あなたのみ言葉はわが足のともしび、
わが道の光です。

8月31日(火)

「主が岩を開かれると、水がほとばしり出て、かわいた地に川のように流れた。」(詩篇105:41)

岩には水がある。そこには水がたたえられている。しかし、わたしたちはそれを知らない。表面的なところだけを見て、そこはかわいた地であると思い、そこには水がないように思う。でも、本当はそこに水が準備されている。主がその岩を開かれると、そこから水がほとばしり出て、そこから川が流れ出て、わたしたちを潤す。主がわたしたちを潤してくださる。主よ、わたしがそこはかわいた地で、水がないと思いこんでいるところにあなたが水を準備していてくださること、心から感謝します。どうか、そのことに気付かせてください。あなたがそこに水を準備しておられることにわたしの目を開いてください。そして、水を頂くことができますように。岩からの水ではないと味わうことのできない喜びを、感謝を与えてください。

「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」(コリント人への第二の手紙9:6)

主よ、わたしが豊かにまく者になれますように、あなたを信頼して、たくさんささげる者となりますように。すぐ自分を守りたくなります。自分の経済を守りたくなります。それはあなたが豊かに与えてくださるお方であることを本気で信じていないからではないかと思います。どうか、主よ、あなたを信頼して、思い切って捧げることのできる者としてください。豊かに刈り取らせてください。与える喜びを与えてください。受けるより与える方が幸い、ということをもっともっと経験させてください。

8月30日(月)

「われらはその民、その牧の羊である。」(詩篇100:3)

わたしは主のもの。主の羊。迷いやすい羊。弱い羊。自分勝手な羊。でも、このわたしが主のものだという恵み。主のものだと言って頂ける喜び。ああ、何てありがたいことなんだろうか。何て、幸いないことなんだろうか。主よ、あなたがわたしのことを、「あなたは私のものだ」と言って下さること、本当に感謝します。あなたのものとされたことを心から感謝します。どうか、わたしを守って下さい。わたしは弱い羊なのです。愚かな羊なのです。わたしを導き、わたしの行く道、いつでも、「こっちだよ」と教えて下さい。あなたのものであることを喜ばせて下さい。あなたのものとされたことに感謝します。

「聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て・・・」(コリント人への第二の手紙8:4)

自分自身からささげることを願い出て・・・というところがすごいと思った。義務感ではなく、押しつけられてではなく、自分から願い出て・・・。本当にそのような思いに人々が導かれるようなそのような働きをしたいと思う。なにも要求しない前から、ひとりひとりが主に感謝して、自分自身から、「奉仕に加わる恵み」を経験したいと、その「恵み」を味わいたいとそのように導かれるような、そのようになるように、そのためには本当に福音が語られ、福音が生きられていることが、感謝があふれるようなメッセージが語られることが大切だと思った。主よ、どうかわたしの奉仕を祝福して下さい。わたし自身が義務感ではなく、感謝してご奉仕できるように、わたしの心を満たして下さい。そして、御言葉に語られて、感謝しあふれて喜んで「奉仕に加わる恵み」にあずかりたいと願いがあふれるひとりひとりとしてください。主よ、どうかまず、わたしを変えてください。

8月29日(日)

「主は雲の柱のうちで彼らに語られた。」(詩篇99:7)

主はモーセと語られた。サムエルと語られた。わたし自身もその輪に入れて頂きたいと思った。主との親しい交わりの中に入れて頂きたいと思った。主が待っておられ、主がそれを望んでおられるならば、わたし自身がその思いを持ち、願いを持ち、そして、本当に神様の前にときを過ごすこと、それがどれだけ大切だろうかと思わされた。主よ、どうかわたしをあなたとの交わりに入れてください。どうか時を聖別して、あなたとの交わりを楽しむ者としてください。祈る中で、あなたの語りかけを与えてください。主よ、わたしの思いを捕らえてください。わたしはサムエルやモーセの仲間に入りたいのです。雲の柱のうちに、わたしに語って下さい。

8月28日(土)

「しかし『わたしの足がすべる』と思ったとき、主よ、あなたのいつくしみはわたしを支えられました。」(詩篇94:18)

本当にそうだなあ、と思う。わたしがこのままではダメだと思うとき、神様に喜ばれない思いに囚われそうになるとき、何度、主が守りの手を伸ばして下さったことか。どれほど、主が大きな力で支えて下さったことか。主よ、あなたに感謝します。わたしが足をすべらせそうになったときに、わたしが思い煩いに捕らわれそうになったときに、主よ、あなたはたしかにわたしを支えてこられました。どうか、これからの歩みの中でも、わたしの足を守って下さい。あなたの喜ばれる道を歩むことができるように、わたしの足を支えて下さい。どうか、あなたの守りの中に生かしてください。

「今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。」(コリント人への第二の手紙7:9)

人に物を言うときには、恐れがある。本当にわかってもらえるだろうか。単に傷つけたり、単に関係をこじらすだけではないだろうかと。でも、「愛は恐れを取り除く」。本当の愛は、それを超えて、語るべきことを語らせてくれるのだろう。そして、それが本当に悔い改めにつながってくるならば、どんなに素晴らしいことか。パウロが書いたのも本当に勇気のいる手紙であり、今と違って、反応が返ってくるのは何日も後。何週間もかかっただろうか。その間祈らないではいられなかっただろう。そして、人々がパウロの言葉を受けて、悔い改めに導かれた。それが大きな喜びだった。主よ、どうかわたしを本当の牧会者としてください。語るべきことを語り、本当に愛にあふれた歩みができますように。主よ、どうかあなたの愛を満たしてください。

