昨日の朝、特別な迫りを受けて、教会の方々、求道中の方々、家族の皆さんのために一人一人名前を挙げてお祈りしていた時に、日本からの電話。11年前に副牧師をしていた教会の方からの電話でした。祈られていることを心から感謝しました。そして、ますます祈りたいと思わされました。本当に多くの方々の祈りに支えられている自らの姿を覚えます。夜遅くなってしまいましたが、更新します。
何だろうか?この言葉が本当に心に留まった。人々はそこで楽しい経験をした。その中で、妥協するように彼らとみだらな関係になって、偶像礼拝に陥っていく。せっかく神が彼らを守り、祝福しようとされているのに、呪おうとする者にも呪うことを許されず、祝福の祈りをさせたのに、そこまで神様は祝福しようとされているのに、ミデアンの人々におもねて、女の人たちにおもねて、自分たちの使命を忘れて堕落してしまった。わたしたちも注意していなければならないと思う。本当に気をつけて、周りに流されないで、自分たちに与えられた使命をしっかりと果たしていきたいと思わされた。主よ、お守り下さい。あらゆる誘惑からお守り下さい。
花婿が来られる!それは楽しみなことだ。イエスによって救われたのだから、わたしたちのことを愛して下さっているかたが、来られるのだから!それは結婚式なのだから・・・。本当に楽しみだ。目を覚ましていよう。眠ってしまうのは、その喜びが、その期待が、どっかに行ってしまうからだ。本当にイエス様が愛して下さっていること、養って下さること、そして、命を与えて下さったこと、そのことをいつもいつも生活の中心においていきたい。目を覚ましていなさい、なんて言われなくても、遠足の朝、早く目が覚めてしまうように、楽しみで楽しみで、起きているような、そんな待ち望み方をしたいと思った。感謝。
この預言はそれまでの預言とは違うように見える。それまでバラムは魔術を求めていた。魔術の中にも神様が働いたのだろう、かれは預言をした。でも、このときは魔術をしなかった、そして、神の霊が与えられたという。その時に彼に起こったことは、ただ、言うべき言葉、語るべき言葉が与えられただけではなかった。彼は打ち倒された。そして目が開かれて語り始めた。この経験、打ち倒されて、目が開かれる経験、これがわたしたちにどれほど大切だろうかと思う。主よ、日々の歩みの中で、また毎週の礼拝説教のために、打ち倒されて目が開かれるような経験をお与え下さい。
何が問題だったのだろうかとも思う。良く読むと、神様が「岩に命じなさい」と言われたのに、彼らは岩を打った。また、「わたしたちが岩から水を出さなければいけないのか」と「神」ではなく、「わたしたち」の働きとした。そういうことだろうか?「神様を聖なる者としてあらわす」とはどういう事なんだろうか?人間を遙かに超えたお方として、神様だけが神様であることを証しする事だろうか?私は礼拝で、神様が聖なるお方であることをあらわしているだろうか?また、日々の生活の中で神様が聖なる方であることをあらわしているだろうか?主よ、助けてください。あなたの事をいつもいつもあがめて歩むことができますように。人の前でもまた私とあなたとの関係の中でも、家族の中でも、あなたの聖なることをあらわさせてください。
壮麗な建物を見て、「すごいですねえ、イエス様」と言った弟子たちに、「何を言っているんだ」と警告されたイエス。わたしたちもこのことを覚えておかなければならないと思った。WTCの跡地には立派な建物が建つようだけれども、どんな立派な建物も、過ぎ去っていくものに過ぎないことを決して忘れてはならないとおもう。自分の日々の歩みの中でも、すべては過ぎ去ることを忘れないで、必要以上のものを浪費しないようにと思う。そして、主から任されているものを、主が喜ばれるように用いていきたい。
つぶやきは聞きたくない。だから、自分も言いたくない。つぶやきなどに支配されていたくない。けれども「彼らが死ぬ」という言葉にぎょっとした。わたしたちはつぶやく時に死に至る。ここでは直接的には、神の裁きによる肉体の死を意味しているだろうけれども、それだけではなく、わたしたちの霊的な死を意味するのだろうと思う。わたしたちがつぶやく時にわたしたちの霊的な命が死んでしまう。確かにつぶやいている時に、「生き生きと生きる」事はできない。つぶやいている人を見るときに、その人からいける命の水が流れ出ている、なんて事は感じない。主よ、つぶやきから守って下さい。つぶやきの罪を癒し、全くきよめて下さい。教会の中からもつぶやきの霊を追い出して下さい。意見を言わなければならない時は、つぶやきとしてではなく、祈りに裏打ちされた対話として持ち出させて下さいますように。
恥ずかしいことだが、本当のところ自分は、自分の働きが「人に理解される」ことを期待しているんじゃないかと思わされる出来事があった。いつもそんなことを感じているわけではない。人に理解されなくてもいい、注目なんかいらない、神様から与えられた自分の使命を果たさせて頂いているんだ、と思っている。でも、時々、いろいろな出来事の中で、自分の気持ちの反応を見ながら、自分の本当の腹の中を見せられるように感じることがある。今日の聖書の箇所は、「偽善者っていやだな」と他人事のように素通りすることは簡単だろうと思う。けれども、主がわたしたちの心の中の「パリサイ人性」を探られ、示される。本当に神様がほめられること、イエス様の十字架に示された愛の大きさだけがほめられることを求めていきたい。本当にそれは素晴らしいことなのだから・・・。聖霊様、あなたの鋭い探りに感謝します。主よ、わたしを全くきよめ、あなたのすばらしさだけを喜ぶ者としてください。そして、自尊心をくすぐって堕落させようとするサタンの働きに対して、本当に注意していることができますように。わたしの奉仕が人に見せるためではなく、ただ、あなたの愛に感謝して、そこからあふれてくるようなものとしてくださいますように。
モーセのリーダーシップの危機、それは彼自身の問題ではなく、会衆の問題だった。その中で、彼のリーダーシップを守られ、問題を解決されたのは神ご自身だった。神ご自身が栄光をあらわされ、さばきをされて、問題を解決された。主よ、わたしのすべてをあなたの御手にゆだねます。このような危機がわたしに襲ってきた時に、神様あなたが栄光をあらわされて、問題を解決して下さる方であることを信じます。わたしたちがみんな神様の前にひれ伏して、あなたに従っていくことができますように。あなたが神であり、主であり、教会の頭であることを本当に経験することができますように。
