7年かかる建築。今、自分がこの教会の牧師の働きを始めて6年。7年目に入ろうとしている。始めた時に、7年後を頭に思い浮かべていたかというとそうではなかったような気がする。そのような自分の歩みを思う時に、7年後を見据えて歩みを始めることがどれほど難しいことかと思わされる。けれども、ソロモンはそこに立って、神殿建築を始めた。そして、7年後、その完成を見た。主よ、将来を見据える力をお与えください。私はその力がありません。そのような賜物がありません。それもあなたが支配しておられることだと思います。だから、あなたの力を待ち望みます。あなたの力として、あなたの与えてくださるものとして将来のビジョンを見せてください。この点においても、あなたに向かって、口を広くあけます。
ヨハネはこのような働きをした。私もこのように言って頂ければ幸いだ。このように「多くの人がイエスを信じた」となることが私の願いだ。自分は注目されなくてもいい。賞賛されなくてもいい。ただ、主イエスがほめられれば、主イエスを信じる人が起こされれば、それでいい。そのような働きをしたいと思う。そのように用いて頂きたいと思う。主よ、どうか、徹底的にここに生きる者として下さい。徹底的に主を指し示すことに生きる者としてください。己がほめられることを求める誘惑から守ってください。主よ、救われる者たちを起こしてください。
「聞き分けるこころ」と言う言葉に心が留まった。ただ、判断するというのではなく、「聞き分ける」。自分はどこまで人の言葉を聞いているだろうか?人の心の叫びを聞いているだろうか、本当に人の話を理解しようとして聞いているだろうか。そのことを問われるような思いがした。主よ、私を聞く者としてください。語る前に、判断をする前にしっかり聞く者としてください、耳を強めてください。耳を大きくしてください。そして、人の言葉を聞くことができますように。そして、あなたの知恵をいただいて、あなたの御心を教えて頂いて、語ることができますように。人の知恵ではなく、あなたの知恵を与えてください。
昨日のところも同じようなことを語られたのだが、「わかっている」と言い張ること自体の中に、自分のことがわかっていない、罪深さがあるという。自分が見えていないこと、自分の愚かさ、自分の醜さ、自分の不自由さ、自分が渇いていること、自分が満たされていないこと、自分の罪深さがわかっているところに、主への求めが生まれてくる、わかったようなつもりになってはいけないと思う。そのような傲慢さから解放されたいと思う。主がしてくださることに期待しよう。待ち望もう。主が目を開いてくださって、素晴らしいことをしてくださるように、見せてくださるように。私の口を広くあけよう。満たして頂こう。
「その道を慎み」という言葉が心に留まった。その道を慎んで、気をつけていく、そのような歩みを主は私達に求めておられる。道を慎むってどういうことなんだろうか?自分の欲望の赴くままに、ということの反対語?いつも主に心を向けて、一日のはじめにチューニングを神様に合わせて・・・ということなんだろうか?すること、語ることがいつも主の栄光のために、ということなんだろうか?主よ、今日の一日の歩みの中で、「道を慎むとはこういうことなんだよ」と教えてください。教えてください。
そうだろうと思う。このように言いたくなるのは本当にわかる。「あなたがたを自由にします」と言われて、あんたにそうしてもらわなくたって、私は自由だ、私達は自由なんだ、と言いたくなるのはわかる。でも、そのように応えること自体の中に、自分の不自由性があるのではないかと思わされた。本当に自由な人は、自分が不自由であることがわかっているのではないか、本当に不自由だから、「私は自由だ」と言えるのではないかと思う。自分がプライド、というものに捕らわれているから、自分の不自由性を認めることができない。プライドから自由になっている人は、少なくとも、「自分は不自由なのかな」と振り返ることができるだろう。だから、自分が何かを言われて、指摘されて、「そんなことはない」とか「言われたくない」と心の中で感じる時は、注意しよう。自分のプライドが自分を支配していないだろうかと・・・。
ダビデが国中を回って人数を調べよ、との命令を出した時に、将軍のヨアブに「何のために・・・」と言われたということは軍事的な意味はなかったのであろう。やはり、自分の名誉、自分の心の満足のために、「俺はここまでやった」との満足のためにそれを調べたのだろう。だから、主はそれに対して怒りを覚えられた。自分もこのダビデの動機がわかるようになってきた。本当に注意しなければならないと思う。いつもいつも主が私達を支え、守り、祝福してくださっていることを、そして、主はもっと祝福しようとしておられることを、忘れないでいたい。金もわがもの、銀もわがもの、と言われる主。勘違いをしないで、主が与えてくださっているものに感謝して歩んでいきたいと思う。
