「無くてならぬものは多くはない。
いや、ただ一つだけである。」

7月31日(木)

「見よ、これらはただ彼の道の端にすぎない。」(ヨブ記26:14)

神様のことでわたしたちの知っていることは、神様のほんの少しの部分にすぎない。神様の大きさのほんの少しの部分にしかすぎない。なのに、わたしたちはいかに何でも分かったような気分になってしまうことだろうか?神様の大きさ、力、知恵、そして愛の深さ、そのほんの一部しか自分たちは知らない。ということは、また考えてみると、それはわくわくするようなことだ。神様はわたしたちが知っているを遙かに超えて素晴らしい方である、とするとそれはまた楽しいことだ。主がいてくださることに感謝。主がわたしたちの味方であることに感謝。

「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。」(ローマ人への手紙13:8)

これは本当に素晴らしい言葉だと思う。愛し合うことがどんなに素晴らしいことか、愛したり、愛されたりすることにおいてはどんなに借りがあっても貸しがあってもかまわないと言う。いや、そういうことを全く気にしなくていいのが愛の交わりなのだと思う。主がわたしたちに与えてくださる友人、家族、クリスチャンの友、とそのような関係に生かして頂きたいと思う。主よ、まず、わたしたちの心をあなたの愛で満たしてください。

7月30日(水)

「神はわたしの心を弱くされた。全能者はわたしを恐れさせられた。」(ヨブ記23:16)

神に弱くさせられる経験、それまでは自信にあふれた信仰者だったのだろうと思う。それを主は喜んでおられたことは1-2章で明らかだ。しかし、主は彼を弱くされた。やはりそれは彼に必要なことだったのだと思う。主が彼を弱くされた。主がわたしを弱くされるように感じることがこれから起こってくるかも知れない。でも、その中でも、主を見上げ、主を待ち望みつつ、弱いところに完全に現われる神の力を拝していきたいと思う。おそらく、今の自分にはまだまだ、このヨブの叫びが分かっていないのだろうと思う。それでいい。けれども、もしも、ヨブのような経験をすることがあるならば、ヨブが知らされた神の力を知らせて頂きたいと思う。

「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ人への手紙12:21)

悪意のある仕打ちを受けた時、本当に冷静になってその悪に対して善をもって報いることのできる者になりたいと思う。復讐したくなったら、正しい裁きは主が与えてくださることを思い出そう。善を持って報いていく時に、何よりも、その相手に愛が通じたらそれは何よりも素晴らしいことではないだろうか?主よ、わたしに、わたしのうちに愛を満たしてください。あなたの愛を満たしてください。あなたの愛によって生きる者としてください。善をもって悪に勝つことができますように。

7月29日(火)

ハレルヤ!
昨日無事にビザがおりて、水曜日に飛行機が取れて、帰れることになった。でも、そう決ったら、もっと日本でなすべき事があるような気がして、結構焦る。でも、すべては主の御手の中にあること。ここで与えられたことに感謝して歩んでいこう。

「全能者は何者なので、われわれはこれに仕えなければならないのか。われわれはこれに祈っても、なんの益があるか。」(ヨブ記21:15)

これはヨブが神を信じない人々がうそぶくのを記している言葉だ。このように言う人々について、本当に心が痛む。寂しい人だと思う。かわいそうな人だと思う。神と共に歩むことがどれほど素晴らしいかを知らなくて、祈りのすばらしさが分からなくて・・・。それはまたわたしたちの責任だと思う。神と共に歩むことがどんなに素晴らしい、喜びに満ちたものであるのか、神に祈ることがどれほどの力なのか、それを経験して、もっともっと経験して、そのすばらしさをもっともっと伝えていくことが大切だ。主よ、教えて下さい。あなたと共に歩むことのすばらしさを、そして、それを伝える者としてください。

「救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。」(ローマ人への手紙11:11)

これは今実現しているだろうか?わたしたちが福音に生きているのを見て、ユダヤ人は奮起してイエスのもとに来ているだろうか?ああ、本当にわたしたちの責任の大きさを思わされる。わたしたちが本当に福音に生きる、喜びに生きる、神に愛され、受け入れられ、生かされている者として生きる、そのすばらしさを本当に経験しているだろうか?ヨブ記の言葉と同じ事を思わされた。主よ、福音に、福音に、喜びに生かしてください。あなたとの生きた関係の喜びの中に生かしてください。

7月28日(月)

「わたしは知る。わたしをあがなう者は生きておられる。」(ヨブ記19:25)

苦しみの中で、また友が自分を責める中で、彼は彼にこのような病や苦しみさえも許された神が、実は自分の味方であり、弁護して、あがなって下さるかたであることに気がつく。わたしたちにとって、そうなのだ、わたしたちはものごとがうまくいかないと自分を責める。自分を責めて苦しむ。しかし、本当は主はわたしたちと共にあり、わたしたちを受け入れ、わたしたちを支えて下さる、買い取って下さるお方なのだ。苦しみの中で、主が共にある、そこに心から感謝して歩もう。

「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる。」(ローマ人への手紙10:13)