いつもここを読む時は、準備されていた礼服を着なかったこの客の愚かさを感じていた。神の婚宴に招かれているのに、十字架による赦しという礼服を着なかったこの客の愚かさを見ていた。けれども、この人は黙っていたのだが、それが「だれもそんなこと教えてくれませんでしたから・・・」という事だったらどうだろうか?教会はだれでも新しい方を歓迎します、と言いながら、礼服の話をしないなら、「この福音を信じて、十字架による赦しをいただかなければいけないんですよ」と言わないで、笑顔で迎えているだけだったら、それは申し訳ないことだと思った。どうやって責任をとれるだろうか?決して、わたしたちは「いいんですよ」なんて言っちゃいけないと思う。ただ、教会に来ているだけではだめだ。本当にこの礼服をいただいて、身につけて、神様の前に出よう。そのことをはっきりと伝えていこう。
昨日の夜、近所の「月曜日、火曜日の夜は大人が食べれば子供はタダ」というハンバーガーショップに行ったら、French FriesがFreedom Friesとなっていました。フランスが最後まで武力行使に反対していたから・・・と言う理由でそういうのが広がっているということは話には聞いていたけれども、実際にそれを見るとショックです。まるで、太平洋戦争の時に、日本で、英語が「適性言語」と言われて、野球とかでも、横文字の言葉が使われなくなったとか、と似てたりして、でも、別にフランスは敵ではないのに・・・。本当にアメリカのいやな所が出てきてしまっているみたいで・・・。でも、また、それに腹を立てている自分の姿を見て、こんな中で本当に「愛」を持って、穏やかな心を持って、ぎすぎすしている中にも平安を持ち運ぶように生きていくことの難しさを覚えます。また、昨日の「速報」の件、続報が出てきていないので、もしかしたら誤報だったのかもしれません。でも、その時見たことは確かだし、感じたことの方が大切なので、そのままにしておきます。
わたしたち、このことは注意していなければならないと思う。いろいろな決断をする時に、いろんな事を考えて、現実的なことを選び取るだろうけれども、それがしばしば「主に背く」決断だったりすることがあるのではないだろうかと思った。でも、このときに「エジプトに帰る」ということが余り現実的な決断だったとは思えない。不信仰は、恐れることは、正しい決断をさせなくさせてしまうんだなあと思った。神様を見て、神様の導きを探って、一つ一つの決断をしていく者となりたい。
今年はNJの教会から出て行く方々が多い。日本に帰る方、また米国の他の地に導かれようとしている方。送る方は本当に寂しく感じるが、やはり、わたしたちの教会で恵まれて、整えられて、他の地に派遣されようとする方を見る時に、「主がお入り用なのだ」ということを感じないではいられない。主が用いて下さる。一人一人を用いて下さる。そう思うと、喜んで送り出せそうな気がする。主よ、送り出す教会の喜びをもっともっと味わせてください。
今朝、連合軍がピンポイントで軍事施設をねらっているのに対して、それを狂わす機械をイラクが使っていた、それを連合軍が破壊した、という速報が流れていました。ねらいが狂うと住宅地に落ちたり、他の国に落ちたりするわけで、でも、攻撃されているイラクの方はそういうものを使わないわけにはいかないし・・・。新しい兵器が作られる時、それが「一般市民を巻き添えにしないように」という動機で作られた物だとしても、それに対抗する技術が開発されて・・・といういたちごっこです。学生時代に、まだ核軍拡の時代の終わり頃だったでしょうか、大陸弾道弾に対抗して迎撃ミサイルが開発されて、それに対抗して迎撃ミサイルをすり抜けるミサイルの開発が進められて・・・という話を聞きましたが、でも、そうならざるを得ないのでしょう。でもここで「人間は愚かだ」なんて他人事のように言えない・・・。一刻も早い終結を祈ります。
最近、この「信じなさい」という励ましを多くいただく。信じて、求めて行くことを神様が私自身にチャレンジとして与えてくださっているんだと思う。祈ること、求めること、一人一人を大切にすること。わたしたちが何かをすることよりも、神様の導きに従って、なすべき事を与えられてなしていくこと、それが今の自分に求められていることだと思う。主の手は短くて届かないということはない。主の手が短いからわたしたちが助けなければならない、ということはない。主が働いてくださる。わたしを用いようとされている。信じて求め、信じて従うことが求められている。主よ、あなたを信じ、従って参ります。主よ、お語り下さい。主よ、信じます。一人一人を癒してください。
主がこう言ってくださる。わたしのような者に対しても、パウロやペテロやヨセフやモーセと同じように与えてくださる、という。命を投げ出して主に従った宣教師たちと同じように与えてくださるという。今朝は本当にうれしかった。「翌日、この人たちはどうするだろうか?」という話をしたことがあるけれども、今朝は本当に心の底から、素直に、翌日は朝早く出て、この人の畑で働きたい、とそう思った。主よ、わたしを用いてください。あなたの畑で、朝から、精一杯働かせてください。
今日は月曜日でお休みの日。うちにいる3人の子供たちのうち、二人はdemandingっていうか、「かまってくれ」タイプ。もう一人は一人で黙々勝手に遊んでいるタイプ。で、どうしても、その一人はほおって置かれがちです。しかし、今日はその娘と二人きりになるチャンスがあったので、ぽかぽか陽気の中、「外で遊ぼっか」ってことになり、「何をしようか?」と聞いたら、「チャッチボール」という意外な答え。息子とは結構やるのですが、この娘とは初めて・・・。で、楽しくやりました。やっているうちにどんどん上手になっていくのを見ながら、女の子は家内に任せて・・・と、あんまり遊んでこなかったなあ、と思いました。ひとしきり遊んだ後、一緒に座って、「ほんとはずっとキャッチボールやりたかった?」と聞いたら、「うん」と答えが返ってきました。demandingでない子のことも決してほっといちゃいけないなあ、と思わされました。牧会でもそう。一人一人を大切にする牧会を心がけたいと思わされました。ということで、更新は夜になってしまいましたが、行きます!
