2月1日よりスタートしました。

2月28日(金)

「あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせた・・・」(出エジプト記19:4)

ここまでイスラエルの人々は紅海に追いつめられたり、水がなかったり、食べるものがなかったり、アマレクとの戦いに出て行ったり、いろいろな経験をしてきた。ほんの3ヶ月の間にたくさんのことを経験してきた。そこにはそれなりの苦労があったと思う。しかし、神はそんな彼らに向かって、「わたしはあなたたちを鷲の翼に載せてここまで導いてきた・・・」と言われた。自分なりにそれなりに苦労してきたこと、それなりに戦って勝ち取ってきたこと、それも、大きな目で見る時に、神様の目で見る時に、実は鷲の翼に載せられて守られてきたことなんだ、ということを思わされた。今朝、今ここにいることも、ここで働きが守られていることも、自分の何かではなく、ただ、神様の恵みであり、神様が鷲の翼に載せるようにしてわたしを運んで下さったのだ。そして、今、自分の使命がここにある以上、本気で主に仕えていく者とならせて頂こう。
主よ、あなたがわたしをここに運んで下さったことを感謝します。どうか、これからも一歩一歩を守って下さい。

2月27日(木)

「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救いを見なさい。」(出エジプト記14:13)

今日は、この「かたく立って」という言葉に目が留まった。私たちが神様の救いのみ業を見せて頂けるのはわかる。そして、どんなときにも支えて下さることがわかる。けれども、それを信じて「かたく立って」いるかと問われると、本当に自分の信仰は信仰なんだろうか、と思わされる。神様の救いを見てから、「神様はすばらしい!」と賛美するのは当然だ。でも、その御業を見る前から、「かたく立って」いるだろうか?御言葉を信じる者となりたい。神様を信じる者となりたい。語られた御言葉は必ず成る、と信じて歩んでいこう。天地が滅びても、神の言葉は決して滅びることはない。本気でそのことを信じて歩んでいこう。かたく立って歩んでいこう。
主よ、感謝します。あなたに信頼して歩んでいくことがどれほどすばらしいことかを、そして、どれほど私たちのとってそれが大切なことかを教えて下さったことを感謝します。

2月26日(水)

NYの早天祈祷会の日で、行っていました。その後いろいろで、更新が午後3時をすぎてしまいました。やはり、朝一番にやらないとこうなってしまいますね。それでも、このように時間が与えられて感謝。

「さて、パロが民を去らせた時、ペリシテびとの国は近かったが、神は彼らをそれに導かれなかった。」(出エジプト記13:17)

神様は近道を通らせて下さらないことがある。それも、ずるい「近道」ではなく、「こっちの方がふつうなのに・・・」という近道である。どうして、こっちの道が開かれないのだろうか、どうしてこんな遠回りをして、ここに導かれるんだろうか、と思うような場面もある。しかし、そこにはやはり神様のお考えがあるのだ。そんなこと当たり前なんだけれども、そして、他の人を見ていると、「神様のお考えがあるんだから、ゆだねればいいのに・・・」と思うのだが、自分のこととなると、そうはいかないものなのだ。本当に神様から導かれる道が最高なのに、近道ではないことに恨み言を言ってしまったりする。だから、そんなとき、思いだそう。近道を通されない時は、神様のお考えがあるのだ、わたしが気がつかない所まで見ておられるのだ、と思い出そう。
主よ、あなたの導きを感謝します。あなたの遠回りの導きを感謝します。

2月25日(火)

「しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。」(出エジプト記10:23)

