「あなたがたは進み出て立ち、
あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。」

11月30日(日)

「主なる神はこう言われる、イスラエルの家は、わたしが次のことを彼らのためにするように、わたしに求めるべきである。すなわち人を群れのようにふやすこと、すなわち犠牲のための群れのように、エルサレムの祝い日の群れのようにすることである。こうして荒れた町々は人の群れで満ちる。その時人々は、わたしが主であることを悟るようになる。」(エゼキエル書36:37−38)

今まで、人数のことをあまりもとめることにためらいがあった。真実に奉仕してその結果としての人数があり、多く与えられても、少しの方々をまかされてもそれでいいと思っていた。それは変わらないが、でも、ここに「求めなさい」と言われている。求めるべきであると言われている。あのモーセが200万人の人々を導いたのも、イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人を養ったのも、神の奇跡だった。神にはおできになる。その信仰がなかったのだ。本当に求めていなかったのだ。主は求めるのを待っておられたのだ。主よ、多くの方々を送って下さい。まず、今お借りしている会堂があふれるほどの方々を送って下さい。この荒野に群衆を送って下さい。

11月29日(土)

「わたしはあなたを立てて、イスラエルの家を見守る者とする。あなたはわたしの口から言葉を聞き、わたしに代って彼らを戒めよ。」(エゼキエル書33:7)

主がわたしに語られたような思いがした。この地域に住む日本語を使う方々のために、わたしの責任がある。ラッパを吹く責任がある。主の戒めと、主の愛とを伝える責任がある。罪の恐ろしさと、救いのすばらしさを伝える責任がある。主よ、語って下さってありがとうございます。あなたの愛を伝えたいのです。あなたの救いのすばらしさを伝えたいのです。主よ、明日のために、またみ言葉を与え、語るべきことを教えて下さいますように。

「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」(ヨハネの第一の手紙4:19)

わたしたちの愛の土台は神さまの愛だ。でも、いかに自分が「相手が良くしてくれたから」「いい人だから」愛することが多いだろうか?結局、神さまの愛があるから、自分から愛していくことができる、と口で言いながら、結局、相手の好意に甘えていないだろうか?「良くしてくれた人に良くする」レベルに留まっていることのいかに多いことか。主よ、あなたの愛を与えて下さい。あなたの愛を教えて下さい。魂に触れる伝道者として下さい。人を愛する者として下さい。

11月28日(金)

「これはイスラエルが助けを求める時、その罪を思い出して、再びイスラエルの家の頼みとはならない。こうして彼らは、わたしが主なる神であることを知る。」(エゼキエル書29:16)

エジプトがさばかれる事によって、それまでイスラエルにとってのいざというときの支えであったエジプトがさばかれる事によって、人々は神に帰ってくるようにと主は願っておられる。わたしたちも頼りになるひと、頼りになるものが取り去られる時に、ほかの所に遣わされていく時に、将来を不安に思ったりするのではなく、神に頼る、神に信頼する事をもっともっと経験できるのだろう。主よ、あなたのご配慮、あなたのなさる事に、あなたが導かれる事に信頼して歩んでいく事ができますように。すべてに信頼していく事ができますように。

「なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。」(ヨハネの第一の手紙3:20)

主の恵みに感謝。主はわたしたちの心よりも大きな方。だから、安心して、主の御手の中に安んじていることができる。これはすごい慰めだ。主に感謝します。主がわたしをも、このような弱い、情けないわたしをも愛し、受け入れて下さっているから、感謝します。どうか主よ、あなたの御手の中に安らぎ、平安の中に、喜びの中に、人を受け入れ、人を愛せる者にして下さい。どうか、福音の力、主の愛の大きさをもっともっと味わうことができますように。

11月27日(木)

今日はサンクスギビング。心から主に感謝をささげよう。そして、教会ではコンサート&ディナー。主が豊に働いて下さり、一人一人の心に語って下さる事を求めていこう。今日、イエスさまにお会いする方々が起こされますように。

「あなたはイスラエルの地に向かって手をうち、足を踏み、心に悪意を満たして喜んだ。それゆえ・・・」(エゼキエル書25:6)

主が背いたイスラエルをさばかれた時に、人々はそれを喜んで、手を打った。でも、それによって彼らはさばかれた。自分自身も恐れなければならなかったのだ。主の前にひれ伏さなければならなかったのだ。今の世界情勢を見て、本当にわたしたちも主の前にひざまずき、ひれ伏さなければならないことを思わされる。主よ、あなたが憐れんで下さい。あなたの御忍耐をもう少しお願いします。この世界を滅ぼさないで下さい。もっともっと伝道して、もっともっと多くの人々に福音を伝えたいのです。わたしの周りに多くの方々がいます。その方々に福音を語らせて下さい。また他にもわたしの知らない方々がたくさん住んでいます。わたしを用いて下さい。遣わしてください。

