人はパンだけで生きるものではなく、
神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものである。

4月30日(金)

「人々の前で、わざと挙動を変え、捕らえられて気が変になったふりをし、門のとびらを打ちたたき、よだれを流して、ひげに伝わらせた。」(サムエル記上21:13)

ここまでして、サウルの手を逃れたダビデ。どんな思いだったのだろうかと思う。羊飼いをやっていた方がよっぽど良かったのではないだろうか。ねたみの渦に巻き込まれて、逃げ回って、気が狂ったかのような振りをして・・・。でも、これもすべて「油が注がれた」という王されるという使命を負ってのことだった。すでに油を注がれて、王として準備されている中で、このようなところへと導かれた。それが決め手だ。本当に主から使命を頂いて歩んでいれば、どんな状況の中でも、歩んでいくことができる。歩み続けることができる。主よ、わたしを使命に生きる者としてください。あなたの与えられる使命に生きる者としてください。

「ああ、なんという不信仰な曲がった時代であろう。」(ルカ9:41)

自分も本当に不信仰だなあと思う。主を信じて、主を求めて、歩んでいきたい。主よ、今、祈りを導き、奇跡を拝させてください。

4月29日(木)

「神の霊はまた、彼にも臨んで・・・」(サムエル記上19:45)

神様の霊が、神にそむく者たちにも、神に従いきれない者たちの上にも注がれる。そのような圧倒的な働きを拝見したいと思った。そのような圧倒的な力を拝見したいと思った。主よ、どうかあなたの力に生かし、あなたの恵みに歩ませてください。御霊の働きの現れを拝させてください。

「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」(ルカ8:25)

がつーんと殴られたような気がした。「おまえの信仰はどこにあるんだ!」と。寝ているイエスさまに「起きてください」と言う者たちさえ、そんなこと言われる・・・。「わたしがいるから大丈夫だってわからないのか!」と言われてしまうのだ。ああ、主に信頼していこう。思いっきり信頼していこう。安心して大船に乗っていこう。感謝。

4月28日(水)

「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。」(サムエル記上17:45)

ダビデにとって、これは本当に小さな者が大きな者に立ち向かう戦いだった。でも、彼は絶対的な信頼を主に持っていた。だから、それが不安で、「神様助けてくださーい」というものでもなかった。「主が助けてくださるんだから・・・」という本当にある意味無邪気で、兄たちからするなら、「おまえいい加減にしろよ」と言われるようなもので・・・でも、本当に主を信頼して、勝利を得た。それも、仰々しい鎧を着ていったのではなく、いつもの慣れた石投げを持っていったのであった。やはり毎日の主との関係、毎日どのように歩んでいるかが問われているのだと思わされた。主よ、あなたを信頼して、「恐れることはありません」と自ら宣言して歩む者へとしてくださいますように。

「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない。」(ルカ7:47)

主が私達のためにしてくださったことを本当にわかるのは、「赦された」「たくさん赦された」事がわかったときだ。主がたくさん私達を赦してくださったことがわかったときに、本当に主を愛することができるのだ。だから、愛を増して下さい、という祈りは、やはり「わたしの罪がわかりますように」という祈りでもあるのではないだろうかと思う。罪がわかったときに、愛がわかる。本当だと思う。罪深さに打ちのめされたときに、主の憐れみ深さがわかる。主よ、どうか、わたしをあなたの愛の中に生かしてください。あなたがどれほど大きな愛を注いでいるか、もっともっとわかる者としてください。

4月27日(火)

「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされました。」(サムエル記上15:17)

いつも語られる言葉だけれども、今日はいつもと違うことを感じさせられた。責任の重さがわかっていない愚かさを反省させられるよりも、主の与えてくださっている力、与えてくださっているメッセージのすばらしさに感謝を思わされた。主が私達にその力を与えてくださっている。油を注いでくださっている。そう、主が油を注いでくださっている!!!本当に自分は小さな存在だと思う。でも、主が油を注いでくださっているのだから、主が聖霊様を与えてくださっているのだから。聖霊様によって生かされているのだから、本当にその使命に立たせて頂きたい。主よ、どうかわたしを守ってください。今日の一日も誘惑や罪から守り、あなたのメッセージを語る者としてください。心の触れあうような経験を与えてください。あらゆる恐れから解放してくださって、あなたのメッセンジャーとして用いてください。

「心からあふれ出ることを、口が語るものである。」(ルカ6:45)

これは、またすごい言葉だ。心からあふれ出るものが口から出るものだったら、もう、それは心の中を主に満たして頂くしかないじゃないか、と思う。本当に主に満たして頂きたいと思う。主によって満たされて、初めて出ていくことができる。主に満たされて、初めて進んでいくことができる。主よ、どうか私の心を満たしてください。あなたの愛で満たしてくださり、あなたの喜びで満たしてくださり、あなたの慰めと、あなたの力で満たしてください。主よ、どうか私の心に触れてください。あなたを待ち望みます。

4月26日(月)

「多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである。」(サムエル記上14:6)

主にとっては多くの人をもって救うことも、少ない人をもって救うことも同じなのだという。私達はたくさんの人が与えられると、主に感謝して、いろんな働き、多くの収穫がある、と思っている。でも、主にとってはそれは同じなのだと。多くの方々が与えられるとそれは大きな感謝だ。それも主によって与えられているのだ。でもそうでないときに、本当に主に頼ることを教えられ、主の奇跡を見せて頂くことを教えられるのではないだろうか?主よ、今日、本当にあなたを信頼します。どうか、あなたの御業を見せてください。わたしにあなたの御心を教えてください。あなたのことを伝えることができますように。お伝えすることができますように。