暗闇の中の苦しみ、先日祈祷会で黙示録を読んだ時にも出てきたけれども、どんなものなのだろうかと思う。比喩的に「人生の暗闇」という風に考えても、出口の見えないトンネルのようなものを考えても、本当に不安で、出口があるとわかっていればまだいい、いや、あるかも知れない、というのでもまだ救いがある。でも、絶対に出口がないとわかっている時は本当につらく苦しいのではないかと思う。その心の暗闇だけではない、本当に物理的にも光がなくなってしまうような状況で、何を支えにして生きていったらいいのかと思う。しかし、そんな中にも神に従う者たちの中には光がある、という。「光」が私たちには与えられているという。これからどんな世界情勢の中に私たちはおかれていくのだろうか?しかし、主を信じる者たちの中には光がある、そのことを本当に経験させて頂きたいと思う。本当に神にしたがっていく者たちが、力をいただき、支えをいただいて歩んでいけることを経験させて頂きたいと思う。暗闇の中でも光がある、そのことを、主よ、私たちに経験させて下さい。

2月24日(月)

「モーセはこのようにイスラエルの人々に語ったが、彼らは心の痛みと、きびしい奴隷の務めのゆえに、モーセに聞き従わなかった。」(出エジプト記6:9)

解放のメッセージを語っても、神の約束を語っても、救いの力を語っても、それを受け入れることのできない人々がいる。それはどうしてかというならば、その心の痛みが本当に大きいからだという。だから、モーセは語り続けなければならなかった。だから、モーセは神の力を示し続けなければならなかった。自分は、語って受け入れられないと、この人はだめだ、と逃げてしまっていなかっただろうか?本当に語り続けてきただろうか?神様の救いが本当にどんなにすごいことなのか、どんなにすばらしいものなのか、それを本気で語り「続けて」来ただろうか?人が聞かない時に、受け入れない時に、簡単にあきらめたり、逃げたりしていなかっただろうか?この出エジプトのイスラエルの人々も、こんなに大きな神の力を見ても、なかなか受け入れることができなかった、その心の痛みのゆえに・・・。人の痛みがわかるものとして下さい。福音を語る時に、それを受け入れることができないくらい心が痛んでる人がいるならば、その痛みを覚え、語り続けるものとして下さい。

2月23日(日)

今日はどうしても礼拝説教の準備に朝の時間をとりたくて、朝のうちのアップロードができませんでした。教会から帰ってきて、一日に感謝して、夜の11時頃、これを書いています。

「だれが人に口を授けたのか。」(出エジプト記4:11)

私たちはすぐ、賜物のことを考える。そして、どちらかというと「できない」という結論を急ぐ。簡単に「できない」と言う。自分自身、どれほど「できない」と逃げていることがたくさんあるだろうかと思う。しかし、神様がしなさい、と言われることはできないことはないはずだ、神様が導いておられることは、神様が与える使命はできないことは絶対にないはずだ。私たちに口を与えて下さった神様が、言葉をも与えて下さらないことがあるだろうか?主よ、恐れから解放して下さい。あなたの解放の御業を見せて下さい。わたし自身に経験させて下さい。そして、今まで自分はこの分野はだめだ、と思っていることについて、あなたの力を経験させて下さい。もう一度、あの「あなたの弱いところにわたしの力が完全に現れる」との御言葉は本当なのだ、ということをわたしに経験させて下さい。そして、教会の中にもそのような証があふれますように。よろしくお願いします。

2月22日(土)

「神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめられた。」(出エジプト記2:25)

「しろしめられた」という言葉はよくわからない言葉で、新改訳や新共同訳では「御心に留められた」と訳されている。神は奴隷状態にいた、苦役でうめいていた人々の叫びをおぼえ、心に留められた。私たちが声を挙げる時に、私たちが祈る時に、私たちがそれこそ、「うめく」ことしかできない時に、神様は私たちのそのうめきを聞いてくださる。そして、心に留めて下さる。問題は私たちが叫んでいるだろうか、うめいているだろうか、ということだ。今日はJCFN(Japanese Christian Fellowhship Network)のNY地区の賛美と祈りの集会がある。わたし自身は本当に期待している。神様がこの地域のことを、一つ一つの教会というよりはこの地域の日本語コミュニティーを本当に心に留めてくださる、そのために私たちが祈る時を主は待っておられたのではないか・・・と。もちろん私たちの祈りは日本語コミュニティーに制限されるべきではないだろう。しかし、特に神がこの日本語コミュニティーを憐れみ、ここからリバイバルを始めてくださるように、と祈らないではいられない。