8月27日(金)

「主はその羽をもって、あなたをおおわれる。」(詩篇91:4)

主が私の上に羽をもって、おおってくださる。そのための条件は「全能者の陰に宿る」ことだという。本当にありがたいことだと思う。うれしいことだと思う。わたしたちが主の許に頼るならば、主の許に身を寄せるならば、主がわたしたちをその羽をもって覆ってくださる。主よ、わたしはあなたに身を寄せます。あなたのところに求めます。あなたが守ってください。わたしを守ってください。どうかあなたの守りを与え、あなたが本当にわたしたちを守って下さる方であることを経験させて下さい。本当に次の苦しみの時に、次の困難の時に、すぐにあなたに身を寄せることができますように。

「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。」(コリント人への第二の手紙6:2)

本当にこの事をいつもいつも意識し、いつもいつも語っていくことの大切さを思わされた。今度の日曜日にも、本当にこの事を覚えていたいと思う。主が与えて下さる日であり、主が与えて下さっている時なのだ。「もう遅い」と言うことになる前に、本当に人々が主を信じ、主に従って歩んでいけるように、主よ、どうかわたしを用いて下さい。わたしの唇にあなたのメッセージを与えて下さい。主よ、どうかわたしを整えて、あなたの器として下さい。そして、救われる方々が起こされますように。救いの日である今、救われる方々が起こされますように、次々と起こされますように。

8月26日(木)

「あなたはわが父、わが神、わが救いの岩」(詩篇89:26)

今まで何の気もなく、使ってきたし、聞いてきた「救いの岩」という言葉。どういうことなんだろうかと思った。調べてみると、protecting rockだそうだ。わたしたちを囲み、守る岩。嵐の中で、敵に攻められる中で、隠れる岩。動かないもの。不動の力。主はわたしにとってそのようなお方だ。そのようなお方としてわたしと共にいて下さる。わたしを守ってくださる。主よ、あなたがわたしの救いの岩であって下さることに心から感謝します。わたしはあなたを隠れ場とします。あなたのところに身を寄せる時に、ホッとします。どうか、わたしの心を守り、導いてください。あなたはいつもそこにいて下さいますから、感謝です。どうか、わたしがいつもいつもあなたのことを忘れないように、困った時に、敵に囲まれた時に、すぐあなたのもとに身を寄せることができますように。

「キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。」(コリント人への第二の手紙5:14)

これも実感。キリストがわたしのために十字架に死んでくださった。その愛がわたしに迫ってくる。これは本当に実感。なんてありがたいことなんだろうかと思う。何て素晴らしいんだろうかと思う。だから、キリストきちがいになりたいと思う。「気が狂っているとしたら、キリストのため」って、本当にそのように歩みたいと思った。主よ、あなたの愛に感謝します。イエスよ、あなたがご自分を与えてくださったことに感謝します。聖霊よ、あなたがその愛をわたしの心に届けてくださったことに感謝します。どうか、あなたがわたしの心をあなたの愛で満たしてくださって、わたしの心にも愛を与えてください。

8月25日(水)

「心をひとつにして、み名を恐れさせてください。」(詩篇86:11)

心をひとつにして・・・とは、純粋な心で、嘘のない心で、濁りのない心で、ということだろうか。心をひとつにして主を求め、主に従い、主に聞いていく。心のすべてが主のことでいっぱいになる。そのような歩みをしたいと思う。わたし自身も祈ろう。「心をひとつにして、み名を恐れさせてください」と。主を恐れることで、主に従うことで心を満たしてください。あなたを喜ばせることで、心をいっぱいにしてください。あなたへの感謝で心をいっぱいにしてください。わたしの生活の中で、それを阻むものを取り除き、あなたに従っていくことができますように。

「それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。」(コリント人への第二の手紙4:11)

わたしたちの体に、わたしたちの体の中に、イエスのいのちが現れる。ああ、なんというすごいことだろうか。主のいのちを頂いて歩いていける。ものすごい大きな事だ。心がわくわくしてくるのがわかる。主よ、わたしのうちにあなたのいのちを満たしてください。あなたのすばらしさが、わたしの人生をとおしてあらわされていきますように。そして、それによって、喜びに満たされ、人生が造りかえられる人々が起こされますように、どうか、主が道を開いてください。主が導いてください。主よ、どうかわたしの心を完全に支配してください。

8月24日(火)

「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。」(詩篇84:4)

主よ、わたしもあなたの家に住めることを感謝します。この時代、神殿がありました。あなたの臨在をあらわす場として、神殿がありました。でも、今日、それは必要ではなくなりました。それはイエス様がいつも共にいて下さることを約束してくださり、そして、聖霊様が本当にいつも共にいて、わたしたちを導いて下さるからです。主よ、わたしもあなたの家に住むことができますから、涙の谷を通っても、そこを泉あるところとすることができますね。主よ、どうか、次にわたしが涙の谷を通る時に、本当に「ああ、そうだなあ」と知ることができるように、感じることができるように、主よ、どうか、わたしの心をあなたの臨在で、あなたの慰めで、満たしてください。あなたと共に歩むことができるのを心から感謝します。

「義を宣言する務は、はるかに栄光に満ちたものである。」(コリント人への第二の手紙3:9)