「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。」(ルカ5:31)

自分がここに導かれたのも、自分がここに置かれているのも、このような時のためだったのではないか。楽しいことをするため、楽しいことを通して人々を主の御許に導くことだけではなく、本当に行き詰まっている人々、解決が見えなくなっている人々、そういう人々を主の許に導く事ではなかったのか。視点を変えて、本当に今助けを必要とする人々、痛みを覚えておられる方々、その所へと出て行こう。主がわたしをそのために用いられようとされている。主よ、あなたが遣わしてくださるのでしたら、あなたが道を示し、言葉を与え、主よ、あなたが御業をあらわしてくださいますように。わたしのような痛みを知らない者は、まさにあなたに頼るしかないのです。あなたの御業を求めるしかないのです。主よ、お願いします。

4月25日(日)

「また、わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、決してしないであろう。」(サムエル記上12:23)

人々のために祈らないことが「罪」と。祈りが足りなかったことを示された。本当に祈ってこなかったことを示されている。何度もそのことを思わされてきている。でも、今日は本当に違う。昨日、礼拝のために準備をしている中で、一つの祈りの課題について祈らされている中で、今まで、本当に神様が必要で、神様の奇跡が必要で、神様の力が必要である、と言うことを本当の意味で感じていなかったのだと示されたのだった。自分の今まで積み上げてきたもの、自分の経験してきたこと、家族の存在、そして、素晴らしい教会の方々の存在、そして、自分の力、そんなものに頼っていて、それらがあるから、本当の意味で神を頼ることをしてこなかったのだと。でも、今本当に祈らなければいけないことを思い知らされている。神様の御業が必要なことを示されている。自分の力の限界の前に、無力さの前に、愚かさの前に、立たされている。主よ、本当にあなたが必要です。祈ります。

4月24日(土)

「これらのしるしが、あなたの身に起こったならば、あなたは手当たりしだいになんでもしなさい。神があなたと一緒におられるからです。」(サムエル記上10:7)

神が共におられるときに、神が豊かに働かれるときに、手当たりしだい、何でもすることができる。それが許されている。そのように主に近く、主とともに歩むことができる者としてくださいますように。主が私を支え、大きな事をしてくださいますように。一つ一つのことについて、主が導きを示し、なすべき事が示され、その力が与えられ、そして、それが人々に伝わりますように。主よ、わたしを憐れんで下さい。あなたの僕として、用いて下さい。主よ、どうかわたしのなす事を祝福して下さい。そのために、いつも独りよがりなこと、身勝手なこと、自己中心的なことからわたしを守って下さい。

「主はわたしをつかわして」(ルカ4:18)

主の弟子である、私達もこの言葉のように、主に遣わされたものである。主に召し出されて、主に呼び出されて、遣わされた者である。メッセージを携えて、福音を携えて、遣わされた者である主よ、どうか弱い、愚かなわたしを助けて下さい。あなたが与えて下さる自信が必要です。あなたにある確信が必要です。メッセージを確かに持って、語る者としてください。主よ、わたしを憐れみ、わたしを用いてください。

4月23日(金)

「われわれのため、われわれの神、主に叫ぶことを、やめないでください。」(サムエル記上7:8)

この叫びを、私自身への叫びとして聞いた思いがした。人々が私の祈りを必要としている。私が主に叫ぶことを必要としている。私だけではない、クリスチャンの祈りを必要としている。神に祈るすべを知らない人々が私達クリスチャンが主に叫ぶことを求めている。とりなしの祈りはクリスチャン仲間のためだけではない。そのためにではない。私達がとりなし手となって、祭司となって、祈るすべを知らない人々のために、その救いと神の力とを求めなければならない。主よ、私をとりなし手として、召してくださったことに感謝します。どうか、その使命を果たさせてください。人々の永遠の命のために働く者としてください。手を挙げて祈る者としてください。

「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(ルカ3:16)

聖霊と火とによるバプテスマ。ペンテコステに教会に注がれたバプテスマ。それによって今も教会が生かされている。でも、本当にそこに生かされているだろうか。名目的な、歴史的なつながりによる、「私達も聖霊のバプテスマを受けている」というのではなく、本当に聖霊様の圧倒的な御業を拝見させて頂きたいと思う。圧倒的な聖霊様の御業によって、生かして頂きたいと思う。主よ、私を聖霊様によって満たしてください。聖霊様、私のうちにあふれて、今日、出会う人々に御業がなされますように。今日の集会をあなたのあふれる場としてください。あなたの働きを待ち望みます。

4月22日(木)

「その次の朝また早く起きて見ると、ダゴンはまた、主の箱の前に、うつむきに地に倒れていた。そしてダゴンの頭と両手とは切れて離れ、しきいの上にあり、ダゴンはただ胴体だけとなっていた。」(サムエル記上5:4)