2月21日(金)

「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて・・・」(創世記50:20)

この言葉は何度読んでもパワフルに迫ってくる。私たちの考える悪、人から被る悪、そんな悪さえも、神はそれを良きことのために用いることがおできになる。なんという大きな励まし、大きな支えであろうかと思う。私たちは人の悪に対して、動揺し、苦しみ、嘆き、愚痴をこぼし、騒ぎ立てる。しかし、そのようなことも神にとっては善に変えることができるものであるとするならば、それはなんという大きな守りだろうか、そのことを知る時に、恐れる必要はなくなる。そして、他人を責めたり恨みを抱いたり、また不必要に自分を責めたりする必要もなくなる。

神様、あなたが私たちの悪を良きことのためにも用いることさえできる方であることを感謝します。そのことを教えてくださったことを感謝します。あなたを信頼して歩むことができますように。あなたの良き計らいを信じていくことができますように。

2月20日(木)

「エジプトに下るのを恐れてはならない。」(創世記46:3)

このように行く先々で神様が「大丈夫だ」と保証をしてくださるのはなんとすばらしいことだろうかと思った。祖父の時代から「あなたにこの地を与える」と言われていた地、自分自身、故郷から離れる時に、神から「あなたをこの地に導き戻る」と示されていた地。その地からもう一度離れる。そして、自分は年齢的にもうこの地に帰ってくることはないだろう、というような状況の中で、ヤコブはどんな思いでこの地を離れたのだろうか?おそらく、ヨセフが生きていた、というニュースに躍り上がるようにしてエジプトに向かったのではないだろうか?でも、冷静に考えるとこれは本当に正しいことなのだろうか?と思わされたであろう。そのヤコブに神が「恐れるな、わたしが共にいくから・・・」と語られた。あたかも、あなたがエジプトへ下るのは、ヨセフがそこで大臣をしているからではない、わたしがあなたをそこに導くからだ・・・と語るかのように。
主よ、わたしにもそのようにいつもいつも語ってください。あなたの許される道、喜ばれる道を教えてください。導いてください。

2月19日(水)

昨日が長かったので、今日はすぐ聖書に入ります。

「それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。」(創世記45:8)

今まで、傍観者として読んでいた時には、どうしてヨセフはこんなにまどろっこしいことをしたんだろうとか思っていた。けれども、今回この兄たちの身に自分をおいて感情移入して読んでいたら、このヨセフのいろいろな行動も何かわかるような気がした。癒されるために、兄たちがベニヤミンを大切にする姿の中に兄たちの自分に対する愛を知る必要があったのではないだろうか、と。そして、そんな気持ちで読んでいた時に、このヨセフの言葉のパワーに圧倒される思いがした。「ここにわたしを遣わしたのはあなたがたではない、神だ!」この確信に圧倒されるような思いがした。そして、主がわたしをここに遣わされたことの喜び感じた。
主よ、あなたがわたしをここに遣わしてくださいました。感謝します。この感謝の中に生かしてください。

2月18日(火)