この働きが託されていることが、本当に栄誉だと思う。本当に素晴らしいことだと思う。本当に感謝なことだと思う。なんて素晴らしいことかと思う。「あなたの罪は赦された」とわたしたちは宣言することができる。今度の日曜日も、そのような宣言をしたいと思った。そのような宣言をさせて頂きたいと思った。主よ、どうか救われる方々を起こしてください。あなたを信じてスタートする方々を起こしてください。罪赦されて、喜びにあふれて歩み出す方々を起こしてください。義を宣言する素晴らしい働きを経験させてください。あなたのしてくださったことにを感謝します。あなたがイエス様をわたしたちのために与えてくださったからこそ、あなたがイエスを十字架につけてくださったからこそ、わたしたちの身代わりに与えてくださったからこそ、このような働きをさせて頂くことができるのです。主よ、どうかわたしに罪の赦しの宣告をさせてください。

8月23日(月)

「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。」(詩篇81:10)

主よ、やはりこの言葉がわたしの心に留まりました。わたしは本当に大きくあなたに口を開けているだろうかと思いました。まだまだ、自分の殻に閉じこもり、自分のイメージの中にあなたを閉じこめ、あなたの働きを制限しているのではと思わされます。あなたの大きさ、あなたの力強さ、無限の力を本気で信頼して、歩んでいるだろうかと思わされます。主よ、悔い改め、あなたに求めます。あなたを信頼します。あなたが無限の富をお持ちであり、わたしたちの生き死にをも支配しておられ、あなたにとってはなにも不可能なことがないことを、そして、あなたはわたしに最高のものを与えようとしておられることを信じます。あなたに求めます。あなたに大きく求めます。主よ、あなたが祈りに応え、大きな祝福を与えて下さいますように。教会堂のために、人々の救いのために、あなたに大きく求めます。わたしの家族のために、教会のひとりひとりの為に、その家族のために、最高のものを求めます。平安を求めます。あなたが与えて下さいますように。

「神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。」(コリント人への第二の手紙2:14)

主はわたしたちをとおして、キリストのかおりを、キリストを知ることのすばらしさを放って下さる。わたしたちを用いて下さる。わたしたちのような存在を主は用いて、主のすばらしさをあらわしてくださる。ものすごい感謝を覚えた。ものすごい大きな祝福を頂いていると思った。素晴らしい使命を頂いていることを感じた。主よ、どうかわたしを用いてください。わたしをきよめ、本当に純粋な主のかおりが放たれていくように、わたしのうちにある、自分中心な思い、醜い考え、あなたのすばらしさを曇らせ、感じなくさせてしまうものをすべて取り除き、あなたのすばらしさを、それだけをたたえて歩む生涯としてください。あなたのかおりを純粋に放つ者としてください。

8月22日(日)

「これは彼らが神を信ぜず、その救いの力を信用しなかったからである。」(詩篇78:22)

彼らが信用しなかったのは神の「力」。神様が力ある神で、「荒野に祝宴を設けることができる」ということを信頼しなかった。でも、主は大いなる方だった。あの荒野の真ん中で肉を振る舞われた。本当にすごい神だ。その神を自分は一体信用しているだろうか。いったい、自分は本気で神様の力を信じて歩んでいるだろうか。主よ、どうかわたしの歩みを導いて下さい。あなたを本気で信頼し、あなたの御業を拝見していくことができますように。主がすべてを与えて下さる方であり、わたしたちの必要を満たして下さる方であり、本当に必要なものを与えて下さる方であることを、本当に信じて、本当に経験していくことができますように、主よ、あなたが導いて下さい。

8月21日(土)

「これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。」(詩篇73:3)

この詩人の苦しみの始まりは、高ぶるものを見て、好き勝手なことをして栄える人々のことを見て、「ねたみ」の思いを持ったことだった。それが彼をつまづかせ、苦しめた。ものすごい恐ろしい落とし穴だなあと思う。ねたみはわたしたちを滅ぼす。でも、好き勝手なことをして栄えている人々のことを見ても、平安でいられるとしたら、それはなぜだろうか?自分の祝福を知っているからだ。自分が神から与えられている祝福を知っているからだ。お金、健康、仕事、それらも素晴らしいものだ。でも、それよりも素晴らしいものをわたしは知っている。イエスご自身を知っている。イエスご自身につながって歩んでいける幸いを知っている。それは本当にありがたいことで、幸いなことだ。この事をいつもいつも覚えて歩んでいこう。自分がねたみの海に飲み込まれそうになったら、この事を思い出そう。主よ、どうかわたしをいつもいつもあなたの最高の恵みを持って満たしてください。そして、あらゆるねたみから守ってくださいますように。あなたご自身を喜びとしていけますように。

「わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」(コリント人への第二の手紙1:4)

神に慰められて、その慰めをもって、人々を慰めることができる。だから、もっともっと主から慰めを頂く経験をしていきたいと思った。正直言って、この分野については、自分の弱さ、足りなさをイヤと言うほど知らされている。この聖書の言葉のとおりだとすれば、主ご自身から慰めを頂いて、立ち上がる経験を持てば持つほど、人を慰めるということの意味がわかるのだろう。主よ、どうかわたしをあなたの慰めで満たしてください。そして、あなたに慰めて頂いたその慰めをもって人々に接することができますように。人々に語ることができますように。人々に出会うことができますように。主よ、どうかあなたの慰めをわたしに与えてください。わたしを慰めの器と変えてください。

8月20日(金)

「イスラエルの神、主はほむべきかな。ただ主のみ、くすしきみわざをなされる。」(詩篇72:18)