目標を目指して歩いているときに、1ヶ月も、またそれ以上も一つのところにとどまっているのはどんなだっただろうか?彼らには、「カナンの地に入る」という目標があったのだ。それなのに途中の荒野に、何ヶ月もとどまって、ある所には二日だけなのに、ある所では1ヶ月も・・・。けれどもそれは「雲がとどまっていた」ということが支えたのだと思う。主がそこにおられる。主がそこにおられる。わたしたちは「導き」を求めるけれども、もっと求めるべきなのは「導き手」なんだ。guidanceではなく、guideが必要なんだ。主が共にいて下さる。それは何という幸いだろうか?
妻を愛せ。もう二人ではなく一体である。まもなく13年。うーん、考えさせられる。遅々とした歩みだと思うけれども「二人ではなく一体である」ということを、本当に実現させて頂きたいと思う。ただそう思わされた。一体かあ。悔い改めさせられる・・・。
主の御声は贖罪所の上から語られる。赦しの場所から・・・。昨日、不思議な経験をした。昨日の朝の「こころから人を赦す」ということを経験させられたのだ。これは、やはり自分の意志を、自分で自分の気持ちを動かすことを超えていることだと思った。今まで固まっていた心が、不思議な平安に満たされたのだ。祈りは聞かれる、本当にそう思った。昨日の朝、祈った短い祈りが聞かれたのだ。やはり、どこかで自分も、その方もみんな同じ罪人で、神様の前に一人の人間として立っている、神様の前に立つ自分、という思いが大切なんだなあ、と思った。思わされた。いつも十字架の前に立とう。主の前に立とう。今、戦争の中で、やはり心が騒ぐ。75パーセントのアメリカ人がこの戦いをサポートする一方で、昨日はNYだけで10万人が反戦集会に集まったという。何が本当のことなんだろうと思う。けれども、やはりわたしたちは周りをみるのではなく、十字架から語られる神に聞いていくことが大切だと思う。ナイーブな考えや、周りに振り回されるのではなく、十字架でご自分をお与えになった主に聞いていくことだと思う。しもべは聞きます。主よ、お語り下さい。
平安。今、本当にわたしたちに必要なのは平安だ。自分の中に戦争が早く終わってほしいという願いがある。少しでも「交渉がなされている」というニュースが入ると、そこに希望を持つ自分の気持ちがある。それはそこに住む人々の「日常」が安心して眠れるようなものとなってほしいという、当然の願いだ。それはそれとして、また違ったレベルで自分の心の中をのぞいてみると、「戦争が終われば安心できる」という思いがあるんじゃないだろうかと思った。「外面的な平和が心の平和を与える」と思っていないだろうか?でも、歴史の中でのいろいろな証しを見る時に、抑圧や恐怖政治の中での、迫害の中での、戦争の中での、不思議な平安の世界がある。「平和は戦争と戦争の間の隙間」ではない、といつも語りながら、生まれて初めて、「戦争をしている国の中にいる」という経験をして(こんなのは、爆弾が落ちてきているところにいる人々の感覚とはまた全然違うのだろうが・・・)、やっぱり、「戦争が終わってくれれば・・・」と思っている自分がいる。「終わってほしい」その気持ちは変わらないけれども、その中でも平安がある、その世界を経験させて頂きたいと思う。
この「こころから・・・」という言葉にぎくっとさせられた。「形」ではないんだ、「距離を置く」ということでもないんだ、「忘れる」ということでもないんだ、「心から」赦さなければ・・・。本当に問われていると思う。主よ、私の心をきよめてください。
更新めちゃくちゃ遅くなりました。夜の10時半です。
朝読んで、夕方マンハッタンに迎えに出て、早く着いたので、待っている間にもう一度読んで、何度も何度も反芻して、味が出てくる所だと思いました。戦争の展開の早さに驚きつつ、でも、本当に早く終わってほしいと思います。
すごいなあ、と思った。聖なる物を一目でも見たら、死ぬだろうと・・・。本当に恐ろしいと思った。でも、あのイザヤが神を見た時に、あのときに、「ああ、私は滅びるばかりだ・・・」と言った、そのことを思い出した。本当にそうなんだろう。わたしたちのような罪深い、いい加減な、者が、神の聖なる物を見たら、本当に死ななければいけないのだろうと。その深刻さ、その畏れ、それなしに、「福音」はやっぱり薄っぺらになってしまうと思う。主のきよさをもっともっと教えて頂きたいと思った。福音をもっともっと喜ぶために・・・。
また、信仰のことが示された。信じる者にはそれができると・・・。からし種一粒ほどの信仰でいいと。あなた方の信仰がないからだ・・・と。信じるようになる。信じるようになる。と何度も言われる。今日は癒しのニュースを聞いた。本当に神様が奇跡を起こしてくださったことを聞いた。本当に感謝。もっともっと単純に主を信じて、祈って、期待して、待ち望んで、もっともっと奇跡を見せて頂きたいと思う。主にとっては不可能なことはない。これは特に主が人の救いのことを言われている所だ。救いの奇跡を、人が作り変えられる奇跡を主よ、あなたがわたしたちに見せてください。信仰を与えてください。信じて祈ります。
こちらでの時間で昨夜、とうとうイラクとの戦争が始まりました。
教会では午前中の祈り会で、聖書の黙示録を一緒に読んでいますが、そこには恐ろしい状況がやがて起こるのだ、ということが記されています。キリストへの信仰を持っているがゆえに物が買えなくなったり、迫害をされたり・・・。またイエスご自身も「戦争が起こり、民が民に敵となって立ち上がり、多くの人の愛が冷える時がくる」と言われました。そして、聖書のメッセージは、そんな時代がやがて来る、必ず来る、しかし、恐れてはいけないよ、あわててはいけないよ、あなたは恐れに支配されてはいけないよ、しっかりと立って、信仰に生きていきなさい、ということです。今回の戦争について、アメリカの多くの人は、短い時間で戦争が終わり、イラクが民主的な平和な国になる、と期待していると思います。しかし、もしかしたらそうならないかも知れない。まさに憎しみが憎しみを呼び、泥沼に入っていってしまう事があるかもしれない。更に中東が不安定化するかも知れない。だれも、そんなことは願っていないけれども、たとえ、そんなことが起こってしまったとしても、「恐れるな!」ということです。その憎しみの渦に巻き込まれないで、憎しみの連鎖に巻き込まれないで、「主のわざ」に励むのです。