痛快だ。神の箱の前で、偶像が倒れて、体がバラバラになっていたなんて・・・。本当に痛快だ。昨日の箇所では、神の箱を戦争に勝つために利用しようとしていた人々に対して、それがむなしいことを示された。奪われた神の箱。でも、その神の箱は決して無力ではなかった。人の手を離れ、人に利用されることを離れた神の箱は、神の力を表わした。本当にものすごい力だ。主よ、わたしがあなたを利用することがないように、そして、主の御業を拝する者としてください。主の大きな御業を見せてくださいますように。主の大きな御力を見せてください。主よ、リバイバルのために立ち上がってください。今、本当に霊的なbreakthroughが必要です。主よ、私を造りかえ、教会を造りかえ、求道中の方々が救いへと導かれますように。

「そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。」(ルカ2:1)

旧約の力強い神を見た後で、このルカによる福音書2章を読むと、ものすごい落差を感じる。皇帝の権力の下で、幼子として生まれたイエス。その時代の中に、小さな小さな幼子として生まれたイエス。その誕生が世界をひっくり返すような、時代をその前と後で二つに分けるようなそんな大きな出来事であったと誰がわかったであろうか。そこまで小さくなられ、そこまで低くなられた神に感謝したい。そのような子をその胎に宿したマリヤの思いも思わされた。低くなられた神に感謝。主よ、あなたが私達と共におられることに感謝します。

4月21日(水)

「なにゆえ、主はきょう、ペリシテびとの前にわれわれを敗られたのか。」(サムエル記上4:3)

この人々は、戦いに負けたときに、その理由を求めたけれども、悔い改めようとはしないで、「神の箱さえあれば」と神を利用しようとした。本当に悔い改めが大切だと思った。単に神を味方にして、利用して、いいことをしてもらおうと、自分たちのために神に助けてもらおうとして、それだけだった。自分自身、主の前に悔い改めるべきことはないだろうか?祈りの姿勢、伝道の姿勢、主を第一として、主から聞きながら、歩んでいきたいと思った。主よ、あなたを信じる人々が起こされますように、そのために私を整え、あなたのご用のためにお用いください。

「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。」(ルカ1:49)

マリヤはこの時、いろいろな困難を前にしていた。社会の目、ヨセフの誤解、それらをも覚悟しなければならなかった。でも、その中で、彼女は「主がしてくださった大きな事」の方に目を留めていた。主が自分のことを心にかけてくださっている、ということのすばらしさ、喜びを感じないではいられなかった。主よ、私もあなたに目を留めて頂いていることに心から感謝します。どうか、私の歩みを喜びで満たしてください。賛美を唇に与えてください。

4月20日(火)

「ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。」(サムエル記上1:15)

主の前に心を注ぎ出すような祈り、この時ハンナは本当に必死だった。それが心を注ぎ出す祈りとなった。毎朝毎朝の祈りの中で、心を注ぎ出すような祈りをしよう。そして、それを受け止めて下さる主がおられることがものすごいことだ。単に心にあることを口に出すだけではなく、口にするだけではなく、祈るときに、主が聞いて下さる。そして答えを与えて下さる。毎朝の祈りの時を「心を注ぎ出す」時としよう。主の許で安らぎ、主の許で答えを頂き、主の許で新しい出発をして歩んでいこう。ハンナが立ち上がったときに、もう悲しげな顔ではなかったように、主の許で解決を頂いて立ち上がって一日をスタートしよう。

「石はすでにころがしてあった。」(マルコ16:3)

イエスの復活の力によって、石はすでにころがされている。石はすでにころがしてある。感謝。

4月19日(月)

「そんなことをすれば嗣業を失います。」(ルツ記4:6)

この人にとって何が問題だったんだろう。やはりルツが異邦人であったことだったのだろうか。ルツを妻とすることのリスクを考えると尻込みしないではいられなかったのだろう。でも、それに比べて、主が私達のためにして下さったことは何だろうかと思った。主はどれほどのことをして下さったのだろうか、と思った。主が私達のためにして下さったことは何て大きいことだったのだろうか。何て大きな犠牲を払って下さったのだろうかと思った。主が私達を買い取るために多くの犠牲を払い、今も私達が主の花嫁であることを喜んでいて下さる。そのことに心から感謝したい。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34)

マルコが、ルカやヨハネが書き残した十字架上のイエスのいくつかの言葉を全く残さないで、この言葉を残したのはどういうことだったのだろうかと、この言葉はどれほど重い、どれほど大切な言葉だったのだろうかと、思わされた。イエスが神に見捨てられた存在となられた。たとえそれが一時的なことであったとしても、それを、私達を救うためにして下さった。主はどれほど大きな犠牲を払われたことだろうか。どれほど大きな犠牲を払われて、あの十字架にかかられたことだろうか。ルツ記に思わされたことと合わせて、心から感謝が出てくる。ハレルヤ!

4月18日(日)

「どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように。」(ルツ記2:12)

ルツ記は本当に主の恵みを語っている書だ。はからずも・・・という言葉が2:3にあるがそれが本当に象徴的な言葉だ。でも、もし、ルツの方に何かあるとすれば、主を慕って、その翼の許に身を寄せようとしたことではないだろうか。主の許に行き、主に求め、そこで生きることを選んだことではないだろうか。主よ、わたしもあなたに求めます。あなたに期待します。あなたが働いて下さること、あなたが御業をなして下さることを求めます。今日の礼拝も祝福してください。今日、「エマオへの道」を読むけれども、この「エマオ」は「あたたかい井戸」つまり、温泉なのだ。日本人だからこんなことを言うのだけれども、私達も、失望の中で、癒しを求めて「エマオ」に行こうとしていないだろうか。その道の途上で主が会って下さる。ルツ記を読みながら、ああ、ナオミの歩みはまさにそのような歩みだったなあ、と思わされた。そこに一つ、神の御業を引き寄せる何かがあるならば、このルツの「その翼の許に身を寄せようとする」ことではないだろうか。自分の力ではなく、主に頼り、主から力をいただいて歩み出そう。