更新遅くなりました。午前10時43分更新。
結局50センチくらい積もった昨日の大雪。子供たちと雪かきをしました。特に12歳の息子の力に「助かるな」と思いながら、昔であった一人の12歳の男の子のことを思い出していました。
今から17年前の夏、聖書学院の修養生だった私は、北海道のある町に短期伝道に派遣されていきました。小さな地方都市で、車で1時間半くらいのところにあった教会がその町に教会をつくろうとしていました。その教会の牧師が週に2回ほどやってきて、伝道をしておられました。いつもは誰もいないその教会に2ヶ月住み込んで伝道をしたのです。その間に二人の6年生の子たちが集まってきました。毎週毎週、一生懸命集っていました。2ヶ月の間に教会に来るようになったのはその子たち2人だけでした。私が東京に帰った後も、そのうちの一人から、教会に毎週行っているという手紙をもらったりしていました。その次の春、その通っておられた牧師にお会いするチャンスがあったので、「彼はその後続けて来ていますか?」と尋ねたところ、その牧師が申し訳なさそうにこんな話をしてくださいました。
「いや、彼はその後友達が来なくなってもずっと一人で毎週来ていたんだよ。でも、ある日、ものすごい吹雪で、これはあの町まで行けないな、と思って、何とか連絡しようとしたんだけど、連絡できなくて、でも、この吹雪の中では絶対に彼も来ないだろうと思っていたんだけど、どうやら、その中でやっぱり教会に来んたんだね。でも鍵が開いていなかったから・・・。それからぱったりと来なくなってしまったんだ・・・」
その話を思い出しながら、その男の子ももう28歳か、どうしてるかなあ、またどこかで教会に行っていないかな、と思い、そして、もう一つ、雪の恐ろしさを知らなかった東京育ちの私が、その北海道の先生に、ほんの一瞬でも「どうして無理をしてでも行かなかったんだ!」と責める思いをもってしまったこと、大変申し訳なく思いました。その相手の大変な状況を知らないで裁いてしまうこと、私たちにはどれほどあるだろうか・・・たかだか50センチの雪だったのですが、そんなことを思わされました。
前置きが長くなりました。聖書を読みましょう。

「もしわたしが彼をあなたのもとに連れて帰られなかったら、わたしのふたりの子を殺してください。」(創世記42:37)

今までこのルベンの言葉を読むと、「そんなルベンが『その時は自分の子供を殺してください』なんて言ったってしょうがないだろう。ヤコブにとって大切なのはベニヤミンなんだし、それに自分の孫を殺したって意味ないよ」ともっともらしいことを思っていたのだが、今回、ルベンがこの事を申し出たのはどんな気持ちだっただろうか、と思わされた。自分の子供を差し出すほどの熱心さをもって、そこまでの熱い思いをもって、「わたしが責任を持ちます!」と言ったルベン。ヨセフの時に責任を持ちきれなかったことの後悔もあるだろう。そして、そのような思いは他の兄弟の言葉の端々に上っている。そして、それがヨセフの心をいやす助けになっているのを見ることができる。また、逆を言うとそのことはヨセフの心の痛みがどれほどであったか、それは神様の御手の中にあったこととはいえ、どれほどの痛みがあっただろうか、そのように思う。そして、その痛みが癒されるために神が前もって夢を与えてくださって、すべてがわたしの手の中にあることなんだよ、と彼に語られたのではないだろうか?

「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して・・・」(創世記42:9)

幼い日の夢さえも、神様の御手の中で一つの線につながっていく・・・。感謝。

2月17日(月)

雪になりました。今日一日激しく降る、ということですが、どこまでいくのでしょう。今は、15センチか20センチくらいでしょうか?まだ外に出ていないのでわかりませんが、それくらいかと思います。何か、落ち着かないのは、どうしてなんでしょう・・・。主よ、あなたをいつも第一にさせてください。

「いいえ、わたしではありません。」(創世記41:16)

パロ王の「あなたは夢を解き明かしできるそうだ」という言葉に、ヨセフは「いいえ、わたしではありません」とはっきりと答えた。王様の前に謙遜してではない。また、言われた言葉に「ありがたきお言葉」とも答えていない。ヨセフの言葉はストレートだ。本当に神様がそのことをしてくださっているのであって、わたしではない、ということを心から感じていたのだ。本当の謙遜さとはそういうことではないだろうか?本当の謙遜さとは、腰を低くするのではなくて、本当に心の底から、自分の力ではない、神様のみわざなんだ、と感じ、そのことを堂々と口にすることではないだろうか?わたしは神様の恵みによって生かされている。本当に自分の真相を知って、「勲なき我」を知って、なおもそこに神の力を見ていくことではないだろうか?主よ、わたしの中から形だけの謙遜があるならば、それを示し、それを取り除き、そして、自分の真相を思い知らせてください。そして、もう一度あなたの前に砕かれた心をもって、歩んでいくことができますように。