「世と世にあるものとを愛してはいけない。」(ヨハネの第一の手紙2:15)

After Thanksgiving SALEを前にして、主が警告をされたのだろうか。ここで儲けなければならない方々には申し訳ないが、また、使った方が景気が良くなるから・・・というのも分からないでもない。でも、世と世にあるものを愛してはならないと、今日、主がわたしに語られた。わたしを守る言葉だ。わたしの行動とそして、何よりも心を守る言葉だ。主よ、あなたを愛します。あなたとの関係が満たされない事によって、ほかの所に目を向けたり、世の中のものが魅力を持ってくる事があります(それは必ず、自分の手にすると色あせていくものなのですが・・・)。主よ、あなたとのもっともっと深い交わりに導いてください。

11月26日(水)

「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。」(エゼキエル書22:30)

一年ぶりにこの場所を読んで、また「自分は日本のために、アメリカのために祈っていただろうか」と思わされた。「この地域の人々のために祈ってきたか」と思わされた。批判する事はたやすい。決めつけてものを言う事はやさしい。でも、本当に破れ口に立って、主の前に立って、とりなしの祈りをしてきただろうか?主よ、おゆるし下さい。あなたの前に立ちます。主よ、どうか、この地域の日本語を使う方々を憐れんで下さい。憐れんで下さい。主よ、御手を伸ばして下さい。御手を伸ばして主よ、お救い下さい。

「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネの第一の手紙1:4)

喜びがあふれるため。福音は喜びを与えるものだ。福音は人を生かし、いのちを与え、喜びを与えるのだ。その福音をもっともっと知ってもらいたい。決して窮屈なものではなく、大変なものではなく、喜びを与えるものなのだ、ということをもっともっと語っていきたい。知ってもらいたい。それも表面的な喜びではなく、かるっぽい楽しみではなく、心の中からあふれ出る喜びなのだということを知ってもらいたい。主よ、福音の深さをもっともっと教えてくださって、わたしの喜びをもっともっと増して下さって、喜びを語る者として下さい。

11月25日(火)

「イスラエルの家よ、わたしがあなたがたの悪しきおこないによらず、またその腐れたわざによらず、わたしの名のために、あなたがたを扱う時、あなたがたはわたしが主であることを知るのであると、主なる神は言われる。」(エゼキエル書20:44)

わたしたちのした事によって、わたしたちの心の状態によって、主がみわざをなさるとすると、どんな事になっていただろうか?ただ、主の恵みによって、ただ、主のあわれみによって、ただ、主がご自分の栄光のために、わたしたちを受け入れ、わたしたちを生かして下さっている。何という幸いだろうか?改めて、改めて、自分の行ない、自分の心を見られて、主がそれによって報いをなさるのではない、ということの恵みを思わされた。主よ、感謝します!

「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(ペテロの第二の手紙3:9)

主の忍耐。主が忍耐しておられる。何を?わたしたちが福音を伝えることを。わたしたちが福音を伝えて、多くの人々が悔い改めに導かれる事を。主よ、感謝します。あなたのご忍耐に感謝します。主よ、福音を伝える者として下さい。悔い改めに導く器として、僕を用いて下さい。訓練して下さい。わたしの内側をきよめてください。主よ、わたしを整えてお用い下さい。

11月24日(月)

「わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ。」(エゼキエル書18:32)

主はどんな人の死も喜ばれない。どんな人も、どんなに愚かな人でも、どんなに醜い心を持った者をも、救われてほしいと願っておられる。だから、伝えていこう。だから、語っていこう。主よ、助けて下さい。どんな人にも、どんなに自分と合わない人にも福音を語っていけるようにして下さい。どんなに大変な時にも愛する力を与えて下さい。どんな人にも、どんな人をも・・・。主よ、お助け下さい。

「自分たちをあがなってくださった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。」(ペテロの第二の手紙2:1)

主があがなって下さった。わたしたちを救って下さった。わたしたちのために自分のいのちを与えて下さった。その主の愛を忘れないでいたい。その福音、そのありがたさ、それを忘れないでいたいと思う。主よ、あなたの福音に生かして下さい。福音を感謝しつつ、その福音を福音として歩んでいけますように。主よ、その福音にふさわしく生きていく事ができますように。福音の意味をもっともっと味わいながら歩んでいく事ができますように。

11月23日(日)

「すなわち自分の心のままに預言する人々に向かって、預言して言え、『あなたがたは主の言葉を聞け』」(エゼキエル書13:2)