主の臨在の象徴であった会見の幕屋を中心に人々は前進していった。教会は今もそうあるべきだ。何が教会の中心になっているだろうか?いつもいつも教会の中心はイエス・キリストでなければならない。それがおかしくなっていく時に、隊列が崩れていく。もう一度、私自身、何が中心なっているか、深く見つめ直し、愚直に、ただ愚直にキリストを中心にしていきたい。
イエスのために自分の命を失う・・・それはどういうことなんだろうか?これも単純さが問われていると思った。単純にイエスのために自分の命をささげる。一番大切な命をそのことのために愚直にささげる。その時に、命が与えられる。それでいいんだと思う。それが必要なんだと思う。自分の命を救おうとする者はそれを失うのだ。自分を守ろうとしないで、自分をイエスのためにささげていく。徹底的にそのように生きる者となりたい。徹底的にそのように生きていこう。
今まで「日本の犯した罪をお詫びして・・・」みたいな事に抵抗を感じていた。自分はその時代に生きていたわけではないし、その時代に生きていた方々の事情もわからないし、自分が責任のないことをわびることは簡単だ、結局、自分が悪くない、60年前の先輩方が過ちを犯した、その方々のために、わたしたちがお詫びしますよ・・・みたいなのは何か無責任なような感じがして・・・。でも、聖書のここでは「自分の罪と先祖たちの罪を悔い改める」事が書かれている。そこには「自分もそこにいたら同じ事をしていたに違いない、そして、今まで、時代が変わり、形が変わっても同じ事をしてきた・・・」そういう連帯感なのだろう。最近、60年前に自分が生きていたら、日本でクリスチャンとして生きていたら、どうしていただろう・・・ということを思わされる。「なぜ、あのとき、人々は天皇を崇拝していたのだろう、そして軍国主義に従ったんだろう、アジアを侵略したんだろう・・・」と言うことは簡単だ。それを批判することは簡単だ。でも、その時代に自分がいたらどうだったんだろうか?何ができたんだろうか?何を発言できたんだろうか?自分もそこに連帯していることを、思わないではいられない。
「あなたが信じるようになる」その言葉がずっと心に留まっている。その中で、この婦人の信仰には本当に驚かされる。このしつこさ、この熱心さ、この一途さ・・・今の自分に必要なものだと思わされる。簡単に、物わかり良く、考えて、自分の中で解決して・・・というところがある。本当のところ、おまえは信じているのか?と。本当にイエス様に食い下がって、必死に求めて、奇跡を見せて頂きたいと思う。「あなたが信じるようになる」主よ、感謝します。
自分は湾岸戦争の時にはまだ日本にいた。だから、「戦争をしている」国に生きることは今まで経験がない。
「人に惑わされないように気をつけなさい。・・・また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい。あわててはいけない。それは起こらねばならないが、まだ終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。・・・多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ24:4-13)
このような時代の中にあっても動揺せず、わたしたちの使命である「福音を伝える」ということに堅く立っていきたい、そのように思わされた。
なぜ聖書はこんなに安息日について厳しく記しているのだろうか?今日、思わされたことは、そうでもしないと、やっぱり仕事をしてしまうからではないか。そうでもして厳しくしないと、神様のことなんか隅っこに押されてしまうからではないだろうか?やはり神様が第一にされているかどうかが、ここで問われてくると思う。現代社会で、どうして週休一日、か、二日なのか、というと、それは生産性を高めるためだ、ということを読んだことがある。ちゃんと休養をとった方が生産性が高まる、というわけだ。そうなると、結局何が大切かというと、「生産性」になってしまう。だから、逆に生産性が高まるためだったら日曜日でも仕事した方がいい、という展開になっていく。本当は休みたいんだけど・・・ということで。だから、安息日が大切なんだと思う。神様を思うことだけに、神様との関係だけに時間をとっておくことが・・・。主よ、私もそのように生きる者としてください。そのような時をエンジョイする者としてください。あなたとの親しい交わりのためだけに特別にとっておいた時間を・・・。
何かをしようとする時に、わたしたちは多くのことを経験し、学ぶことができる。何もしないでいるのは楽だろうし、平和かも知れない。でも、それでは、あの1タラントを土の中に埋めてしまった愚かな人のようだ。神様はわたしたちが失敗しやすい存在で、力もないことをご存じだ。ここにあるようにわたしたちにあるのはほんのわずかだということもご存じだ、その上で「あなた方の手で・・・」と言われる。そして、「それをここに持ってきなさい」と言われる。本当に神様の力を信頼して、多くのことを経験させて頂きたいと思う。主よ、用いてください。私を用いてください。
朝、聖書を読んだのですが、書いてアップロードする時間がなかなかとれませんでした。やはり戦争は避けられないのでしょうか?奇跡を祈りつつ。
この20章を読んでいると、こんな事まで書かなければいけないほど、当時の周囲の人々は性的に堕落していたのだろうか、と思わされる。もちろん、今の時代にもいろいろなことがあるのだろうが、こんな事は書かなくてもいいんじゃないか、ということまで書かれている。その時代の中にあって、「聖なる者」として生きて行くことはどれほど大変でどれほどチャレンジングだったかと思わされる。馬鹿にされてもいい、時代遅れだとか、化石だとか言われてもいい。本当にわたしたちが神の前に正しい倫理を伝えていくことの大切さをも思わされる。神様のものなのだから・・・。神のものとされたのだから・・・。