2月16日(日)

日曜日の朝です。週末大雪の予報でしたが、明日にずれ込んだようです。今日の礼拝が守られ、祝福されますように、そして、明日大雪の予報で不安を覚えている方々、仕事に支障が出そうな方々にも支えがありますように。

「彼がヨセフに家とすべての持ち物とをつかさどらせた時から、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ。」(創世記39:5)

神の恵みがヨセフのゆえに、エジプト人ポテパルの家や畑にあるすべてのものに及んだという。どういうことだったのだろうか?今まで、ヨセフの苦しみばかりに目がいっていたし、ヨセフの忠実さ、苦しみの中でも真実に仕えた姿に目がいっていたが、神がヨセフと一緒にいたために、神が共にいたために、ご主人の持ち物にまで祝福が、恵みが及んだのだという。主が共にいるってなんというすばらしいことだろうかと思う。今、自分は苦しみや、悩みよりも、主が私と共にいてくださることの恵み、共にいてくださることの祝福の方に目をとめ、感謝して歩むべきなのではないだろうかと思った。主よ、今日の恵みに感謝します。主よ、あなたが共にいてくださるゆえに与えられている恵みのゆえに感謝します。感謝して歩めますように。青白い顔をして、世界中の悩みをみんな負った者のように歩むのではなく、主の恵みがどんなにすばらしいものであるか、証しして歩む者としてください。

2月15日(土)

「わたしの苦難の日にわたしにこたえ、かつわたしの行く道で共におられた神」(創世記35:3)

ヤコブにとって、あのベテルの神経験はどれほどの支えであり励ましであっただろうか?それをもう一度覚える、思い出す時が必要だった。神は苦難の日に応えてくださり、共に歩んでくださる方だ。そのことはやはり苦難の中で一番感じることができるのだろう。これから私たちを取り巻く状況はどのようになっていくのだろうか?嵐がやってくるのではないか、という予感がする。しかし、だからこそ、苦難の日に応えてくださり、行く道を共に歩んでくださるお方に頼って進んでいこう。主よ、今、あなたが苦難の日に応えてくださり、これからも共に歩んでくださるお方であることを感謝します。恐れず、大胆に歩んで行くことができますように。

2月14日(金)

寒い朝、うちの温度計はマイナス15度Cをつけていた。けれども、気分がきりっと引き締まる冬らしい朝だ。この日を与えてくださった神様に感謝。

「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません。」(創世記32:26)

ヤコブのこの苦悩。逃げるための備えをしたり、また贈り物でなだめようとしたり・・・。けれども、どんな方策をとっても、彼の心は安まらなかったのだろう。どうにもならなくなって、一晩祈った。それが「神との組み討ち」として描かれている。そして、その中で圧巻なのは「私を祝福してくださらないならあなたを去らせません」という言葉だ。何とか自分の気持ちと折り合いをつけてやっていく、というのではなく、「あなたの祝福がどうしても必要なんです、あなたの平安がなんとしても必要なんです。確信が必要なんです」と食い下がって、求めたヤコブ。このように祈ろう。一つ一つの問題について、一つ一つの集会について・・・。主よ、どうか祝福をお与えください。今日のプログラムを祝福して、あなたの栄光を表わしてください。そのために私に確信を与え、祈りの中で答えをいただいて進んでいくことができますように。

2月13日(木)

「しかし、神は夜の夢にアラムびとラバンに現れて言いわれた、『あなたは心してヤコブに、よしあしを言ってはなりません』。」(創世記31:24)