これは簡単なことなのだ。主を呼び求めるならば皆救われるのだ。それを何か難しくしてしまっていないだろうか?本当に単純に信じることを勧めていこう、語っていこう。ただただ、単純に主を信じる時に、ただ単純に主を信じていく時に、神は救って下さる。それを余りにもこねくり回して、何か新しいことを、目新しいことを語らなければいけないかのように思うのは止めよう。単純にイエスの十字架によって救われる、イエスを信じる時に、ただ、その信仰によって救われる、そのことを見せて頂こう。救われる方々が次々と起こされますように。

7月27日(日)

「見よ、今でもわたしの証人は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある。わたしの友はわたしをあざける。しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。」(ヨブ記16:19−20)

ヨブが本当に追いつめられた時に、彼は最終的には神ご自身を「自分を保証してくださる方」として見上げた。彼には神がおられた。本当にこれは素晴らしいことであり、またわたしたちの持つべき態度だと思う。最終的には、わたしの弁護をしてくださるのは神様ご自身だ、本当に追いつめられた時に、わたしのことを支えてくださるのは、守ってくださるのは神様ご自身だ、と。御言葉はすごいと思う。人間関係は、やはり月報に書いたように「期待する」「期待される」という事に支配されやすい。でも、神様はわたしたちをありのまま受け入れてくださっている。主よ、この平安、この喜びに生かしてくださいますように。

7月26日(土)

なかなかビザが出ない中で、息子が熱を出して、霊的な闘いも大きい。主よ、お助け下さい。

「あなたがお呼びになるとき、わたしは答えるでしょう。あなたはみ手のわざを顧みられるでしょう。」(ヨブ記14:15)

苦しみの中で死をも覚悟したのだろう、死の先にも神を信頼するヨブの姿がここら辺から出てくる。死の先にある平安、それを知っている者は何と幸いだろうかと思う。自分も死を目の前にしたらどうなるか、あわてるか、分からない。でも主がその先も共にいて下さり、良きにして下さる。自分の罪はすべてイエス・キリストによって処分されている!そこに立っていくことができることを本当に感謝する。主よ、どうか、死の時にもわたしを守り、平安を亜盾下さいますように。

「かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。」(ローマ人への手紙9:23)

主のあわれみの器として、わたしたちは神の栄光の富を知らせようとしておられる。その栄光の富とは何だろうかと思わされる。わたしたちの救いがそれほど素晴らしいことを本当に覚えているだろうか?もっともっと本当に「栄光の富」なんだということを経験させて頂きたいと思う。教えて頂きたいと思う。主がわたしたちに与えて下さっているもの、与えようとしてくださっているものがどれほど素晴らしいものであるかを、本当に教えて頂きたいと思う。

7月25日(金)

「たといわたしが呼ばわり、彼がわたしに答えられても、わたしの声に耳を傾けられたとは信じない。」(ヨブ記9:16)

祈りが聞かれない・・・そのように感じる時、どれほどつらいことであろうか、どれほどの闘いであろうか?どれほどの苦しみであろうか?どれほど孤独を感じるだろうか?でも、ヨブ記の最後を見るとやはり、神は聞いておられたのだ、と言うことがはっきりと分かる。わたしたちの祈り、わたしたちの必死な祈り、願いも、聞かれていないように感じる時がある。感じることがある。でも、その時にも確かに神様は祈りを聞いておられる。耳を傾けておられる。そのことを忘れないでいたい。今日、このときも主は聞いていて下さる。感謝。

「高いものも低いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ人への手紙8:39)

どんなものも主の愛からわたしたちを引き離すことはできない!それはものすごい励ましだ。いや、これは単なる励ましではなく、真理だ。主の愛がわたしたちを捕らえているから、もう、わたしたちは主の愛から離されることはない!日本に帰って、教会から離れている人がいたとしても、主の愛からは離されていない。主の愛はその人をしっかりつかんでいる。その人自身がそれを知っているかどうか、自覚しているかどうかはまた別問題として・・・。主はわたしたちをしっかりと捕らえて離さない。だから信頼していこう。祈っていこう。一人一人が主によって新しくされ、更に福音の深みを知らされていくことができるように。主よ、助けて下さい。

7月24日(木)

「それゆえ、わたしはわが口をおさえず、わたしの霊のもだえによって語り、わたしの魂の苦しさによって嘆く。」(ヨブ記7:11)

エリパズの言葉の方が一見、わたしたちに必要な語りかけであるかのように思える。「人は神の前に正しくありえようか・・・」「しかし、わたしであるならば、神に求め、神に、わたしの事をまかせる」などの言葉が心に留まる。それに対してヨブの言葉はあまりに自分の正しさを訴えることに終始しているように見える。しかし、ヨブ記の最後を見ると、神が、ヨブを戒めながらも、友人たちより正しい事を示している。神がヨブに対してとても暖かい目を持ってみておられることがわかる。そのように見ていくと、この友人たちの言葉があまりに表面的で、あまりに教条的で、人の話を聞こうとしていない言葉であることが見えてくる。それに対してヨブの叫びは心からの叫びであり、訴えであり、神との出会いへと導かれていく祈りであることが見えてくる。自分は今どのような姿勢で神に向かっているだろうか、どのような姿勢で人々に向かっているだろうか?本当に心からの叫びを主に訴える幼子のような信仰者でありたいと思う。

「なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。」(ローマ人への手紙7:18)

