「無くてならぬものは多くはない。
いや、ただ一つだけである。」

6月30日(月)

「わたしの目とわたしの心は常にここにある。」(歴代志下7:16)

「パウロは彼をじっと見て、いやされるほどの信仰が彼にあるのを認め、」(使徒行伝14:9)

6月29日(日)

「またわたしの建てる家は大きな家です。われらの神はすべての神よりも大いなる神だからです。」(歴代志下2:5)

6月28日(土)

「しかしわれわれがこのように喜んでささげることができても、わたしは何者でしょう。わたしの民は何でしょう。すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです。」(歴代志上 29:14)

「一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。」(使徒行伝13:2)

6月27日(金)

「しかしダビデは二十歳以下の者は数えなかった。主がかつてイスラエルを天の星のように多くすると言われたからである」(歴代志上 27:23)

「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ。」(使徒行伝12:11)

6月26日(木)

「心を強くし、勇め。恐れてはならない、おののいてはならない。」(歴代志上 22:13)

「そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった。」(使徒行伝11:21)

6月25日(水)

「費えなしに燔祭をささげることをいたしません」(歴代志上 21:24)

「ほんとうによくわかってきました。」(使徒行伝10:35)

6月24日(火)

「全地よ、主に向かって歌え。日ごとにその救いを宣べ伝えよ」(歴代志上 16:23)

「突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。」(使徒行伝9:3)

6月23日(月)

「立琴と琴とシンバルなどの楽器を打ちはやし、喜びの声をあげることを命じた。」(歴代志上 15:16)

「主の霊がピリポをさらって行ったので・・・」(使徒行伝8:39)

6月22日(日)

「すなわち彼は主の言葉を守らず、また口寄せに問うことをして、主に問うことをしなかった。」(歴代志上 10:13−14)

6月21日(土)

「彼は今日まで東の方にある王の門を守っている。」(歴代志上 9:18)

「しかし、彼は聖霊に満たされて天を見つめていると・・・」(使徒行伝7:55)

6月20日(金)

「これは彼らが戦いにあたって神に呼ばわり、神に寄り頼んだので神はその願いを聞かれたからである。」(歴代志上 5:20)

「彼の顔は、ちょうど天使の顔のように見えた。」(使徒行伝6:15)

6月19日(木)

「イサクの子らはエサウとイスラエル」(歴代志上 1:34)

「使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。」(使徒行伝5:41)

6月18日(水)

「これは全く主の命によってユダに臨んだもので」(列王紀下24:3)

「主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。」(使徒行伝4:29)

6月17日(火)

「心に悔い、主の前にへりくだり、衣を裂いてわたしの前に泣いたゆえ、」(列王紀下 22:19)

「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。(使徒行伝3:6)

6月16日(月)

「日影が十度進むことはたやすい事です。むしろ日影を十度退かせてください。」(列王紀下 20:10)

「みんなの者におそれの念が生じ、」(使徒行伝2:43)

6月15日(日)

「主の熱心がこれをされるであろう。」(列王紀下 19:31)

6月14日(土)

「朝の燔祭と夕の素祭および王の燔祭とその素祭、ならびに国中の民の燔祭とその素祭および灌祭は、この大きな祭壇の上で焼きなさい。」(列王紀下 16:15)

大きな祭壇を造って、ダマスコで立派な祭壇を見て、それをまねて、立派な祭壇を造って、そこで燔祭をささげるようにと人々に求めたアハズ王。なんて愚かなんだろうと思う。他の神々の祭壇をまねて造るなんて。でも、私もそのような誘惑を感じることがないわけではない。立派な働き、多くの人々を惹きつける働きがあると、それが神の喜ばれる事かどうかを考えないで「まねる」ことがある。そのような事に誘惑を感じることがある。本当に注意しなければいけないと思う。派手な働き、調子のいい働きに対して、惹きつけられることがある。ただまねをしたくなることがある。本当に気をつけて、神様に求めて、神様に従って、正しい判断をさせて頂きたい。主の喜ばれることは何なのか、本当に求めていきたい。

「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、」(使徒行伝1:8)

また、聖霊様の働きだ。聖霊様の力だ。We need you, Holy Spirit, we need you bandly. 本当に聖霊様に満たして頂きたい。その力を拝していきたい。満たされ続けて、その確信にあふれて、喜びにあふれて歩んでいきたい。あのペテロがそうであったように、弟子たちがそうであったように、聖霊様の力にあふれて、大胆に主を証しして、主を証しして歩んでいきたい。主よ、聖霊様を満たしてください。聖霊様、わたしの心にあふれてください。

