「あなたがたは進み出て立ち、
あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。」

10月31日(金)

「見よ、彼らは主の言葉を捨てた、彼らになんの知恵があろうか。」(エレミヤ書8:9)

主の言葉を捨てた人々には、どんな頭のいい人でも、知恵がない。どんなに魅力的な言葉を語ることができる人でも、それが何になろうか?自分は主の言葉にしっかり立っていきたいと思う。主の言葉に立ち続け、人の気に入ることではなく、大胆に主の言葉を語っていく者でありたいと思う。イザヤも、エレミヤも、自分が語る言葉で人がどう反応するかではなく、主が語れ、ということを語ってきたかどうか、が問われてきたと思う。主よ、わたしに語って下さい。明日の早朝祈祷会でも、あさっての礼拝でも、あなたの言葉を語ることができるように、主よ、あなたがわたしに語って下さい。お願いします。

「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまな苦しみによって従順を学び・・・」(ヘブル人への手紙5:8)

イエス様であられても、苦しみの中で、従順を学ばれたという。わたしたちは、そのイエスの足跡をたどる者だ。なのに、何と苦しみに出会う時に、逃げてしまって、従順を学ぼうとしないのだろうか?主に従うとはどういうことなのだろうか?主に従う時に、主の十字架を味わい、主の復活をも味わう、ところにわたしたちの祝福がある。主の十字架を味わうとは、人の罪や汚れを自分自身で負っていくということか?ああ、何と言うことだ。創造しただけで胃が痛くなりそうだ。そのように生きれるだろうか?そのように生かして頂きたい。主よ、あなたの導きに従順であり続ける者として下さい。従順に生きる者として下さい。

10月30日(木)

「しかしあなたがたはその終わりにどうするつもりか」(エレミヤ書5:31)

久しぶりに自分の終わり、そして、この世の終わりのことが突きつけられるような思いがした。主が再び来られる時、世の終わりに自分が主の前に立つ時に、一体自分はどんな思いで主の前に立つのだろうか?そのことが問われている。今の自分が、今の生き方が、終わりの時に問われてくる。赦され、受け入れられ、愛されていることを思うと共に、御心に従って歩み、全力を尽くして歩ませていただきたいと願った。主よ、どうかわたしの歩みを支えてください。

「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」(ヘブル人への手紙4:12)

御言葉が力がある。御言葉に鋭さがある。御言葉によってさばかれる。だから、わたしの仕事は御言葉を愛し、御言葉を語り、御言葉を人々が愛せるように、御言葉によって養われるように励ましていくことだ。御言葉によって生きていく方々が与えられていくような牧会が大切だ。主よ、どうか、御言葉の力を証しさせてください。私自身がもっともっとそれを経験し、それを証ししていくことができますように。主よ、助け、わたしを満たしてください。教会に連なる一人一人に御言葉を語って下さい。与えて下さい。御言葉によって生かして下さい。

10月29日(水)

「そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、『見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。』」(エレミヤ書1:9)

主が御手をのべて、唇に触れてくださる。主がその口に御言葉を与えてくださる。入れてくださる。わたしはその恵みをしたい求めます。毎週の、いや毎日のメッセージを取り次ぐ時に、そのような主の御業がなされますように。主が御言葉を与えてくださり、主に語られた御言葉によって、主が与えてくださった御言葉によって、確信を持って語ることができますように。主の御言葉を語らせて下さい。主がわたしを用いて下さって、喜びをもって、確信を持って、語る者として下さいますように。主よ、あなたの御業をわたしのうちになしてください。

「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」(ヘブル人への手紙3:13)

今日、励まし合おう、とパウロは言う。明日ではなく、また今度ではなく、「きょう」という日に励まし合わなければ・・・。自分はいかにすべてを後回しにしてしまう人間だろうかと思う。すべて後回しにして、後で追われてしまう人間だと思う。今日、主が「今日しなさい」と言っておられることが分かった。そのように語られた。主よ、今日、なすべきことを教えて下さい。そして、なすべきことをすることができますように助けて下さい。

10月28日(火)

「されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。」(イザヤ書64:8)

イザヤは預言者だったけれども、ここでは、人々のためにとりなしをしている。ただ、主の語りなさい、と言われた事を語るだけではなく、主に、わたしたちを憐れんで下さい、と願っている、祈っている。主よ、わたしもとりなし手として下さい。わたしも教会のために教会の一人一人のために、とりなしの祈りをもっともっと捧げる事ができますように、主よ、わたしをとりなし手として下さって、祈りが聞かれるのだという喜びと感謝をもっともっと与えて下さい。

「それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。」(ヘブル人への手紙2:11)

イエスがわたしたちと兄弟と呼ばれ、わたしたちのことを兄弟と呼ぶことを気になさらない、喜んでそうして下さる、という。わたしたちはイエスに「兄弟!」と呼ばれる。何とありがたいことだろうか?何とうれしいことだろうか?主に兄弟と呼ばれるとは!主がそこまでおりてきて下さったこと、それと、主がそこまでわたしたちを大切にして下さっていること、本当に感謝。わたしも恐れずに、イエスを「お兄さん」と呼ばせて頂きたいと思った。