4月17日(土)

「おのおの自分の目に正しいと見るところを行った。」(士師記21:25)

士師記がこの言葉で締めくくられていることに、神様の御思いを思わされる。どんな思いで主は人々を見ておられたのだろうかと。そして、今、自分はここで、本当に主に従っているだろうかと。主に従い、主に聞き、主に教えられているだろうかと。主よ、どうかわたしに語って下さい。自分の目に正しいと思われることではなく、あなたの目に正しいと見えることを行うことができるように、主よ、あなたが正しい道を教えて下さい。この士師記の最後はひどいと感じます。ギベアの人々も、イスラエルの人々も、この客になったレビ人も、誰が正義の味方とか、誰が悪者だとか、そういうことでないと思います。主よ、あなたが導いて下さい。あなたが御心をなして下さい。私達があなたの前に罪人として共にひれ伏し、赦し合い、受け入れ合っていくことができますように。

「そう言うあなたが・・・」(マルコ14:30)

偉そうに言う私自身が・・・というわたしへのメッセージ。自分自身、人を裁くようなことができるような者ではない。本当に主の前にへりくだって、主の前に砕かれて、主に赦され、人に赦されて歩むことができることを感謝しつつ歩んでいきたいと思った。主よ、感謝します。今日、語って下さって感謝します。主が語って下さいましたから、大丈夫です。主よ、あなたが私の心を守り、支えて下さいますように。主よ、あなたに赦された者であることを忘れないで、歩んでいくことができますように。

4月16日(金)

「そのころイスラエルには王がなかったので、人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った。」(士師記17:6)

勝手に偶像を造り、勝手に祭司をもち、そして、それによって「主がわたしをお恵みになることがわかりました」と言う勝手さ。神について知っているだけで、神のことを知っているだけで、神のことを信じているだけで、結局神を利用している人々。利用していた人々。でも、本当に注意しなければならないと思った。主に従うこと、主に聞いていくことの大切さを思わされた。主よ、わたしに教えてください。あなたに聞きながら、従いながら歩むことを教えてください。主とともに歩むことを教えてください。あなたが共にあってくださることを信じます。だから、主よ、あなたがわたしを戒めてください。整えてください。あなたのお役に立つ者としてください。

「わたしの言葉は滅びることはない。」(マルコ13:31)

御言葉が今も生きていて、働いている。天地が滅びるような出来事の中でも、天変地異、大変動の中でも、主の御言葉だけは変わらない。時代は変わっていく、考え方も変わっていく、文化も変わっていく、その中で、御言葉だけは変わらない。それが何てすごいことだろうかと思う。何と大きな力だろうかと思う。御言葉の力をもっともっと経験させて頂いて、味わわせて頂いて、御言葉を語って頂いて、その確信の中で歩んでいく者となりたい。主よ、どうかわたしに語って下さい。御言葉によって生かしてください。御言葉を大胆に語る者としてください。

4月15日(木)

「彼の魂は死ぬばかりに苦しんだ」(士師記16:16)

彼は何で「死ぬほど」苦しんだのだろうか。何が「死ぬほど」苦しかったのか。何と何との板挟みになったのか。デリラと神との間だ。神に従うか、人の気に入られようとするか、だ。わたしはこれを読んで、本当にサムソンは愚かだと思う。客観的に見たら本当に愚かだと思う。デリラが何度も「敵が来た」と言って、本当かどうか試しているわけなのに、わかっているのに、教えたらどうなるかわかっているのに、その声に苦しんで、そして、その声に聞いた。愚かだと思う。愚かだと思うが、実際、私自身はどうだろうか。私自身が「どう見ても神様の望んでおられることはこちらだ」ということがわかっているのに、祈っても祈っても、そうだろうと思うのに、人々が「こうですね」と言ったら、それが多数意見だったら、そして、「あなたは私達を愛していないのですか」と言われたら、実際どうするだろうか。ああ、主よ、わたしを助けてください。いつもいつもあなたを求めて、あなたから答えを頂いて、歩む者としてください。あなたとの交わりに生かしてください。そして、あなたの声と、人の声が違うときに、あなたの声を聞くことができるほどの確信を与えてください。

「あなたは神の国から遠くない」(マルコ12:34)

遠くない、とは入っていないことだ。
一生懸命勉強していたこの学者。彼に対して、イエスは「遠くない」と言われた。まあ、近いわけだから、ましな方だったのだろうが、入っていなかった。ああ、神の国に入って欲しいと思う。人々に、神の国に入って欲しいと思う。神の国に入って、喜びにあふれて欲しいと思う。主よ、今日も集会を祝福してください。どうか、その集会において、人々が救いにはいることができますように。救いの中に入ることができますように、主よ、お助けください。

4月14日(水)

「激しく怒って・・・」(士師記14:19)