聖書に書いてあるとおり、という言葉が本当に心に留まった。聖書に書いてあることは必ず成就する。その腹からいける水が流れ出るって、本当にそのようにされる。それは私達の何かではなく、聖霊様が働いてくださる。聖霊様が腹から流れ出てくださる。聖霊様が満たしてくださって、喜びを与えてくださる。渇いている者は、イエスのところに行って、値なしに、それをいただいて、それをいただいて、そしてそこからいける水が流れ出る。ああ、主よ、どうか聖霊様に満たしてください。私の腹の中から、いける水が流れ出る、そのような生涯を送らせてください。
さっき、ダビデのうちに十の分を持っている、と言っていたその舌の根も渇かないうちに、今度は「われわれはダビデのうちに分がない」という。まあ、売り言葉に買い言葉なのかも知れない。結局のところ、彼らは自分の願い通りに事が運ばないことに怒りを持った。その時に仲間との分裂に至った。私達も本当に注意しなければならないと思う。自分の願ったとおり、思った通りにことが運ばないことの中に、怒りを覚え、分裂してしまう危険は本当にある。ダビデがそうであったように、本当に私達一人一人は神のご計画の一部として生かされている、その分をわきまえる、ということが本当に大切なことだと思う。主よ、私自身、あなたのご計画の一部として用いてください。
そうだ、イエスこそ私を満たしてくださるお方だ。この方こそ命のパンだ。「人はパンのみにて生きる者にあらず」とイエスは言われた。そして、ご自分を私達へ与えられるパンとして与えられた。イエスの犠牲のゆえに自分が生かされ、満たされていく。イエスの命をもっともっといただいて、歩んでいきたい。歩ませて頂きたい。主が今も共にいてくださる。主が支えてくださる。満たしてくださる。御言葉を日々いただいて、御言葉に生かされて歩めますように。
ああ、なんて人は身勝手なんだろうと思う。ダビデ王の元につかなかった、イスラエルの人々が一度形勢が逆転すると、そこに自分たちの権利を主張するようになる。でも、本当に来れも自分自身の姿だろうと思う。主に従うのではなく、主を振り回すような私達の姿。本当に主の前に跪いて、へりくだって歩んでいきたいと思う。主よ、状況に振り回され、あなたを振り回してしまうことがありませんように。主よ、あなたに従っていくことのできる者としてください。
イエスに「直りたいのか」と言われて、言い訳をしているこの人の姿の中に自分の姿を見るような思いがした。がたがた言っていないで、歩きなさい、と言われるかのような主の言葉の中に、私への語りかけを感じた。いろいろ言い訳はあるかも知れない、事情はあるかも知れない。でも、結局問題は不信仰なのではないだろうか?いや、私自身、不信仰を示された。主が立ち上がらせてくださるのに、主の力は大きいのに、それを信頼しようとしないで、「いや、こんな問題があるんです、こういう苦労があるのです」と言い訳をして、主の御言葉に従おうとしない。ああ、主よ、おゆるしください。感謝します。「立って歩きなさい」との語りかけを感謝いたします。
ダビデはアブサロムに追われながら、主の裁きを感じていたであろう。罪の結果を感じていたであろう。けれども、悔い改めていた、ダビデにとって、それはまた主の御手を信頼して、あえてその結果を受け止めていたのではないだろうか?主が良しとされることならば、自分が地位を追われることであったとしても、苦しむことであったとしても、屈辱であったとしても、それをあえて受けようと、彼は素直にそこに立っていた。この人は本当に失敗をしたけれども、やはり、主を信頼して立っていた人なんだと思う。主よ、私も弱い人間です。だから、あなたの御手を信じて、信頼して歩むことができますように。本当にあなたを信頼することを教えてください。
ヨナダブは賢い人だったという。でも、その賢さを人を陥れ、辱めるために使った。「非常に賢い」と言っているところが本当に興味深いし、また絶望的な気持ちにさせてくれる。賢さをどう用いるか、それが人生を決めていく。けれども、考えてみれば、それは賢さだけではない、お金や時間も、そうだ、才能もすべてそうだ、それを何のために使っていくのか、どのように用いていくのか、それが問われているような気がする。主が与えてくださった才能、得意な分野、それをどのように私は用いているだろうか?また主が与えてくださった時間、お金、それをどのように用いているのだろうか?主よ、お助けください、あなたが私に与えてくださったものを、正しく用いる知恵をお与えください。
