今年もいよいよあと一日。だんだん「新しい年を迎えるんだなあ」というよりは、「今日の続きの明日」という感覚が強くなってきました。日々に新しいことをなされる主を見上げつつ、歩んでいきたいと思います。
主から流れるいのちの水の川、そしてそこに生えるいのちの木。その木の実はわたしたちをいやす。これは決して世の終わりだけの場面ではないと思った。今のわたしたちの歩みを指した場面だと思った。わたしたちにも与えられている。いのちの水の流れ。そして、わたしたちにも与えられている。わたしたちをいやす木の実。そのすばらしさをどんどん体験したいと思ったし、そのことを教会の一人ひとりが体験した証を聞きたいと思った。そのように主に圧倒的に臨んで頂きたいと思った。主よ、どうかわたしをあわれんで下さい。あなたの油注ぎを豊かに与えて下さい。あなたのいのちの水を満たして下さい。そして、生かして下さい。主よ、あなたを待ち望みます。教会を満たして下さい。教会を震い動かして下さい。新しい年、あなたの新しい御業を待ち望みます。
今年も今日と明日。2日になりました。今年は年末まで、「あれもやらなければ!」ということを抱えながら過ごしています。忙しくても主の前に出ることを第一にしていきたいと思います。
主がわたしたちにあふるる恵みを注ぐことを約束して下さっている。主がわたしたちにあふれるまでに満たして下さる。主がわたしたちに与えてくださるものは、それほどすばらしいものだ。それを待ち望みながら、歩んでいこうと思う。十分の一をささげることは大変なことだけれども、すべてが主のものであり、わたしたちは正しい管理を任されただけなのだ、と思うと、それは当然のことなのだ。何も特別なことではない。主がわたしたちにもっともっと任せて下されるように、安心して任せて頂けるように、主に従っていきたい。主よ、わたしを満たしてください。良きもので満たしてください。そして、与えられたものを、あなたの喜ばれるように用いることができますように。
主ご自身がわたしたちのあかりであって下さる。わたしたちのを照らしてくださる方であって下さる。でも、これはわたしたちのこの地上の歩みでもそうだと思わされた。他のものにあかりを求めるのではなく、他のものに照らしてもらおうとするのではなく、主ご自身に照らして頂き、主を光として歩んでいくことができる。主よ、あなたが天国だけではなく、永遠の世界だけではなく、この地上の歩みの中でも、わたしたちの光であって下さることを心から感謝します。どうかあなたの光をわたしのうちに満たしてください。あなたの光の中に歩ませてください。あなたを見つめ続けて歩むことができますように。
しばらくインターネットの不調など、いろいろなことが重なり、更新が滞っていましたが、やっと追いつきました。今年も後三日。来年も元旦から読み始めます。ご一緒にどうぞ。
主は災いを通り抜けて助かった者たちをまた「精錬」する、という。選ばれた者たちを「精錬する」と言われる。火によって清める、という。わたしたちが出会う苦しみ、痛み、わたしたちを清めるため、整えるため、神のものとするためなのだ。主よ、どうかわたしを火によって清めて下さい。あなたの火によって清めて下さい。それが困難な道かもしれません。でも、主よ、あなたのものとして整えられるために、あなたに用いられるために、必要な訓練であるならば、必要な精錬であるならば、主よ、わたしにお与え下さい。あなたの訓練をお与え下さい。
死も処分される。死も主によって裁かれる。死さえも・・・。初めてこの事に気がついた。当たり前のことなのだが、死も、主の前では無力だ。わたしたちがその前に無力を感じる『死』さえも、主の前には無力で、裁かれる存在なのだ。主よ、あなたの圧倒的な力を覚えます。わたしたちは死の力の大きさ、恐ろしさの前にたじろぎます。圧倒されます。しかし、その死も、あなたにとっては単に裁かれる存在、火の池に投げ込まれる存在なのです。あなたを知っていること、あなたを信じていることのすばらしさを感謝します。あなたの視点でものごとを見ることができますように助けて下さい。死に対しても勝利して下さったイエスの復活の力故に感謝します。
主がわたしと共にいて下さって、それが人々にもわかって、それで、人々が「一緒に行きましょう」と言ってくれる、すそをつかんでそのように言ってくれる、この預言が成就するようにと祈りたい思いになった。そのように見せて頂きたいと思った。主が共にいて下さるとはこういうことなのかと、周りの人々にも伝わるような御業を見せて頂きたいと思った。主よ、この預言はあなたが語って下さった預言です。どうかわたしの人生においてこの事を成就して下さい。実現して下さい。人々がわたしの姿、教会の一人ひとりの姿を通して、「神様のことを教えて下さい」と言いたくなるような、そんな神様と共に歩んでいく歩みが、人々に見えていくような働きをさせて下さい。お願いします。