10月27日(月)

「シオンの義が朝日の輝きのようにあらわれいで、エルサレムの救いが燃えるたいまつのようになるまで、わたしはシオンのために黙せず、エルサレムのために休まない。」(イザヤ書62:1)

イザヤは人々の救いがはっきりと見える形であらわされるまで、わたしは休まない、黙っていない、と言った。イザヤはそのために熱い思いを持っていた。自分はどうだろうかと振り返らされた。黙っていないだろうか?座り込んでいないだろうか?主の救いが人々のうちになされるまで、人々の中に救いが実現するまで、もっともっと多くの方々が救いに導かれるまで、熱く熱く歩んでいく者でありたいと思う。熱く熱く主に求めていくものでありたいと思う。語っていく者でありたいと思う。主よ、わたしをお用い下さい。

「御子は神の栄光の輝きであり・・・」(ヘブル人への手紙1:3)

イエスの輝き、イエスの輝きが主の栄光の輝きであるという。それはわたしたちと共に歩まれた歩みであり、十字架につけられた輝きである。神がどんな方か、一番分かるのはあの変貌の山ではなく、十字架だ。イエスが栄光を受けられたのは、復活でも、昇天でもなく、十字架だ。神がどんな方か、それはわたしたちのためにご自分を与えて下さるようなお方。そこに神の輝きがあり、神の栄光がある。何という幸いだろうかと思う。何という恵みだろうかと思う。主よ、今日もわたしと共にいて下さり、あなたの栄光を分からせて下さい。あなたの栄光を味わうことができますように。

10月26日(日)

「わたしが選ぶところの断食は・・・飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これに着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。」(イザヤ書58:6−7)

多く与えられている。多く与えられているのに、何とそれを分け与えようという思いが弱い者だろうか?いかにそれを与えていないだろうか?もっともっと与えるものとならせて頂きたい。断食をしてでも、それは自分の霊的な事や、精神的な事ではなく、与えるために断食をする者とならせて頂きたい。主よ、わたしを贅沢からお守り下さい。与える事の喜びをもっともっと与えて下さい。もっともっと分かち合う事ができますように。与える事ができますように。主よ、あなたがわたしの心を導き下さい。そして、そのようにさせて下さい。

10月25日(土)

「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」(イザヤ書55:11)

主の御言葉が語られる時に、それは地に降る雨のようにわたしたちの心に御業をなされる。だから、自分には、もっともっと御言葉を信頼して、神の御業を信頼して語る事が必要だと思わされた。語られる時に、御言葉が語られる時に、人々の心に奇跡が起こり、不思議な事が起こり、神の願っておられる事が進んでいくのだという事を信頼して、大胆に語る事が必要だ。何か技巧のようなものをこらしたり、テクニックを磨こうとするのではなく、主の御言葉をストレートに語っていく事、それが自分の使命だと思う。主よ、どうか、わたしに御言葉を与え、大胆に語らせて下さい。確信を持って語る事ができますように。

「もし、彼があなたに何か不都合なことをしたか、あるいは、何か負債があれば、それをわたしの借りにしておいてほしい。」(ピレモンへの手紙18)

この言葉がわたし心に響いた。どういうわけか、今回、この手紙が主からのメッセージとして届いた。主がこの事を語っておられる事を感じた。不都合を受けた事、そのことを主が「わたしの借りにしておいてくれ」と言われている。「わたしの借りにしておいて、彼を受け入れてくれ」と言われている。主よ、わたし心の中にある、いくつものこだわり、受けた傷の事、主よ、あなたが今日、語って下さった事に感謝します。主がすべてを最善に導いて下さり、わたしの心から、一切のこだわりを取り除いて下さい。そして、主から託された人々として、出会う一人一人を受け入れる事ができますように。また、わたしがどなたかに対して犯している不都合、そして、不義理、あなたがとりなして下さっている事を感謝します。受け入れられている事を感謝します。赦されている事を感謝します。

10月24日(金)

「あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたの/しんがりとなられるからだ。」(イザヤ書52:12)

主がわたしたちの先頭に立ち、しんがりとなられる。主がその一番先頭を導いて下さる。そして、その一番最後にもだれも遅れないように、最後を守って下さる。何という約束だろうか?なんという幸いだろうか?主よ、わたしたちがいつもいつもあなたをしっかりと見上げて、あなたにしっかりとつながって、歩んでいくことができますように。あなたの導かれる時に、大胆に進むことができますように。あなたが留まるように導かれる時に、大胆に、勇気を持って留まることができますように。主よ、あなたの導きに本当に敏感に、大胆にしたがっていくことができますように。

「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」(テトスへの手紙3:5)