やはりこの言葉が心に留まった。主が言われる。わたしが与える水はその人の中で泉となる。それは主の約束だ。愚かなほど単純に愚直に、この事を信じていこう。主が与えてくださる水はいつまでも渇くことがない。純朴に信じていこう。聖霊よ、私を満たしてください。聖霊よ、私を満たし、いつもいつもあなたの臨在を覚えて歩んでいく喜びをお与えください。主よ、あなたを待ち望みます。渇くことのない水に満たされて歩む毎日としてください。
ダビデはうまく隠した。ヨアブと何人かの側近だけがダビデの過ちを知っていた。他の人々は何も知らなかった。ダビデはうまくやった。しかし、主は見ておられた。ダビデの行ったことは主を怒らせた。私も本当に気をつけようと思う。誰が見ていなくても、誰も知らなくても、主を怒らせることをしてはならない。どんなにうまく隠し通せても、主は欺かれない。子供だって知っているこのこと、本当に主の前に真実に歩んでいきたいと思う。主よ、あなたがいつも教えてください。誰も知らなくても、主よ、あなたが怒られる、あなたを悲しませることをしてしまった時に、主よ、あなたの前に出ることができますように。
イエス様は私達を救うために来てくださった。裁くべきお方が、裁かれて、罰せられるべき者が赦されて、神の子とされたのである。これは考えてみる時に、本当にすごいことだと思う。主が私達のために裁かれて、私達が救われた。イエスのもとに引き寄せられた。神と共に歩む生涯に導かれた。感謝します。あなたの愛を、あなたの救いを感謝します。イエス様、あなたのことを、多くの人々に語っていく者としてくださいますように。
ダビデは自分がヨナタンの子孫にしたいこと、自分が与えたいのに、それを「神の恵みを施そう」と言った。どういうことだろうか。どんな思いなんだろうか?どんな思いになった時、私達は自分の好意を「神の恵み」と言うようになるのだろうか?それは、自分の中に「好意」のようなものがないことに気がついた時ではないだろうか?そして、自分の中にないのに、神様が与えてくださって、神様が満たしてくださって、それでできるから、「神の恵み」と言えるのではないだろうか?主よ、私も「神の恵み」を人に施すことができますように。あなたの力を拝させてくださいますように。
主はまだ取っておられる。取っておいてくださっている。最高の葡萄酒を、よい葡萄酒を、専門家がびっくりするような葡萄酒を、取っておいてくださっている。まだまだ、これからだ。まだまた主は豊かに私に喜びをくださる。それは危機を通してかも知れない。「困ったことになった」ということを通してかも知れない。それも感謝だ。主が最高の葡萄酒を私のために、最後まで、取っておいてくださっている。感謝。楽しみ。イエス様、あなたの与えてくださる最高の葡萄酒、楽しみにしております。よろしく。
喜び踊る姿、そこにダビデは全く恥じらいがなかった。ただただ、主が祝福してくださり、守ってくださり、支えてくださることの喜び、この契約の箱を無事にエルサレムにかき上れる喜び、それにあふれて、彼は踊っていたのだ。自分の中にはまだ恥じらいの思いがある。完全に突き抜けてないものを感じる。まだ、「人の目を気にする」自分がいる。ああ、本当に主と私だけの関係がもっともっと祝福されますように、それによって周りの人との関係も祝福されますように。
神様充ち満ちているもの、イエスのうちに充ち満ちているもの、その中から受けて、恵みの上に更に恵みを与えられた・・・と。主の豊かさ、そのあふれるような豊かさ、その豊かさゆえに、「どうにかやっと」ではなく、「恵みのゆえに更に恵み」をと、まさに押し入れ揺すり入れするような感じでわたしたちを満たしてくださるという。これでもか、これでもか・・・と。ああ、主よ、私はそのように満たされたいです。そのように満たしてください。あなたの救いのすばらしさは、この地上で味わえる天国の前味は、こんなものではないことを信じます。もっともっと満たしてください。もっともっと豊かに満たしてください。
ダビデがこの言葉を語った時に、彼はすでに王様であった。人々の支持も受けていた。しかし彼は自分がただ「主の選び」によって今の立場にあることをよく知っていた。おそらく、サウルの悲惨さを目の当たりにして、彼はたやすく傲慢になることはできなかったのではないだろうか?自分が今あるのはただただ主の選び故でしかない。だから、本当に彼は主の前に、また人々の前にへりくだって歩んだ。だからまた堂々としていた。サウルのような悲惨なことにはならなかった。自分もまたそうだ。本当に主の選び故、主の憐れみゆえに今生かされていることを思わされる。感謝。