大いなる山、それも恐れる必要はない。主が共におられるのだから。どんなに大きな山が立ちはだかったとしても、恐れる必要はない。おののく必要はない。主が共にいて下さる。主が共に歩んでくださる。主がわたしの前にその山を平地としてくださる。聖霊様がそれをしてくださる。だから、信頼して進んでいく事が大切だ。信頼して前進していく事が大切だ。主よ、感謝します。あなたがすべてを導いてくださる事に、主が山を平らにしてくださる事に感謝します。あなたがわたしの先に立って進んでいってくださる事に感謝します。恐れから日々解放してください。日々、恐れに打ち勝つ力を満たしてください。そのために日々み言葉を語って下さい。
主がわたしたちを弁護してくださる。わたしを弁護してくださる。わたしを責める者に向かって、わたしを責め立てる者に向かって、わたしの事を弁護してくださる。だから、主に感謝して、堂々と歩もう。堂々と生きよう。主はわたしのために命さえ投げ出してくださったのだから、そこまでわたしの事を思っていてくださるのだから・・・。主よ、あなたに感謝します。あなたがわたしの事を今も弁護してくださる方である事に感謝します。あなたと共に歩ませていただけること、あなたが共に歩んでくださる事に心から感謝します。あなたの弁護に感謝します。あなたの肯定のメッセージに感謝します。堂々と歩む者としてください。
自分の家がうまくいかなくなったときに、神様は二の次になる場合が多いのではないだろうか。自分の事で精一杯で、神様の事など考えておられないのではないだろうか?でも、ここで、主は、自分の家の祝福は神様を第一としているかどうかにかかっていると言われる。自分の事に余裕ができたら、神様の事・・・ではない。神を第一としていくときに主は一切の必要を満たしてくださるという。「神の国と神の義とをまず求めなさい。そうすればこれらのものはすべて添えて与えられるであろう。」とイエスは言われた。そのイエスの言葉を本気で信じるか、どうかが問われていると思う。主を信頼して歩んでいく者の祝福を経験して証ししていきたいと思う。主を第一として、神を第一として与えられたものをも用いていきたいと思う。主よ、あなたを第一とします。主よ、一切の必要を満たしてください。
主があなたのうちにおられるから、恐れるな、と主は言われる。わたしのために喜び、わたしをその愛によって新しい存在としてくださる。恐れに支配されやすい者だ。主よ、お助け下さい。あなたの愛に生かして下さい。あなたの愛によって歩ませて下さい。そして、あなたの喜びを与えて下さい。あなたが共にいて下さる事を喜びとする者としてください。感謝します。あなたがわたしを喜びとしてくださる事に感謝します。あなたがわたしを新しくしてくださる事に感謝します。どうか、あなたの喜びに生かして下さい。
神だけを拝する。当たり前の事なのだが、ほんとうに考えさせらえる。深い事だと思う。神だけを・・・。そう、わたしにとっても、主がほめたたえられる事こそが、喜び。主がほめたたえられる事が夢、目標。人が神様のすばらしさを証しするときに心が躍る。主よ、あなたが、あなただけがほめたたえられて下さい。あなただけがほめたたえられますように。それがわたしの喜びです。わたしや、他の人がほめたたえられるのではなく、注目されるのではなく、あなたに取って代わるのではなく、あなたがほめたたえられますように。そのことを証ししていく者としてください。そのことに集中していく者としてください。
わたしたちの信仰は「信頼」だ。この後に、「擬人は信仰によって生きる」という言葉が続く。神の約束がなかなか実現しないときに、大切なのはわたしたちの信仰であり、信頼だ。私自身、主に信頼して待ち望む事がどれだけ少ないだろうか。どれだけ主に信頼して待ち望んでいる事の足りない事か。あのアブラハムがハガルによって子をもうけたように、自分の方法で解決しようとしていないだろうか。信頼して、待ち望んで主のしてくださる事を拝見させて頂く、そのような歩みをしたいと思った。主よ、どうかわたしの行く道を導いてください。どうか、あなたの約束を信じて待つ者としてください。待って待って、信頼して待ち望んでいく者としてください。そして、あなたの約束の成就を拝する事ができますように。
バビロンの富を見た人々が、そのすばらしさに、その豪華絢爛な様子に、圧倒されていたのに、神のさばきによって滅ぼされてしまうときに、彼らはそのさばきの圧倒的な力にまた驚く。でも、主の前には、神の前には、どんなに立派なものも、どんなに豪華なものも、無に等しい。主の御力の前には、無に等しい。あのイエスの言葉を思い出す。「栄華を極めたソロモンでさえ、この野の花一つほどにも着飾っていなかった、と。人間のつくったもののはかなさ、それを思わされる。自分もそのようなものに振り回されない強さ、そのような価値観に支配されない強さを持ちたいと思った。主よ、どうかわたしをあなたの価値観でモノを見る事のできる者としてください。