ただ、神のあわれみによって・・・、このよく聞く言葉が今日は心に留まった。主がわたしたちの義の業ではなく、行いではなく、ただただ、あわれみによって、私を救って下さった。ただ、あわれみによって救って下さった。ただ教理として聞くのと、聖書の御言葉として語られるのと、どれほど違うだろうかと思った。主よ、あなたの御言葉に感謝します。御言葉の力に感謝します。あなたのあわれみを感謝します。喜びを感謝します。あなたの恵みにあふれて歩む者として下さい。

10月23日(木)

「わたしの手が短くて、あがなうことができないのか。わたしは救う力を持たないのか。」(イザヤ書50:2)

なんて不信仰なんだろうかと思う。神さまには手が短くて救えないことはない。神さまには届かないところはない。だから、主が更に大いなる御業をなして下さることを大胆に求めていこう。主が救いの御業をなして下さるようにと、主が教会の一人一人を更に更に深く恵み、命と喜びを与えて下さるようにと祈っていこう。主よ、あなたの大いなる御業を拝させて下さい。あなたが教会を生かし、あなたの命を満たして下さい。主よ、リバイバルの御業を求めます。

「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。あなたは、権威をもってこれらのことを語り、勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない。」(テトスへの手紙2:14−15)

わたしたちが聖別されるために、主は十字架にかかられた。そのことを、大胆に勧め、導くことが大切だという。牧会書簡を読むたびに、自分自身がもっともっと牧師として整えられ、使命を果たしていかなければならないと思わされる。権威を持ってそのことを語ることができるように、自分自身がまず、主に聖別され、整えられ亡ければならない。主よ、私の生活を守って下さい。いつも主につながり、いつも主から聞き、主によって守られた、主によって導かれた、主によって遣わされた日々を送ることができますように。主よ、どうか私を整えて下さい。

10月22日(水)

「わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(イザヤ書46:4)

今日は特別にこの言葉が心に留まった。主が私のことを今までも運んで下さった。負って下さった。そして、救って下さった。だから、これからの歩みでも、これからの私の歩みでも、主が私のことを負って下さり、運んで下さる。主が私のことについて責任を持ってくださる。だから恐れるな、心配するな。そして、自分の子供たちのことも、そして、教会のことも、主が造ってくださったのだから、必ず、負い、必ず持ち運んでくださる。主よ、あなたに感謝します。あなたに信頼します。どうか、御言葉の真実を拝させてください。

「わたしたちの救主なる神の任命によって、この宣教をゆだねられたのである」(テトスへの手紙1:3)

パウロのこの使命感。神の任命によって、この宣教を任せられた。わたしたちは、主から宣教を任せられた者だ。だから、主よ、今日も誰かと出会わせてください。誰かと魂が触れあうような宣教の御業をさせて下さい。ただ、教会の仕事をこなしていく、というのではなく、人に期待されていることをするのではなく、主から任された宣教の業に励ませて下さい。主よ、あなたが出会いを与えて下さい。福音を語るチャンスを、教会の人々の魂に触れるチャンスを与えて下さい。

10月21日(火)

「ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。あなたはわがしもべだから。わたしはあなたを造った、あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。」(イザヤ書44:21)

主のしもべ。主のしもべとして、私も造られた。主のしもべ、ってどういうことだろうか。それは誇りだ。やはり三浦さんを見ていて、そう思った。主のしもべであることはわたしたちにとって、大きな誇りであり、喜びだ。このような方のために仕え、この方のことを人々の知って頂けるなんて、なんという素晴らしいことだろうか?何という名誉なことだろうか?そして、神さまの方も、わたしたちをしもべとして認めて下さって、忘れることはないよ、と語って下さる。感謝だ。本当に感謝だ。今日も、主のしもべとして歩めますように。

「あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」(テモテへの第二の手紙4:5)

「耳ざわりがよい」という言葉は日本語としておかしい、と言われるけれども、新共同訳では「自分に都合の良いこと」と訳されている。そのようなことが聞きたくて、自分の好きなことを話してくれる教師をあっちこっちから集めていくという誘惑がある。でも、その中で、そのような期待に決して応えないで、ただ、主が私に語られたことを、聖書が語っていることを大胆に、恐れないで語ることが自分には必要だと思う。主よ、私を強くして下さい。あなたの御言葉による確信を与えて下さい。御言葉によって確信をいただいて語っていくことができますように。

10月20日(月)

「わたしは新しい事を告げよう。その事がまだ起らない前に、わたしはまず、あなたがたに知らせよう」(イザヤ書42:9)

主が語って下さる。主が新しいことが起こる前にそのことを語って下さる。そのような者となりたい。そのような主との親しさを経験したい。主よ、私にも、あなたのみ思いを教えて下さい。分かって下さい。あなたの心の中にあり、まだ実現していないことを、わたしの心にも教えて下さい。語って下さい。そして、主よ、あなたの御心にしたがって歩むことのできる者として下さい。あなたのみそば近くおらせて下さい。それを妨げようとするすべてのものを私から取り去り、すべての力から守って下さい。

「それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」(テモテへの第二の手紙3:17)

聖書がわたしたちを整える。あらゆる良い業のために十分な準備をさせてくださる。聖書がわたしたちを整えて、主のために、主にお役に立つために整えてくださる。やはり聖書を読むことが命だ。そして、それを教会が整えられるためにも必要だ。聖書を読むように励まそう。一人一人が聖書から教えられ、聖書から語られていくように、励ましていこう。

10月19日(日)

「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。」(イザヤ書41:14)

私は虫に等しい。そうだ。本当に貧しいと思う。けれども、主が私と共にいて、私を助けて下さるのだから、恐れることはない。何度も何度もそのことが語られ、そのことを聞いていても、いつの間にか自分の力を信じ、自分の力で何かをしようとしている自分がいる。そして、何よりも、自分の愚かさ、小ささ、力のなさ、才能のなさに落ち込んでしまう。ああ、サタンの思うつぼだ。でも、主は私に語られる。虫に等しい学よ、私はあなたを助ける、と。感謝。主よ、いつもいつも「わたしたちは主にあってその偉大な力によって、何事でもすることができる」ということに生かして下さい。あの三浦夫妻が主に用いられたいと大胆に願って、行動して用いて頂いたように、私も主よ、用いて頂きたいです。主よ、私を用いて下さい。あなたのご栄光のために、人々の救いのために。

10月18日(土)

「わたしはあなたの祈を聞いた。あなたの涙を見た。」(イザヤ書38:5)

主よ、私の祈りを聞いて下さり、私の涙を見て下さることに感謝します。私の祈りは、何よりも、私の存在、わたしたちの家族、そして、この教会の存在をとおして、主に救われる方々が次々と起こされていくことであります。今年、3人の受洗者が与えられたことに感謝します。けれども、私はそれでは満足しません。あなたがどうか私の祈りを聞き、次々と主に救われる方々が起こされますように。ただ洗礼を受けるのではなく、主によってはっきりと救われて、造りかえられ、感謝にあふれて歩む方々が起こされますように。主よ、あなたの救いの御業をこの地に、この地域に起こして下さい。救われる方々を与えて下さい。主よ、私の祈りを聞いて下さい。

「 もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。」(テモテへの第二の手紙2:21)

主よ、あなたの役に立ちたいです。そのために私をきよめてください。私自身、自分をきよめたいです。主よ、私をきよめてください。あなたのお役に立ちたいですから、すべての良い業のために役に立つ者となりたいですから。主よ、どうか、私を用いてください。そのために、私をきよめてください。

10月17日(金)

「主はこう仰せられる、アッスリヤの王のしもべらが、わたしをそしった言葉を聞いて恐れるには及ばない。」(イザヤ書37:6)

恐れなくてよい、と主が言われる。人々のいう言葉に振り回されるな、と主が言われる。いかに自分が恐れやすい人間か、恐れに支配されやすい存在かと言うことをいつも思わされる。だから、この「恐れるな」という言葉の一つ一つが心に響く。心に留まる。恐れるな、と言われる主が、今日も共にいて下さる。人々がどのように言っても、どのように信仰をくじいても、主が語られるから、主が「そのことについては恐れなくていい」と言われるから、感謝だ。このヒゼキヤのおかれた状況はどんなに不安な状況だっただろうかと思う。大軍が押し寄せて来て、包囲されて、それも北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリア軍。どんなに不安だっただろうかと思う。その状況に比べれば自分の置かれた状況はなんてことはない。このイザヤ書37章で「恐れるな」と語って下さった神は、わたしたちにもっともっと素晴らしいことをして下さるにちがいない。主よ、あなたの御業を見せて下さい。

「あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。」(テモテへの第二の手紙1:14)

私には何もありません、なんて言ってはならない。主はわたしたちに素晴らしいものを与えてくださっているのだから。主が与えて下さったものを、主のために用いて頂こう。主のために用いて頂きたい。本当に今回、三浦さんたちの生き方を見せて頂いて、主のために大胆に用いて頂いた姿が印象深い。そして、今も、このようにNYにまで来て下さった。遠慮しておられたら、このような素晴らしい御業を見ることはできなかっただろう。主よ、更に見せて下さい。そして、わたしたちも、私自身も、主に用いて頂きたいです。主よ、お願いします。

10月16日(木)

「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。」(イザヤ書35:3)

勇気を出せ、主は大いなることをしようとされているのだ。自分は弱くなっていたと思う。人の言葉に弱くなり、自分の姿を見て落ち込んでいたのだと思う。でも、主が語られた。「あなたの手を強くし、あなたのひざを健やかにせよ」と。だから、勇気を出そう。主が素晴らしいことをされようとしておられるのだ。だから、恐れる必要はない。悩む必要はない。悩むなら、祈れ。主の前に問題を持ち出そう。そして、主に解決して頂こう。主が私の主であり、教会の主であるのだから。