6月13日(金)

「あなたは五度も六度も射るべきであった。」(列王紀下 13:19)

そう、何度も何度も射るべきなのだ。何度も何度も、ああ、主よ、途中で止めることがないように、主よ、徹底的な勝利をいただいて、歩んでいくことができますように。何度も何度も、途中で止めることなく、勝利をいただいて、感謝して、力強く歩んでいく者としてください。徹底的な勝利を。徹底的な確信を。どこまでも満たされて、余るところなく、満たされて、歩ませて頂きたい。主よ、あなたの招きに感謝します。

「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい。」(ヨハネによる福音書21:22)

他の人はどうであれ、わたしたち一人一人は神様に、その一人一人に与えて下さっている特別な使命に対して忠実に、本当に忠実に歩むことを求められているのだと思う。主が与えて下さっている使命、主が与えておられる働き、そこにしっかりと立っていく者でありたい。主の与えられる使命に従っていく者となりたい。主よ、私はあなたに従います。他の人がどうであれ、あなたに従います。あなたが答えを与えて下さい。

6月12日(木)

「しかしエヒウはイスラエルの神、主の律法を心をつくして守り行おうとはせず、イスラエルに罪を犯させたヤラベアムの罪を離れなかった。」(列王紀下 10:31)

エヒウは主に召されて、主から使命をいただいて、王になったのに、王になったら、今度は自分が滅ぼした王と同じような過ちを犯し、自分を王として立てられた神に従うことをしなかった。ああ、何という愚かなことだろうか?何という愚かな者だろうか?主に従うことをしないとは・・・。自分もでも、本気で主に従っているだろうか?いつの間にか牧師が立場になり、地位になって、安定した地位になってしまって、本当に主を王として、主に従って歩むことがおろそかになっていないだろうか。主よ、あなたに従えるように、あなたが語って下さい。いつもいつも、私が間違った歩みをする時に、「違うぞ、私に従え」と教えて下さい。

「聖霊を受けよ。」(ヨハネによる福音書20:22)

イエスが言われたのだ。「聖霊を受けよ」と。聖霊様の働きがもっともっと顕著に表わされますように。偏った形ではなく、極端な人間の力を強調するような形ではなく、聖霊様の自由な働きがもっともっと表わされますように。そして、なんだかんだ議論するのではなく、とにかく聖霊様に自由に働いて頂いて、そのことを見せて頂いて、感謝して、喜びにあふれて歩んでいきたい。それだけだ。聖霊よ、どうか私を満たしてくださいますように。

6月11日(水)

「たとい主が天に窓を開かれても、そんな事がありえましょうか。」(列王紀下 7:2)

主はこの副官の不信仰を、不信仰故のあざけりをごらんになって、彼を滅ぼされた。主が天に窓を開かれても、そんな事がありえるだろうかなんて、主が天の窓を開かれたらどんな事になるのか知らなかったこの副官の愚かさを見させられる。けれども、これはまた私自身の中にある不信仰とつながってくる。本当に神様が天の窓を開かれたら、何をも恐れる必要はない。必ず満たされる。すべては主のものなのだから、主がすべてを満たして下さる。どんなものであっても、主は満たされる。もしも、主が良しとされ、天の窓を開くならば・・・大胆に求めていこう。求める者となろう。

「わたしは、かわく」(ヨハネによる福音書19:28)

イエスは渇く事のない命の水を与えると言われた。その人の中で泉となり、永遠の命に至る水がわき上がるであろう、とイエスは言われた。その命の水を与えて下さるお方が、「わたしは、かわく」と言われた。それが聖書が成就するためだった、という。なんと言う事だろうか。渇くはずのない方が渇きを覚えられた。私達の罪のために父なる神に捨てられて、その中で渇きを覚えられた。イエス様、ありがとうございます。ごめんなさい。私達の罪のために、誘惑に負けて犯す罪、傲慢によって犯す罪、何気なく、当たり前のように自分を許して犯す罪、その一つ一つの罪のために、あなたは渇いて下さいました。それほど罪が深刻である事、それほどあなたがわたしの事を愛しておられる事を思わされます。十字架を感謝します。

6月10日(火)

「今は金を受け、着物を受け、オリブ畑、ぶどう畑、羊、牛、しもべ、はしためを受ける時であろうか。」(列王紀下 5:26)