主は主の許に身を寄せる者たちの事を知っていて下さる。主が知っていて下さる。何という慰め、何という救いだろうか。主がわたしたちの事なんかどうでもいいなんて決して思っておられない。主はわたしたちの事を覚えておられる。わたしたちの苦しみを知っておられる。何とありがたい事だろうか。だから、わたしは主の許に身を寄せよう。やはり主を信頼して歩んでいこう。主よ、あなたがわたしたちの事を覚えていて下さって、知っていて下さることを感謝します。あなたがわたしに目を留めておられる事に心から感謝します。どうかわたしのうちにあなたの平安とあなたの喜びを満たして、あなたと共にいる事を喜ぶ者としてください。
わたしたちは主にあって勝利だ。イエスが勝利を取ってくださるだけではなく、わたしたちも主に在って勝利を得る。だから、大胆に進んでいきたいと思う。主が勝利を与えてくださるのだから、恐れないで、サタンに勝利を得たいと思う。主よ、あなたが勝利してくださるだけではなくて、わたしにも勝利をお与え下さる事に心から感謝します。どうか、あなたの勝利をお与え下さい。あなたの勝利に生かして下さい。わたしのうちにある、世に対する恐れや人に対する恐れや、サタンの働きに対する恐れをすべて取り除き、あなたが与えて下さる勝利を感謝して歩む者としてください。
主のもとに行く事が喜びとなる。そのような教会を建て上げたいと思う。そのためにはまず私自身が主のもとに行くのが楽しくて楽しくてしょうがない、という歩みをしたい。主から教えられ、主から学ばされていく歩みが楽しくて楽しくて、もう主のもとに行くのが楽しみで、指折りその日を待ち望む、その時間を作る、それを喜ぶ、そのような歩みをしたいと思った。主よ、あなたと共に歩む喜びの深みをもっともっと教えて下さい。あなたの恵み深さをもっともっと教えて下さい。そして、それを分かち合っていく事ができますように、それを伝えていく事ができますように。あなたと共に歩みたいです。
苦しみや、困難の中で、悔い改めて、神の前に出るかというと、そうではない、人々の姿、神の前に自分の小ささを見せつけられて、悔い改めるかというとそうではないのだという。反対に神を呪うという。実際にそのような事が起こっているなあ、そのように反応する人がいるなあ、と思う。神の前にひれ伏して悔い改めるべきこと、もっともっと大胆に語っていきたいと思った。主の前にひれ伏して、主の前に悔い改めて、わたしたち一人ひとりの命は神様から与えられて、今日も特別に生かされ、支えらえているのだという事を忘れないでいたい。主よ、あなたは今日もわたしを生かして下さっています。また暖かい所で、眠れるように、きれいな水が飲めるように、着るもの、食べるものを与えて下さっています。感謝します。この幸いを独り占めしないで、分かち合う事ができますように。困難の中にある人々に分かち合う事ができますように。具体的に分かち合う事ができますように、導いて下さい。
人々が聞きたくない事がある。そのような要求がなされる事もあるかもしれない。ミカの時には、ほんとうにそのような要求が出された。しかし、ミカは神のメッセージを語った。わたしも同じ使命をいただいていると思う。自分で勝手に、「これは耳に痛いだろうなあ」と勝手に先回りをして、神の言葉をオブラートに包んでしまう事があるのではないかと思わされた。そのようなことであってはならない。ストレートに福音を語らなければならない。主よ、わたしに語って下さい。そして、わたしがあなたに語られた事を大胆に語る事ができますように。堂か、そのためにみ言葉による確信を与えて下さい。人間の考えではなく、あなたのみ言葉を語らせて下さい。主よ、お願いします。
「神の怒りの満ちた」という言葉、ほんとうにこわいと思った。しかし、神が人間の罪に対して持っておられる思いはこれなんだと改めて感じた。自分の中にいつの間にか、神様に怒って頂きたくないという身勝手な願いがふくらみ、神が罪に対していだいておられる思いさえ割り引いて考えるようになってしまったように思う。主よ、あなたが罪を嫌われること、どれほど嫌われるか、どれほど大きな痛みと怒りを覚えておられるか、教えて下さってありがとうございます。その中からわたしのような者を救って下さったあなたのあわれみを感謝します。どうか、この救いのすばらしさを忘れないように、感謝しながら歩んでいけるように守って下さい。救いのすばらしさを日々教えて下さい。
主はわたしたちを惜しんでくださっている。わたしたちにあわれみの思いを持っておられる。何とか滅びないで生きることを願っておられる。主はわたしたちにほんとうに熱い視線を注いでおられる。わたしたちを熱い思いで見ておられる。自分もこのような目を与えられたいと思った。このような熱い思いで人々に語り、そして、人々の救いを喜ぶ者となりたいと思った。主よ、わたしに熱さを与えてください。熱い思いを与えてください。主よ、あなたのメッセージを大胆に語る者としてください。あなたのわたしたちに注がれる熱い視線の故に心から感謝します。わたしのうちにあなたの思いを分かち合ってくださってありがとうございます。