「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」(テモテへの第一の手紙6:8)

アーメン。新しいものにすぐ飛びついてしまいやすい自分に主が語られた言葉だ。衣食があれば、それで十分だ。それで十分だ。主よ、わたしの心を守ってください。次々と新しいものが出ます。次々と「買ってくれ買ってくれ」とせがみます。経済の発展のためには、いいのかも知れませんが、それによって、大切なものを見逃してしまうことがありませんように。一番大切なあなたとの交わり、あなたの命をいただいていくこと、多く受けた者として、多く与えていくこと、それをさせてくださいますように。衣食が与えられているのですから、それで満足することができますように。

10月15日(水)

「助けを得るためにエジプトに下り、馬にたよる者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いのでこれに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない。」(イザヤ書31:1)

だれだって、近くに助けがあるならば、それを頼りたくなる。もし、そこに頼れば、何とかなるならば、それに頼りたくなる。でも、そこで本当に神さまに頼って行くのでなければ祝福はない。主が与えて下さる、主が勝利を与えて下さる、そのことを何よりも求めていこう。主に信頼していこう。主が与えて下さることを期待していこう。人を期待するのではなく、人の力を期待するのではなく、主の力を期待して、待ち望んで歩んでいこう。

「これらのことを命じて、彼女たちを非難のない者としなさい。」(テモテへの第一の手紙5:7)

これがテモテに与えられた使命だった。やもめの中でみだらな生活をしている人がいる時に、その人を立ち上がらせ、非難のない者とするのが彼の大切な働きの一つだった。私もそのような働きをさせて頂きたいと思う。罪を罪を思わない人々に対して、はっきりと語り、悔い改めに導く働きもさせて頂きたいと思う。もちろん、それは神の奇跡だろうけれども、何でも「いいよ、いいよ」ですませてしまって、神の裁きがその人の上にあっても、何とも思わないような無関心な、無責任な者ではなくて、主の愛を、厳しい愛を、無関心ではない、熱い愛を伝える者でありたいと思う。強さを与えて下さい。主よ、私のうちにあふれて、あなたの愛を語る者としてください。

10月14日(火)

「彼らは計りごとを行うけれども、わたしによってではない。彼らは同盟を結ぶけれども、わが霊によってではない。罪に罪を加えるためだ。彼らはわが言葉を求めず、エジプトへ下っていって、パロの保護にたより、エジプトの陰に隠れようとする。」(イザヤ書30:1−2)

神によるはかりごとがある。神によって結ぶ同盟がある。しかし、ユダヤの人々は神に聞こうとはしないで、自分の願いで、自分の考えで、自分のGood Ideaで同盟を結んだ。神が他の方法を備えておられたのに。今、わたしたちが会堂を求めている中で、本当に神の前に出て、神に祈って、神からの答えをいただいたと確信して歩んでいるだろうか?自分の考え、自分の願いで歩んでいないだろうか?主よ、あなたに求めます。あなたの考え、あなたの備えている道を求めます。主よ、お語り下さい。主よ、あなたが幻を見せて下さって、確信を持って進んでいくことができますように。

「むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。」(テモテへの第一の手紙4:12)

助けてもらっていると思う。赦されていると思う。できない私が赦されていると思う。しかし、本当にこの御言葉を語られた。だから、主よ、わたしの心をきよめ、私を造りかえ、言葉にも、行いにも、愛においても、信仰においても、純潔においても、本当に整えられますように。主が私の内側をきよめ、内側からあふれる言葉や行いが人々の模範になるようなものとなりますように。主よ、お助け下さい。聖霊様の圧倒的な御業を行って下さい。貪欲に求めます。主よ、私をきよめ、私を新しくして下さい。

10月13日(月)

「信ずる者はあわてることはない。」(イザヤ書28:16)

主を信じる者は慌てることはない。嵐が襲ってくる時にも、大きな山にぶつかってしまう時にも、慌てることはない。主がそこにおられるから、主が働かれるから、主が御業をなされるから。信じる者は慌てることはない。それは本当に幸せなことだと思う。昨日もある方と話していてそのことを思わされた。戦いはある。悩みもある。嵐もある。祈っても状況はなかなか好転しない。しかし、そこに主がおられる。主がおられる時に、慌てることはない。主よ、どうか、私が嵐に出会う時に、慌てることがないようにお守り下さい。

「そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。」(テモテへの第一の手紙3:6)

牧師にとって、「高慢」がとても陥りやすい所であることがここに記されている。自分は果たしてどうだろうか?本当に高慢に陥りやすい人間だと思う。ほめられたり、ものごとが順調にいっている時には、本当に高慢ということが、手ぐすねをひいて待っていることがはっきり分かる。なんて自分は高慢になりやすい人間だろうかと思う。主よ、お守り下さい。私が陥りやすい、高慢の罪からお守り下さい。いつもいつもあなたに罪赦され、特別に赦されていることを忘れないようにしてください。