サムソンの話を読むと心が痛む。士師記を読んでいてずっとでもあるのだが、神の霊を受けた者たちが、なぜ、こんな過ちを犯すのだろうか?なぜ、このような愚かなことをするのだろうか。怒りに震えたサムソンによって30人の人々が殺された。何の意味があって、彼らは殺されたのだろうか?今、世界は不安な時代になっている。イラク情勢はどうなるのだろうか、という中にある。そこで殺される人々はどんな意味があって殺されるのだろうか?怒りに支配されてはならない。サタンの思うつぼだ。サタンの願うとおりだ。怒りに支配されてはならない。私自身もそうだ。本当に主の愛に満たされたい。主の愛によって生かされたい。主の愛に支えられて生かされたい。怒りや、恐れではなく、主の霊によって生かされる者となりたい。

「また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。」(マルコ11:25)

祈るときに、恨み事があるなら、それを解決して祈りなさい、と言われる。それはあなたの仕事だよとでもいうかのようだ。三浦綾子さんが「取り返しのつかない失敗をしたときには、赦すから、うちで働いて下さる?」と助けて下さる方にお願いしたという話を読んだ。ものすごい言葉だ。「取り返しのつかない失敗をしたときには、赦すから・・・」って。主よ、どうかわたしを助けて下さい。私の心をあなたの愛で満たして下さい。喜んで赦すことのできる者としてください。主よ、あなたの奇跡を私の心の中に与えてください。

4月13日(火)

「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう。」(士師記11:30−31)

主の霊に導かれていたこのエフタは、ここで何という誓いをしてしまったのだろうか。主に導かれてここまで着たのに、このような誓いをする失敗をするとは何と言うことだろうか。そして、この誓いはどんな人が出てくることを考えて誓った誓いだったのだろうか?娘ではなく召使いだったら良かったのか、本当に愚かなことだと思う。でも、またこれは私達に対する警告だろうと思う。この当時の人々の愚かさ、「自分の正しいと思うことをしていた」士師記の人々の愚かさを示すだけではなく、それよりも、私達への警告だと思う。主よ、あなたを利用したり、また、周りの人々を利用したりすることがありませんように。わたしが周りの人々を利用したり、食い物にしたりしないように、守ってください。本当に自分自身をあなたにささげる者、自分自身をあなたに与える者、自分自身を捨てる者としてください。

「すべての人の僕とならねばならない。」(マルコ10:44)

今年のレントの期間ずっと学んできたことだけれども、本当にここに生きてきたか、自分の心を探られた。僕になるってどんなことか、どんな中に歩むことなのか、経験させて頂きたい、と思う。本当にわからない者だと思う。自分は何もわかっていないんだと思う。僕として歩むことを教えて頂きたいと思う。すべての人の・・・自分の気に入った人ではなく、気の合う人ではなく、「この人の僕になりたいなあ」「この人のことを助けてあげたいなあ」と思う人ではなく、心の触れあう人ではなく、すべての人の・・・。主よ、わたしをあなたの僕として下さい。そして、人に仕える者としてください。そして、そこに喜びを与えてください。無理ではなく、嫌々ではなく、本当に愛を与えてください。人に愛を持って接する者としてください。

4月12日(月)

「それで主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった。」(士師記10:16)

何度も主を裏切り、捨てた彼らにとって、「わたしはかさねてあなたがたを救わない」と言われても仕方がなかったであろう。でも、その中で、他の神々を捨て、主に仕えた人々を見て、主は「見るに忍びなくなった」という。主は私達の歩みをご覧になっておられる。私達が主に帰るのを待っておられる。他のものを捨て、他のものを投げ去り、ただ、主に従うことを求めておられる。待っておられる。そして、御業をなされる。主よ、どうか私達も本当に主だけを主と仰ぐ者としてください。主を主として仰ぐ者としてください。

「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできない。」(マルコ9:29)

祈り、祈りだ。結局は祈りだ。いろいろ考えて、方策を練って、そして手を出して、親切や優しさや、声をかけたり、励ましたり、いや、そういう人間的な配慮、それもできていないかもしれない。でも、結局は祈りだ。結局のところ、祈りだと思う。主よ、わたしの歩みを祈りへと導いてください。もっともっと祈り、祈りの中で、祈り続けることの中で、奇跡を見ていく者としてください。奇跡を拝させてください。人が「造りかえられる」という奇跡を拝させてください。主よ、罪赦されただけではなく「新しくされた」喜びにあふれる奇跡を拝させてください。

4月11日(日)

イースターの朝。イエスが復活してくださったことを心から感謝。死に対する勝利を取ってくださったことに心から感謝。新しい喜びが教会に、家庭にあふれますように。

「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアン人の手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか。」(士師記6:14)

「主が私達と共におられるなら、どうしてこんなことが私達に臨んだのでしょう?」とは私達も考えそうな、答えそうなことだ。それに対して、それに答えて、み使いが言ったのが、この言葉「あなたが行きなさい」「わたしがあなたをつかわす」だった。主は「どうしてこんなことが起こったのだろうか」と問うことよりも、主に従って、「行く」「つかわされる」ということを求めておられる。主よ、今日、人々の救いのために、人々の魂の救いのために、わたしを遣わしてください。わたしを用いてください。主よ、あなたの力をわたしに注ぎ、聖霊様があのペンテコステの日になしてくださった救いの御業をなしてください。ただ、単純にイエスの救いを語ります。ただ、単純にイエスの復活を証しします。どうか、聖霊がわたしに言葉を与え、確信を与え、そして、一人一人に語って下さいますように。救いの御業をなしてください。救われる方々が起こされますように、続けて集う方々が起こされますように。