わたしたちに何ができるというのだろうか。人々が苦しんでいるときに、何ができるのだろうか?気休めを言うことではなく、免罪符を買うかのような思いでお金を送るのではなく、ほんとうにわたしたちに何ができるのだろうか。主よ、愛を与えてください。わたしに愛を与えてください。ほんとうに人を愛することのできる人間としてください。愛があふれ、それが行動になるような人間にならせてください。思索の人ではなく、愛の人にしてください。愛することを教えてください。行動を取らせてください。主よ、わたしが、そして、わたしたちが、愛する者となりますように。
イエス様の行く所には、どこへでもついて行く。主について行く、主の行かれる所、主の先立って行ってくださるところにはどこにでもついて行く、そのような願いがある。そのように願う。でも、日々の歩みの中で、たくさんのことの中で、それが見えなくなってしまうことがある。ああ、ほんとうにイエス様が言われたように、「なくてならぬものは多くはない。」のだ。主よ、わたしの一日を、一日一日の歩みを導いてください。ほんとうに大切なものを見ていく者としてください。あなたの願われるように歩む者としてください。あなたの行かれる所について行きたいです。いえ、あなたに引き回して頂きたいです。どうか、あなたと共に歩む喜びを教えてください。あなたの目をわたしにも与えてください。あなたが見ておられるように、周りを見ていくことができますように。
主の言葉を聞くことのききん。それは恐ろしいことだと思う。パンのききんも恐ろしい。しかし、人はパンだけで生きるものではない、生きられるものではない。そんなに安っぽい存在ではない。だから、主に求めていこう。主が与えてくださる主の御言葉をもっともっと慕っていこう。今、主は与えようとしておられるのに、求めていないことが問題なのではないだろうか?本気で求めていないことが問題なのではないだろうか。主よ、み言葉を求めます。どうかわたしにお語り下さい。毎日毎日、あなたがわたしにお語り下さい。先週の火曜日に圧倒的な力で語られたように、み言葉を語って下さい。
忍耐。自分は忍耐があるだろうかと思う。ものが買えない、仲間が迫害されていく、そんな中で、忍耐を持ち続けることができるだろうか。ちょっとした不自由でいらいらしたり、してしまう自分だ。毎日毎日の歩みの中で、しっかりと主に目を注いで、喜びを持って歩んでいきたいと思った。急に何かが起ってからあわてるのではなく、毎日の歩みの中で、主のある平安を持って歩んでいきたいと思う。主よ、あなたの平安をわたしに下さい。日々の歩みの中で、思い通りに行かないこともあります。いらいらすることもあります。そんなときに、しっかりとあなたに目を注いで歩んでいくことができますように。祈りつつ進んでいくことができますように、そして、いざというときに、主よ、忍耐を持ってあなたに従っていくことができますように。
主は「わたしに求めよ」と言われる。主に求めるようにと言われている。主はわたしに他のものに頼るのではなく、主ご自信に頼るようにと言われている。他に力あるように見えるものがある。頼りたくなるように思うものもある。しかし、いや、だからこそ、主は「わたしに頼りなさい」と言われる。今、自分はいったい何を頼りにしているだろうか?何を頼りに歩んでいるだろうか?主よ、あなたを頼りにします。ほんとうの意味で、わたしが頼れるのはあなただけです。主よ、あなたが必要を満たし、あなたが力を与え、あなたが元気を与え、あなたが知恵を与えてください。他のものに頼ろうとするときに警告をお与え下さい。そして、あなたに思いっきり従っていけますように。
主が用意される場所がある。神が養ってくださる。であるならば、安心して、主の養われるところ、主が用意されたところで歩ませて頂こう。それが荒野であっても、そこで主が養ってくださるなら、それが最高の場所だ。それが天国だ。主よ、いつもいつもあなたの養ってくださるところに歩ませてください。あなたが養ってくださるところへと導いてください。それがわかる者としてください。それを見抜く力を与えてください。そこに平安に歩む者としてください。あなたの養いの故に心から感謝します。
主が語られるときに、それは確かに語らないではいられない、証ししないではいられない。だから、主よ、あなたのみ言葉を待ち望みます。あなたの語られるのを待ちます。主よ、お語り下さい、僕は聞きます。どうかお語り下さい。わたしにお語り下さい。そして、それをそのまま語らせて下さい。どうかみ言葉を通してわたしにお語り下さい。クリスマスのためにメッセージをお与え下さい。人々をあなたのところにお招きすることができますように。聖霊よ、どうかみ言葉をわたしの魂に届けて下さい。