10月12日(日)

「また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおいものとを破られる。」(イザヤ書25:7)

新約聖書のコリント人への第二の手紙の言葉を思い出した。今、わたしたちは主に向く時に、顔おおいを取って主に向かう。そして、そこで、聖霊のあるところに自由がある。主がわたしたちに触れてくださって、聖霊の自由を与えてくださる。それがわたしたちの福音だ。わたしたちの特権だ。その自由を与えられたい。その自由の中で歩んでいきたい。主よ、どうか私に聖霊様を与えてください。聖霊様によって生かされている喜びに満たしてください。主よ、今日の礼拝で聖霊様がご自由にお働き下さい。待ち望みます。

10月11日(土)

「その日、万軍の神、主は泣き悲しみ、頭をかぶろにし、荒布をまとうことを命じられたが・・・」(イザヤ書22:12)

罪への悲しみ、裁きへの悲しみ、その悲しみを主は求めておられる。それなのに、わたしたちがいかにそのことに鈍感になっていないだろうか?子供の頃、アメリカから来た若者が、日本の状態を見て、涙を流していたことがあった。そのようなことにもう慣れてしまったのか、自分を守るために、そのようなことに反応しなくなってしまったのか分からないけれども、本当に悔い改めない人々に対して、涙を流すことがなくなってしまっていないだろうか。無関心になってしまっていないだろうか。自分の罪深さに対して涙を流すことがなくなってしまっていないだろうか?主よ、あなたの視点を与えて下さい。あなたがごらんになっているように、私にも見せて下さい。どうか、人々を愛する者として下さい。

「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。」(テモテへの第一の手紙2:4)

神さまの視点を与えて下さい、と祈ったすぐ後に、この聖書の言葉が語られた。そう、主はすべての人が救われることを望んでおられる。ならば、すべての人に語っていこう。すべての人のために祈っていこう。主よ、今立ち上がって下さい。この地のために、わたしたちの周りの人々のために、出会う一人一人があなたが出会わせて下さった方であることを覚え、その方々に対して語らせて下さい。あなたの福音を語らせて下さい。救いを語らせて下さい。

10月10日(金)

「主はこれを撃たれるが、またいやされる。」(イザヤ書19:22)

主が撃たれる。しかし、それは癒やすためであり、招くためであり、連れ戻すためである。主が、わたしを撃たれる時に、そのことを覚えていることができますように。どうにもならないことが起こる時に、とりかえしのつかないことで、痛みを覚える時に、でも、主はそれを通してわたしをもう一度御許に連れ戻そうとされていることを覚えることができますように、そして、主の癒しを経験することができますように。主よ、どうかそのことをいつもいつも覚え、そのことが起こった時に、それを思い出すことができますように。堅く立って行くことができますように。主よ、どうかお守り下さい。

「わたしは、その罪人のかしらなのである。」(テモテへの第一の手紙1:15)

パウロが自分のことを罪人のかしらだと言った時に、どんな思いでそれを語ったのか。ただの「謙遜」や格好をつけるために言ったのではないと思う。本当に自分の醜さ、罪深さに撃たれて、どうにもならなくなって、そこから立ち上がった経験から、彼は自分を罪人のかしらとしたのではないかと思う。最近の自分はそこまで自分の罪に泣いているだろうか?そこまで自分の罪にうめいているだろうか?主のきよさに触れたい。主よ、あなたの臨在に触れさせてください。そして、主よ、あなたの臨在の中で、罪を教え、罪をきよめてください。真実な生き方をさせてください。

10月9日(木)

「しかし今、主は語って言われる」(イザヤ書16:14)

主が語られる。いろいろな策略がある。いろいろな働きがある。いろいろな力がある。でも、その中で主が語られる。それが今わたしたちにとってどれほど大切なことかと思う。主が語られること、主が語られることがこの世界を動かしていく。私自身を動かしていく。そして、主が語られることが教会を動かしていく。主が今もわたしのうちに語って下さることをもっともっと求めていきたい。そして、教会に対して、教会のお一人一人に対して主が語って下さることがどれほど大切かと思う。主よ、お語り下さい。しもべは聞きます。

「どうか主の言葉が、あなたがたの所と同じように、ここでも早く広まり、また、あがめられるように。」(テサロニケ人への第二の手紙3:1)

御言葉が広まるように。御言葉が人々の心に留まるように、心から祈りたい。心から祈ろう。そのためにどれほど祈っているだろうか。どれほど求めているだろうか。そして、そのように生きているだろうか?伝道させて下さい。大胆に伝道させて下さい。寝ても覚めてもそのことが心を支配するように。あなたへの思い、あなたに対する愛がわたしの心を支配して下さいますように。NYでもNJでも福音が広まりますように。福音がこの地を支配しますように。この地の日本語を使う方々の心を満たしますように。

10月8日(水)

「見よ、主の日が来る。」(イザヤ書13:9)