彼らは聞いていた。イエスがご自身で「私はよみがえる」と言われていたことを。彼らは知っていた。旧約聖書の中に復活が予言されていることを。しかし、彼らはイエスの復活のニュースを聞いても、それを信じることができなかった。そして、信じない者は、「悲しい顔」をせざるを得なかった。悲しい顔になった。私達の信仰もそうだと思う。私達一人一人もそうだと思う。信じない時に、「悲しい顔」になる。神様の真実、神様の約束の真実さ、それを信じない時に、いくら頭でわかっていても、いくら聖書にそう書いてあると知っていても、悲しい顔になってしまう。主よ、私の悲しい顔を喜びに変えてください。あなたの御言葉の真実を信じさせてください。
このような場面に遭遇したらどうするだろうかと思わされながら読んだ。ダビデはこのアマレク人を裁き、聖書もそれを肯定しているような感じだ。苦しいと言っても、苦しい状況の中でも、命自体も神の御手の中にあるのだから、それを御手にゆだねるようにと主は私達に語っておられるように感じた。これから、延命治療や安楽死、尊厳死の問題も大きくなっていくだろうし、自分自身が決断を迫られるような場面もあるかも知れない。でも、そのような時に平安の内に主にすべてをゆだねて、生死の問題も主の御手にあることを覚えて、いや、このようなことこそ主の御手の中にあることを覚えて、決断をしていきたいと思った。
「御国の権威をもっておいでになる時には」という悔い改めた強盗の言葉に対して、「そこまで待たなくてもいいんだよ」という意味でイエスは「今日」と言われたのかと思っていた。でも、これはそうではなかったのだ。「今日、わたしは御国の権威を持っているんだよ」という意味だったのだ。そう、この十字架を通して、イエスは御国の力を持ってこられたのだ。ハレルヤ!
このところも、また神の支配を信じた言葉だ。神がすべての背後にいることを見たダビデの言葉だ。自分の手柄や自分の功績にこだわらないのも、神を信じ、すべてのことの背後に神の御業を見ているからだ。ああ、このように物事を見る目を私に与えて下さい。人の功績に目を留めるのではなく、その背後におられるあなたに目を留める見方ができますように。すべての栄光を主にお返しする者としてください。
サウルに追われながら、その危機から逃れる千載一遇のチャンスをダビデは迎えた。やらないとやられるかも知れない。どこかで聞いたような戦争を肯定する議論はダビデにこそ当てはまった。やらないとやられるかも知れないので、前もってやっておく、そのチャンスを前にして、ダビデはただ、ただ、神を見上げていた。神を信頼していた。神の支配を信頼していた。だから、彼は手を下さないでもすんだ。たぶん、手を下さなければならない人は結局のところ、恐れに支配されているのだ。恐れがその行動の源なのだ。ダビデはサウルを信じることはできなかった。でも、ダビデは神を信じていた。信頼していた。私もそのような歩みをする者となりたい。そのような意味で強い者となりたい。
まさにイエスを捨てて逃げ去ろうとしている弟子たち、イエスのことを知らない、と言おうとしている弟子たち。その弟子たちに、イエスは神の国の支配をゆだねられたのだ。これには今まで気がつかなかった。前の「仕えなさい」ということや、ペテロに「あなたの信仰がなくならないように祈った」ということばかりに気を取られて、このイエスの「あなたがたに神の国の支配をゆだねる」という言葉には余り注意が行かなかった。主が私達にゆだねられた。主が私達を信頼して、このような不十分な、不完全なものであることがわかっていて、それで私達に御国の権威をゆだねられたのだ。感謝。私が用いられることが感謝。私も用いられることが感謝。
ここでもダビデは、アビガイルの知恵ある行動を「神、主の御業」として受け取った。一つ一つの出来事の中に、一人一人の言葉や行いの中に神様の働きを見ていったダビデ。この霊的な物事の見方、この目。それが自分にもっともっと必要だと思う。小さな日常的なことの中で神様の御業を見ていく人がいる。本当にそのような視点を持っていきたいと思った。小さな出来事が神様のことを指し示していることをもっともっと知っていきたい。日常の小さなことを神様の恵みとして受け取っていきたい。
ここで、イエス様は「何を言おうかと前もって準備するな」と言われた。その時には神様が、イエス様がどんな人も対抗できないような言葉を与える、と。これはものすごいことだ。自分が頭で考えた神様の御業の証なんて、結局反論もできるし、他の見方もできることだろう。結局の所、証明なんてできないんだ、という思いが自分の頭の中にある。しかし、イエス様が与えて下さる言葉は人々に反論のできない言葉なのだ。このような危機の時だけではなく、いつもいつも、この神様の言葉、イエス様が与えて下さる言葉を語っていくものでありたいと思う。自分の頭でこねくり返した言葉ではなく、イエス様の言葉を語っていきたいと思う。