ゲハジはエリシャがナアマンを「いたわって」贈り物を受けないんだ、と思っていた。けれども、ナアマンは自分の使命感からそれを受け入れなかったのだ。人に気を遣ってではなく、自分の立場、自分の神様の召命から、それを受けなかったのだ。自分も物やお金に弱い者だ。だから、主よ、助けてください。いつもあなたが必要なものを与えて下さる方で、あなたの使命にそぐわないものは受けることをはっきりと断る勇気をも与えて下さい。主よ、あなたがいつも必要を満たして下さいますように。

「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか。」(ヨハネによる福音書18:17)

今、自分はイエスの弟子であるから、ということで何の危険を感じる訳でもない。だから、本当の意味で、このペテロの気持ちがわかるわけではない。でも、今の生活の中でも「旗幟を鮮明に」すべき時に、人の手前や、照れが入ったり、恐れが入ったりして、自分の立場を曖昧にすることがあるのではないだろうか?弱い存在だ。だから、ペンテコステの聖霊様の働きを待ち望む。ペンテコステの聖霊様が、今日も激しく臨んで下さって、わたしの一日を支え、すべてをお守り下さいますように。大きなことをして下さいますように。わたしの弱いところにはたらいて、支えて下さいますように。

6月9日(月)

「あなたはむずかしいことを求める。」(列王紀下 2:10)

このエリシャの求めの大胆なこと・・・。あなたの霊の二つ分・・・これは確か「二倍の霊的な力」という意味か、「他の相続者の二倍・・・つまり長男の特権を持つものとして」という意味か、二つの解釈があったように思うが、どちらにしても、本当に大胆な求めだった。その求めに主が応えてくださって、彼はエリヤの霊の二つ分を受け継ぐことになったのだ。求めるべきだ。思いっきり求めるべきだ、特に霊的な賜物については本当にどん欲でありたいと思う。ただ、主の栄光のために、ただ主の栄光を拝するために・・・。主よ、私も求めます。どうか、霊的な目を開き、人々に語る時に、人々がイエス様を見ることができるように、イエス様に注目することができるように、そのような賜物を下さい。主を証しする賜物を下さい。礼拝や家庭集会で御言葉を解き明かす時に、それが、人々の目をイエス様に向けさせるような賜物を下さい。求めます。

「わたしは彼らのためにお願いします。」(ヨハネによる福音書17:9)

主は今も私達のために祈ってくださっている。とりなしてくださっている。自分にとって、人々の祈りは本当にうれしいことだ、励まされる。けれども、それだけではなくて、もしも、人々が忘れてしまうことがあったとしても、主はわたしたちのために祈ってくださっている。祈りを捧げてくださっている。本当に感謝だ。うれしいことだ。今日も主よ、私のために祈ってくださってありがとうございます。私のことを心に留めていてくださってありがとうございます。一日をお守り下さい。

6月8日(日)

「しかし、ひとりの人が何心なく弓をひいて、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射た・・・」(列王紀上 22:34)

アハブ王は王の軍服を着ていかなかった。おそらくミカヤの預言が心に引っかかっていたのであろう。ミカヤの預言が引っかかっていて、恐れて、王の軍服をヨシャパテに着せたのであろう。そして、自分は一兵卒の中に紛れ込んで戦いに行った。しかし、ミカヤを通して語られた預言は、そんなことによって変わるようなものではなかった。恐れるなら、神の前にひれ伏せばいいのに、21章では神は彼のへりくだっている姿をごらんになっていたのに、どうして、ここでは、神の前にひれ伏さなかったのだろうか?主よ、あなたの前に出ます。こそくな手段で、いろいろ道を探ろうとするところから私を自由にしてください。あなたの支配の元に、へりくだって歩むことができますように。主よ、今日の礼拝を祝福してください。あなたの聖霊様の圧倒的な満たしがありますように。

6月7日(土)

「スリヤ人びとが、主は山の神であって、谷の神ではないと言っているから、わたしはこのすべての大軍をあなたの手にわたす。」(列王紀上 20:28)

主は全能の神であり、世界を治めておられる神だ。なのに、私達は神様の働きを本当に個人的なものや、内面的なものに閉じこめていないだろうか?こんなことは神様に祈ることではない、自分で努力することだ、と神様の働きを制限していないだろうか?主は私達の生活のすべての側面を支配しておられる。すべてをごらんになっておられる。すべてを導いておられる。主よ、自分の情けなさに落ち込むことがあります。でも、主よ、あなたを待ち望みます。あなたが私のすべての生活の面で、御力をあらわしてください。

「よくよくあなたがたに言っておく。あなたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。」(ヨハネによる福音書16:24)