今の自分にとってみ言葉を聞く事がとても大切だと思った。これは自分にいわれている事だと思った。人々の評判ではなく、反応ではなく、神さまに聞いていく事、神さまご自身に聞いて、答えをいただいて、そして、そこから語っていく事が自分の使命だと思う。主よ、あなたのみ言葉を聞く者として下さい。み言葉に聞いていく、み言葉に聞いて、与えられた事を語っていく者として下さいますように。主よ、お助け下さい。主よ、お導き下さい。主がお語り下さって、わたしが語るべきことを教えて下さいますように。

11月22日(土)

「そして彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。」(エゼキエル書11:19)

主の栄光があらわされている中で与えられた希望のメッセージ、回復のメッセージ。気が滅入るような情景ばかりを見てきた中で、裁きのメッセージばかりを語らなければならない中で、彼がこのメッセージをどれほどの喜びを持って語っただろうかと思う。新しい霊が与えられ、石の心が取り除かれる。主がなさる事のすばらしさを思う。主の霊がわたしたちの心を柔らかくして下さる。サンクスギビングの集会においても、そのような御業がなされますように。

「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。」(ペテロの第二の手紙1:5−7)

力の限りを尽くして・・・とある。信仰に留まっているだけではなく、信仰を持って歩むだけではなく、力を尽くして、徳を求め、愛を求めていく事が大切なのだ。救いのすばらしさを知って、味わって、感謝して歩んできた二〇年。でも、最近、主がわたしをその次の段階へと導こうとされている事を感じる。主がわたしを更に恵みの深みへと、神との交わりの喜びへと導こうとされている事を感じる。このような聖書の言葉が示され、語られている事がその証拠だ。主よ、わたしを更に導いて下さい。徳や節制、忍耐、愛を与えて下さい。

11月21日(金)

「その入口に、このねたみの偶像があった。」(エゼキエル書8:5)

主が偶像を嫌われ、偶像礼拝を厳しく禁じられたのは、「神以外の者を神とする」ことの愚かさを教えるためであった。でも、今、自分たちは偶像に頭を下げる事はない。偶像を拝む事はない。しかし、神以外の者が神よりも頼れるかのように振る舞う事がどれほど多い事かと思う。どれほど多くの時、神以外の者を神以上に頼りにしているだろうかと思う。人でも物質的なものでも・・・。それは同じ罪なのだ、同じ愚かさなのだ。主よ、わたしがいつもいつもあなたを頼りにして、誰かに話すよりもあなたに話し、お金を当てにするよりもあなたを当てにし、あなたの奇跡、あなたの御業を見ていく事ができますように。

「むしろ、群れの模範となるべきである。」(ペテロの第一の手紙5:3)

とにかく、「祈りの生活」という面で、模範にならせて頂きたいと思う。そのように求めていこう。主よ、わたしの祈りの生活をリッチなものとして下さって、本当に素晴らしいものとして下さって、お証ができるように、主との交わりがどんなに素晴らしいものか、お証ができるように、わたしの祈りの生活をもっともっと導いて下さい。もっともっと祈らせて下さい。もっともっと御許に引き寄せて下さい。祝福して下さい。あなたを求めます。あなたと共に歩ませて下さい。

11月20日(木)

「この災いを彼らに対して下すと、わたしが言ったのは決してむなしい事ではない。」(エゼキエル書6:10)

災いも、その警告も、決して無駄な事ではない。裁きを語らなければいけなかったエレミヤやエゼキエルはどんな思いだっただろうかと思う。でも、そのような中でも、そのメッセージは無駄になる事はない、と言われた。主から語られた。災いも主のメッセージのために、主の御心を伝えるために用いられる。用いられる。それが慰めだ。そして、わたしたちもそのメッセージを無にしないように、メッセージを聞く耳、メッセージを読みとる目を持ちたい。

「それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。」(ペテロの第一の手紙4:2)

生活がきよめられる事、生活が造りかえられる事の大切さを思わされる。罪赦されるだけではなく、主によって義と認められる事だけではなく、内側から造りかえられ、主の御心を行う者となるようにわたしたちは救われたのだ。導かれているのだ、主よ、どうかわたしの心の中まで守り、造りかえ、主の御旨をなす者として下さい。主の御旨を行う者として下さい。

11月19日(水)

「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」(エゼキエル書3:1)

み言葉を自分自身で味わって、食べて、消化して、初めて語ることができる。もっともっと味わって、語るためではなく、まず、自分自身が恵まれて、その喜びの中で、そのみ言葉の甘さを味わった中で、そのみ言葉によって生きている力を経験させて頂いている中で語らせて頂きたいと思った。主よ、あなたがいつもいつも語って下さい。語り続けて下さい。いつもいつも渇かない泉を私のうちに与え、あなたの喜びを満たして下さいますように。あなたの巻物をお与え下さい。

「明らかな良心を神に願い求めることである。」(ペテロの第一の手紙3:21)