王としてのサウルの捜索は、本当に徹底したものだっただろう。しかし、神がダビデをサウルに渡そうとされなかった。だから、もし、ダビデが見つかっていたならば、それは神の許したもうことだったのだ。わたしたちの人生のいろいろな出来事もやっぱりそうなのだ。神が許したもうならば起こるけれども、神が許したまわなければ、起こらないのだ。だから、God is in controlというのは本当だと思う。それを受け入れることがとても難しい時もある。それがどうしてかわからない時もある。けれどもやはりGod is in controlなのだ。主の御手にゆだねて歩んでいきたい。主の御手の中にあることを信頼して歩んでいきたい。
これはまたパワフルな言葉だ。神のかたちである、わたしたちは神に返されなければならない存在なのだ。自分の存在自身、自分自身は神の刻印が押されている存在なのだ、神の肖像が刻まれた存在なのだ。だから、神に返されるべき存在なのだ。神のものなのだ。当たり前のことを忘れそうになる自分の愚かさを感じる。自分が一生懸命献身して、立派なことをしているかのような勘違いもしそうになる。そんなんじゃない。もともと神のものなのだ・・・。
サウルは主がダビデと共におられることがわかった時に、恐れた、という。どうしてだろうか?それは自分の立場を自分の地位を守ろうとしたからではなかっただろうか?自分の地位にしがみつこうとしていたからではなかっただろうか?元々ロバを探していたサウル。その自分の小ささを忘れないでいたらこんな恐れには捕らわれることもなかったであろうに、自分の王としての地位を守ろうとして、それも、神がその使命をもうお与えになっていないのに、それを守ろうとして恐れに支配されてしまった。守りの姿勢は怖い。いつもいつも主の使命に立って、主の使命のゆえに堅く立って、前進していく者でありたい。
この言葉はもう決定的だ。主がお入り用なのだ、というこの言葉。だから注意して、これを振り回して、自分の願いの実現のために神様を利用して、人々を利用するようなことがあってはならないが、また、反対にそれを恐れて、このことを語るのをためらってはならない、と思わされる。私自身、「主がお入り用なのだ」ということによって生かされている。働かせて頂いている。ただ、それだけだ。他の誰でもない、主が、お入り用なのだ、ということがわたしを生かしている。ありがたいことだ。この言葉の前にひれ伏します。主よ。
人々が恐れて尻込みする中で、ダビデは勇敢に立ち上がっていった。神の力を信じて立ち上がっていった。自分はいつもみんなと一緒に立ち上がりたい。一緒にやりたい、という思いがある。しかし、聖書の原則は必ずしもそうではないのだ。ダビデの勇気、ダビデの勇敢さが、人々を立ち上がらせた。ダビデの勝利を見て初めて彼らは立ち上がった。あのギデオンの時も、3万2千人を神は「多すぎる。人の力で勝ったと思ってしまう」と人々を帰らせた。そして整えられた300人を用いられた。恐れるな。主は敵をもうすでにあなたがたに与えておられる。
叱られても、「やめろ」と言われても、神に祈り続け求め続けたこの盲人。この熱心さ、この求め、この切実さ、このスッポンのような態度、このしつこさ、執拗さ、ねばり強さ、図々しさ、ああ、神はこのような求めに応えてくださる。叱られたり、人から何か言われたり、そんなことによって黙ってしまうようなそんなレベルではなくて、本当に切実な、熱心な祈り、それが今自分に必要だと思う。主よ、祈ることを教えてください。祈りを更に豊かなものとしてください。
人々が・・・人々が・・・民を恐れてその声に聞き従ったのが・・・と言い訳をするサウル。それに対して、「サウルが背いた」「あなたが主の声に聞き従わなかった」と問題を突きつけるサムエル。何が本当だったとしても、サウルに責任があることは明らかだ。どうして、すぐに自分の過ちを認めようとしなかったのだろうか?しかし、この言葉も自分の心の内を探られるようだ。サムエルの「たとい、自分では、小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされました」という言葉もいつも心に響く。主よ、主から与えられている使命に対して忠実な者としてください。
そうだ、今日も大声で主をほめたたえる一日としよう。主がしてくださったこと、主が与えてくださったもの、主が守ってくださったこと。主が導いてくださっていること、主に感謝しながら、大声で賛美しながら過ごそう。何といつも感謝が足りないだろうか?主に感謝しながら賛美しながら歩んでいこう。大きな声で、石が叫び出すことがないように、わたしたちが与えられた神様からのギフトにいつもいつも感謝して歩んでいこう。