王のために祈る祈りの中で、最後はやはり神ご自身に目が向けられる。わたしたちの奉仕がどれほど一生懸命のものであったとしても、わたしたちの賜物がどんなに素晴らしいものであったとしても、「ただ、主のみ、くすしき御業をなされる方だ。すべての栄光を主のお返ししよう。主がほめられ、主の御業がたたえられること、それだけを求めていこう。主よ、どうかわたしの心にあなたをほめたたえる思いを満たしてください。あなたがわたしのすべてであり、あなたがわたしの力であることを、わたし達の働きの中心であることをもう一度覚えさせてくださって、あなたがほめられることが自分の喜びでありますように。「主は何て素晴らしいんだろう」と人々がそう言う声を聞かせてください。

「というのは、有力な働きの門がわたしのために大きく開かれているし、また敵対する者も多いからである。」(コリント人への第一の手紙16:8−9)

「敵対する者も多いから・・・」という理由はすごいと思った。頭で考えるのはやさしい。でも、本当に一生懸命働きをしていて、それなのに敵対する者たちがたくさんいるという状況であれば、ほかの所に行った方がいいのではと思ったり、ストレスでおかしくなって、どこかほかの所で心機一転・・・と考えるのが普通だろう。でも、パウロは、敵対する者も多いから、ここでの使命がある、と言った。主よ、お助け下さい。パウロのように言わせてください。万事順調にいっているから、もっとここで奉仕したい、と考えることはたやすいです。でも、本当に行き詰まった時に、本当に困難がたくさんある時に、敵対する人々が多くいる時に、その中で、あなたの御声を聞いて、あなたの御心を探って、そこに従っていくことのできる者としてください。

8月19日(木)

「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。神はわれらの救いである。」(詩篇68:19)

主がわたしたちの荷を負って下さる。時々、自分の使命の大きさや、人々の当然の期待(そう勝手に自分で決めて自分で自分にプレッシャーをかけるところが、自分には子供の頃からあった)に、ひしゃげそうになる。負いきれない自分を見て、自己嫌悪になる。でも、そんな疲れた時に、この御言葉が支えになる。わたしたちの荷を主が負って下さるのだ。主がわたしたちの荷を負って下さる。主は、わたしたちに使命を与えて、「よろしく頼むよ」と送り出される方ではなく、その荷をご自身で負って下さり、わたしたちはその主の御業を見せて頂くためにそこに送られる。主よ、私の荷をあなたが負って下さることに心から感謝します。あなたの御業をもっともっと拝見したいです。私をそこに導いて下さい。あなたが私に見せようとしている御業をなさるところに私を導いて下さい。

「わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。」(コリント人への第一の手紙15:10)

わたしが働くことができるのも、わたしが力一杯奉仕できるのも、ただ、主の恵み。主の恵みなんだ。主が私に恵みを与えて下さるからなんだ。パウロは本当に多くの働きをした。パウロの働きに比べたら(比べる必要なんか元々ないのだけれども・・・)、自分の働きは何だろうと思う。でも、そのパウロも「これは主の恵みなんだ」と言った。主よ、わたしを自己嫌悪から守って下さるだけではなく、高慢の罪からもお守り下さい。わたし自身が自分自身が何かをしたと少しでも思うことがあれば、この御言葉を思い出させて下さい。神の恵みに生きる者としてください。心の底から、「ああ本当に主の恵みによってあるんだなあ」と思い出させてください。心の奥底から、感謝しつつ歩む者としてください。

8月18日(水)

「神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。」(詩篇66:10)

試みに遭う時に、神様がわたしたちを練られるのだと、しろがねを練るようにわたしたちを練って下さる、のだということを、知り、信じて歩むことができるだろうか。本当に試練の中で、そこまで考える余裕があるかどうかわからない。神様に見捨てられたような、自業自得のような気がしてしまうのがわたしたちだ。でも、そんな中で、このような言葉によって、目が開かれるならば、それは幸いだと思う。主よ、どうか、わたしの心を守って下さい。いつもいつもあなたから愛されていることを忘れることがないように、苦しみの中でも、主の愛を疑うことがないように守って下さい。わたしの家族の心を守って下さい。妻も、息子も、娘達も、主が愛をもって共にいて下さることをいつもいつも知っていくことができるように。教会の一人一人、試練の中にいる方々もおられるでしょう。どうか、あなたの愛を知ることができますように。このページをご覧になっているまだ見ぬ方々お一人一人もお守り下さい。

「預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。」(コリント人への第一の手紙14:3)

自分の語る言葉が、人の徳を高めているだろうか、励ましているだろうか、慰めになっているだろうか、と思わされた。「預言」は預かった言葉、と書く。神様から預かった言葉を語るのだ。わたし自身が神から語られて、神から預かって、そして、その恵みの中で、語るのだ。主よ、わたしの言葉が、わたしがあなたから預かって、あなたから与えられて語る言葉が人々の励ましや、慰めとなりますように。そうです、あなたの言葉であれば大丈夫です。わたしが心配しなくても、あなたの言葉であるならば、それは人々の励ましとなり、慰めとなるのです。どうか、あなたの言葉を与えて下さい。あなたご自身が語って下さって、あなたの言葉を伝える者としてください。一つ一つの言葉が、あなたに愛され、生かされたものでありますように。

8月17日(火)

「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」(詩篇62:8)