9章とはうってかわって、人々は今度は主の前に恐れ、栄光を主に帰した、という。なぜだろうか。やはりこの二人の主の僕が大胆にメッセージを語り、人々が悩むメッセージを語ったからではないだろうか。はっきりとメッセージを語ったからではないだろうか。主よ、どうかわたしもあなたのメッセージを大胆に語る者としてください。ほんとうに人々がそれを聞いて悩むような、「これで良かったのだろうか、間違っていたのではないだろうか」と気づくような、そんなメッセージを語らせて下さい。主よ、あなたに思いを集中させて下さい。あなたの語られることに焦点を当てさせて下さい。人ではなく、あなたに喜ばれる者としてください。
主は聖霊様を主の僕、はしために注がれる。主は聖霊様を注いでおられる。主よ、どうかわたしに聖霊様を豊かに注いでください。一週間前に与えられたみ言葉の故に感謝します。「その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。」とあなたは語って下さいました。求めます。主よ、あなたを求めます。聖霊様を求めます。どうかわたしの中にあふれて下さって、よどみを流し、清めて下さい、わたしを清めて下さい。わたしの家庭を清めて下さい。わたしの集う教会を清めて下さい。聖霊様、どうかあふれて下さい。あふれて流れ出て下さい。約束通りにわたしからあふれて周りの人々をも生かしていくような、周りの人々をもあなたに導くような豊かな働きをなさって下さい。主よ、あなたを求めます。
もう、ヨハネはこの時に、福音故に島流しになっていた。もうすでに苦難をうけていた。その彼に対して、「もう一度預言するのだ」と主は語られた。自分の好きなこと、自分のいいたいこと、人々に受け入れられやすいこと、それだったら語りやすいだろう。でも、彼はさばきのメッセージを語らなければならなかった。どんな思いだっただろうか。でも、自分の姿勢を問われるような思いがした。問われたような思いがした。どうか主よ、あなたの語りなさい、といわれることを語る者としてください。あなたのメッセージを語る者としてください。語らせて下さい。それが自分が悩むことであったとしても、語ることができますように。そして、人の喜ぶことでなかったとしても、あなたのメッセージであるならば、語ることができますように。
主はわたしたちが主の元に帰っていくときに、悔い改めて主の方に向くときに、わたしたちのことを喜んで迎えてくださる。喜んで赦してくださる。だから、安心して主に帰ろう。主の方に向こう。私自身も失敗をするときに、やはり、「主はもうわたしのことを捨ててしまわれるのではないだろうか」「こんなに失敗続きだと見捨てられてしまうのではないだろうか」と思う。それはやはり聖霊様の声ではなく、サタンのささやきだと思う。罪を深刻に感じるのは大切だろうと思うが、それもイエスの十字架によって赦されるのだ。十字架によって解放されるのだ。主よ、感謝します。わたしのことを今も喜んで愛してくださっているあなたに感謝します。あなたにこのようにあなたに心を向けることのできる幸いを感謝します。どうかわたしの歩みをお守り下さい。
いろんな災害があっても、人々は主に悔い改めないという。人々は相変わらず偶像を礼拝して、主の元に帰ろうとしないという。これはもう預言されていることだ。だから、わたしたちは一々落ち込まなくていい。ほんとうに忠実に主の恵みを語り続けることだ。人々の反応に一喜一憂するのはもうやめよう。伝道には困難があることはわかっている。だから、忠実に主のメッセージを語り続けていこう。主の福音を語り続けていこう。そして、主の御力によって救われる方々が起こされるのを見せていたいただこう。主よ、あなたに与えられたメッセージを語らせて下さい。いつもいつも、どんなに困難があっても、福音を語り続ける者としてください。単純に語る者としてください。
昨日のユース(中高生)のクリスマスはたくさんの仲間が集まり、楽しかった。彼らの中にみ言葉がとどまって、続けて教会に来たい、という仲間が与えられますように。聖霊様の働きを続けて待ち望みます。
主よ、あなたがわたしたちのことを決してお見捨てにならないことを心から感謝します。あなたがわたしたちを今も覚えておられ、共にいて下さることに感謝します。エフライムも何度も罪を犯しました。わたしもそうです。何度も過ちを犯す者であり、失敗ばかりです。でも、主よ、あなたがわたしのことを捨てない、ということ、そこにしがみついていきます。いや、しがみつく必要もないんですね。あなたのみ手の中に陥ります。委ねます。どうかあなたがわたしを導き、あなたの与えて下さった使命を果たさせて下さい。今日の礼拝を祝福して下さい。多くの方がとお会いできますように。多くの方々と神様のすばらしさを分かち合うことができますように。あなたのすばらしさを拝することができますように。