7日目が終わろうとしていた時、この人々が去っていった時に、サウルはどんな気持ちだっただろうかと思う。どんな思いでいたであろうかと思う。サムエルがなかなか来ない、そして、人々はどんどん去っていく・・・不安に押しつぶされそうになって、「もうしょうがない!」という思いで燔祭をささげたのだろう。そのサウルの思いを考えると、本当に胸が苦しくなるほどだ。しかし、そこでこそ、神に従うこと、約束を信じることの意味があるのだ。サウルは人々が去ることの方が、神に従わないことよりも恐ろしかった。その愚かさ。しかし、わたしたちもそんなところに陥ってしまうことがあるのではないだろうか?本当に主に従うこと、人々が去ったとしても、主に従うこと、そのことが自分にとても大切なことだと思う。主よ、あなたに従います。人々が去っていったとしても、あなたに従います。本当に御心を知る者としてください。
彼らの問題は、結局のところ、自分と神様の関係を見ようとしないで、他の国々で王が立てられて、戦いで先頭に立っていく姿がうらやましく見えたところだったのではないだろうか?他の国々とは違った使命が与えられて、祝福の基となり、世界の人々が神と共に歩む自分たちを通して祝福されていくところであったのに、「他の国々のように王が欲しい」というのはあべこべであった。王を求めること自体はもしかしたら間違っていなかったのかも知れない。しかし、それを神との関係の中で求めるのではなく、周りの国のようになって欲しい、という動機からだった。今、自分たちの歩みも、神との関係が第一となっているだろうか、自分自身神との関係が第一となっているだろうか?人の言葉に振り回され、人の言葉に動かされていないだろうか?主との関係にしっかりと立って歩んでいきたいと思う。
自分の忠実さ、ということを思わされる時に、もう穴があったら入りたい気分だ。なんて不忠実な者であろうかと思わされる。何と忠実にできない者であるかと落ち込む。賜物が違うんだ、なんて自分を慰めることもある。でも、この聖書の言葉はどうにもごまかしようがない。他の解釈のしようがない。逃げようがない。「大きくものを見て、大切なことだけをする」なんて気取っていながら、実際はタダ怠慢なだけ。御言葉による自己嫌悪。ああ、主よ、小事に忠実な者としてください。自分の力では無理なんです。だから、あなたの奇跡をわたしの内側になしてください。小事にも忠実な者としてください。この御言葉をいつもいつも語ってください。
聖なる神、その力の前にひれ伏さないではいられない、畏れるべき神。主の前に襟を正して、礼拝すること、そのことの大切さを思わされる。契約の箱を見て、その中に何が入っているのだろうか、という好奇心はだれでもあるであろう。でも、主はそれを裁かれた。いや、主のきよさの前にそのような姿勢は焼き滅ぼされたのである。主がそこにおられる、そのことの厳粛さ、そのことの神々しさ、それを思わされた。二人、または三人の者がわたしの名によって集まるところにわたしも共にいる、と言われた主の言葉を思い出し、それは幸いな時でもあるし、また厳粛な時でもある、と思わされる。主よ、あなたがいてくださること、そのきよさを覚え、感謝します。ありがたく思います。
この御言葉にノックアウトだ。イエスのところには罪人や取税人が集まってきたという。イエスのもとには問題児が集まってきていた。どうしてあんな人が、どうしてこんな人が・・・という人々が集まってきていた。それに対して、人々が文句を言った時に、イエスが語られたのが100匹の羊のたとえであり、10枚の銀貨のたとえであり、放蕩息子のたとえであったのだ。教会の印は、問題児が集まっているか、問題児にとって魅力的かどうかだ。問題児が話を聞きたい、と思って集まっているかどうかだ。「教会にこんな人がいるのですか?」という声が聞こえてきた時に、(もちろんその声自体は誤解なのかも知れないが・・・)わたしたちは喜ばなければならない。教会が教会である証拠だと。そして、それだけではなく、そこで問題を抱えている人が、悔い改めに導かれて、造りかえられて歩み始める、それが起こるところ、それが教会なんだと思う。いろんな人々が集まる場所となるように、主よ、教会をあなたのメッセージの語られるところとしてください。
主がわたしたちに語ろうとしておられるのに、わたしは聞こうとしているだろうか?忙しさにかまけて、主のみ声が聞けるようにチューニングを合わせていない時が多いのではないだろうか?主が語ろうとしているのに、それに耳を傾けていないのではないだろうか?主よ、お助け下さい。あなたのみ声を聞くことができますように。あなたのみ声を聞いて、それに聞き従うことができますように。
そしてもう一つ、