自分の心を注ぎ出す。どういうことなんだろうなあ、と思う。心を注ぎ出すとは・・・。心にあることを洗いざらいはき出す、ということだろうか。心にある力を全部出して祈る、ことだろうか。それは、やはり、「神がわたしの避け所、休み場」だからだろう。熱い思いを注いで大丈夫なお方。熱い思いを注ぎたくなるお方。主よ、あなたにわたしも心を注ぎだして祈ります。わたしの力を注いで祈ります。わたしの思いを注いで祈ります。主よ、どうかお答え下さい。主よ、あのハンナがあなたに心を注ぎだして祈った時のように、確信を与え、立ち上がらせて下さい。主よ、「時」を与え、あなたに心を注ぎ出す程に祈らせて下さい。

「山を移すほどの強い信仰があっても・・・」(コリント人への第一の手紙13:2)

愛がなければ一切は無益である、という。山を移すほどの信仰がほしいし、そのような信仰で祈っている。でも、自分の中に愛があるだろうか。熱い愛があるだろうか。主がわたしたちを愛して下さったような愛があるだろうか。本当に問われた。今日も子供たちが教会にやってくる。50人の子供たちが教会にやってくる。主よ、今日、愛を与えて下さい。子供たちに対する愛を与えて下さい。愛を伝えさせて下さい。あなたの愛を子供たちに伝えさせて下さい。思いっきり、子供たちと共に過ごす時間を楽しむことができますように。

8月16日(月)

「わが力よ、わたしはあなたにむかってほめ歌います。神よ、あなたはわたしの高きやぐらです。」(詩篇59:9)

この御言葉を何度も何度も心の中で繰り返しているうちに、先週の中高生キャンプのバンガローの建物がfort=とりでという意味であったことも思い出した。あのやぐらのように高くなっていたバンガローを思い出して、あのやぐらのような高くそびえる存在、それも「高きやぐら」なんだから、もっともっと大きな存在、敵の存在も大きいし、ここでは四面楚歌のような状態だけれども、その敵の存在を遙かに越えた高くそびえるやぐら。だから、わたしたちは勇気を出して立ち上がっていくことができる。今日からJOYJOYキャンプだ。本当に主こそわがとりで、わがやぐら、そのことを覚えて、立ち上がっていこう。
主よ、あなたがわたしの高きやぐらです。そのことをこの詩人と共に告白します。宣言します。主よ、あなたが敵の存在、わたしたちを困らせ、落ち込ませ、悩ませるサタンを遙かに越えた大きなお方であり、力強いお方であることを心から感謝します。どうか、今日の一日、そのことを覚えさせて下さい。

「からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり・・・」(コリント人への第一の手紙12:22)

他よりも弱く見える部分が、かえって必要・・・。本当にそのように教会が生きているだろうか。本当に弱く見える部分が、本当に必要であることがあらわされているだろうか。主よ、そのことを教えて下さい。そのことを見せて下さい。そして、主よ、本当に弱さを覚えている方々が「ああ、自分は必要なんだ」と覚えることができるようなことを見せて下さい。本当に主はそのように見て下さり、主がわたしたちの体の中の一つ一つの部分、一つとして不要なところはないように、キリストのからだであるわたしたちの教会も一人一人がかけがえのない存在であることがはっきりと見えますように、教えて下さい。

8月15日(日)

「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」(詩篇55:22)

そうだ、主は正しい者が動かされるのを許されることがない、という。だから、思い煩うことをしないで、ただ、願うことを主に求め、主にゆだねて歩んでいくのだ。主がわたしたちの歩みを導かれるのだから。主が助けて下さるのだから。「あなたの荷」とは何だろうか。家族のこと、教会のこと、一人一人の人々のこと。本当に心に荷がある。さあ、今、自分の荷を主にお任せしよう。主が導いて下さる、主が支えて下さる。自分の願い通りに進まなくても、自分の理想のようにならなくても、でも、主にゆだねていこう。主が私の導き手であるから。

8月14日(土)

「しかし、わたしは神の家にある緑のオリブの木のようだ。わたしは世々限りなく神のいつくしみを頼む。」(詩篇52:8)

これは本当に美しい譬えだ。乾燥地帯での緑のオリブの木。カルフォルニアの情景の中で、この緑の木を想像してみたらいい。本当に美しい譬えだ。そのように生きたいと思う。緑の中で緑の木なのではなく、周りが元気だから、自分も元気なのではなく、周りが盛り上がっているから自分も盛り上がっているのではなく、状況が厳しくても、周りの人々が元気がなくても、自分の内側からの元気で生かされているようなそのような命にあふれた歩みをさせて頂きたいと思った。主よ、あなたを頼ります。あなたに求めます。どうか命にあふれさせて下さい。

「だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。」(コリント人への第一の手紙11:28)

自分を吟味する。自分自身の歩みを振り返り、自分のしていることを見つめる。聖餐式に預かる時に、その上で聖餐にあずかるならば、本当に真実に主の恵み、主の愛を知ることができるだろう。主がわたしたちのために命を捨てて下さったことの意味を知ることができるだろう。聖餐式がもっと意義深いものになるように祈り、備えていこう。主よ、どうか牧会伝道を祝福して下さい。一人一人の心の中に主の愛と恵みが留まりますように。一人一人が主にあって成長していくことができますように。

8月13日(金)

「悩みの日にわたしを呼べ。わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。」(詩篇50:15)