力がない。それが問題だ。気持ちがあるのだけれども、力がない。「聖霊があなたがたに下る時にあなたがたは力を受けて・・・」とイエスが言われたように、今自分に必要なのは聖霊様の満たしだと思う。主よ、聖霊様を与えて下さい。聖霊様によって生かして下さい。聖霊様を送って下さい。くだして下さい。「あなたの口を広くあけよ」それは聖霊様をもっと求めなさい、そのことをわたしに、教会に語っておられるのではないか。計画ではなく、戦略ではなく、聖霊様を求めて参ります。主よ、与えて下さい。わたしを造りかえ、聖霊様に満たして歩ませて下さい。

7月23日(水)

「われわれは神から幸を受けるのだから、災をも、受けるべきではないか。」(ヨブ記2:10)

災いが襲ってきても、それについて神に対して愚かなことを言わない、そんなことは自分にはできるのだろうかと思う。ものごとが自分の思ったように進んでいかない時に、自分は神様に向かって文句を言わないで、このヨブのように言えるだろうかと思った。ものごとが自分の願ったとおりになる時に、「神様は素晴らしい」といい、ものごとが願ったとおりに行かない時に、「神様は意地悪だ」というならば、それはサタンの言ったとおりではないか。主よ、私の心を守ってください。あなたの私に教えようとされていることをしっかりと受け止めることができますように。主の導きに従って歩めますように。

「死人の中から生かされた者として・・・」(ローマ人への手紙6:13)

臨死体験をした方々が、今までとは違った生き方をするようになる、と言う話を聞いたことがある。本当にそうだろうと思う。しかし、イエスを信じた者はまさにそのようなことを経験しているのだという。死んでいたのに生き返らされているのだという。自分はそのように生きているのだろうか?それはやはり「恵み」を「恵み」として感じているかどうか、にかかっているのではないか。「あなたがたが神の子とされるためにどれほどの愛を賜ったかかんがえてみなさい」という言葉がある。本当に大きな愛をいただいて、本当に大きな愛を与えられて生きていることを思うことが大切だと思う。主よ、どうか、私のうちに「死人の中から生かされたのだ」ということをもっともっとはっきりと示してください。

7月22日(火)

「断食と悲しみのことについて・・・」(エステル記9:31)

ユダヤ人は、この国民的危機から解放された事を記念するプリムの祭りを祝う時に、ただ、良かった良かったではなく、断食と悲しみを覚える時ともした。苦しみ、悲しみ、困難も忘れてはならないのだろうと思った。自分はどちらかというと「喉元過ぎれば熱さを忘れる」タイプで、終わってしまったら、何も覚えていない方なのだが、それでいいのだろうか、と思わされた。困難を忘れて、ただ「ハレルヤ」と叫ぶのではなく、神様があの苦しみ、あの悲しみ、あの困難、その中で救ってくださったじゃないか、という事を覚えて信頼していくこと、今の自分に与えられている恵みだと思う。主よ、あなたを信頼します。あなたが今日も素晴らしい一日としてくださいますように。

「しかし、罪の増し加わったところには恵みもますます満ちあふれた。」(ローマ人への手紙5:20)

罪の増し加わったところ・・・自分自身の罪深さを思い知らされていく中で、そこに注がれる恵みを本当に味わっているだろうか、それを知っているだろうか、と思わされる。自分の愚かさ、自分勝手さ、罪深さばかり見せつけられて、そこに神の恵み深さを見ようとしないで、自分を責めてばかりいないだろうか。自分を受け入れられないのは、ありのままの自分を受け入れられないのは本当は自分自身ではないだろうか?主よ、恵みの深みを、大きさを心と体とで味わうことができますように。思いっきり味わうことができますように。主よ、お助け下さい。

7月21日(月)

「あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう。」(エステル記4:14)

女性を蔑視するかのような事件から始まるこのエステル記が、ここに来て、女性であったエステルが頼り、となっていく。それぞれの人が、社会の中で、人々の中でどのように見られていたとしても、神様には神様がその一人一人に使命を与えてくださっている。神様の使命の中で生かされている。今の自分にも使命が与えられてここにいる。何かを教えようとしてここ置かれている。主がそのことをはっきりと示し、教えてくださいますように。

「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。」(ローマ人への手紙4:18)

絶望的なこと、自分の力では、どうにもならないこと、そして、自分の「信じる力」では信じられないこと、そんなことの中で、なおも信じることができるのは、何なんだろうか?常識的には信じられないことも、神様の力を考える時に、神様の恵みを考える時に、それは信じることができるようになる。信じようと思うことができるようになる。この御言葉を読むと信じようという思いになる。だから御言葉はすごいと思う。無力さを感じることがある。でも、それでも大丈夫。主が共にいて、主が語って下さるから、主が導いて下さるから。主が御業をして下さるから。大丈夫。主よ、あなたを見上げます。あなたを待ち望みます。あなたの力をあらわしてください。

7月20日(日)

「時に王とハマンは座して酒を飲んでいたが、スサの都はあわて惑った。」(エステル記3:15)