この時のイスラエルの人々の喜びようはどんなであっただろうかと思う。賛美をささげたり、感謝をささげたりしただろう。しかし、それは悔い改めに基づいたものではなかった。その喜びは神を自分のために利用しようとする喜びだった。どんなに礼拝が敬虔なものであったとしても、どんなに大きな声で賛美をしたとしても、その生活が本当に主にささげられているものでなければそれは空しい。日々の生活自体が礼拝となるような、生活全体が賛美となるような日々を送らせて頂きたいと思った。
「自分のもの」というものがあると主に従っていくことができない。時間であれ、ものであれ、神様のものではなく、イエス様のものではなく、私のもの、というものがあると・・・。何と自分はその点でできていないだろうかと思う。いや、これは入口の話なんだろうけれども、結構自分の手の中にすべてをしまったままで、握ったままで従ったつもりになっているものがあるのではないだろうかと思わされる。主よ、すべてをささげます。時間も、お金も、私自身も、わたしの夢やわたしのこだわりも、すべてあなたにささげます。あなたの自由に使ってくださり、あなたのために用いてください。あなたの弟子としてください。
これが今の自分の祈りの生活の中にあるだろうか?祈って祈って、祈り抜いた時に、悲しげな顔がもはや悲しげではなくなっているというような経験が・・・。祈りの中で解決をいただいて立ち上がっているだろうか?このハンナの祈りの姿に今日はものすごい強い迫りを受けた。それが聞き入れられる時も、願い通りには導かれない時にも、祈って祈り抜いて、祭司のエリにまで「おかしいのではないか」と言われるほどに祈って、その中で解決をいただいていったハンナ。自分ももっと祈りたいと思った。祈ることが必要だと思った。そして、その中で立ち上がっていくことが必要だと思った。自分の心だけで折り合いをつけて立ち上がっていくのではなく、祈りの中で答えをいただいて立ち上がっていく、そのような歩みをさせて頂こう。
主が忍耐してくださっている。主が憐れんでくださっている。自分はなんでこんなにだめなんだろうと落ち込むこともある。落ち込んだ後がんばって、でもやっぱり挫折して、それでまた落ち込んで、自分は一体何をやっているんだろうか・・・、なんて。でも、主が憐れんでくださっている。主が憐れんで忍耐してくださっている。そのままにしておいてやってくださいと。ただ、わたしたちに必要なのは主につながっていること、主につながって主から栄養をいただいていくこと。愛されて愛されてその力によって立ち上がっていくことなんだと思う。主が憐れんでくださっているのだから、その憐れみの中に歩んでいこう。憐れみを感謝して、自分を責めるのではなく、堂々巡りをするのではなく、感謝を土台として立ち上がっていこう。主よ、感謝します。
ルツがボアズの妻になり、ナオミに孫が生まれた時に、「主はほむべきかな」と人々は言っている。ナオミが帰ってきた時には、人々は、変わり果てたナオミの姿に何事かと思った。しかし、その時から主は御業を始めておられたのだ。その時から「主はほむべきお方」だったのだ。わたしたちも何と一つ一つの出来事に一喜一憂しやすいものかと思う。1章にいる時に、4章を見ることのできる者となりたい。4章を先取りして、4章を信じて歩む者でありたいと思う。主よ、わたしを御言葉による楽観主義者としてください。主よ、恵みを信じる楽観主義者としてください。たとえ、4章のような結果にならなくても、「主はほむべきかな!」と言える者としてください。
初めて気がついたが、このところは、神の御心を知りながら、再臨を待ち望む姿勢に問題のある者たちへの警告だったのだ。神の御心を知っている、それは本当に責任が大きいことを忘れてはならないと思う。主が御心を分かち合ってくださる、と言うことは責任をも与えてくださる、ということだ。預言者のつとめの厳しさを思わされる。あのエレミヤも、エゼキエルも、語らないではいられなかったのだ。状況は厳しくても、語らないではいられなかったのだ。主に語って頂いて、与えられたことを大胆に語っていく者となりたい。
主がわたしを責められた、とナオミは言っている。どんな思いでこの言葉を語ったのだろうか?夫を亡くし、二人の息子を亡くし、2人の嫁と3人だけ後に残された。こんなことになるとは・・・。モアブの地に下っていったこと自体を悔いる思いもあったであろう。自分にその責任があるように感じる時に、それはもっとつらくなる。しかし、主は他の計画をお持ちだった。ルツを通して、どんなときにも神はわたしたちを導いておられるのだ、ということ。困難や苦悩があってもそれが神から見放されたり、罰せられたりしているのでは無いことを・・・。ルツ記を読む時に、1章に立っている時は、2章から4章までの展開は全く想像のつかないことだったのだということを思わされる。わたしたちもルツ記1章のような状況に置かれることがある。そのような時に、主は2-4章をも備えておられることを忘れてはならないと思う。