4月10日(土)

「あなたがもし一緒に行ってくだされば、わたしは行きます。しかし、一緒に行ってくださらないならば、行きません。」(士師記4:8)

バラクは神よりも「神の人」を頼った。彼にはその信仰しかなかったと言えばそこまでだろうけれども、それは人を頼る信仰だった。神はデボラを通して、もうはっきりと語っておられるのに、彼を用いようとされているのに、それを、その言葉を信頼しようとしないで、デボラという神とつながっている人が共にいることを求め、そこに頼って、闘おうとした。神はすでにシセラを与えておられたが、バラクは用いられなかった。主よ、わたしを用いてください。あなたとのつながりを、強いつながりを与えてくださって、わたしを用いてください。他の誰かを頼るよりも、あなたを頼る者としてください。

「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マルコ8:34)

自分を捨てる・・・。どういうことなのかなあ、と思う。また、もっとはっきりと「これだよ」と教えていただけるときがあるのだと思う。その時に、あ、この事だったのか、と思えるように、御言葉を蓄え、心の備えをしていることができますように。主よ、自分を捨てるということ、自分の十字架を負うということ、もっともっと具体的に、教えてくださいますように。どうか、わたしの歩む道を導き、あなたの導かれる所に進んでいくことができますように。主よ、あなたが教えてください。
明日はイースターです。本当にあなたのすばらしさを、あなたの喜びを、命の喜びを伝える者としてください。

4月9日(金)

「イスラエルの人々が主に呼ばわった時・・・」(士師記3:9)

苦しいことがあっては悔い改め、それに答えて主が助けを与えてくださり、でも、またしばらくするとまた失敗を犯し、苦しみが襲ってきて・・・それの繰り返しのイスラエルの人々。何だろうなあ、でも、自分自身の姿を見るようだ。何て愚かな存在だろうかと思う。でも、主がそんな者にも忍耐を持って見ていてくださることが大きな慰めであり、やはり、また主に呼ばわることが大切だと思う。主よ、今日もまたあなたの前に出て、あなたに叫び求めることのできる幸いを感謝します。どうか、私のうちにあなたの力を満たし、あなたの喜びを満たしてください。あなたに求めます。あなたが私に語り、今晩の集会においても、あなたのすばらしさを分かち合うことができますように。

「その言葉で、じゅうぶんである。」(マルコ7:29)

「あなたの恵みはパンくずでも私の娘を癒すのに十分」と言ったこの女に、「その言葉でじゅうぶんだ」と言われたイエス。本当に美しいやりとりを見る。あなたを信頼するこの女のように、本当に単純な、あなたの大きさを本当に単純に信じる信仰をお与えください。あなたが私の主です。あなたが私の神です。私の力の源です。あなたの恵みの中のほんの一部、あなたの大きさの中のほんの一部をください。与えてください。そして、あなたの力にあふれて歩むことができますように。あなたの恵みにあふれて歩むことができますように。それだけで私は十分です。だから、主よ、あなたが私に語って下さい。何時間準備したとか、どれだけ一生懸命やったか、そんなことに心が奪われている私をお許しください。あなたの御言葉の力の中から、ほんのパンくずほどのもので結構です、それが与えられれば、それで大丈夫です。主よ、あなたが私にお語り下さい。

4月8日(木)

「あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい。」(ヨシュア記24:23)

主を信じるなら、主を神とするなら、他の神々を除き去り、神にのみ仕えるようにヨシュアは告別の説教をした。主にのみ仕え、主にのみ心を傾ける。今の自分にも本当に大切なことだと思わされた。本当に必要なことだと思わされた。いろんなことが自分の心を誘う。だから、他のものを除き去ることが必要だと思わされた。主よ、私にとって、あなたから目をそらさせるもの、偶像となっているものがあるならば、それを取り除き、主に仕えることができますように。主にのみ仕えることができますように。今日の一日も主のことに心を注ぎ、主に仕えることに心を注ぎ、人の救いのために心を注ぐことができますように。

「先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである。」(マルコ6:52)

嵐で恐れるのは、主がおられるのに恐れるのは、主の奇跡を本当の意味で理解していないからだ。奇跡を見て驚くのは、本当の意味で主がどんなお方であるかを理解していないからだ。ああ、主よ、あなたのことを深く深く理解することのできる者としてください。あなたと共に歩んでいく者としてください。あなたのみ思いを知り、あなたの奇跡の力を知り、あなたの大きさを知り、奇跡を拝していく者としてください。主よ、今日、あなたの奇跡を見せてください。あなたを信じて人生が造りかえられる方々が起こされますように。私自身の心が喜びにあふれ、感謝にあふれた一日となりますように。

4月7日(水)

「今日、われわれは、主がわれわれのうちにいますことを知った。」(ヨシュア記22:31)

川の向こうに造られた祭壇を見て、イスラエルの人々は出て行った。しかし、攻撃を前に、その真意を確認した。そして、悲劇は回避された。また、もしかしたら、この事がなければ、この語り合いがなければ、本当に東の民は偶像礼拝の過ちを犯したのではないだろうか。私達の人間関係でも、これは大切なことではないかと思った。現象だけ見て、「あの人はあんなことをしている」などと裁いてしまいやすい。また「何か考えがあるんだろう」と問題をも見逃してしまうこともある。しかし、問題を感じたら、そこで語り合い、祈り合い、理解を深めたり、罪から守ったり、することができるのではないだろうか。主よ、どうか、私があなたとの交わりと、人との交わりを共に大切にする者としてください。祈り合い、語り合いの中でたくさんのことを解決していくことができますように。また人々の目をあなたに向けることができますように。