この約束は本当に力強い。私は今、聖霊様の満たしを求めている。そして、これは主が喜んでくださるものであることもわかっている。ならば、どうして主がこれを下さらないことがあるだろうか?もう信じて信じて歩んでいいのだ。主が今日も、私のうちに働いて、ペンテコステの日曜日も教会のうちに働いて聖霊様を満たしてくださることを求めて、与えられることを信じて歩んでいいのだ。主よ、あなたに求めます。もっともっと求めます。どうか、満たしてください。

6月6日(金)

「また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」(列王紀上 19:18)

孤軍奮闘の思いでいたエリヤに対して、神は何を言ってるんだ、私は7000人をもとっているんだぞとの語りかけを与えた。私達はどれほど、勝手に自分は一人だと思い易い者だろうか。しかし大切なのは周りではなくて、上を見ているかどうかだ。周りを見て、一喜一憂するのではなく、神様を見上げて、神様のして下さろうとしていることに目を留めていきたい。

「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。」(ヨハネによる福音書15:26)

聖霊様がイエス様のことを証しして下さる。今私自身に、教会に聖霊様の働きが本当に必要だと思う。祝福はいただいている。守られている。しかし、神はもっと大きな御業を為そうとされているのではないだろうか。主よ、明日は祈り会があります。明後日はペンテコステです。聖霊様を豊かに注いで下さい。新しい御業をして下さい。圧倒的な聖霊様の御業を拝させて下さい。

6月5日(木)

「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」(列王紀上17:9)

ザレパテにはいろんな人がいたであろう。その中には、お金持ちもいただろうし、たくさん食料のある人もいただろう。しかし、神は、今まさに、飢えて死のうとしているかのような貧しいやもめのところでエリヤを養われた。私達の常識からするならば、ゆとりのある人に養ってもらえばいいのに、と思う。その中には神を恐れる人もいただろう。しかし、神はそのような方法をとられなかった。私達も今、本当に神様の方法を探っていきたいと思う。主がどのように与えようとしておられるのかを、求めていきたいと思う。主が導かれるところが最高のところなのだから・・・。

「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。」(ヨハネによる福音書14:14)

主は、私達の祈りをかなえてくださるという。自分は今まで、どこまでこの御言葉を信じて、祈ってきただろうか?本当に主が応えて御業をしてくださることを信じて求めてきただろうか?もっと求めよう。もっともっと求めていこう。本気でこの御言葉を信じて祈っていこう。主が働かれることを、主が祈りに応えて御業をしてくださることを、信じて祈っていこう。そして、その御業を見せて頂こう。

6月4日(水)

今日、ついに大台に乗ってしまいました。昔、野球の王選手が「不惑の年」とか言っていた頃、「そうか、40歳になると迷わなくなるのか」と思っていましたし、大変な「大人の歳」という感覚があったのですが、そんなんじゃないみたいですね。もう甘えが赦される歳ではないのでしょうが、急に立派になれるわけもなく、迷いながら、ただ、主にたずねながら歩み続けたいと思います。

「すなわち彼がみずから犯し、またイスラエルに犯させたその罪ゆえに・・・」(列王紀上14:16)

罪の恐ろしいところは、個人的なことに終わらないことだ。自分が罪を犯す時に、それは人の罪をも誘発する。自分が罪を犯す時に、「別にこういうことをしてもいいんだ」と人に思わせてしまう。ヤラベアムの罪はまさにそのようなものだった。王として、新しい偶像を造り、人々に提示したことは、単に彼自身の信仰心ということだけではなくて、国民の信仰にも大きな影響を与えた。もちろん自分にそんな影響力があるとは思わないけれども、家族や教会の人々に、影響を与えてしまうものだと思う。主よ、私を罪からお守りください。そして、人々も罪からお守りください。どうか、神と共に歩む生涯が、きれい事ではなくて、理想ではなくて、本当に素晴らしい喜びにあふれた毎日だということを私自身に経験させてくださって、それによって、教会の一人一人、家族、仲間に示してくださいますように。

「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。」(ヨハネによる福音書13:1)

主はあの弟子たちのことを「自分の者たち」と呼ばれた。あの弟子たち、イエスを捨てていってしまう者たちを、「自分の者たち」と呼ばれた。そして、彼らを最後まで、極みまで愛し通された。そして、私のことも、「自分のもの」としてくださる。そして、私を最後まで、極限まで、愛して下さる。支えて下さる。洗って下さる。きよめて下さる。命を与えて下さる。仕えて下さる。私の足まで、足まで洗って下さる。一番汚いところ、人前には出せないところまで、主は触れてくださる。洗ってくださる。主よ、感謝します。あなたが私を受け入れ、私の足まで洗ってくださることに感謝します。