人々の不信仰ゆえに力ある業をなさならない、というのはちょっとぎくっとする言葉だ。でも、「あなたの信仰のようになるように」いう言葉もあった。本当に信じて、信頼して歩んでいく事がどれほど大切なことかを思わされる。主が御業をなそうとされている。なのに、わたしたちの方が不信仰で・・・というよりも、この文脈を見ると、「傲慢で」ということだろう。本当にわたしたちの傲慢さが、御業を妨げていると思うと、本当に悲しくなる。主よ、あなたの御業を、あなたの力を拝させてください。単純に信じる者となります。
イエスはこのほふられるやぎと、荒野に送られるやぎとの両方を一手に引き受けたようなお方だ。このアロンが手をやぎの上に置いて、罪の告白をして、その罪をやぎの上に載せる。わたしたちが罪を告白する時に、あたかも、お約束ごとのように、手軽に告白していなかっただろうか、と思わされた。告白するたびにイエス様の十字架を覚え、十字架の上に手を置くようにして、自分の罪がこのお方の上に置かれる事の深刻さを覚えながら、罪を悔い改めるべきなのだ。昨日も思わされたが、福音が安っぽくなっていなかっただろうか?罪がどれほど恐ろしいものであるか、そして、そこから赦されるためにわたしたちはどれほどのものをいただいたのか、それを本当に心から覚えたいと思う。
この祭儀的な汚れについては私達は律法からの自由を与えられているけれども、心の汚れ、それはどうなっているだろうかと思う。私達はあまりにも汚れに対して無頓着になっていないだろうかと思う。イエスの血がすべての罪から私達をきよめる・・・。そのことのすばらしさ、そのことの大きさを忘れていないだろうか?神様が汚れを嫌われるということを忘れてしまって、そのことを軽く考えて、結局のところ、福音をやすく見積もっていないだろうかと思わされる。それで、私達の救いの喜びが、ちっぽけなものになっていないだろうか?安っぽい福音ではない。本当に大きな代価の払われた救いなのだ。主よ、あなたの救いのすばらしさをもっともっと深く深く見せてくださいますように。そして、もっともっと大きな喜びに満たしてくださいますように。
マリヤがイエスを胎に宿す時に、「わたしを心にかけてくださった」と喜んでいたが、ここでは私達が「イエスの兄弟、母」と言われているのだ。昨日の夜も、教会ロビーに集まったあふれるばかりの方々を前に、「主にある兄弟姉妹」の喜びを感じた。イエスから兄弟と呼ばれ、姉妹と呼ばれ、母と呼ばれる幸い。救われた恵みと喜びを思わされた。今日もこの喜びを一番に味わうことができたこと、本当に感謝。今日の一日をこの喜びに支配された日としてください。喜びに満たされた日としてください。
この異火は何を指しているのかはっきりしないが、9節にあるように「酔っぱらっていた」のか、それとも、ただ、祭壇の火ではなく、そこらの火を適当に・・・ということなのか・・・。しかし、本当にきびしい神のきよさだと思った。神のきよさは本当にきびしいものなんだと思う。そして、主の前から火が出た、とある。昨日のところでも主の前から火が出た。それは人々を喜ばせる火であった。そして、今日のところは人々を嘆かせる火であった。どこが違うかというと、同じ、神様の聖なることを示す火であった。違ったのは、人々の方だった。聖霊様の同じ働きでも、人々の態度によって、それは喜びにもなり、そして、また嘆きともなる。しかし、この嘆きも、また新しい恵みの始まりともなるのではないだろうか?主の前に、聖霊様によって罪が示され、嘆く嘆きは、また聖霊様によって解放され、力を与えられて歩んでいく道へと導かれる。主よ、あなたがわたしの罪をも焼きつくし、あなたの前にpureな者としてください。あなただけを愛し、あなただけを信頼していくことができますように。すべてのものをあなたを通して、あなたという存在のゆえに愛していく者としてくださいますように。
幼子のように神の国を受け入れる・・・。知恵のある者や賢い者に隠されている・・・。どういう事なんだろうかと思う。本当に単純に信じていくことが大切なんだと示されているように思う。自分自身、本当に単純に神様の御業を信じ、神様のなしてくださることを大きく期待していく姿勢が問われているように思う。「あなたの信仰の通り、あなたの身になるように・・・」と言われたイエス。本当に単純に信頼していこう。ただ、主のなしてくださることを信じて歩んでいこう。主よ、今日の集会の一つ一つにも働き、あなたの御業、救いの御業をなしてくださいますように。
主の前から火が出る。すごい情景だったんだろうなあ、と思う。そして、祭壇の上の燔祭を焼きつくした。主の前にささげた自分自身を主の火が焼きつくした。やはりこれは私達の献身と聖霊の火によるきよめの御業のことを指し示しているのだろうと思う。イエスは「聖霊と火によるバプテスマ」を与えると新約聖書には言われている。アロンが主の命令の通りにささげものをささげた時に、火が降ったように、私達が神様の前に本当に自分自身をおささげしていく時に、自分のこだわりや自分のプライドや、すべてをささげて主の前に出る時に、主の前から火が出て、それを焼きつくしてくださる。自分自身を聖霊の火で焼きつくしてくださる。主よ、今の自分に必要なのはそれだと思います。聖霊を求める者に主はそれを与えてくださる・・・。今日も新しく御霊様によって満たしてください。主よ、このレビ記にあるような、主の前から火が出て、ささげものが焼きつくされて、人々が喜び、主を拝するような、そんな御業を見せてください。
神様はなんて広い方なんだろうといつも、ここを読むたびに思う。私達を受け入れる人は、イエスを受け入れたのと同じような扱いをしてくださる。水一杯でも下さった方には、報いを与えられる。でも、今日は、それに加えて、私達の責任はなんて大きいんだろうかと思った。神様の代理人である。神様に代わって人々に愛を伝え、示していく存在である。悪霊を追い出し、死人を生かし、病の人を癒す使命が与えられているのだ。その権威を与えられているのだ。主よ、助けてください。わたしではなく、あのヨセフがパロの夢を解いた時に、「わたしではなく神です」と言ったように、あなたの御業をわたしを通してなしてください。あなたの御力を拝させてください。
祭壇の火は絶やしてはならない。この祭壇は燔祭の祭壇だ。その燔祭の祭壇から火を消してはならない、という。聖霊の火が燃え続けるためには、ささげられた己が、自分自身がその祭壇にささげられ続けなければならない。いつもいつも己が神様の祭壇の上にささげられていなければ自分自身の歩みもおかしくなってしまうことを思わされる。主よ、いつもあなたの祭壇の上に私自身がささげられて、聖霊の炎がいつもいつも燃えていることができるように、私に語り続けてください。私の献身の姿勢が怪しくなってきた時には、あなたが私に語り、教え、悔い改めさせて下さいますように。朝に夕に献身を新たにさせてください。