このヤコブとラバンとの駆け引きは、なかなか見応えがあって、もっとゆっくり読んでいきたいし、一つ一つのラバンとヤコブとの言葉の意味を追っていく機会がほしいと思うが、今日は、この人間の駆け引きの中にも、神様が介入されて、いろんな言葉のやりとり以上のことをされていることを見た。ヤコブがいろいろ考えて、こうするしかない、と思ってやったことも、最終的には神様の超自然的な介入なくしては悲惨な結果になっていた。神様の守り、神様の助けがなくして、人間の用意周到な計画もむなしいのだと・・・。

「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。」(詩篇127:1)

今日の一日の歩みの中でも、神様、あなたが導き、あなたが力を示してください。今日の集会の上にも主が豊かに働き、集われるお一人一人の心に語ってくださいますように。

2月12日(水)

寝坊しましたー!NYに行ってきまーす。更新は10時頃・・・。

ということで、帰ってきてから更新しています。

「子よ、あなたがうけるのろいはわたしが受けます。」(創世記27:13)

今まで、このリベカのやり方に疑問を感じていた。母親の偏愛の現われだろうと思っていた。でも、今回読みながら、これはもしかしたら、25章の神からのメッセージを聞いて、彼女なりにそのために力を尽くした、ということは言えないだろうか?と思わされた。もちろん、リベカはちゃんと預言のことをイサクに話してイサクが理解して、そのようにすべきだったのだろう。けれども、イサクは「鹿の肉が好きだった」という理由でエサウを愛した、という。これも想像でしかないけれども、もしかしたら、リベカは預言のことをイサクに話し、イサクを説得していたけれども、イサクがそれに耳を傾けなかったのかも知れない。このリベカの行為には倫理的な問題を感じないではいられない。けれども、それとともに、今日は、語られたことに対して、必死になって、「自分が呪われてもかまわない」という覚悟をもって、後の世の人々に理解されないとしても、そこにかけていく一人の信仰者を見た。ヘブル人への手紙にはこのように書かれている。

「信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。」

神様、御言葉に対して、語られたことに対してひたむきに生きる者としてください。

2月11日(火)

今日はNJ地区の早朝祈祷会。その前に更新していこうとも思ったのですが、ままならず、昨日の雪の後、かなり冷え込んだようで、車を暖める時間も必要で、更新が遅くなりました。もっと早起きをしなければ・・・。明日はNY地区の早朝祈祷会なので、明日こそ、家を出る前に更新したいとは思っています。さて、どうなるか。

「『こんなことでは、わたしはどうなるでしょう』。彼女は行って主に尋ねた。」(創世記25:22)

リベカが、「ああ、私はどうなってしまうのか」と思った時に、感じた時に、困った時に、悩んだ時に、彼女は主のところに行って尋ねた。そこに答えが与えられた。その答えは決して、「子供たちがおなかの中にいる時から押し合っている」というリベカの問題をおさめてしまうような答えではなかった。けれども、この事も神の御手の中で起こっていることなのだ、Out of controlではない、in His controlなのだ、ということを教えることだった。私たちの不安もそこにあるように思う。いつの間にか、神様の守りを忘れて、パニックを起こしてしまう。けれども、「どうしてこんなことが起こるんだろう」と思うことも、神様の御手の中にあることなのだ。

神様、リベカのように、問題が起こった時に、不安を感じた時に、あなたのところに行って聞く者としてください。そして、牧師として、人々に、そのことを勧める者としてください。人々の目をイエス様の方に向けるために、私を用いてください。

2月10日(月)

「この事は主から出たことですから・・・」(創世記24:50)