この言葉はそのまま絵になりそうな言葉だ。何も考えず、何も知らず、ただ明るく酒を飲んでいる王。悪巧みがうまくいきそうなのでほくそえみながら、酒を飲むハマン。そして、王の名前で発令された命令の内容に驚き、あわてている人々。エステル記は聖書の中で、数少ない神が登場しない書物の一つだが、そこには明記されていないが確かに神の存在がある。この絵の中に神の存在を入れると、またこの絵の情景が逆転する。何も知らないで酒を飲んでいる愚か者はハマンなのだ。そう、今の自分もそうだと思う。神を計算に入れないならば、思い通りにいかない不器用な自分に嫌になるが、神を計算に入れるならば、それはまた違った見方ができる。思うようにものごとが進んでいかない中で、やはり自分の思いをはるかに越えた神様の働きを知るチャンスを与えられている自分がいる。主よ、あなたの働きを視野に入れることができる者とされている事を感謝します。

7月19日(土)

ああ、もう20日になってしまう、下旬になってしまう・・・そんな思い。そして、今頃、みんなカレー集会かなあ、という思い。主よ、どうか、わたしがここでなすべき事を教えてください。

「安息日を聖別した。」(ネヘミヤ13:22)

このネヘミヤの安息日を聖別する情熱。自分は日曜日を主のものとするために、朝の祈りの時間を主のものとするために、また与えられたものの10分の1を主のものとするために、このような熱い思いを持っているだろうか?このような熱い思いで聖別しなければ、なかなか聖別することの難しさを思わされる。明日は日曜日だ、主が日曜日を日曜日として祝福してくださることを覚え、主がこの日を聖別し、復活の福音を語る日として、覚える日として、定めてくださったことを覚え、本当の礼拝をささげよう。義務ではなく、習慣ではなく、喜びとしての礼拝を、感謝としての礼拝を、祝いとしての礼拝を主にささげよう。

「彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(ローマ人への手紙3:24)

価なしに・・・という言葉が心に留まった。本当にありがたいと思った。価を要求されたら、たぶん、がんばるだろう。がんばってがんばって、何とかその価を満たそうとするだろう。そして、(自分の力ではできない、というのが聖書のメッセージなのだが)もしも、それができたら、やはりできない人を見下すだろう。でも、実際には「価なしに」与えられている。そして、その「価なしに」のためにはどれほど大きな価が払われたか、それを思う時に、それは本当にありがたいことだと思う。

7月18日(金)

延長二日目。「今頃着いているはずなのに・・・」と思うと悔しい思いもする。でも、積極的に考えるならば、ここでしか経験できないこと、ここでしか出会うことのできない人がいるはずだ、と思う。今日は友人の牧師を訪問して、新会堂を案内して頂く。

「あなたの尊いみ名はほむべきかな。これはすべての祝福とさんびを越えるものです。」(ネヘミヤ9:5)

神様のみ名はわたしたちの賛美やわたしたちのほめる言葉、わたしたちの持つイメージ、それらを遙かに超えて素晴らしい。だから、もっともっと素晴らしい賛美を、もっともっと心からの賛美を、ささげたいと思う。一般の社会に通用するような、とか、プロの音楽家の間でも認められるような・・・と言う視点ではなく、神様のすばらしさに一歩でも近づくような、神様のすばらしさを、神様の完全さに比べれば、不完全でだとしても精一杯伝えるような、賛美をささげていきたいと思う。そのような賛美をささげる人々育てる牧会者となりたいと思う。

「そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。」(ローマ人への手紙2:16)

主イエスを知らないで亡くなった家族はどうなるのだろうか、と良く聞かれる。いろいろな可能性が聖書から語られる。でも、本当のところ、この聖書の言葉が一番大切なのではないだろうか?「良心によってさばかれる」とパウロが言った後に、これらのことは、イエスの再臨の時に、明らかにされるであろう、と続けて語っている。イエスの再臨の時に初めて、どのようにされるのか、はっきりする、それまではわたしたちは知り得ない。人々の不安や、家族を愛するが故の「こう言ってほしい」という願いに応えたい、という思いもある、でも、本当に主の前に、また人々の前に「まだ明らかにされない」ことはわからないのだ、ということを恐れないで語る謙虚さがほしいと思った。

7月17日(木)

滞在延長第1日目。本当は今日帰る予定だった。早く帰りたい、という気持ちは何と言っても否定できない。でも、あがいてもしょうがないので、祈りつつ、そして、神様の与えておられる使命は何かと思いめぐらしつつ、そして、また一人でじっくり祈る時も与えられているわけだから、そのことも感謝しつつ、歩ませて頂こう。

「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」(ネヘミヤ8:10)

この御言葉が語られた。主から語られるとは何という幸いだろうか?主を喜んでいなかった自分、主を喜びとしないで、「早くビザがおりないか」「教会のことをどのようにすればいいだろうか」とばたばたしていた自分。何があっても、どんな状況でも、ただただ「主を喜びとする」ところからスタートするのだ、ということを教えられた。ああ、主よ、感謝します。あなたご自身を喜びとします。主が何かして下さったから、とか、祈りに応えてこんなことをして下さったから、とか以前に、あなたご自身を喜びとします。あなた自身を喜びとできる幸いを感謝します。

「神の怒りは・・・天から啓示される。」(ローマ人への手紙1:18)