6月3日(火)

やっと追いつきました。この1ヶ月半、このページが遅れていることが心に引っかかって、大きなストレスでした。けれども、他のことを置いておいても、祈りと御言葉のご用のために召されていることをもう一度示されました。いつの間にか「この世の心遣いやいろいろな欲望」に御言葉の芽がふさがれてしまって実を結ばなくなっていないだろうかと、この前の礼拝説教の準備をしている中で示されたのです。本当に他のことに御言葉がふさがれることがないように。主よ、守ってください。

「しかしヤラベアムはその心のうちに言った、「国は今ダビデの家に戻るであろう。」」(列王紀上12:26)

なんて愚かなんだろうか。ヤラベアムは神が自分を王として立てたことを知っていたのに、状況を見て、ああ、人々はダビデ王朝の方に心が動いていく、私のことを捨ててしまう、と恐れて、その恐れゆえに、彼は偶像を造ってしまった。恐れは恐ろしいと思う。恐れに支配される時に、私達は必ず失敗する。私の今の心の状態はどうだろうか?恐れに支配されて、守りの姿勢に入らないようにしてください。あなたの与えてくださっている召命、あなたの与えてくださっている使命に生かしてください。恐れから解放し、恐れによって行動を決めることがないように主よお助けください。

「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」(ヨハネによる福音書12:25)

この「命」というのは、文字通りこの命のことだろうと思う。この命を大切にする、この命を何よりも大切にするならば、それを失うだろう、とイエスは言われた。ものすごい挑戦だ。ものすごい言葉だ。今、ものすごい心に波風を立たせる言葉だ。心を騒がせられる言葉だ。この命、一番大切だと思っているこの命、でも、この命こそ、主の前に投げ出さなければならないものだという。そうだろうと思う。この命を主の御手にゆだねた時に、それはすべてをゆだねたことになる。主よ、私にとってこの命は大切です。大切だからこそ、主よ、あなたのために用いてください。あなたがご自由に用いてください。私がこの命を自分のために使うことがありませんように。自分を喜ばせるために使うことがありませんように。

6月2日(月)

「わたしはあなたが建てたこの宮を聖別して、わたしの名を永久にそこに置く。わたしの目と、わたしの心は常にそこにあるであろう。」(列王紀上9:3)

新約時代においては、私達が主の宮であることがコリント人への手紙に書いてある。主はわたしたちを聖別して、神様の名を私達に与え、そして、私達のところに目を注ぎ、心にかけてくださっている。ああ、何という恵みだろうか、何という愛だろうか、何という祝福だろうか?今日も私のことを心にかけていて下さっている。主が今日も、わ足しのことを見ていて下さっている。主よ、感謝します。あなたが私のことを心にかけていて下さっていることを・・・。いろいろなことがあります。いろいろしなければならないことで心が騒ぎます。心が忙しくなります。けれども、そんなときにも私のことを心にかけていて下さることを感謝します。

「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか。」(ヨハネによる福音書11:40)

イエスは、「あなたがいて下さったら・・・」と嘆くマリヤやマルタとは対照的に、「そこにいなかったことを私はあなたがたのために喜ぶ」と言われた。私達には理解できない、私達には嘆かないではいられないようなことの中にも神様は栄光を表わすことのできるお方なのだ。しかし、その神の栄光を拝するために必要なことが一つある。それは石を取りのけることであり、信じることなのだ。主よ、あなたを信じる者としてください。信じます。主よ、あなたの栄光を拝させてください。あなたの栄光を見せてください。今日も、今日歩む中にもあなたの栄光を拝させてくださいますように。

6月1日(日)

「民は王を祝福し、主がそのしもべダビデと、その民イスラエルとに施されたもろもろの恵みを喜び、心に楽しんでその天幕に帰って行った。」(列王紀上8:66)

主の前に出ることは喜びの時だ。今日の礼拝も本当にこの喜びがあふれますように、自分の家に帰っていく時に、「恵みを喜び、心に楽しんで」帰っていくことができるような礼拝としてくださいますように、よろしくお願いします。主よ、あなたが恵みを満たしてください。喜びを満たしてください。何か、楽しいプログラムによってではなく、御言葉によって、喜びと楽しみがあふれますように。御言葉が一人一人にとって喜びとなり、楽しみとなりますように。