これは、すごいなあ、と思った。信じるようになる。つまり、信じないならば、そのままだ。信じ、求める者たちに主は御業をなされる。ならば、主よ、求めます。この地域の方々の救いを。多くの人々がイエス様の許に導かれ、この喜びを知ることができますように。救われて人生が作り替えられる方々が起こされますように。愚痴から解放され、その唇に賛美があふれる方々がどんどん起こされますように。それを通して神様の栄光が表わされますように。
昨日、ある方から「どうして牧師になろうと思ったんですか」と聞かれて、思い出したのは、この言葉だった。この言葉が迫ってきて、主の前に進み出たのだった。しかし、今日はその前半、人々の姿を書いているところがここに迫ってきた。自分は何のために召されたのか?それは弱り果てて倒れている人を癒し立たせる主の御業を指し示すためではなかったか?信仰に立って共に働く主の兵士たちが養われていくことも大切だ。彼らが更にしっかり立って歩んでいくための働きも大切だ。しかし、それ以上に、弱り果てて倒れている者たちのために召されたことを思った。主よ、今日、弱り果てて倒れている人との出会いを与えてください。本当の意味での魂が触れあうような出会いを与えてください。主よ、今日の一日あなたの働き人として用いてください。
燔祭は「焼き尽くすいけにえ」という意味だという。これは私達がすべてを神様にささげることを象徴的に表わしていると言われる。すべてを焼き尽くしてしまう。何も手許に残さないで、何も小賢しい知恵で「有効に」用いるようなつもりを持たないで、ただ、主にささげていく。すべてを主にささげていく。あの香油の壺を割ってすべてをイエスに注ぎかけたマリヤのように、他の人から見たら、「もったいない」と思えるかも知れない。でも、本当にすべてを捧げることが神様への献身なのだと思う。そして、その献身は、新約の時代に生きる私達にとって、いつもいつもイエス様がまず私達のためにすべてを捨ててくださったその愛を土台としているのだ。感謝。主が愛してくださったから、主が与えてくださったから。だから、自分もすべてを焼き尽くしてしまうように主に捧げていこう。特にプライド、頑固な心、人に良く思われたいという心・・・すべて主の前に焼き尽くして頂こう。
「こんな信仰は見たことがない」とイエスをして言わしめたこの百卒長の信仰・・・それは「ただ、お言葉を下さい」という言葉に表わされた信仰だ。ただ、お言葉を下さい。御言葉が語られたら、もうそれは必ず成る、もうそう決まっている、という信仰だ。主の御言葉は必ず成る。そこに生きていこう。いつもいつも御言葉を求め、御言葉によって確信を持って生きていく、そのような伝道者でありたい。自分の中に、すべてを調整してうまくやっていきたいという気持ちがあることに気がつかされている。そうではなく、御言葉を与えられて、与えられたなら、本気でその御言葉にかけていく、そのような働き人になりたいと思う。主よ、僕は聞きます。どうぞお語り下さい。
進む事も勇気がいるが、とどまることも勇気のいる事だ。神様が導いてくださらなければ、私達は進めない。また、とどまる事も難しい。主よ、あなたの答えを与えてください。進むべき時には「すすめ!」と。とどまるべき時には「とどまれ!」と。主よ、祈り求めます。私達の一歩一歩の中で神様の導きをしっかりと見ていく事ができますように。そして、教会の中で、今そのような祈りを捧げている方々のために、主よ、あなたが、あなたご自身がはっきりと道を示し、「とどまれ」「すすめ」と語ってくださいますように。神様、あなたから答えを頂く経験は、一生の宝です。どうか、一人一人に直接、答えを与えてください。
いままで、ずっとこの言葉を「教訓的な言葉」として受け取ってきた。御言葉に立って行くことが大切なんだ、見えることではなく、土台が大切なんだ・・・と。でも、今日初めて、この言葉が「励まし」の言葉として神様から語られた。御言葉を土台として、御言葉に立って歩んでいるあなたは、どんな嵐の中でも、どんなに風が吹いても、どんなに洪水が襲ってきても、大丈夫なんだ、と。一週間前、家の地下の倉庫に水漏れがしていて、大変な目にあった。小さな、細いパイプにひびが入っていて、そのパイプはそれほど大切なパイプではなかったので、栓を閉めればそれですんだのだが、小さな水漏れでも、大変なことになる。洪水なんてどんなだろうかと思う。でも、そんなことが襲ってきたとしても、どんな嵐が襲ってきたとしても、この御言葉にしっかりと立っていけば、大丈夫だ。その平安を与えられた。主よ、感謝します。
まあ、貴重な金で・・・と思った事があった。でも、この金、もしもここで使われなかったら、どこで使われていたのかと考えれば、それはおそらく誰かの耳につけられていたのか、鼻につけられていたのか、へそにつけられていたのか・・・それを主の許にささげた人々の心は本当にすばらしいと思った。最高のものを主にささげよう。最高の時を主にささげよう。
そして、この贖罪所(契約の箱のふた)は新約聖書ではイエス様の象徴である事が明らかにされる。主が、まず主が私達のために最高のものを与えてくださった。最高の愛を表わしてくださった。純金よりももっともっとすばらしい贈り物を私達にしてくださった。本当にそのすばらしさを思わされる。感謝。今日も、今日の礼拝も、その神様のすばらしさ、神様の与えてくださったプレゼントの尊さ、それをあがめるものとなりますように。
喜んでする。心に感じる。その奉仕、そのささげもの。それがあふれるとは何というすばらしい事だろうかと思う。そのような人々であふれている教会には、一生懸命人集めをしなくても、人は集まってくるだろう。そのためにはいつも神様の恵みが注がれていなければならないと思う。養われ、恵まれ、命の水が流れ下り・・・いつも水源から水をいただいている事が本当に大切な事だと思う。主よ、いつも私達が水源に目を留めている事ができますように。水源から水をいただいて、その力で歩んでいく事ができますように。このレントの期間中、いつも以上に周りに目を向けるために、いつも以上にあなたからの癒しと満たしを与え続けてください。