ここに神の怒りが啓示されるとはっきりと書かれている。天災のことだろうか、それとも最後の審判のことだろうか?でも、この事を忘れてはならないし、無視してもならないと思わされた。また語らなければならないとも思わされた。神は罪に対して激しく怒っておられる。そして、単に怒っておられるだけではなく、痛みを覚え、悲しみを覚えておられる。罪の恐ろしさ、神がどれほど罪を嫌悪されるのか、そのことを決して割引してはいけないと思った。それだからこそ、そこからわたしたちを救うためにイエスがして下さったことがどれほど素晴らしいかがわかる。どれほど深刻なものなのか、どれほど大きなものなのかがわかる。主よ、あなたの恵みを感謝します。

7月16日(水)

「その日から後は、わたしのしもべの半数は工事に働き、半数はやり、盾、弓、よろいをもって武装した。」(ネヘミヤ記4:16)

働く者たちと守る者たち。わたしたちの教会にもこれが必要なことを感じさせられる。みんなが働いていく時に、敵が攻めてきて、足下をすくわれることがないように、また働く人々が何でもやって疲れ切ってしまうことがないように、守りの人々・・・つまり「祈り手」が必要だ。いや、祈って下さっている人々のことをも忘れてはならない。今自分がこのように奉仕できるのも、日本で働きができるのも、アメリカで働きができるのも、日本でも、NJでも、いや、他のところでも祈ってくださっている人々がいるからだ。主よ、感謝します。更に祈ってくださる人々を与えてください。

「はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え続けた。」(使徒行伝28:31)

このパウロの状況、いわゆる軟禁状態だ。その中で、その中でも大胆に神の国をのべ伝えて、イエスのことを語り続けたパウロ。それを思う時に、自分が今ビザの発給が遅れて予定通りにNJに帰ることができなくなるかと心配しているが、そんなことはちっぽけなことだ(いや、NJで待っておられる方々や、この事でご迷惑がかかる方々のことを思うとそんなちっぽけなことではないのだが・・・)。どんな状況の中でも、どんなところに置かれていたとしても、主のことを証しする時にしよう。主よ、わたしがもしも予定以上にこちらにいることになったら、それはあなたの思いの中にあることです。主よ、その時を見極める目をお与え下さい。

7月15日(火)

「あなたの名を恐れることを喜ぶあなたのしもべら」(ネヘミヤ記1:11)

自分の中で、「恐れ」と「喜び」が同時にあるという感覚がなかったので、「あれっ」と思った。神様を恐れることを喜びとする。神様の前にひざまずき、恐れかしこむ中に喜びを見いだしていく。その喜びをもっともっと教えて頂きたいと思った。

「わたしたちの助かる最後の望みもなくなった。」(使徒行伝27:20)

最後の望みもなくなった、ということは完全な絶望だ。その完全な絶望の中で、パウロは神の言葉を聞いた。最後の望みもなくなった、のに助かった。これは奇跡だ。わたしたちはいつもそうだ、「もうだめだ」というところで神の声を聞く。逆を言えば、そこまで行かないとなかなか神は語って下さらない。もしかしたら、神は語っておられるのに、そこまで行かないとわたしたちが神の声に気がつかないのかも知れない。主よ、希望のないところに、人間の絶望のところに、主の力を拝させて下さい。主の御声を聞かせて下さい。

7月14日(月)

「ところがいま、われわれの神、主は、しばし恵みを施して、のがれ残るべき者をわれわれのうちにおき、その聖所のうちに確かなよりどころを与え、こうしてわれわれの神はわれわれの目を明らかにし、われわれをその奴隷のうちにあって、少しく生き返らせられました。」(エズラ記9:8)

どうしようもない罪、そして罪の結果、罪の習慣、その中でも、主は罪の報酬よりは軽いものを与え、そして、その中で、目をさますようにと導かれる。本当に暗闇のような状況の中にも救いを与えられる。救いの内容に見えるところに救いを与えられる。それが希望なのだろう。トンネルの中に差し込む出口の光のように、主の癒しと慰めと、逆転の恵みがある。主よ、私も主によって生き返らされる毎日となりますように。

「それは太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照らしました。」(使徒行伝26:13)

パウロを照らしたイエスの栄光、それは太陽の光よりもまぶしかったという。どんな光なのだろうか?どんな光だったのだろうか?その光、新天新地ではわたしたちみんなの者を照らすと言う。永遠に照らすと言う。だから、だから、その光を待ち望んで歩んでいこう。そのほんの前味だけかも知れないけれども、主に照らして頂いて、歩んでいこう。御言葉に照らして頂いて、歩んでいこう。主が進まれるところに導いて頂こう。

7月13日(日)

「われわれの神の前で身をひくくし、われわれと、われわれの幼き者と、われわれのすべての貨財のために、正しい道を示されるように神に求めた。」(エズラ記8:21)

神の前に身を低くする。それが今の自分に必要なことだ。神だけの前に、人々の都合ではなく、人々の思惑ではなく、期待ではなく、ただただ、神様の導きの前に、神様ご自身の前に低くなって、身を低くして、出て行く。そして、そこで答えをいただいて歩み始める。そのような歩みをしたい。主よ、私が求めるのはあなたの祝福だけです。あなたの祝福だけを求めます。どうか、どうか、あなたの前に歩ませて下さい。

7月12日(土)

「さて預言者ハガイおよびイドの子ゼカリヤのふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に向かって、彼らの上にいますイスラエルの神の名によって預言した。」(エズラ記5:1)