今日は本当に主が語って下さったと思う。主の日が来る。この裁きの時が来る。確かに来る。それなのに、福音を知っている、救いを知っている自分が、いかにこの事を語ることの危機感の足りないだろうか。主の日が来るのに、確かに来るのに、そのことをいかに語ることをしていないだろうか。語ることに遅い者だろうか。たとえ、このわたしたちの人生の途中にそれが来なかったとしても、人生の最後の時は来る。すべての人にイエスが来られる再臨が近いか、個人的に主がお呼びになる死が早いか分からないが、いずれにしろ、そのことが本当に分かっているだろうか。主よ、主の日が来る、そのメッセージを大胆に語る者として下さい。そして、わかりやすく語る者として下さい。人々の人生に意味のあることなのだと言うことを分かるように語らせて下さい。

「神が、あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。」(テサロニケ人への第二の手紙2:17)

これは私自身の今日の祈り。私自身の歩みのためにもこの祈りの必要を覚えたし、また教会の一人一人の歩みのためにもこの祈りの必要を覚えた。主が一人一人の言葉と行動とを守って下さいますように。今日も助けて下さい。一人一人を訪れて下さい。一人一人が御言葉を愛しますように。主よ、お助け下さい。待ち望みます。祈る喜びを教えて下さい。味合わせて下さい。

10月7日(火)

「見よ、神はわが救いである。わたしは信頼して恐れることはない。主なる神はわが力、わが歌であり、わが救いとなられたからである。」(イザヤ書12:2)

これは世の終わりの時、やがて主が世界を完全に治められる時に、与えられる賛美だ。でも、これはそれだけではなくて、今に生きているわたしたちにも先取りとして与えられているものだ。だから、今からこれを賛美したいと思った。この事を一日の歩みの中でいつもいつも心に覚えていたいと思った。主がわたしたちの主で、救い主であり、力であり、歌であること。本当に心から感謝します。

「それはあなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたひとりびとりの愛が、お互いの間に増し加わっているからである。」(テサロニケ人への第二の手紙1:3)

これが喜びだ。一人一人が成長し、お互いの愛が増し加わっていく。もちろん、一人の人が悔い改めて主イエスを信じる者とされることに勝る喜びはない。けれども、それだけではなく、一人一人が主にあって信仰が成長し、自分の喜び、自分の名誉、自分がほめられることを望んでいくのではなく、人々を愛する者とされることが何と素晴らしいことかと思う。主よ、どうかJCCNJを祝福し、どうか、一人一人の信仰が更に成長させられ、お互いの愛があふれますように。「自分のことばかりではなく、お互いのことを考える」(ピリピ2章)お互いとならせてください。

10月6日(月)

「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。」(イザヤ書9:2)

先が見えないトンネルのような、暗闇のようなところを歩いている時に、「光」がどれほどうれしいものであろうかと思う。どれほどの元気が湧いてくるだろうかと思う。主こそがわたしたちの暗闇の中の光、輝きであるとはなんといううれしいことだろうか。主が光となって下さる。自分はまだまだそのことが分かっていないのだろうと思う。けれども、これからのわたしの人生の歩みの中で、暗闇がおおうようなことがあるだろう。そういうことも起こってくるかも知れない。でも、その中で、光でおられるお方がおられることを今からしっかりと覚えておきたい。そして、いざというときに「動かされない」者でありたい。

「預言を軽んじてはならない。」(テサロニケ人への第一の手紙5:20)

この「預言」が今も、私達のうちに与えられる「御言葉による確信」だったり、神様が私達のうちに与えてくださる言葉であるなら(もちろん、その内容が聖書に反していてはいけないことは確かだが)、やはり、神様にもっともっと近くあることで、それが与えられるなら、今、自分に必要なのはこれだ。説教だってそうだ。主にもっともっと近く、もっともっとみ思いを知ることによって、力が与えられ、確信が与えられるだろう。主よ、あなたのそばに行かせてください。わたしの生活があなたとの深い深い交わりに基づいたものとなりますように。主よ、どうか助けてください。みそば近く招いてください。

10月5日(日)

「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか。」(イザヤ書6:8)

自分の汚れ、罪深さにうちひしがれていたイザヤにきよめを与え、罪の赦しを与えた神は、彼を召し出した。けれども、主が彼のために用意しておられた預言は、派手なものではなかった。人々の脚光を浴びるようなものではなかった。自分がどんなに語っても、人が聞かない、耳がふさがれている、そんな預言をだれがしたいだろうか。でも、主のメッセージを語る者は自分の好きなことを語るのではない。主の「語れ」ということを語るのだ。だから、きよめられないとこの働きに堪えられないし、きよめられないと、自分への注目、自分が脚光を浴びることを求めてしまう。主よ、どうか、わたしの働きを守ってください。私自身をきよめ、用いてください。あなたのご用のために、そして、教会の一人一人をきよめ、主を指し示す器として用いてください。

10月4日(土)

「見よ、主、万軍の主はエルサレムとユダからささえとなり、頼みとなるものを取り去られる。」(イザヤ書3:1)