内側にあるものに気をつけよう。このページも、わたしにとっては「外側にあるもの」だ、「人に見えるもの」だ。だから、気になる。更新が遅れると気になる。どう思われてしまうだろうかなんて思う時もある。でも、本当に大切なのは外側ではなくて内側なのだ。内側が祝福されていく時に、外側にもそれが伝わっていくはずだ。だから、何よりも内側のことに心を砕こう。内側のことにこころを向けよう。本当に外側から入っていくのではなく、心の内側から整えられて、それがわたしの人に見える所にも影響を与えていくような、内面的な祝福をもっともっといただきたいと思った。
王がいないならば、神を王とすべきなのに、王である方を王とすべきなのに、彼らは自分を王として、自分の考えで歩んでいた。王がいれば解決する問題ではないと思う。実際にイスラエルの人々は王を持つようになっても神に従おうとはしなかった。王が神に従う王であれば、そこに従い、神に従わない王だとしても、その王に従って、神には従わなかった。今も、わたしたちは強制されない。わたしたちは影響を受けない。だから、それぞれ自分の正しいと思う生き方をしている。でも、王であるべきお方を王として、歩んでいくことなしに、本当の祝福は得られない。
これはもうひどい。お金を盗んだ息子がそのことを白状して返したら、それを息子にやって、それで偶像を作らせて、自分の祭司を雇って、その祭司も勝手に祭司になり、自分のうちに祭司が与えられたから、それで神様が私を祝福してくださったんだ、とか言って、まるで神が利用されているのを見せられる。でも、わたしたちが歩んでいる中でこのようなことをしていることはないだろうかと、思わされる。自分で判断して、自分勝手に神様の名前を利用して、「祝福をいただいている」と言う。本当に主の前に謙虚に歩んでいきたい。
無くてならぬものは多くはない。自分は本当にこの一つを大切にしてきただろうか?「いろいろあるよ・・・」といろいろの方を重んじてきていなかっただろうか?バカになろう。この一つのことに・・・。この一つ以外のことが教会の中で、また自分の生活の中で幅をきかせ始めた時に、徹底的に、この一つにこだわっていこう。なくてならぬものは多くはない。いや一つだけだ。そこに本当にかけていきたい。ここに生きていきたい。主よ、感謝します。無くてならない一つのことに気付かせてくださって感謝します。その一つのことのために召されている恵みを感謝します。
ああ、なんという悲劇。主が去られたのに、そのことに気がつかないとは・・・。しかし、自分の日常にもそう言うことはないだろうか?自分の方から神様の言葉に耳をふさいで、背を向けて・・・。サムソンが神よりも女を愛して、その言葉に惑わされたように、神の声よりも他の声に聞き従っていることはないだろうか?主よ、いつもいつもあなたと共に歩ませてください。このように語ってくださり、あなたのことを第一に思う日を与えてくださったことに感謝します。
1節にはイエスが弟子たちに悪霊を制する力と権威とを与えられたことが記されている。しかし、ここでは弟子たちは悪霊を追い出すことはできなかった。だから、これは自動的なものではないことがわかる。イエスは祈りと信仰を強調しておられるが、本当にそれが問われていると思う。主の力を主の権威を信頼して待ち望んでいるだろうか?そこが問われていると思う。主よ、今日、聖霊様の御業を見せてください。祈ります。祈らせてください。そして、イエスの名によって悪霊を追い出し、罪の赦しを宣言させてください。
主はわたしたちにとっては不思議な方。wonderをなさるお方。不思議なこと、驚くこと、をなさる方。それを見ることのできるのは何という幸いだろうか?そうだ、なぜ信じない?主の不思議を信じない?主がわたしたちの常識や、「もうこれは変わりっこない」ということを超えて働いてくださる、ということをなぜ信じない?主よ、信じます。不信仰な私をお助け下さい。主の不思議を見せてください。私の小手先の配慮ではなく、神様の奇跡を拝させてくださいますように。あなたの不思議を見ることができますように。
悪霊を追い出されたイエス。この人の変化には周りの人々も本当に恐れた。わたしたちにもその権威が与えられているという(マルコ3:15)。お話としてではなく、わたしたちにその権威が与えられている。人が造りかえられ、新しくされ、生まれ変わる、そのことを命じ、宣言する権威が与えられている。それはまた責任でもある。権威が与えられているということは責任が与えられていることだ。私の責任として、この地域に住む、私に出会う方々が与えられている。その方々に福音を伝え、罪の赦しの宣言をする責任が与えられているのだ。主よ、私を遣わしてください。この権威を与えられていることをしっかりと覚え、その責任を果たさせてください。