悩みの日があるのは、辛い。でも、悩みの日があるのは恵みでもある。やはり神に目を向けようと思わされるから。もっと祈ろうと思わされるから・・・。ああ、主を信じていて、わたしにはイエス様がおられて良かったなあ、と思わされる。行き詰まって、悩みの中で出口がなくて困っている一人一人にこのイエス様のことを伝えたいと思う。思い煩わないで、心にあることを、主に申し上げなさい。と言われた。本当に主に向かって祈ることができるのは何という幸いかと思う。

「だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」(コリント人への第一の手紙10:24)

他の人の益を求める・・・。これがやはり自分の弱さだなあと思う。何だろうか。いつも自分のことばかり考えている自分がいる。自分のことで精一杯の自分がいる。自由を与えられて、「人に気を遣わないでいいじゃないか」と開き直ってしまった自分がいる。本当に自分のことで精一杯で、人のことを考えられなくて、人を傷つけてしまうことがどれほど多いだろうか。ああ、本当に自由なんだから、その自由を持って、人を愛することができますように。心から人を愛することができますように。無理ではなくて、気を遣ってではなくて、人の益を求める者となれますように。

8月12日(木)

「静まってわたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)

主の前に静まること。静まって主こそ神であることを知ること。今の時代に、どれほど、この「静まる」ということが大切なことだろうかと思う。今の自分に、「静まる」ということがどれほど大切なことかと思う。いつもコンピューターや、携帯電話で、誰かとつながり、どこかとつながっている。でも、本当はそういうモノを全部切って、静まって、神のことだけ、神の前にひれ伏すことだけを思う時がどれほど大切かを思わされる。心が騒ぐ時に、いろいろなことに忙しくしている時に、本当に心を静めて神を思い、神を神とすること。その大切さを思わされた。主よ、あなたの前にひざまずきます。本当にあなたが神であることを知ることができますように。

「なんとかして幾人かを救うためである。」(コリント人への第一の手紙9:22)

自分はそのために何をしてきただろうか。なんとかして、幾人かを救うために・・・。最近、自分が小市民的になりすぎていないだろうかと、思わされる。自分のスタイルや、自分の主義や、自分のからに閉じこもりすぎていないだろうかと思わされる。何とかして幾人かを救うために、歩んでいるだろうか?誰かが救われるためだったら、どんなことでもする、という生き方に生きているだろうか。主よ、もう一度燃やしてください。熱く燃やしてくださって、あなたのことを熱く伝えていく者として下さい。

8月11日(水)

「主よ、起きてください。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。」(詩篇44:23)

主はいつも起きておられて、わたしたちのために御業をなしてくださっている。だから、この言葉は間違っている。でも、間違っているけれども、このような思いになることはある。主はどうして・・・という思いになることがある。なぜ眠っているのですか・・・と。主よ、どうか、御業をなしてください。どんどん御業を進めてください。あなたが今も生きておられ、今もわたしたちの主であり、祈りに答えて下さる方であることをはっきりと見せて下さい。あなたの奇跡を次々と行って下さい。どうか、困難な状況の中での救いを与えて下さると共に、困難な状況からの救いを与えて下さい。

「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。」(コリント人への第一の手紙8:1)

そうだなあ。知識よりも愛の方が大切だ。知識も大切だが、愛がなければ、それが何になる?本当に愛の大切さを思う。でも、自分の愛のなさをもっと思わされる。自分は愛のない人間だなあと思う。そんな人間が牧師をしているのだから、大変だと思う。本当に、主が選ばれたのだから、そこに信頼していくしかないんだけれども、本当に主が力を与えてくださり、主が私の弱いところに完全に現れてくださり、御業をなしてくださるしかないんだと思う。主よ、どうかわたしの歩みを導き、あなたの愛を与えてください。人を愛する愛を与えてください。あなたを愛する愛を与えてください。

8月10日(火)

月曜日から、水曜日まで中高生キャンプに行って来ました。守られて、祝福されて、帰って来れて、心から感謝。そして、神様がこれからして下さることに期待します。金曜日にまとめて更新です。

「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」(詩篇42:11)

心乱れることがある。心悩むことがある。うなだれることもある。だから、この言葉がわたしの心に響く。主を待ち望め!主に期待するのだ。あの谷川の鹿が水を求めるように、水を慕い求めるように、主を求めるのだ。主が解決を与えてくださる。わたしに大切なのは祈りつつ、人々に触れることだ。祈りつつ、人々を真実に、真剣に愛することだ。ご機嫌を取ったり、期待にこたえるのではなく、主に祈りつつ、真実に人に対することだ。人を愛することだ。主よ、愛することを教えてください。人を愛することがどういうことかを教えてください。

「各自は、主から賜った分に応じ、また神に召されたままの状態にしたがって、歩むべきである。」(コリント人への第一の手紙7:17)

主から賜った分、という言葉が心に留まった。主から賜った分がある。その環境、生まれた家庭、など。それは「主から賜った分」なのだ。昔から、「牧師の家庭に生まれたなんて恵みだ」と周りから言われると、何かイヤな感じがした。客観的にはそうなんだろうし、今はそうだと思っている。でも、やはり人から言われると、「そんなことはない」と思っていた。いまも、頭ではわかっているんだけれども、本当に心からそう思ってこなかったんだろうと思う。だから、この聖書の言葉がわたしの心に語りかけてきたんだろうと思う。主から賜った分なんだよ、と。たまたまそうなったんじゃない。主がわたしにとって最善のものを与えてくださったのだ。だから、感謝していこう。この人生を与えられていることを、そして、ここに生かされていることを・・・。

8月9日(月)

「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。」(詩篇37:7)