城壁再建が妨害され、頓挫してしまった時に、必要だったのは御言葉による励ましだった。御言葉が語られることだった。人々の声ではなく、盛り上がりではなく、ただ、主の御言葉が語られることであり、それに応答する人々がいることだった。主よ、今私に、教会に、御言葉を語って下さい。会堂建築について、教会の伝道の働きについて、御言葉が語られて、御言葉によって力をいただいて、進んでいくことができますように。見えるものにではなく、ただ一つの現実である御言葉によって歩む者としてください。

「翌日、アグリッパとベルニケとは、大いに威儀をととのえて、千卒長たちや市の重立った人たちと共に、引見所にはいってきた。」(使徒行伝25:23)

いつもこの「大いに威儀をととのえて」という言葉に笑ってしまう。そのようにしなければいけない人間の悲しさを感じてしまう。悲しい人たちだと思う。ただ、主がほめてくださることを、主が認めてくださることを、主が喜んでくださることだけを求めて歩む歩みの気楽さを感じさせられる。あのどこかの新興宗教の教祖様がドライアイスの煙の中で、リフトか何かに乗って登場するあの仰々しさに噴飯したが、それがやはり人間の悲しさだろう。主よ、あなたが認めてくださる、それだけを感謝していく者としてください。

7月11日(金)

「彼らは互に歌いあって主をほめ、かつ感謝し、「主はめぐみ深く、そのいつくしみはとこしえにイスラエルに絶えることがない」と言った。そして民はみな主をさんびするとき、大声をあげて叫んだ。主の宮の基礎がすえられたからである。」(エズラ記3:11)

大声で賛美する賛美。ああ、なんというすばらしいことだろうか。NJの教会でまた大きな声で賛美をしたい、と素直に思う。それはある意味、場所は関係ないのだろうし、また「慣れ」の問題であろう、けれども、NJの教会では本当に心から大きな声で賛美できるなあ、と思う。もっともっと主をほめたたえ、もっともっと主を賛美する、心一杯賛美するそのような礼拝を与えてください。そのような場所を与えてください。主よ、あなたのすばらしさはどんなに大きな声で賛美しても十分とは言えません。どうか、あなたへの賛美をこの日本にも満たしてください。

「ペリクスは不安を感じてきて、言った、「きょうはこれで帰るがよい。また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」。」(使徒行伝24:25)

このペリクスの不安。その不安の中で、彼は逃げた。不安になるような話は聞きたくないと、逃げた。逃げなければ良かったのに、逃げた。客観的には本当にそう思う。でも、自分のことになると気がつかないことがあるのではないだろうか。自分も逃げていることはないだろうか?と思わされる。本当は主から恵みをいただくことができるのに、そのような時であり、そのような場であるのに、逃げていることはないだろうか?と思う。主よ、あなたが与えようとされている恵みの中で、幸いの中で、それから逃げないで行くことができるように助けてください。

7月10日(木)

「ペルシャ王クロスの元年に当り、主はエレミヤの口によって伝えた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの霊を感動された。」(歴代志下36:22)

神様は異邦人であったクロス王をも聖霊で感動させ、彼を用いられた。わたしたちは謙虚さが必要だ。クリスチャン以外の方々の言葉や行動を主が用いられることがある、いや、本当にたくさん用いられる、ということを教えられる。私がその声やその主のなさることに敏感であることができますように。従順であることができますように助けてください。私が謙虚にその声に耳を傾け、「何でもいい」ではなく、「人々に取り入る」のでもなく、ただ、主のなさることに敏感であることができますように。主の全能を知ることができますように。

「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない。」(使徒行伝23:11)

ローマに行く、ということはパウロの願いであったのだが、このような形で行く、ということはパウロの願いではなかっただろう。でも、主が用いられる方法はわたしたちの願っているような方法であるか、というと違うかも知れない。わたしたちの思いを超えているかも知れない。どのような方法であれ、従うことができるように備えていることの大切さを思わされる。どこででも主の証をする者として歩んでいきたい。

7月9日(水)

「心を強くし、勇みたちなさい。アッスリヤの王をも、彼と共にいるすべての群衆をも恐れてはならない。おののいてはならない。われわれと共におる者は彼らと共におる者よりも大いなる者だからである。」(歴代志下32:7)

これは本当にすごい言葉だと思う。でも、当たり前と言えば当たり前なのだ、でも、その当たり前のことが、他人をみていると「信じればいいのに、神様が助けてくださるのは当たり前ではないか」と思うのだが、自分のことになると、「当たり前」だと思えないところが問題だ。だから、御言葉が必要だ。このように何度も何度も語られることが必要だ。「誰よりも、何よりも強い神様が共におられるのだから、大丈夫だ」と信じて、歩んでいこう。御言葉に感謝します。不安を感じる時に、思うようにものごとが進まない時に、神様、あなたがおられることを、思い出させてください。

「行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ。」(使徒行伝22:21)

主が遣わしてくださる。主がわたしを遣わしてくださる。出会う一人びとりのところに。なにか自分ががんばって動き回っているような気がした。主が遣わしてくださるのに・・・。主よ、わたしは行きます。あなたの遣わされる人のところに、どうか、わたしを用いてください。あなたのみ声を、あなたの導きを敏感に受け取っていく者としてください。祈りの中に示してください。あなたがどこにわたしを導こうとされているのか、主よ、導いて教えてください。わたしを遣わしてください。