それが取り去られるのは、この事を通して、神だけを頼りとするようになるためだ。4章に「その日、主の枝は麗しく栄え、地の産物はイスラエルの生き残った者の誇り、また光栄になる」とあるように・・・。わたしにとって、神様以外に頼りとしているものはあるだろうか?本当に神を頼りとして、神を見上げて、神のなさることを待ち望みつつ、神に期待して歩んでいきたい。主が道を開かれるから、主が道を導かれるから・・・。教会でも一人一人の賜物ではなく、一人一人の魅力ではなく、その賜物や魅力を与えられた神を信頼して、神の奇跡を求めて、歩んでいこう。

「神のみこころは、あなたがたが清くなることである。」(テサロニケ人への第一の手紙4:3)

清くなること、それが神の御心なのだ。わたしたちが「どうせ罪人なんだから」と罪の中に安住するのではなく、「俺を赦せ」と人に要求することでもなく、清い歩みへの道を歩んでいくことを求めておられる。主よ、どうか、わたしの歩みをきよめてください。わたしの一歩一歩をきよめてください。そして、教会に集う一人一人を守ってください。罪の誘惑から守り、習慣から解放してください。主を求める思いで満たしてください。主に近く歩む思いで満たしてください。

10月3日(金)

「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。」(イザヤ書1:18)

罪深い自分、言葉だけではなく、カッコをつけていっているのでもなく、本当に自分は自分の弱さや醜さ、罪深さを知っている。でも、そのわたしの罪を雪よりも白くして下さるかたがおられる。そこまで言って下さる方がおられる。主はそこまで言ってくださる。そこまでしてくださる。人ではなく、主を見ていこう。主よ、あなたのきよめの御業を信じます。あなたの霊的な力を信じます。主よ、あなたの御業をわたしのうちに与えてください。主よ、どうか、あなたの御霊によってわたしを生かしてください。すべての判断、すべての決断、主が霊的な洞察力を与えてください。

「どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者として下さるように。」(テサロニケ人への第一の手紙3:13)

今、自分は人々のために何を祈っているだろうか、クリスチャンのために何を祈っているだろうか?健康や仕事のために・・・みたいなことが多い。でも、本当にその一人一人が神の前に聖なる者となるために祈っているだろうか?主のみ前に立つ時までに整えられることを切に祈っているだろうか?主よ、わたしを祈り手にして下さい。主に祈り、主の御業を拝していく者として下さい。

10月2日(木)

「自分の愛する者によりかかって、荒野から上って来る者はだれですか。」(雅歌8:5)

荒野で、主に寄りかかって歩んでいく。そのような歩みに招かれている幸いを感謝します。荒野はやはり荒野。つらく、苦しく、早くここから脱したいと思う。でも、その中でも主がおられる。主が支えられる。主が助けて下さる。主に依り頼める。主が共に歩んでおられるから・・・。今年は本当に雅歌の意味がいつもと違った。主がわたしを更に深い、更に親しい交わりに招いておられることが分かった。主よ、どうか、わたしの心に触れ続けてください。もっともっと主よ、あなたのみそば近くおらせてください。

「あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として−事実そのとおりであるが−受け入れてくれたことである。」(テサロニケ人への第一の手紙2:13)

語る者は神の言葉として語る。聞く者も神の言葉として聞く。それが礼拝だ。ならば、本当に語る方も、主の前に出て、主の語られたことを、主が示されたことを語っていこう。主が語られることに忠実であろう。そして、自分自身、主の前にひれ伏して、主の恵みに満たされて語っていきたい。そして、それが一人一人の証しも同じようにされますように。一人一人の証しが、主の前にひれ伏した証しとなりますように。

10月1日(水)

「わたしはわが愛する者のために開いたが、わが愛する者はすでに帰り去った。」(雅歌5:6)

主が私を招いておられるのに、戸をたたいておられるのに、わたしの魂に触れようとしておられるのに、わたしに語ろうとしておられるのに、わたしとの交わりを楽しもうとされているのに、ぐずぐずしていることによって、そのチャンスをみすみす逃してる場合があるのではないだろうかと思う。主の招きに従おうか、どうしようかとしている間に、自分の都合で悩んでいる間に、主の恵みを失ってしまうことがあるのではないだろうかと、思わされた。主よ、あなたの招きのタイミングを見逃すことがないように、逸することがないように。助けて下さい。

「なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。」(テサロニケ人への第一の手紙1:5)

今の自分に必要なのはこれだと思う。知恵ではなく、テクニックではなく、手法ではなく、力と聖霊と強い確信、これが今の自分には必要だ。本当に主の力をいただいて、歩んでいきたい。まさに、主は今わたしをそのようなところに招いておられるのではないだろうか?そして、その力を教えようとされているのではないだろうか。主よ、あなたの力を与えて下さい。言葉だけではなく、力を伴った証をさせて下さい。勝利をお与えください。