いろいろな戦いがある中で、どうなるのだろうかということの中で、本当に主を待ち望み、静まって主を求めて歩んでいくようにと命じられたように思う。主が、とにかく静まれ!と語っておられるように思った。主よ、どうかわたしが本当に静まる時を大切にすることができますように、静まってあなたを待ち望んで答えを貰っていくことができますように。とにかく祈っていくことができますように。主よ、お助け下さい。心を静めて神に祈ります。神に助けを求めます。

「自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(コリント人への第一の手紙6:20)

主よ、わたしは自分のすべてをもってあなたの栄光をあらわしたいと思う。わたしの心だけではなく、言葉だけではなく、すべてをもってあなたの栄光をあらわしたいと思う。主よ、どうかわたしを導いて下さい。わたしを熱くして下さい。本当にすべてをもってあなたをほめたたえ、あなたを賛美致します。あなたのすばらしさをほめたたえます。どうか、わたしを用い、あなたの栄光をあらわさせてください。わたしの心を捕らえようとするすべてのものを取り除き、あなたのことで一杯にしてください。人々への愛で満たしてください。今日から始まる中高生のキャンプを祝福し、あなたの素晴らしい御業を見せてください。

8月8日(日)

「正しい者には災いが多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。」(詩篇34:19)

正しい者には、困難がいろいろ来るという。今まで、自分は余り困難の多い方ではなかったと思う。「正しい者」ではなかったのだろうか?もっともっと主を求め、主とともに歩んでいく時に、これから主にもっと近く歩いていく時に、もしかしたら、もっともっと困難がやってくるのかも知れない。でも、その中から、主はわたしたちを助け出して下さるという。助け出して下さるのだ。次に困難が襲ってきた時に、そのことを思い出そう。そのことを覚えよう。困難の中から主が必ず助け出して下さる、と。

8月7日(土)

「あなたはわたしのために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、喜びをわたしの帯とされました。」(詩篇30:11)

嘆きの中にいる時に、悲しみの中にいる時に、主は喜びを与え、踊りを与えて下さるという。主がわたしたちに喜びと踊りとを与えて下さる。でも、悲しみの中にいる時には、なかなかそのことがわからない。そのことが見えてこない。そのことが信じられない。でも、わたしたちは主に叫ぶことができる。「主よ、聞いて下さい」と。「わたしを憐れんで下さい」と。主よ、どうかわたしにあなたとの太いパイプを与え、困難の中で、悩みの中で、不安や恐れの中で、あなたに叫び、あなたから平安を頂き、あなたが嘆きを踊りにかえて下さるのを見ることができますように。

「新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。」(コリント人への第一の手紙5:7)

きよさを求めて行くことの大切さを思わされた。今時、排他的なような感じがして、余りよく思われないことかも知れないけれども、聖書にはっきりと書かれている。個人の生活の中で、教会の中で、きよさを求めていく、その態度が、その姿勢が大切だと思わされた。主がどうかわたしをきよめてください。わたしの心の中から古いパン種を全く取り除き、新しい粉の固まりにして下さい。教会の一人一人もそうです。一人一人がきよめられ、罪から自由にされますように。あなたのきよさを求める者にして下さい。

8月6日(金)

「たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。」(詩篇27:3)

人々が攻めても、また、戦争が起こるようなことがあっても、嵐の中でも、主が共にいて下さるのなら、それはわたしたちの力であり、支えである。なおわたしはみずから頼むところがある・・・これはとてもパワフルな言葉だ。どんな状況の中でもわたしには主がおられる。主が私の味方である。本当にそこに立つことができる幸いを感謝しよう。主よ、あなたが最後の砦です。いや、唯一の砦です。どうか、あなたの御手でわたしを守って下さい。

「神の国は言葉ではなく、力である。」(コリント人への第一の手紙4:20)

第1コリントは大切な書物だと思う。言葉だけの働き人になってはいけないと思う。本当に神様の力をいただいて歩んでいきたいと思う。主が私の味方なのだから、主が私を支えられる方なのだから、本当に神様の力をいただいて、前に進んでいきたい。主の力に満たされて歩んでいきたい。聖霊よ、あなたがくだる時に、わたしたちは力を頂けると聖書にあります。イエスの約束です。どうか、力をわたしの内側に満たし、あなたのことを証させて下さい。あなたのことを語らせて下さい。あなたのすばらしさを伝えさせて下さい。

8月5日(木)

「わたしのさんびはあなたから出る」(詩篇22:25)

主がわたしたちの唇に賛美を与えてくださるお方。賛美させてくださるお方。賛美の源はわたしではなく、わたしたちの心がけではなく、わたしたちの真実ではなく、主ご自身。主がわたしたちの口に賛美を授けてくださるのだ。そして、その賛美によって私自身が導かれ、心が励まされる。主が本当にわたしの賛美を導いてくださることに感謝しよう。主が賛美を与えてくださることに感謝しよう。もっともっと主を賛美しよう。もっともっとほめたたえよう。わたしは御言葉と祈りのために召されたのだから・・・。

「この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。」(コリント人への第一の手紙3:19)

聖霊による知恵。昨日の箇所から、そのことに深い興味を与えられた。この世の知恵でなく、「こうすればああなる」ということではなく、だた、聖霊様が語って下さること、聖霊様が与えて下さること、それを求めて、「それが与えられた!」という確信の中に歩んでいきたいと思う。聖霊よ、どうかわたしに語って下さい。わたしに教えて下さい。どうか、御父の心にあることを、僕に教えて下さい。そして、聖霊様の与えて下さる知恵によって歩む者として下さい。会堂のこと、伝道のこと、将来のこと。どうか、主よ、わたしに語って下さい。

