかもしれませんが、主よ、あなたの道に導いてください。
神を信じる者たちにとってはどうしても受け入れられない習慣や、行動がある。それがだんだん社会の中で「当たり前」になってきてしまっている中で、たとえば結婚前に何人の女性と「経験」があるとか、何人の男性と「経験」があるか、とか、そういうことが当たり前のようにテレビドラマや、マンガの中で(いや、ほんとうは現実社会の中では当たり前ではないことを願っているが・・・)出てくる社会の中で、神の前に真実に歩むことが決して楽なことではない、そう思う。社会に流されて生きる方が楽だ。その中で主を見つめつつ、しっかりと見据えつつ、歩むことの祝福、その幸いを大胆に伝えていく使命があり、そこに生きる使命があることを思う。主に赦される事と、主に赦された恵みの中で主に従っていくことの祝福、幸いをもっともっと大胆に語る者でありたい。主よ、社会に対して、おもねるのではなく、社会の流れに流されるのではなく、大胆に御心を語る者として下さい。
主から豊かに与えられている。あふれるほどまで与えられている。でも、ほんとうに「ためらわず」にささげているだろうか。先日の信徒勉強会でも学びながら、やはり自分の中でも、「これは主から管理を任されたものだ」という思いが徹底しているだろうか、と思わされた。義務感ではなくて、自分から心から喜んでささげよう、と思っている中で、いつの間にか、自分の自由にしていいもの、という感覚になってしまっていないだろうか?主は私を信じて、信頼してたくさんのものを任せて下さっている。なのに、その信頼を裏切っていないだろうか、と思わされる。主よ、あなたがいつも必要を与えて下さる方であることを信じて、信頼して参ります。ためらう思いから解放し、ほんとうに主に信頼して歩む者に必要をいつもいつも満たして下さるお方であることを経験させて下さい。
ペテロの手紙を見ると、この「祭司の国」は新しいイスラエル、つまり教会に受け継がれていることがわかる。私達が「祭司」としての使命をいただいているのだ。主から油を注がれて、祭司としての使命をいただいているのだ。ならば、ほんとうに祭司の務めを果たしているだろうかと思う。破れ口に立つ働きをしているだろうかと思う。とりなしの祈りをどれだけささげているだろうかと思う。あの神に背いたイスラエルの民のためにモーセが破れ口に立ったようなことをしているだろうか。主よ、今日、とりなしの祈りのために用いて下さい。取りなすべき方々の事を思い出させて下さい。ただ、忠実な主の僕たちのためだけにではなく、主に背を向ける者たちのためにも祈る者として下さい。破れ口に立つ者として下さい。
「人はパンだけで生きる者ではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と申命記にあるけれども、聖書の御言葉も、このマナと同じで、「昨日のがあるからいいや」と思っているといけないのだ。昨日の恵みで今日の勝負に出て行こうと思うとそれは役に立たない。もちろん、一度語られたことはほんとうに大きな力になる。でも、そこにしがみついて、それがあるからもう大丈夫、とは言えない。毎日毎日、マナを集めに彼らが出て行ったように、毎日毎日主の前に出てスタートして、主の前にある恵みの中から力をいただいて、出発することが大切なのだ。主よ、今年ここまで守られていることに感謝します。毎日毎日、主から新しい力をいただいていることに感謝します。どうか、御言葉を与えてください。御言葉を与え続けてください。そして、その御言葉が与えられた喜び、御言葉が語られて力を与えられた喜びに生かしてください。今日も語って下さいました。感謝します。