救いを単に「赦し」にだけ限定しすぎていなかっただろうかと思う。バプテスマを、単に信仰告白に限定しすぎていなかっただろうかと思う。聖書は、救いに心の中のきよめも含んでいる。ここでもバプテスマを、単なる信仰の証ではなく、明らかな良心を神に求めることだ、と言っている。心が造りかえられること、愛せなかった人が愛せるようになっていくこと、赦せなかった過去が赦せるようになること、本当にそのような奇跡を待ち望み、期待し、祈り、求めることが大切だと思う。バプテスマのすばらしさをもっともっと証ししていこう。そして、語っていこう。そして、祈っていこう。主よ、教会の一人一人にあなたからくる良心を与えて下さい。

11月18日(火)

「われわれは天にいます神にむかって、手と共に心をもあげよう」(哀歌3:41)

形だけではなく、手だけではなく、心を神に向かってあげよう。昨日のところでも感じたが、とりなし手として、わたしたちは責任がある。あのモーセが祈りの手を挙げていて、自分は戦いに出なかったけれども、それによって、人々が勝利を得たことが書かれている。私もそのような使命があるのだ。自分は今まで、大学を出て、ビジネスマンになったことはない。そこでのクリスチャンの戦いがどのようなものであるかは、直接は知り得ない。直接の経験はない。その弱さを思う。でも、山の上で祈っていたモーセが、自分は実際闘わなかったとしても、勝利に大きく貢献したように、私もとりなしの祈りの責任、大きな責任があるのだと思う。手だけではなく、時間を取り分けておくだけではなく、心から主に祈りをささげよう。

「それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」(ペテロの第一の手紙2:9)

暗闇の中の光、わたしたちはトンネルの中で、出口を探して歩むのではなく、出口を求めて歩むのではなく、トンネルの中でも、光をもって、驚くべき光をもって歩むことができるのだ。主が与えて下さる光の中を歩むことができるのだ。なんということだろうか?なんという感謝だろうか?この事もどれほどわたしたちにとって力だろうかと思う。出口の見えないトンネルの中でも、主が共にいて下さり、光であって下さって、イエスがいないトンネルの出口よりも、イエスが共にいるトンネルの中の方がどんなに明るいか、どんなに平安か、それを証ししていきたいと思う。主よ、今日も、私の光であって下さい。

11月17日(月)

「ああ、主は怒りを起こし、」(哀歌2:1)

エレミヤは、この国難にあって、それを神の御手の中にあることとした。神の裁きと語った。調子のいいことを言う預言者たちとは違って、厳しく、神の怒りについて語った。すべてのことの背後に神の御手を見ることはなんという大変なことだろうかと思う。わたしたちはすぐに逃げてしまいたくなる。でも、神の前に立ち、神の怒り、罪の結果を正面から受取り、人々に警告をし、また彼らのためにとりなしをしたエレミヤ。「主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ」(2:19)とあるように、人々に祈りを求めた。主よ、あなたの前にとりなしの祈りをいたします。御心に逆らって歩む人々が多いのです。主よ、とりなしの祈りをさせて下さい。この時代の一つ一つの出来事について、ただ傍観者として「コワイ時代になった」とか「なんて愚かなんだろうか」と評論するのではなく、破れ口に立って祈る者として下さい。

「それは信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。」(ペテロの第一の手紙1:9)

わたしたちの喜び、それは魂の救いを得ているかどうかによって決まる。このようにはっきりと書いてある聖書の言葉に、私自身がもっともっと大胆に語っていくべきことを教えられた。「信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている」その源が、「魂の救い」なのだ。イエスに救われ、何の不安もなく、何の恐れもなく生きていくことができるのは何という幸いだろうか?また、反対にこの喜びなく生きることがどれほど大変で、恐ろしく、また不安なことだろうかと思わされる。魂の救いが与えられていることを感謝すると共に、この救いのすばらしさを大胆に語っていきたい。

11月16日(日)

「彼が声を出されると、天に多くの水のざわめきがあり、また地の果てから霧を立ち上がらせられる。」(エレミヤ書51:16)

主が天気をも司っておられる。主が天に雲をつくり、稲光を光らせられる。大きな大きな神。その大きな神を自分は信じているのだろうか?その神さまの大きさを本気で信じているのだろうか?自分自身が問われるような気がした。今日の礼拝説教。恐れを覚える。もっともっと自分自身、神さまの大きさを信じさせて頂きたい。信じていきたい。自分自身がそれを本気で信じてなくて、どうして人々に語ることができるだろうか?主よ、あなたがその力を持っておられることを、信じます。あなたが大きな方であることを信じます。そのように生かして下さい。

11月15日(土)

「旗を立てて、隠すことなく触れ示して言え、」(エレミヤ書50:2)