8月4日(水)

「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る。」(詩篇20:7)

本当にそうだ。自分には今誇れるものは何もないことを感じている。性格とか、能力とか、だから、主だけが頼りだ。主だけが誇りだ。主よ、あなたとの交わりをもっともっと豊かなものとして下さい。あなたとの関係に生きる者として下さい。主がわたしに語って下さって、あなたに語られた喜び、あなたとつながっている喜びに着させて下さい。主よ、どうかわたしにあなたの命を注いで下さい。注ぎ続けて下さい。わたしがあなた以外のものを頼りにしたり、誇りにしたりすることがないように、その必要がないように守って下さい。

「御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。」(コリント人への第一の手紙2:13)

聖霊様が言葉を与えて下さる。聖霊様がわたしのうちに働いて言葉を与えて下さる。聖霊様が神のみこころをわたしのところに運んで下さる。聖霊様、どうか、御言葉をお与え下さい。わたしに語って下さい。神のみこころの中にあることを教えて下さい。わたしは主の導きに従いたいのです。主よ、あなたのみ思いを教えて下さい。語って下さい。わたしがこれからの歩みでどのように歩んでいくのか、何をしていくべきなのか、主よ、どうか教えて下さり、それを実現させて下さい。

8月3日(火)

「あなたのほかにわたしの幸はない」(詩篇16:2)

このように言うことのできることは、すごいことだと思う。いろんなものに目を奪われ、「これがあれば、もう快適になる、あれもできる、これもできる」と思い、実際買ってみると、それは大したことがなかったり、実際便利だと、それに振り回されてしまったり、でも、本当の幸いは、主と共にあることで、神様のうちにある喜びを知ることができたことは、本当に大きな幸いだと思う。もし、これがなかったら、自分はどんな歩みをしているだろうかと思うと、少し怖くなる。本当に主と共に歩めて感謝。どうか、主よ、あなたと共に歩む喜びを証ししていく者、証しして歩んでいく者となりますように。

「誇る者は主を誇れ」(コリント人への第一の手紙1:31)

誇るなら、主を誇れ・・・と。自分ではなく、自分のした何かではなく、自分の能力ではなく、あなたのことを誇ることができる。主のことだったら思いっきり誇ることができる。何か遠慮がちにではなく、思いっきり誇ることができる。それは何というすばらしいことだろうかと思う。これからももっともっと主のことを誇ろう。主のことを誇りとしてあゆんでいこう。主がわたしたちのために素晴らしいことをしてくださっているのだから・・・。主イエスはわたしたちのためにいのちをも与えてくださったのだから・・・。そのことを思い切って、心から誇っていきたい。

8月2日(月)

なかなか生活のリズムがはっきりできあがらない中にいます。更新は4日。来週は中高生キャンプ、その次の週はJOYJOYキャンプと、リズムがまた崩れそうな感じですが、今週の後半は毎日更新できるようにと祈ります。

「主はわたしを豊かにあしらわれた。」(詩篇13:6)

普通、「あしらう」という言葉はいい意味に使われない。「軽くあしらう」という感じだ。でも、ここでは、主はわたしたちを豊かにあしらわれる、という。「取り扱う」ということだろうか。主はわたしたちのことを豊かに取り扱ってくださる。この詩の前半では、「主が私を忘れている」という気持ちを歌っている。わたしたちはまさにそう思う時がある。でも、本当はそうではない。願うようなことがなかったとしても、願いとは反対のようなことが起こっても、主がわたしたちを豊かに扱ってくださる。豊かなものを与えてくださる。そこに信頼していくことができるとは、そこを信じていけるとは本当に幸いだと思う。主よ、どうか、あなたの豊かなわたしたちへの扱いを、もっともっと見せてください。

「悪には、うとくあってほしい」(ローマ人への手紙16:19)

本当にバカでありたい。主にあって、悪いことに対して、罪について、知らなくていいことを知らない、そのようなものでありたい。バカにされようが、不器用だといわれようが、罪については、疎くあっていい。本当に知らなくていい。今まで、主が私を守ってくださったことに感謝しよう。これからも主よ、お守り下さい。純朴に、主に従っていくことができますように。純朴に主を信頼していくことができますように。主よ、お助け下さい。あらゆる悪から、あらゆる罪からわたしをお守り下さい。

8月1日(日)

8月になりました。日本の方々には「まだまだ甘い」と怒られそうですが、NJでもここ2,3日、蒸し暑い日が続いています。でも、今月後半からは秋風が吹き、転げるように秋になっていくのでしょうが・・・。でも、夏には、早く秋が来ないかなあ、と思うものです。四季があることに感謝しつつ。

「主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。」(詩篇12:6)

苦しみの中で、敵が迫りくる中で、やはり御言葉がこの詩人を支えた。御言葉が味方だった。御言葉によって敵の働きが止められるのを確信し、自分が守られることを確信した。御言葉が与えられて、御言葉によって生かされて、それが本当に必要だと思った。主よ、どうか、御言葉を語って下さい。御言葉によって生かしてください。御言葉が語られて、御言葉によって生かされて、支えられる自分自身でありますように。また教会の一人一人がそのように生かされていきますように。主よ、お助け下さい。今日の日曜日も、御言葉によって一人一人が生かされる経験を与えてください。

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