人々へのメッセージを語る使命がある。人々へはっきりと罪の恐ろしさと救いのすばらしさ、神の愛の福音を語る使命がある。その使命を与えられていると思う。だから、ラッパを吹き続けたい。そのように生き続けたい。大胆に語っていきたい。主よ、お助け下さい。聖霊様が教えて下さるという、聖霊様が語ることを教えて下さるというそのみ言葉を信頼し、あなたに委ねます。どうかお働き下さい。わたしに語るべきことを教えて下さって、語らせて下さい。どうか、中高生の集まりの中でも、楽しい中に、聖霊様のお働きを与えて下さい。どうか聖霊様がわたしに語るべきことを教えて下さい。
主への祈りが主の前に立ちのぼっていく。わたしたちの祈りは主に覚えられている。祈りは単に自分のためではない。ましてや自己満足なんかじゃない。ほんとうに主の前に立ちのぼっていく。そして、主はその祈りに答えられる。だから、ほんとうに真剣に祈り、祈りが聞かれるんだということをもっともっと経験させて頂きたいと思った。主よ、わたしたちの祈りがあなたの前に聞かれていることを、あなたのところに届いていることを感謝致します。どうかあなたの答えを待ち望みながら、あなたのお答えを期待しつつ歩ませて下さい。祈らせて下さい。祈る喜びをもっともっと経験したいです。祈りが聞かれて、主が答えて下さった、という実感をもっともっと経験したいです。どうかよろしくお願いします。
主はわたしたちが自己犠牲を払うことよりも、主ご自身を知っていくことを求めておられる。主を知り、主によって喜びが与えられて、主のために生きることができるようになることを求めておられる。わたしたちはいつの間にか、律法的になってしまい、犠牲を払うことにむきになってしまっていないだろうか。ほんとうに主に感謝して、感謝を持って主にささげているだろうか?主はわたしたちが主を知ることを、主ご自身との交わりに導かれることを求めておられるのだ。主よ、どうかわたしをあなたとの交わりに導いてください。あなたとの交わりの中に生かして下さい。そして、そこであふれる喜びの中に歩ませて下さい。喜びにあふれて、主に仕え、主にささげていくことのできるようにわたしを満たして下さい。主よ、あなたの福音を語る者としてください。徹底的に福音を語る者としてください。
主よ、今わたしたちはクリスチャンであるからといって、苦しむことはあまりありません。でも、生かされている間、どれほどの涙の谷を歩むことがあるでしょうか?どれほどの悩みや痛みがあるでしょうか?涙にむせぶときがあるでしょうか?でも、主よ、御国において、あなたはわたしたちの涙をぬぐって下さる方です。すでに天に召されて行かれた多くの方々の涙をあなたはぬぐって下さいました。感謝します。慰めです。どうか生かされているわたしたちも、あなたに希望を持ち、あなたを見上げながら歩んでいく者としてください。
1ヶ月ほど前から、少し、アップデートのペースが乱れておりましたが、やっと追いつきました。クリスマスの時期、主が素晴らしいことをもっともっとして下さいますように。私自身をリバイブして下さって、教会を生き生きとしたものとして下さいますように。
わたしたちが主の元に帰っていくときに、主を信じるときに、主はわたしたちにその行いも変ることを期待しておられる。主はわたしたちをありのまま受け止めて下さり、罪人のわたしたちを愛して下さるのだが、わたしたちを造りかえようとしておられる。新しくしようとしておられる。主を愛する者となることを喜んで下さっている。そのことを覚えていこう。そのメッセージを聞いて、主を愛する者たちの教会を建て上げていこう。主よ、あなたの愛に感謝します。夫を捨てたゴメルをも受け入れて下さって、そして、ゴメルから姦淫を取り除こうとされました。わたしたちも、主よ、あなたを愛して、あなたに仕える者としてください。
ああ、なんと言うことだ。主のみ顔を恐れるとは。主の御顔を怒りのみ顔と感じるとは。主はわたしたちのために一人子をお与えになったのに、イエスはわたしたちのために命を与えてくださったのに・・・。このような恐れを感じなければならない人々に対して、イエスの救いを語っていく使命を自分たちは与えられているのだと思う。主の福音を、悔い改める者たちに対して救いをお与えになる主の恵みを、語っていく使命があるのだ。主よ、どうかわたしを伝道者としてください。あの、結婚のときに与えてくださったみ言葉、「主のみ手が彼らと共に会ったため、信じて主に帰依する者の数が多かった」というみ言葉通りに、多くの方々を救いへと導いてください。
主の前に自分を清め、白くし、そして練られる。そのように主の前に生きる。そのように生きることができるのは何と幸いなことだろうか。主はそれを求めておられる。主の前に清く歩むことを願っておられ、そのために聖霊様を与えて下さる。与えようとしておられる。主よ、聖霊様を待ち望みます。聖霊様がわたしを清め、わたしの心を満たし、わたしを生かして下さることを待ち望みます。どうか、わたしのうちにあふれて下さい。わたしを主への愛でいっぱいにして下さい。わたしの心を人々に対する愛でいっぱいにして下さい。自己中心的なわたしの心をいつもいつもあなたの愛で満たして下さい。