7月8日(火)

「わが子らよ、今は怠ってはならない。主はあなたがたを選んで、主の前に立って仕えさせ、ご自分に仕える者となし、また香をたく者とされたからである。」(歴代志下29:11)

主の選び。主の選び。主が選んで、わたしたちを立たせられる。主に仕えさせるために。わたしも選ばれた。選ばれて主を信じる者とされた。だから、「怠ってはならない」。主をほめたたえ、主を証しすることを・・・。主よ、あなたでこころを一杯にしてください。他のことが心を支配してしまうことがないように。他のことで心が一杯になってしまうことがないように、どんなときも、どんなときも、あなたのことで心が一杯になるようにしてください。あなたがわたしのうちにあふれてください。あなたに仕えたい。あなたを指し示したい。あなたを信じる人々が次々と起こされていくことを拝見したいのです。主よ、あなたでわたしの心を一杯にしてください。

「そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。」(使徒行伝21:24)

毎年同じようなことを書いているように思うけれども、ヤコブをはじめ、エルサレムの指導者たちは、パウロのことが問題にならないようにと一生懸命だった。でも、でも、一生懸命手を尽くしても、神様はパウロを囚人としてローマに送ろうとされていた。一生懸命考えたけれども、それでも、パウロはエルサレムで大きな騒ぎとなってしまった。それは聖霊様がパウロに何度も何度も語りかけておられたことだった。人の努力、それを私は無意味だと言いたいのではない。でも、神様がそのようにされていることを、どんなに人の努力や、工作で何とかしようとしても、それはどうなるものでもない。主の導きの大きな力を感じさせられる。

7月7日(月)

「主はそれよりも多いものをあなたにお与えになることができます。」(歴代志下25:9)

アマジヤ王が100タラントを惜しんで、神に信頼することをためらったこの姿は身につまされるような思いがする。神様が与えることのできるものは、わたしたちが手にしているものを遙かに超えているのに、手にしているものを「無駄」にしたくなくて、神の与えてくださる素晴らしいものを受け取ることができない。リスクを負うのが怖いのだ。与えられたものを大切にするのは大切なことだけれども、神が与えようとしているものを安く見積もる貧乏性は本当に恐ろしいと思う。神の大きさを本当に大きさとして知っていく、経験していくことの大切さを思う。主よ、あなたの大きさを知ることのできる経験を与えてください。

「今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。」(使徒行伝20:22)

パウロは危険を知っていた。感じていた。しかし、そこに彼は進んで行った。その危険を知らせたのも聖霊様であったが、危険にかかわらず行くようにと導かれたのも聖霊様だった。聖霊様の導きに従うことがどういう事なのかを考えさせられる。危険を教えるならば、そこから逃げるように教えてほしいというのが普通の人情だろうけれども、聖霊様はそのようにはなさらなかった。危険の中に進んでいくようにパウロを導かれたのだ。聖霊様の導きに対して、敏感な者になりたいと思う。

7月6日(日)

「すべてのつかさたちおよびすべての民は皆喜んでその税金を持って来て、その箱に投げ入れたので、ついに箱はいっぱいになった。」(歴代志下24:10)

「税金」を「喜ぶ」というのはどういうのだろうか、と思う。それはやはり王の人徳か、王が素晴らしい政治をしていたからだろうと思う。わたしたちは減税は喜び、増税には不満があがる。でも、その中でも、税金を喜ぶような場面があるのだという。でも、献金の事を考えたら分かる。本当に神様に感謝して、「献金したい!」と思うことがある。お役に立てれば・・・という思いになることがある。神様のしてくださったことに感謝して、喜びにあふれて、喜んで与えられる者としてください。

7月5日(土)

「そして彼らが歌をうたい、さんびし始めた時、主は伏兵を設け、かのユダに攻めてきたアンモン、モアブ、セイル山の人々に向かわせられたので、彼らは打ち敗られた。」(歴代志下20:22)

闘いに行こうとしているのに、賛美を歌っているとは・・・。いやはやこれはものすごいものだと思う。あきれて、笑ってしまいたくなる。でも、その時に主は勝利を与えられた。わたしたちの常識では、そんな時間ない、そんな事をしている余裕はない、という感じだけれども、そうではなかった。それこそが、神の力を引き出すものだったのだ。主をほめたたえよう。力強く、思い切りほめたたえよう。主をほめたたえて歩もう。主はそれを喜んでくださって、素晴らしい御業をしてくださる。感謝しよう。

「そのころ、この道について容易ならぬ騒動が起った。」(使徒行伝19:23)

神を信じて、キリストを証ししていることが騒動のきっかけとなった。これも今のわたしたちにはなかなか理解しがたいことだ。いや、自分たちは、騒動になるのはおかしいと思っている。怪しい新興宗教の連中は問題になってもおかしくないが、クリスチャンはそんな騒動のきっかけになることなんかない、と思っている。けれども、それはもしかしたら、わたしたちの信仰の姿勢が何か事なかれ主義的になっているからなのかもしれない。もちろん、ことさら問題を起こそうとする必要はないだろうけれども、信仰を貫くがゆえに人々の中で騒動になることを恐れてはならないと思う。主よ、骨のある、一本筋の通った信仰者としてください。

7月4日(金)