ああ、またここに帰ってきた。学生をやっていた頃、本当にこの事ばかり考えていた。勉強もしていたけれども、それに負けないくらい心配をして計算をしていた。いつもこの言葉が語られて、ああ、そうだ、神様がいつも必要を満たしてくださるのだ、と教えられて、立ち上がってきた。そして、今、あの頃とは比べものにならないほど、与えられているというのに、また、思い煩っている。これはどれだけ与えられているかということとは無縁なんだなあ、と思わされる。たくさん与えられたからこの思い煩いがなくなるのではない。神様を信頼するかどうかで、決まってくるのだ、と思わされる。主よ、わたしをこの思い煩いから解放してください。そして、神の国と神の義をまず第一に求める、そこに立たせてください。
今日もまたモーセのことをうらやましく感じさせられた。と共に、考えてみたら、私たちもモーセと同じ恵みをいただいていることを思わされた。第二コリント3章18節には「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。」と約束されているのだから。祈る時に、聖霊様を求める時に、モーセが主と友のように語り合ったように、私達も主とお会いすることができる。「キリストにあってはじめておおいが取り去られる」のだ。主よ、もっともっと親しく、私を導いてください。あなたとの交わりを喜ばせてください。あなたに期待し、待ち望みます。
これはただ、ストレートに心に響いた。今の自分にとって「敵」とは何だろうか?だれだろうか?その方のために、その人々のために祈れ、と。心に浮かぶのは、牧師、伝道者でありながら、「福音」を語ろうとしない、聖書をそのまま、まともに神の言葉として受け取ろうとしない人々・・・。その人々のために祈れ!と言われている。また、今の世界情勢の中で「敵」とは、社会の「敵」とは・・・。彼らのために祈れ!とは・・・。主よ、あなたの求められる事はとんでもない事です。とんでもない事だから、簡単にできるとは思っていません。でも、あなたの力をいただいている私達にはできない事はありません。主よ、祈らせてください。もっともっと、仲間だけではなく、「敵」と思える人々のためにも・・・。
今朝、インターネットがつながらなかったので、アップロードが午前中の集会が終わってからになってしまいました。今日もまた結構雪が降っています。
今日は自分の牧会の姿勢にチャレンジを与えられた。モーセは何にも自分に責任はなかった。神に伝えられた注意事項を話し、そして、アロンに民をしばらく託し、神の前に立っていた。そのモーセが自分に全く責任のない、民の過ちに対して、必死になって、神の前に立ってとりなしをした。自分がいかに逃げの気持ちがあるか、モーセのように神の前に立っていないかをはっきりと示された。漠然とこういう姿勢で・・・と言うことではなく、一つ一つの出来事にあって、いつもいつも神の前に立って、とりなしの祈りをささげよう。
主よ、あなたの祈りへの招きを感謝します。わたしがそのような思いを与えられる前から、あなたは待っておられた方であることに、感謝します。祈ります。
レントは断食の機会でもあるらしい。自分自身はレントを全く意識しない教会で育ったので、詳しいことはあまり知らない。しかし、この教会に導かれて、40日間のレントを意識はしているが、レントだから断食をするということはない。でも、このイエスが荒野で断食をされた40日間から、このレントの40日間が来ているらしい。そんなことを考えながら、今日のところを読んだら、またこのイエスの言葉が心に留まった。私たちが神の口から出る一つ一つの言葉で生きている。神様から与えられる言葉で生きているのだ。今日もこのように聖書を読めること、御言葉を味わうことができるのはなんという幸いだろうかと思う。もっともっと御言葉に養われ、ああ、わたしはこの御言葉で生きているんだ、という毎日を送ることができるように、と思う。
この時代のイスラエルの人々にはこの幕屋があった。そして、この幕屋で神にお会いすることができた。その所であなたに会う、という宣言はなんといううらやましいことであろうかと思う。あそこに行けば主にお会いできる・・・。自分にとっても、この祈りの場が「あそこに行けば主にお会いできる」その喜びで満たされる場となることを願う。このいすに座り、この机に向かうと、「ああ、主にお会いできるんだ」という思いにあふれる場と・・・。もちろん、場所は本当のところ関係ないのだろう。どこででも、「主よ」と呼ぶ時に、応えてくださる、いや、そう私たちが祈るのを待っておられるのだろう。イエス様ご自身が今の時代の「幕屋」であり、「祭壇」であるのだ。主の許に行こう。そして、この机を「主にお会いできる所」として聖別しよう。
もう一度、「私たちは土のちりから造られたのだ」ということを思い出させられた。わたしはなんてことはない、神様の力からすれば、石ころからでも造られることができた。土のちりから造られた存在だ。神様の御手の中にある存在だ。自分の小ささがわかればわかるほど、神様に愛されていることのすばらしさ、神様に「心の留めて頂いている」ことのすばらしさを思わされる。今日はAsh Wednesday、これからイエスの十字架のみ苦しみを覚えるLentが始まる。しかし、本当にこのときだけではなく、いつでも、一年中、イエスの十字架のみ苦しみを思い、そしてイエス様の恵みを覚え、そして、何よりも愛されていることの喜びにあふれて歩みたいと思う。
祭司が神の前に出る時に、肩にはエポデ、胸にはさばきの胸当て・・・どちらもそこにはイスラエルの12部族の名前があったという。祭司は神の前に人々のために取りなしをする立場にあり、それは当然のことだと言えば当然のことだ。しかし、自分にこれを当てはめてみると、本当にもっともっと一人一人の方々のことを覚えて祈らなければならないと思う。本当にそのために召されたのだと思う。牧師伝道者というと何か人前に立って語ることが目立つことだが、それよりも本当に大切なのは、一人一人の方々のことを覚えて祈ること、恩師からそのことを学んだ。榎本保郎先生が息子さんが小学生の頃、「お父さんはよくいのり、よくべんきょうします」と書いているのをごらんになった、と本の中に書いておられたように記憶するが、自分の子供に「良く祈る」と言われる、のはどんな日常だったのだろうかと、思う。わたしのことも、最近、もっと・・・と主が祈りに招いておられる。主よ、祈ることを教えてください。