祈りは主の前に香となっている。どんな香りを自分の祈りは放っているだろうかと思った。どんな香りとなって主の許に上っているかを考えた。自分の祈りは主の前の香なのだ。主よ、あなたの前にわたしの祈りが届いていることに感謝します。うれしいです。もっと祈りたくなりました。感謝します。もっと祈ります。祈りのじゃまになるものを取り除きます。主よ、祈ることをもっともっとエンジョイさせて下さい。
祈り始めるときに、み言葉が出る。そして、そのみ言葉を伝えるために、御使いが用いられる。祈るときに、み言葉が出る。ああ、ほんとうに祈ることの大切さ、祈らないことの愚かさを思わされる。祈らないならば、み言葉は出ないのだ。み言葉が与えられないのだ。わたしたちが祈りを怠るならば、祈らないならば、何も起らない。ダニエルも祈ったときに、み言葉が主から発せられた。祈ろう。主に祈ろう。そして、み言葉を与えて頂こう。祈りのお答えをいただこう。主よ、祈ります。どうかお答え下さい。あなたのみ言葉がわたしたちの解決であり、わたしたちの救いです。あなたのみ言葉を待ち望みます。祈ります。主よ、どうか祈りに答えて御業をなしてください。祈りに答えて、大いなるみ手を動かしてください。あなたはわたしを造ってくださった方であり、わたしを生かして下さっている方でありますから、すべての問題を解決する御力を持っておられ、願ったような解決が与えられないときには、主よ、あなたには特別な御思いがあることを信じます。どうかそれも教えて下さい。
主よ、あなたが「ここに上ってきなさい」と言われていることに感謝します。わたしがいかに主の御座近くに上っていくことに疎い者であるか、そのことを大切にしていないか、示して下さってありがとうございます。あなたの「上ってきなさい」という語りかけに感謝します。あなたの御座近くに上って参ります。どうかあなたが幻を見せて下さい。ヨハネに与えられたように、わたしにも主よ、あなたの世界をかいま見せて下さい。霊的な世界を垣間見せて下さい。主よ、あなたを求めます。あなたご自身を求めます。感謝します。上って参ります。
ダニエルは、王以外のものに願い事をしたら、獅子の穴にほうりこまれると知っていた。でも、彼は主に祈った。主に祈るのをやめようとしなかったし、それを隠れてすればいいとは思わなかった。心の中だけで祈ればいいとは思っていなかった。本当に真実に主の前に出た。ありのまま人の前にも出た。何一つ逃げ隠れしようとしなかった。そして、その彼が獅子の穴に投げ込まれた時、今度は神ご自身がそのダニエルの信頼に応えられた。主を信頼する者は、恥じることはない。本当に本気でそれを信頼していこう。主よ、あなたを信頼します。あのダビデが獅子の穴の中にほうりこまれることがあっても、あなたを信頼したように、わたしもあなたを信頼します。どうかわたしに問題が起ってきた時に、わたしに困難が起ってきた時に、あなたをほんとうに信頼していくことができますように、どうか助けてください。どうか守ってください。どうか御言葉をもって支えてください。
少ししか力がなくても、主の御言葉に従い、主を大胆に告白しているならば、主はわたしのために、門を開いていおいてくださる。わたしたちの教会のために門を開いておいてくださる。主はわたしのために門を開けてくださる。条件は主の言葉を守り、主の名を告白することだ。何も難しいことはない。単純に主を信頼していけばいいのだ。信仰は元々単純なものなのに、いつからこんなに複雑になってしまったのだろうか。単純に信じればいい。単純に信頼して歩んでいけばいい。主よ、あなたを信頼します。あなたの御業を信頼します。あなたご自身をあがめます。あなたご自身を求めます。主よ、御言葉によってわたしを導いてください。単純に信じる者としてください。わたしがあなたを信頼していない時に、そのことを示してください。思い知らせてください。そして、あなたを信頼することがどんなことかを経験させてください。
ダニエルとその話を聞いた人々は共に祈った。共に祈って神の答えをもらった。共に祈った時に、主は答えを与えられた。ダニエルは自分だけでは祈らなかった。自分だけで祈るだけではなく、祈りの友に共に祈ってもらった。そこに主は答えを与えられた。主よ、わたしもあなたに求めます。そして、分かち合います。祈りの課題を分かち合い、そして、主のまえに共に出ます。どうかそのような祈りの動労者、祈りの同僚を多く与えてください。あなたが祈りに答えて御業をなしてくださった、そのことを経験させてください。あなたの御名をほめたたえます。祈ったことはもう聞かれたと信じなさい、という御言葉を感謝します。あなたがすでに聞いてくださっていることに感謝します。あなたの栄光をあらわしてください。