旗幟鮮明という言葉があるが、自分はそうしているだろうか?隠さないで、福音を、神の愛を、そして、罪の恐ろしさ、そのための十字架の恵み、救いのすばらしさを語っているだろうか。旗を立てて、隠すことなく・・・。そのうち・・・なんて思っていないだろうか?私は遣わされているのだ。この地域の日本語を使う方々のために遣わされているのだ。旗をしっかり立てよう。そちらの方が、出会う人々に対して、誠実だし、伝わるのではないだろうか?福音を大胆に語っていこう。

「義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。」(ヤコブの手紙5:16)

主よ、わたしの心をお守り下さい。いつもいつもあなたに対して真実であることができますように。主よ、あなたに祈りが聞かれる者となりたいです。効果のある、力のある祈り手になりたいです。主よ、どうか、私の心を守り、あなたの前に罪のない者として下さい。心をきよめ、あらゆる誘惑からお守り下さい。主よ、喜んで祈り、心に何のわだかまりなくあなたの前に出ることができるように。そして、み言葉通り、祈りに力がある、祈りに効果がある、ということをもっともっと経験させて下さい。

11月14日(金)

「大盾と小楯とを備え、進んで戦え。騎兵よ、馬を戦車につなぎ、馬に乗れ。かぶとをかぶって立て。ほこをみがき、よろいを着よ。」(エレミヤ書46:3−4)

主の戦いを、戦うように導かれているように思う。この言葉は聖書の前後関係とかに関係なく、今日、わたしの心に語られた。主が、私の信仰の歩みが、戦いなのだ、ということをもう一度確認して下さったように思う。勝利を得ることができるように、サタンの攻撃に「ああ、攻撃されている、だめだー」というのではなく、戦って勝利を得ることができるように、主よ、お守り下さい。

「あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」(ヤコブの手紙4:2−3)

この求めないから与えられないのだ、という言葉は心にぐさっと来た。やはり自分はまだまだ真剣に求めていないのだろうか。いや、本当に求める時に与えられる、これを真実に、真剣に信じて、主の大いなる御業を見せて頂こうと思う。主がもっともっと大きなことをして下さることを、人々の救いの奇跡を見せて下さることを、そして、教会堂のことも、最高のところを与えて下さることを、信じて、求めて、求めて、主が与えて下さる、という証をさせて頂きたいと思う。主よ、あなたの奇跡を求めます。主よ、どうか、救われる方々を今日も、与えて下さい。日々、与えて下さい。

11月13日(木)

「見よ、わたしは彼らを見守っている、それは幸を与えるためではなく、災を下すためである。」(エレミヤ書44:27)

ついこの間、「主の計画は災いを与えるためではなく、幸いを与えるものだ」と与えられたので、この言葉はまた無視できなかった。主がわたしたちに災いを与えようと見守っている、とはどういうことだろうか?それは従う、ということが大切だということだろうか?それとも、「災いが与えられてから、その後に幸いが与えられる」ということなのだろうか(歴史的にはそうだった・・・)?どちらにせよ、とにかく、主の最善を信じて、信頼して歩んでいくことだ。従っていくことだ。それだけがわたしに与えられていることだ。災いをも受けよう。わたしたちは主から幸いをいただいたのだから、そして究極には幸いを与えられるのだから、災いをも受けようではないか。

「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」(ヤコブの手紙3:2)

主よ、私の口を守って下さい。私の口を守り、愚痴や人を傷つける言葉を吐くことがないように守って下さい。そして、そのために、私の心を守って下さい。あなたを愛する愛で満たし、あなたに愛されている感謝と喜びで満たして下さい。あなたの栄光をあらわす器として用いて下さい。

11月12日(水)

「われわれは良くても悪くても、われわれがあなたをつかわそうとするわれわれの神、主の声に従います。われわれの神、主の声に従うとき、われわれは幸を得るでしょう。」(エレミヤ書42:6)

この態度が大切だ。主が語られることは自分にとって良いことであっても悪いことであっても、それはそこに従っていくこと、それがわたしたちの幸いとなる。だから、そこに立っていきたい(実際、43章を読むと、この人たちは従うことができなかったのだ)。言葉だけではなく、挨拶だけではなく、力一杯主に従って歩んでいきたい。従えないようなことに出会った時に、そのようなことだからこそ、従うことの大切さ、従うことの意味を教えて頂いて、したがっていきたいと思う。主よ、どうか、あなたの御心を教えて下さい。そして、それが自分の願いと違っていたとしても、そこに従っていけますように助けて下さい。

「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」(ヤコブの手紙2:17)