ここに今日は象徴的な意味を感じた。博士たちはイエスに出会うまでの道と違う道をたどっていった。自分も今朝起きた時は自分の弱さを、愚かさを感じていた。しかし、このように聖書を読んで、聖書から語られて、祈って歩み出そうとする時に、不思議と来た道とは違う道に導かれている。もう、自分の弱さや愚かさではなく、神の強さ、与えられる喜び、そして今日へのビジョンに歩まされている自分がいる。不思議な力だと思う。あの自分を落ち込ませていた存在が、サタンであったことに気がつかされる。主よ、感謝します。あなたと一日を始められることを。そして、今日出会う一人一人にあなたが触れてくださることを信じます。大きくあなたに期待しつつ。
旧約聖書だけを今まで読んできましたが、今日からは新約聖書を並行して読んでいきます。ちょっと時間がかかるのですが、旧約聖書を読んでいる間も、やはり新約聖書に記されている恵みを忘れてはならないと思います。イエスは言われました。「聖書(旧約聖書)はわたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)と。
去年も同じようなことを感じた覚えがあるのだけれども、自分の神様へのささげものが「心から喜んでするもの」と本当になっているだろうか?と思わされた。子供の時から、ずっと与えられたものの十分の一は神様にささげて、十分の九を使うようにということが身に付いて、いい習慣であり、そのように教えてくれた両親に心から感謝しているのだけれども、どこかで「決まっていることだからささげている」という感覚があると思う。当たり前なのだ。だから、元々与えられたものの十分の九与えられたと思ってしまっているのだろう。そこには痛みも葛藤もないけれども、「喜び」という感じでもない。この与えられたものをささげる喜びを、教えて頂きたいと思った。そう。本当は十分の一、神様のもので、十分の九自由に使っていい、というのでもないのだ。本当はすべてが神様のものなんだ。だから、すべて神様の願われるように使う使命があるのだ。
神様、与える喜びを、ささげる喜びをわたしの心の奥底まで教えてください。そして、それを義務ではなくて、律法ではなくて、喜びとしてすることができますように。
「おのれの民」という言葉、小さな言葉だけれども、その言葉が心に留まった。わたしはイエスにとって「おのれの民」とされているのだ。その幸いを感じる。わたしのものだ、と言って頂ける幸い。そして、その「おのれの民」というものは、開かれているのだ。今も、イエスは「おのれの民」となる人々を求めて招いておられるのだ。そのことを伝えていこう、そのことを語っていこう。今年も、主よ、あなたのことを知る方々が、信じてあなたの民に加えられる方々が多く起こされますように。
昨日の早朝祈祷会の中で、創世記1章を読んだ時、ある方から「どうして『夕があり、朝があった』という順番なのか?」という問いかけがありました。家に帰ってから、一冊の本の中にそのことについて触れていることを思い出して読んでいました。その時に、「私たちには『一生懸命働く朝があって、疲れて休む夜がある』けれども、創造の秩序はそうではない。私たちが何もしないでただ休んでいる夜から神様が働いておられ、朝になって、そこに私たちが招かれ、神の働きに参加させられる・・・」と書いてありました。今、自分に大切なのは、朝、自分の仕事をしようとすることではなく、神と共にいることを楽しみ、神の働きに参加させて頂くことだ、と思った。聖書を読み、祈ることも、いつのまにかこのHPのための「仕事」になってしまっていないか、本当なら、自分が聖書を読んで語られ、祈りへと導かれたことを分かち合うためのこのページなのに、逆にこのページのために聖書を読んでいないだろうか?そして、そのことが「仕事」になっていないだろうか?そう思わされました。そして、今日からは、とにかく、神の前に静まり、聖書を読み、神から語られ、心にあることを祈り、このひとときをenjoyした恵みを分かち合いたいと思います。
そのように神に触れ、神と交わり、神に語られて生きていくことの大切さ、それを今日は思わされた。ただそれだけだ。何か活動することに意味を見いだし、動き回ることに「仕事をしている」と思いがちな自分。本当に静まることの大切さを思わされる。今日の礼拝の聖書箇所でも、イエスはどんなに忙しくても、時を作って、人々から逃げるようにして、父なる神に祈る時を持たれたことが書いてある。本当に今日もまた語られた。神様が今、自分に一番大切なこととして、教えようとされているのではないか。そう思わされた。主よ、もっと導いてください。力の秘訣に、喜びの秘訣に、あなたのお役に立つ者として歩んでいくための秘訣に導いてください。
今日の早朝祈祷会も幸いなひとときでした。創世記からの学びを始めました。御言葉が語られる時に、それは必ず成る。そのことを心から感謝します。遅くなりましたが、3月初めての更新は今12時頃です。
十戒の最初の戒めとして出てくる言葉で、いつも読んでいる言葉なのだが、その言葉がとても鋭く、心に語りかけられた。神様が語って下さった。「わたしだけを神としなさい」と。もちろん、わたしは偶像礼拝をするわけではない。神社に行って、お寺に行って頭を下げるわけではない。またキリスト像やマリヤ像にも頭を下げることはない。しかし、他のものが、神より大切になってしまう時に、神を神としていない、といえるのではないだろうか?心が探られた。時間の使い方も、まず、神様の前に祈る時を一日の中で一番いい時間を割こう。余った時間ではなく、都合のいい時間ではなく、最高の時間を神様にささげよう。自分の願いもまず神の前に祈り求めよう。家族に相談したり、信頼できる方に相談する前に、まず神様に祈り求めよう。教会の働きのためにも神様を一番に信頼していこう。信仰的に立派な方、頼れる方、一生懸命奉仕して下さる皆さん、そのようなマンパワーを信頼する前に、それ以上に、私たちの弱い所に働いて下さる神様を信頼して行こう。