命の水が流れ込むならば、聖霊様が流れ込むならば、「よどんだ海」も清くされる。この言葉がわたしに語られた。だから、今わたしたちが求めるのは、聖霊様だ。小手先の改革ではなく、人間の考えではなく、聖霊様によって私自身も、そして、教会も造りかえられる。聖霊よ、どうかわたしのうちに流れ込み、よどんだものを清くして下さい。よどんだ海のような状態をきよめて下さい。教会をきよめて下さい。教会を造りかえてください。あなたの御業をなしてください。あなたの満たしを与えてください。あなたがあふれてください。きよめてください。あなたを求めます。
主はわたしのことを知っておられる。教会のことも知っておられる。そして、本当は富んでいることも。貧しさや困難の中にある時こそ、富んでいることを、主は知っていてくださる。主は目を留めておられる。主は知っていてくださるのだ。だから、安心しよう。すべてを与えてくださる主を信頼して歩んでいこう。本気で主を信頼しよう。主のなさることを、主の奇跡を見せて頂こう。主よ、どうかあなたの奇跡を見せてください。わたしのことを、教会のことを知っていてくださって、あなたの御業をなそうとしてくださっていることを今日、覚えました。どうか、信頼し続ける信仰をお与え下さい。
敷居を低くしよう、教会に入りやすくしよう、とはよく言われる。けれども、どうしても超えられない壁があることは確かだ。どんなに敷居を低くしても、どんなにがんばってみても、神を信じて、イエスを救い主として歩み始めることには、低くしきれないハードルがあるのは確かだ。それは聖霊様のお働きによって超えさせて頂くしかない。聖霊様のお働きにお委ねするしかない。そこをいい加減にして、そこを低くしても、それは主の喜ばれることではないし、教会が教会ではなくなってしまう。だから、主よ、あなたを求めます。あなたの救いの御業を成して下さい。聖霊様が罪を示し、聖霊様が救いを示し、聖霊様が主を主とすることの意味を教えて下さいますように。主よ、あなたの奇跡を教会の中に、求道中の方々の中にして下さいますように。
燃える炎。主の目は炎のように燃えておられる。それは、情熱に燃えた炎。わたしたちを救い、罪から守ろうとする炎。今もわたしたちに対して、熱い思いを持って、見つめておられる。感謝。その熱さに感謝して、私自身も熱い者になりたいと思った。主よ、どうかわたしをあなたの愛によって熱く燃やして下さい。救霊のためにわたしを熱くして下さい。熱いまなざしをわたしにも与えて下さい。燃えるような炎のような目をわたしにも与えて下さい。主よ、あなたが今もわたしに対してそのような熱い思いを持っていて下さることに心から感謝します。どうかもっともっと燃やして下さい。
主はエゼキエルが見たことを、エゼキエルが見ることを、すべて告げるように、すべて人々に語るように言われた。主の見せて下さったこと、これにはどんな意味があるのか、わたしもよくわからない。こんなに細かく記録することにどんな意味があるのかわからない。でも、主はそれを人々に語るようにと言われた。わたしも本当にはっきりと語る者となりたい。人の顔色にとらわれず、本当に主が語りなさい、と言われることを語る者とされたいと思った。主よ、どうかあなたがわたしに語って下さい。御言葉を与えて下さい。そして幻を見せて下さい。大胆に語ります。正直に語ります。どうかあなたの御言葉を教え、また幻を見せて下さい。語らせて下さい。
聖霊によって祈る。祈りの時に、聖霊様が助けて下さる。聖霊様が働いてくださる。聖霊様が導いて下さる。聖霊様が教えて下さる。その聖霊様のお働きによって祈ること。主よ、教えて下さい。聖霊様によって祈ることを教えて下さい。もっともっと味わわせて下さい。聖霊様、祈る時に、あなたによって祈るということがどういうことなのか、教えて下さい。聖霊様、導いて下さい。聖霊様、わたしの心を守り、導き、きよめて下さい。きよい歩みをさせて下さい。
わたしたちは聖霊様に対して、語ることを許されている。聖霊様が働いてくださるように宣言することが許されている。ならば、「息に預言して言え」と言われているならば、そのようにしないのはもったいない。そのようにしないのは主の働かれるのを妨げてしまう。聖霊よ、どうかわたしのうちに吹いてください。わたしの内側を生かし、また教会の中に吹いてください。私自身を生かして下さい。また教会の一人ひとりを生かして下さい。教会全体を生かして下さい。聖霊様の自由な働きを拝させてください。主よ、あなたが言われたことに感謝します。あなたの言われたように、聖霊様に願い、聖霊様に働いて頂くことができますように。
本当にそうだなあと思った。それが喜びだと思った。主よ、どうか一人ひとりの方々を支えてください。特に遠い地に旅立って行かれた方々、遣わされていった方々の歩みをお守り下さい。どうか一つ一つの誘惑からお守り下さい。どうか主がお支え下さい。御言葉を語って下さい。わたしたちにとっては御言葉を語られることが問題に対する最高の答えです。最高の解決です。どうかあなたの御言葉をお与え下さい。わたしの祈りを毎日導いて下さい。あなたが祈るべきこと、祈るべき方、教えて下さい。どうか一人ひとりが主によって支えられ、歩んでおられるニュースを聞かせて下さい。