いままでずっと、16節にあるように「苦しんでいる人を助ける」のが信仰の行いであると思っていた。でも、ヤコブの言おうとしているのがそんなことではないことが今日初めて分かった。それは「言葉だけで行いがないことが何の意味もない」ということをわかりやすくあらわす例であって、それは信仰のことではなく、だれでも分かる常識として、そんな言葉だけでは意味がない、ということを言っていただけなのだ。信仰はやはり、神さまがわたしたちのために最善をして下さることを信じて、そのように歩んでいくことなのだ。信頼して歩んでいくことなのだ。主よ、感謝します。自分の人生のことについて、また教会のこれからの歩みについて、問われているのは、「神さまが助けて下さる、導いて下さる」と信じて大胆に進んでいくことであることを教えて下さって感謝します。そのように歩みますから、よろしくお願いします。

11月11日(火)

「どうか、わたしがあなたに告げた主の声に聞き従ってください。そうすれば幸を得、また命が助かります。」(エレミヤ書38:20)

主の声に従うことはある時には本当に大変だ。難しい。この時にも王自らバビロンの軍隊に降伏することは本当に難しいことだっただろう。「行けば勝てる」ということを宣伝する方がずっとやさしかったにちがいない。でも、エレミヤによる神の約束は、「降伏すれば助かる」ということだった。そして、結局、王はその言葉に従わなかった。従わなかった。わたしたちはどうだろうかと思う。主を信頼して歩むことがどんなに大切か、どんなに重要かと思う。でも、どれほどわたしたちはそれができない者かと思う。主よ、あなたに従う者として下さい。

「これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」(ヤコブの手紙1:25)

み言葉を聞くだけではなく、行う人になりなさいと。そして、単にみ言葉を聞くだけではなく、聞いて忘れてしまうのではなく、聞いたら、それを心に留め、いつもそれを見つめ、そのように行えるように、そのような者になりたいと思う。主がそのように招いておられることに感謝しよう。主がわたしたちの信仰をただのお題目ではなく、生活に密着したものとなるように助けて下さいますように。本当にそのように生きる者となりますように。主よお助け下さい。主よその力をお与え下さい。聞くだけの者になることがございませんように。

11月10日(月)

「エホデが三段か四段を読むと、王は小刀をもってそれを切り取り、炉の火に投げいれ、ついに巻物全部を炉の火で焼きつくした。」(エレミヤ書36:23)

主の言葉はそれが焼かれても、滅びることはない。主の言葉はその形が失われても、中身がなくなることはない。この王は何と愚かだろうか?主の言葉が自分の気にくわないから、焼いてしまうなんて。そして、焼いてしまえばそれでいいかのように思ったなんて。主の言葉には力がある。主の言葉は事実だ。だから、そこにかけていこう。そこに信頼していこう。主の言葉に感謝していこう。

「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。」(ヘブル人への手紙13:2)

旅人をもてなそう。それがイエスであるかのように。イエスさまが来て下さったかのように。最高のおもてなしをしよう。もし、この方がイエスさまであれば、どんなおもてなしをするか、そのようなもてなし方をしたいと思う。今週もお客さんが来る。だから、心からおもてなしをしよう。主を、イエスさまをもてなすように。

11月9日(日)

「わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心をつくし、精神をつくし、真実をもって彼らをこの地に植える。」(エレミヤ書32:41)

自分は今まで、自分の義務として主を愛することを考えていた。心を尽くし、精神を尽くし、と出てくると、「愛しなさい」と続くものだと思ってきた。でも、わたしたちが神を愛す前に、主が心を尽くし、精神を尽くして、わたしたちのことを愛して下さっている。わたしたちのことを熱い思いで愛していて下さる。これがものすごい感謝だ。心からの感謝だ。主がわたしたちの罪のために思いっきり愛を示して下さった。思いっきり愛して下さった。だから、感謝をしていこう。喜びを表わしていこう。ハレルヤ。

11月8日(土)

「わたしがあなたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミヤ書29:11)

主が与えられる計画、それは希望を与える、幸いを与え、平安を与えるものであるという。この有名なみ言葉を今日は、教会へのメッセージ、JCCNJに対するメッセージとして聞いた。この時のイスラエルの人々が与えられたことも、短期的には、決して喜ばしいものではなかった。そうではなく、逆に、苦しい、悲劇的なことだった。でも、その悲劇の中に、神の平安の計画、希望の計画があった。わたしたちが本当に主の幻を与えられて、奇跡を見せて頂いて、歩んでいけますように。短期的な目先の状況に振り回されて、大切なものを見失ってしまうことがありませんように。主よ、お助け下さい。

「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブル人への手紙12:2)