「恐れることはない。ただ信じなさい。」(マルコ5:36)

信じること、信頼すること、それがたくさんの奇跡をもたらした。主の憐れみであることには変わりない。でも、人の応答としての信仰がどれほど大切かを思わされる。主よ、どうか、私をあなたを信じる者としてください。あなたに対する信仰を増して下さい。そして、主よ、あなたの奇跡を見ることのできる者としてください。もっともっと奇跡を見たいのです。特に人が造りかえられる奇跡を見たいのです。人が新しくされ、主によって整えられ、遣わされていく奇跡を見たいのです。どうか主が御業をなしてください。次々と教会に足を踏み入れる方々が主に触れて頂いて、造りかえられる奇跡を経験していくような、そのような教会としてください。

4月6日(火)

「たとえ、あだを討つ者が追ってきても、人を殺した者を、その手に渡してはならない。」(ヨシュア記20:5)

逃れの町に逃れた者は、どんなことがあっても、守られなければならなかった。それほど、その逃れの町の人々には責任があった。仇を討つ者はどれほどの悲しみと、怒りと恨みとにあふれていただろうか。そのような者たちに対して、はっきりと、「この者は、私達の所に逃れてきたのですから、渡すわけにはいきません」と語らなければならなかった。勿論、それは故意の殺人ではなく、事故の場合に限られたわけだけれども・・・。主が私達のためにしてくださることはそのようなことではないだろうかと思わされた。主は私達を守り、敵が私達に指を触れようとする時に、その存在をかけて私達を守ってくださる。「これはわたしが自分の血をもって買い取った者だ」と。だから、それは逃れの町の人々の思いよりも、もっと熱く、もっと愛にあふれ、もっと情熱的な守りだと思う。主よ、わたしを守ってください。そして、教会の一人一人を、そして、そこに連なっていく、一人一人を守り、祝福してください。

「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」(マルコ4:40)

主よ、感謝します。あなたの御言葉に感謝します。分析とかではなく、本当にこの言葉が主から語られることがどれほどの力だろうか。主が、「なぜ、そんなにこわがるのか」と語って下さる。主が嵐の中で、私に、どうしてそんなにこわがるのか。こわがる必要なんかないではないか」と言って下さる。主よ、あなたの語りかけに感謝します。この御言葉が必要で、あなたが語って下さいました。いつもあなたに信頼していきます。どうか、主よ、あなたが御言葉を語り続け、御言葉によって、生かしてくださいますように。恐れから解放してください。

4月5日(月)

「あなたがたは、先祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか。」(ヨシュア記18:3)

誤解されないようにと思うが、純粋に私達の信仰の戦いとして、この言葉を語られた。軍事的なこと、競争社会のことではなく、自分の信仰のこと、伝道のこととして、サタンとの戦いのこととして、この言葉を与えられた。主はすでに与えて下さった分野がある。主が与えて下さった所に、自分が進んでいくのを怠っている部分はないだろうか。伝道のことでも、主が与えて下さっている方々の所に出て行かないで、怠っていることはないだろうか。ヤベツの祈りでもあるけれども、主が与えようとしてくださるものはたくさんあるのに、求めていない、求めて進んでいないことによって、手にしていないものがたくさんあるのではないだろうか。カレブの信仰を思わされる。「こんな問題もある」「これがあるから・・・」と言って、言い訳をすることによって、求めない、進まない、怠っている・・・。主よ、どうか、困難をも超えて、主が与えようとされているものを勝ち取っていく者としてください。

「さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」(マルコ3:15)

私達は遣わされるために集められた。権威を持って出て行くことのために・・・。また「権威」。ああ、今の自分にはこれがあるだろうかと思わされた。その不安は、やはり、主との近さだろう。もっともっと主と共に、主に近く歩んで、確信を持って、主のしもべとして歩んでいきたい。この弟子たちも遣わされる前に「自分のそばに置くために」集められたのだった。主よ、整えてください。わたしを整えて、遣わしてください。

4月4日(日)

「泉をもください。」(ヨシュア記15:19)

昨日はカレブの言葉に教えられたが、今日はカレブの娘アクサの言葉に教えられる。カレブが積極的であったように、カレブが大胆に求めたように、その娘、アクサも大胆に求めた。そして、自分に必要なものを知っていた。ネゲブの砂漠を受け継ぐ者として、泉がどれほど大切なものであるかを知っていた。そして、それを求めた。今の私達にとっても、霊的な泉がどれほど大切なものであるかを思わされる。だから、本気でそれを求めていかなければならないことを思わされる。霊的な泉、それを本当に頂いて、歩んでいきたいと思う。それを中心にして歩んでいこうと思う。他のものではなく、他のどうでもいいものではなく、霊的な泉を頂いて歩んでいこう。主よ、わたしに泉をください。わたしに使命だけではなく、奉仕の場所だけではなく、人々との出会いだけではなく、あなたの泉をください。

4月3日(土)