「あなたがスリヤの王に寄り頼んで、あなたの神、主に寄り頼まなかったので、スリヤ王の軍勢はあなたの手からのがれてしまった。」(歴代志下16:7)

主に寄り頼まないで他の国の王様に頼ったアサ王。気持ちは分かる。目に見える助けがほしかったのだ。どうしてもそうしないではいられない時もある。目に見える助けが保証のように感じることがある。でも、それが、神を信頼していないで、人や組織や制度を信頼することになるのだろう。神様に求めていく時に、必ず助けは与えられる。勝利は与えられる。そこに信頼していくことが今の自分には本当に大切だと思う。主よ、お助け下さい。あなたのことを本気で信頼していけますように。

「この町には、わたしの民が大ぜいいる。」(使徒行伝18:10)

日本でこの御言葉を読むと、また新しい感動がある。この町にも、この町にも、この日本の町にも主の民が、主が導こうとされている方々がたくさんいる。本当にそのことを見ていこう。そこをしっかり見ていこう。主が今も生きてられる。主が導こうとされる方々が備えられている。神様、わたしの目にも見せて下さい。導かれようと、刈り入れを待っている畑を。イエス様に見えていたように、そのように見せて下さい。

7月3日(木)

「ユダはうしろを見ると、敵が前とうしろとにあったので、主に向かって呼ばわり、祭司たちはラッパを吹いた。 そこでユダの人々はときの声をあげた。ユダの人々がときの声をあげると、神はヤラベアムとイスラエルの人々をアビヤとユダの前に打ち敗られたので、イスラエルの人々はユダの前から逃げた。神が彼らをユダの手に渡された。」(歴代志下13:14−16)

前も後ろも攻め立てられているところに、ユダの人々は、上を見上げた。主に向かって呼ばわった。どうにもならないところで、にっちもさっちもいかないところで、神を見上げた。そんなことしたって・・・と言う人々も板かも知れない。そのような声もあったかも知れない。でも、そんな中で、彼らは神を見上げた。本当にわたしたちが人の声ではなく、神の声を聞いていくことがどれだけ大切かと思う。どれほど必要かと思う。主が働いて下さるのだから、主に期待して、人に期待するのではなく、主に期待して歩んでいこう。

「また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。」(使徒行伝17:25)

主はわたしたちの手がなければ、何もできないようなお方ではない。わたしたちがうっかりすると、イエス様も困っているだろうから、こんなにしようとか、献金をしないと神様は困る、と思ってしまったりする。でも、そうではない。神様は金もわがもの、銀もわがもの、と言われる。主はすべてを持っておられる。だから、だから、わたしたちは無理をして主に仕えるのではなく、無理をして献金をしたり、それを強要したりするのではなく、本当に単純に喜びにあふれて、主の業に参加するために主に仕えていく者でありたい。主がすべてを持っておられるのだから。

7月2日(水)

「レハベアムはその国が堅く立ち、強くなるに及んで、主のおきてを捨てた。」(歴代志下12:1)

最初は不安で、祈らないではいられないかも知れない。でも、本当に強くなって、強くなっていく中で、自分の力を頼って、自分の力を信じて、神様の教えを捨ててしまった。これは大きな落とし穴だ。私自身、わたしたちの教会自身、陥りやすい落とし穴だ。本当に主の前に、人の前に謙虚になって、自分の力ではない、神様の力によって生かされている、支えられていることを忘れないでいたいと思う。主の奇跡を見せて頂くために、主の奇跡を拝していくために。いつも謙遜な者としてください。主よ、わたしを砕いてください。

「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝16:31)

これを今回は大きな励ましとして頂いた。いや、主の約束として頂いた。ちょうど日本に来ていることもあるかも知れない。そこで主からこの言葉を語って頂いたのは本当にうれしかった。主が約束してくださっている。主イエスを信じるならば、あなたも、その家族も救われます、と。両親も兄弟も、また自分自身の子供たちも、主の救いの中に入れて頂いている。主の恵みの中に守られている。サタンよ退け。もう、この者たちは主のものとされているのだ。すでに主のものとして主の恵みの中に入れられているのだ。

7月1日(火)

「さて一年の間にソロモンの所にはいって来た金の目方は六百六十六タラントであった。」(歴代志下9:13)

666という数はやはり象徴的な意味のある数なのだろう。ソロモンが豊かに祝福されて、多くのものを与えられたけれども、それはやはり「不完全数」だったのだ。どんなに豊かにものが満たされても、信じられないくらいのものが与えられても、それがわたしたちを幸せにするのではない。わたしたちの心を満たすものではない。ああ、主よ、今わたしの心は物の方に向いていないでしょうか?物を求めていないでしょうか?主よ、あなたを求めます。あなたを求めます。あなたご自身でわたしの心を満たしてください。

「確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である。」(使徒行伝15:11)

主イエスの恵みによって救われる。このエルサレム会議で、聖霊様の導きに従って正しい決定をした教会。本当に恵みによって救われるのであって、それ以外のものではないことを、もう一度思わされる。この事に徹底的に生きていきたい。何か自分の功績や信心深さによって救われるのではない、ただ、主の恵みによって、ただ、十字架のイエスの上ですべての罪が解決され、処分されていることを信じることによってのみ、それを受け入れることによってのみ、救われることを、本当に感謝して歩んでいこう。主よ、あなたの恵みに感謝します。