イエスはわたしたちの救いが喜びで、わたしたちの救いを喜びとしてくださって、それ故にあの十字架をも忍んでくださったのだ。わたしたちのことを喜んでくださる主に感謝。何か心が温かくなるような思いになった。私自身の喜びは何だろうか?自分は何を喜びとしているだろうか?何を喜びとして歩んでいるだろうか?人の救いを、人が造りかえられることを喜びとして歩んでいきたい。

11月7日(金)

「あなたは木のくびきを砕いたが、わたしはそれに替えて鉄のくびきを作ろう。」(エレミヤ書23:29)

主がなされることを、人間が壊そうと思っても、人間が変えようと思っても、それは無理ということだ。主はわたしたちが木のくびきを壊しても、鉄のくびきを造られる。けれども、それも主の導きの中でのこと。主の恵みの導きの中でのこと。主がなさることに信頼して、思いっきり信頼して、素晴らしい御業を見せて頂きたいと思う。主よ、どうかあなたの御力を拝させてください。あなたの御業をなしてください。あなたの御手の中で湯ませてください。

「その都をもくろみ、また建てたのは、神である。」(ヘブル人への手紙11:10)

この「もくろむ」という訳語に心が留まって、それで思いめぐらすことになった。神がもくろむ。もくろむ、とうのは、「何かをしようと考える」「計画する」ということ。わたしたちのために天の都を計画してくださった。わたしたちと共に歩むことを、わたしたちと永遠に共に歩まれることを計画されたという。ありがたいことではないか。主がわたしたちと共に歩まれることを喜びとしてくださって、そのようにしてくださる。それは何という幸いだろうかと思う。主よ、どうかあなたと共に歩む喜びをこの世でも、今日の歩みの中でも、少しでもいいですから、味わわせてください。

11月6日(木)

「主は仰せられる、わたしの言葉は火のようではないか。また岩を砕く鎚のようではないか。」(エレミヤ書23:29)

主のことばが、み言葉自体が火であり、岩を砕く鎚である。自分のことばではなくて、み言葉自体に力がある。自分のプレゼンテーションの仕方ではなくて、み言葉に力がある。そのようなことを経験して、そのようなことを人々に感じて頂けるような伝道者、説教者にならせて頂きたいと思う。主よ、み言葉を与えてください。み言葉を語って下さい。主よ、あなたを待ち望みます。どうか、あなたのみ言葉の力をもっともっと経験させて下さい。そして、み言葉の力による伝道をしていけますように。主よ、お助け下さい。

「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。」(ヘブル人への手紙10:26)

厳しいことばだ、でも、それくらい主イエスの十字架は重い。主イエスの十字架は素晴らしい。だから、罪から離れて生きたい。主よ、お助け下さい。わたしたちは、いや、私は弱い存在であり、本当に罪深いのです。心の底まで罪に染まった存在なのです。自分勝手な、わがままな、人を傷つけ、悲しませ、痛めつける存在なのです。自己弁護に走ってしまいやすい存在なのです。ですから主よ、私の心を守り、すべての罪からきよめてください。愛で、あなたに対する愛で、人々に対する愛で満たしてください。

11月5日(水)

「これは彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝し、これに仕えたからである。」(エレミヤ書22:9)

神を神としないで神以外のものを神とするそのことの結果の恐ろしさを思わされた。昨日、ある人と話している中で、「自分はイエスをsaviorとしては信じるけれども、Lordにはしたくない」という人がいる、という話があった。なるほどと思ったと同時に、自分はどうだろうかと思わされた。主を本当の意味で、主とし、神としているだろうか?本当に主としてこの方に従っているだろうか。この方をだれよりも愛しているだろうか、そのように問われた。神さま、あなたのを主として歩ませて下さい。あなたを何よりも第一として歩めますように。

「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないだろうか。」(ヘブル人への手紙9:14)

やはりこの言葉が心に留まった。キリストの血は、わたしたちの良心をきよめてくださる、という。イエスの血潮はわたしたちをきよめる。わたしたちを新しくする。わたしたちを内側からきよめてくださる。主よ、どうかわたしの心を今日、きよめてください。全くきよめて、罪から解放してください。主よ、そして、思いっきり、思いっきりあなたに仕える者として下さい。全身全霊をもってあなたに仕える者として下さい。

11月4日(火)

「しかし主は強い勇士のようにわたしと共におられる。それゆえ、わたしに迫りくる者はつまずき、わたしに打ち勝つことはできない。」(エレミヤ書20:11)

なんという大胆な宣言。このようなはっきりとした宣言を一体自分はできるだろうかと思った。主がおられるから、だれもわたしに打ち勝つことはできない、と。主よ、なんと信仰の弱い者でしょうか?なんと信仰の薄い者でしょうか?主がおられる。そして、主にあってはわたしたちは勝ち得て余りがあると、聖書は言っている。私自身説教で語ってきた。でも、それがまた自分に問いかけられている。自分自身の不信仰を浮き彫りにしている。主よ、お助け下さい。あなたにあってはどんな敵も敵ではないことを、どんなものも、あなたの敵には値しないことを、経験として、教えて下さい。魂の奥底まで味わせてください。

「すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。」(ヘブル人への手紙8:10)

主がわたしたちの心に主の御心を書きつけて下さる。だったら、本当に心からの願いを行動していけばいいではないだろうか?わたしたちは余りにも、「逃げ」の姿勢になっていないだろうか。わたしたちは神さまの祝福をいただくために、あの1タラントの人のように、「問題がないこと」を求めていないだろうか?いや、わたしたち、と言ってはいけないだろう。私自身、本当に主に信頼して、攻めの姿勢を取っているだろうか?びくびくして、神さまの御心を求める、と言いながら、結局逃げていないだろうか?主はわたしたちの心に律法を書いて下さった。わたしたちが主に祈りながら、歩んでいく時に、わたしたちは自然と主の御心を行う者になっているのではないだろうか?主よ、わたしに、あなたにある勇気と情熱を与えて下さい。そして、幻を見つつ、主のすばらしさを知らせて頂いて歩んで行かせて下さい。主よ、あなたの大きな御業を見せて下さい。

11月3日(月)

「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。」(エレミヤ書15:16)

み言葉が与えられるとそれはわたしの楽しみになる。まさにそのとおりだ。み言葉が与えられると本当に喜びになる。感謝になる。心が燃える。だから、主よ、日々、語って下さい。そして、私自身が語られて、豊かに語られて、喜びにあふれて歩んでいく中で、主よ、あなたがわたしを用いて、人々にそのみ言葉が与えられる喜びがどんなに素晴らしいものか、自分で経験できるように、教えて下さい。主よ、教会の一人一人がみ言葉の力を知り、み言葉の力に撃たれて、造りかえられる経験をすることができますように。主よ、お助け下さい。

「そこでまた、彼はいつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」(ヘブル人への手紙7:25)

主はいつもいつもおられる。いつもいつも大祭司でおられる。いつも大祭司としてわたしたちのためにとりなしをして下さっている。ああ、いかにわたしたちの方がイエスのことを忘れてしまうことが多いことだろうか?わたしたちの方が、イエスを忘れているだけで、イエスの方はわたしたちのことを忘れていないのだ。わたしたちはいつでも主の所に行く時に、受け入れられているのだ、待っておられるのだ。ああ、主よ、わたしの祈りの生活を祝福して下さい。造りかえて下さい。いつもいつも一瞬一瞬が主にささげられた時となりますように。

11月2日(日)

「われわれの神、主よ、あなたこそ、これをなさる方ではありませんか。われわれの待ち望むのはあなたです。あなたがこれらすべてのことをなさるからです。」(エレミヤ書14:22)

雨を降らせるのは、夕立を降らせるのは主だ、と言われる。主が夕立を降らせると言われる。主よ、あなたを待ち望みます。あなたを待ち望みます。わたしたちの努力や修養ではなく、あなたが聖霊様を与え、あなたがリバイバルを与えて下さるのです。あなたを待ち望みます。今日も、主よ、あなたが教会を祝福し、そこに集う一人一人を祝福し、恵みに満たして生かして下さい。あなたの命をそこに満たして下さい。

11月1日(土)

「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることのできないことを。」(エレミヤ書10:23)

いつも思わされるのが、NJに来た時のこと。実に不本意だった。3つの大学のうち、一つの大学しか入れてくれなくて、全く知らない、全く考えたこともない、全く知り合いのいない、NJに引っ越してきた。引っ越しの時に、トラックを返すのにも誰かに一緒に行ってもらわないと、返した後に帰れない。その時に、だれに頼んだらいいのか途方に暮れた。韓国人の学生が助けてくれた。本当に心から感謝している。そんな中で導かれた教会。本当に不思議だと思う。自分自身で決めるのではなく、神が導いて下さることを心から感じている。だから、これからの歩みも分からない。どのように主が導いておられるのだろうか?主よ、教えて下さい。

「この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。」(ヘブル人への手紙6:19)

この「幕の内」という言葉、去年もそうだけれども、今年も心に留まった。神の約束によって、もう心配する必要もない。もううしろのものは忘れて、前に進んでいくことができる。そして、「幕の内」にはいることができるのだ。これはクリスチャンが歩んでいく中で、感謝して歩んでいく中で、経験する神との交わり、神に聞き、神に祈って歩んでいく生涯のことを言っているのだろうか?主よ、幕の内の歩みをわたしにもっともっと味わわせて下さい。もっと豊かな、もっと喜びにあふれる生涯を送らせて下さい。明日の礼拝のために御言葉をお与え下さい。そして、大胆に語ることができますように。