今日は早朝祈祷会。帰ってきて、更新しています。午後はJOYJOYイースター。明日の午前中は役員会。忙しいですねえ。でも、忙しいからって、聖書を読むことや祈ることがお留守になってしまったら、何のための働きかわからないわけで、本当に祈ることを大切にしないといけないなあ、と思わされています。個人的には集会をしていたり、活動をしていたり、人にお会いしていたりすることが好きなので、忙しいのはイヤではないのですが、だからこそ、注意しなければならないことを思わされます。で、今日の祈り・・・。

「この山地を、どうか今、わたしにください。」(ヨシュア記14:12)

もう今から7年くらい前、初めてブルックリンタバナクルに行った時、今の礼拝堂の前の礼拝堂だったけれども、祈祷会で、ジム・シンバラが語っていたのが、この聖書の箇所だった。私達は山地を求めているだろうか。平地を求めていないだろうか?神が共におられるという確信があるならば、どうして平地を求めるのだろうか?と。山地を求めなさい!と。でも、今自分の心の中を見てみるならば、やはり平地を求めている自分がいる。あの9/11の出来事、また教会のメンバーの中で重い病気で召された方々の闘病生活などを思い出して、「主よ、平和な毎日を与えてください」と祈っている自分がいる。トラブルのない毎日を求めている自分がいる。主よ、あなたが本当にわたしと共におられる、だから恐れるものは何もない、という確信に今日も立たせてください。どんな闘いの中でも、主が共におられることを、そして、主に従って、勝利を得ることを経験させてください。

「群衆のために近寄ることができないので・・・」(マルコ2:4)

「近寄ることができなかったので・・・」の後に、何が続くのだろうか。「あきらめた」「帰っていった」「次のチャンスをうかがうこととした」・・・そんなのが普通だと思う。でも、近寄ることができなかった4人の人々は、屋根に上り、天井をはいで、イエスのもとにこの人を連れてきた。ああ、自分もこのような情熱をもって人を導いているだろうか?人をイエスさまの許にお連れしているだろうか?今週も、いろいろな事情でチャンスを逸した方々がおられるように思う。あのときに、わたしがもっともっと大きな情熱をもって、もっともっと熱い愛をもって、イエスの所にお連れすべきだったのではないだろうか、という方々もおられる。ああ、主よ、わたしを憐れんでください。わたしを用いてください。わたしに勇気と、熱い思いを満たしてください。イエスさまの許にお連れすることについて、もっともっと熱い思いを与えてください。用いてください。

4月2日(金)

「彼らのゆえに恐れてはならない。」(ヨシュア記11:6)

浜辺の砂ほど多くの兵隊が攻めてくる、その時に、イスラエルの人々はどのように感じただろうか?もう、神が何回も道を開いて下さってきたから、大丈夫だと分かっていただろうか?それとも、初めて出会うような大軍を前にして、恐れを覚えただろうか?その時に、語られた言葉、その時に示された言葉、それは「彼らを恐れるな」という言葉であった。主から語られることがどれほど大切なことであり、どれほど必要なことであるかを、思わされる。主が私達に「恐れるな」と語って下さること、それが何よりも大きな力であることを思わされる。主よ、御言葉を与えて下さい。私に御言葉を与え、私に語って下さい。いろいろな出来事の中で、力をいただいて歩んでいくことができるように私にあなたの御言葉を語って下さい。

「権威ある者のように、教えられたからである。」(マルコ1:24)

直前のマタイの28章にもイエスの権威が語られていた。イエスが権威を与えられているから、あなた方も出て行きなさい、というメッセージだった。昨日もそのような語り合いをしたが、自分の中に「御言葉を共に聞く者」という感覚はあるが、イエスから「権威」を与えられた者、という自覚は余りない。でも、今日、この御言葉を読んだ時に、自分は牧師であり、伝道者である者として、イエスが持っておられる権威によって、使命を頂いて、送り出された者なのだ、ということを教えられた。であれば、主にある権威を(振りかざすのではなくて・・・)、確信できるように、それほど、祈り、聖書によって語られ、教えられ、示され、主から与えられた権威によって語る者とされたいと思った。主よ、どうか、あなたとの交わりに生かしてください。あなたに語られて、あなたから教えられて、人々の前に立つことができますように。

4月1日(木)

「主のさしずを求めようとはしなかった。」(ヨシュア記9:14)

イスラエルの人々は状況を見て、もう和を講じるべきだと感じた。そして、主に求めることはしなかった。主に聞くことはしなかった。彼らのことを誰が愚かだと言えるだろうか?まさに自分もやりそうなことではないだろうか?ああ、主に近く、主とともに歩むもとなりたい。主がすでに共にいて下さるのだから、主に尋ね、求め、主に聞き、主と語り合いながら歩んでいく者でありたい。祈りの時がもっと豊かになりますように。主よ、本当にあなたと共に歩ませて下さい。今日の出会いを祝福して下さい。今日の口の言葉を守って下さい。今日、受け身ではなく、積極的に、出て行く者として下さい。主よ、あなたの勝利を与えて下さい。あなたと共に歩む喜びを与えて下さい。

「それゆえに、あなたがたは行って・・・」(マタイ28:19)

イエスは最後に「行きなさい」と言われた。主は私達に「行く」ように命じておられる。
だから出て行こう。仲間同士で盛り上がっているのではなく、主に信頼して出て行こう。主の力をいただいて出て行こう。福音を伝える者となろう。主が今も生きて共にいて下さる、と約束して下さっているのだから。主よ、今日の集会を祝福し、今日の出会いを祝福して下さい。心の触れあうような場所を与えて下さいますように。

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