娘を嫁に出すなんて、これはものすごいことだと思うのだが、そのことを「主から出たことですから・・・」と言える事はすばらしいと思う。このアブラハムの僕の祈りに神が答え、神の導きを示してくださったことの大きさを感じた。私たちもこのアブラハムの僕のように大胆に導きを祈るべきだと思った(何をもって「しるし」と見るかは、難しいことだろうが・・・)。しかし、本当にこの事は神様の導きなのだから・・・と確信を持って語ることができ、周りの人にもそのことがはっきりと伝わっていく、そのような主の導きをしっかりといただいていきたいと思う。これからの私の歩む道にも、教会の歩む道にも、「神様が導いてくださっている」という確信を一つ一つの事のうちに与えていただきたい。そのためにも神様との親しい交わりをいただいていこう。

2月9日(日)

「あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し・・・」(創世記22:16−17)

今日はいろいろな事を考えさせられた。やはり、22章では、「神様はどうしてこんな事を求められたのだろうか」とか、「アブラハムの『神が燔祭の小羊を備えてくださるであろう』と言った時には、どんな思いで言ったのだろうか」などと・・・。けれども、最終的に、神様が私に語ってくださったのは、「従う者に祝福がある」ということだ。それが自分にとってどんなに大切なものであったとしても、神様を第一として、そこに従っていく時に、本当の祝福があるということ。ささげなさい、と主は言われている。そして、そこに神様が準備しておられるのは、本当に豊かなものだ。ヘブル人への手紙11章には、アブラハムはイサクが生きて返されることを信じていたという。そこにあるのは、神様の対する信頼だ。本当に信頼していたら、そこには悲壮感はない。そう、自分は今まで、ささげることに悲壮感があったように感じる。「いやだけど、神様がそういうなら・・・」というか、「大切なものだけど、神様が、おまえ、それと私とどっちが大切か」と言われるなら・・・みたいな。でも、本当はそうじゃないんだよね。神様の与えようとしてくださるものは最高のものなんだから・・・。

「主の山に備えあり」(創世記22:14)

そして、聞いたことがある。この神様のご命令は、ご自身が御子イエスを私たちのために与えてくださった、御父の痛みを、大好きなアブラハムにも分かち合われたのだ・・・と。どんな思いで、私たちの救いのために、ひとり子を十字架につけるか、アブラハムにもわかってほしかったのだと・・・。

主よ、感謝します。あなたを信頼することを教えてくださって感謝します。

2月8日(土)

今日は、私たちの家庭に初めての子供が与えられた日だ。思い出していた。その子の命が家内のうちに宿った事がわかった時に、私は駆け出しの牧師で、その与えられたいのちのことを喜びながら、教会の仕事優先で、家内には無理をさせていた。切迫流産だから安静にしなさい、と言われるお医者さんの言葉にも、「そんな事言ってられないだろう」と言っていた。その時に、私たちを家に招いて、涙ながらに命の大切さを教え、教会の仕事を休ませて安静にさせるようにと諭してくださった夫婦がいた。その夫婦に感謝。そして、その夫婦を私たちのために備えてくださった神様に感謝。

「ロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。」(創世記19:26)

今回注意深く読んでみると、ソドムが滅ぼされたのはロトがゾアルに着いた時であったようだ(19:22)。よく燃えさかる町を振り返ってしまって塩の柱になってしまったロトの妻の絵があったりするが、逃げる途中にソドムが滅ぼされたのではなく、逃げた後だったのだ。逃げた後に振り返ったロトの妻。それは物理的に目を向けた、という事よりも、心がそこに執着した、という事だったのだろう。ロトの妻はソドムでの豊かな生活に心が向いて、いろいろ惜しい物があったのだろう。ロトの妻を愚かだ、と言うのは簡単だ。しかし、本当に私たちも注意しなければならないと思う。私はどこに心が向いているだろうか?今日、この日曜日のための備えの日に、教会に連なる一人一人の事を特に覚え、祈って備えよう。御言葉によって取り扱って頂こう。

2月7日(金)

雪の朝、ああ、雪かきをしなければ・・・、昨日思いがけない事があって、できなかったあの書類の準備もしなければ・・・などと心が騒ぐ中、いや、聖書を読もう、と静まって、開いたところに飛び込んできた言葉。

「これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、『アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう。』」(創世記15:1)

昨日のところで、ソドムの王からの戦利品を与えようとの申し出を断って、「わたしがあなたによって富んだと言われないように」と、無礼な事を言って、でも、はっきりした態度をあらわしたアブラムに対して、神の言われた言葉が、どれほど彼の心を励まし、支えただろうかと思う。「わたしはあなたの盾」。自分たちは寄留の身。それが、ロトを助けるために戦争に出て行かざるを得なかった。ケダラオメルと連合国を敵に回した。そして、この言葉で、もしかしたら、ソドムの王の機嫌をも損ねるかも知れない。そんな立場にいたアブラムに対して、神は「わたしがあなたの盾」と言われた。また、ソドムの王の申し出を断った彼に対して、「それは正しい事だったんだよ」と言うかのように「あなたの受ける報いははなはだ大きい」と。わたしもアブラムのように生きようと思った。人におもねることなく、それが自分にとってありがたい申し出だとしても、それを断ると人間関係にひびが入るかな、と思うような話であっても、神を第一として、神が必要を与えてくださると信じて、そこに立っていこう。
主よ、今日の一日も、あなたがいっさいを与えてくださる方である事を忘れずに信じて歩んでいかせてください。あなたを土台とした一日を送らせてください。

2月6日(木)

今日からアブラハムの生涯にはいっていく。この3章だけでも本当にいろいろなことがあって、その場面場面を想像しているとあっという間に時間が経ってしまう。その中で、聖書の御言葉として、今日私の心に与えられたのは

「アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように。」(創世記14:23)

という言葉だ。アブラムは12章の前半で、神に従うときに祝福される、という約束をいただいている。しかし、その約束にもかかわらず、飢饉の時にエジプトに下り、恐れのあまり嘘をつき、そして「パロのおかげで」富を手にしている。そして、その富ゆえに、ロトとの間にひびが入ってしまう。そのような経験の中で学んだのであろう。神に従うことの大切さを・・・。そして、自分を祝福されるのは神であって、他の存在によって富む者となることがどれほど大きな落とし穴になるかを・・・。
また、反対に、「あいつが今あるのは私のおかげ」だと、思うような愚かさからも自由になりたいと思った。「こんなにしたのに・・・」とか、そのようなそんなことにとらわれないで生きて生きたいと思った。イエス様は弟子たちの足を一つ一つ洗った、その夜に裏切られた。その夜に捨てられた。それでも彼らを愛された。主よ、あなたの足跡を踏みゆかせてください。

2月5日(水)

「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう。」(創世記11:4)

団結は力だ。そして、神様が私たちに一致を与えてくださることも聖書には書かれている。しかし、一致が力であるがゆえに、また、落とし穴があることを感じさせられる。神の前にひざまずく中での一致、神の御心を求めていく中での一致が私たちには必要であることを感じる。一致が力であるがゆえに、団結自体が一つの目標になり、神に代わるになり、暴力になり、一致できない人を裁くようになっていく。神がバベルの人々を散らされた非常手段、それは私たちへの愛でもある。神がまた非常手段を執られなくても良いように、私たちが自ら省み、また警鐘を鳴らしていくことの大切さを思わされる。
主よ、あなたの御手の許にある一致を与えてください。あなたの許にひざまずく一致を与えてください。あなたの許に謙虚にさせてください。

2月4日(火)

「人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。」(創世記9:6)

この言葉が今日は心に深く深く留まった。人は、神のかたちに造られた存在なんだ、アダムが罪を犯した後でも・・・だから、その人の血を流すことがあってはならない。一人一人それは大切な存在なんだ。この間、テレビで映画のプラトーンをちらっと見たが、ちょっとしか見ていないのではっきりしたことはわからないが、主人公のいる方の兵士たちはドラマのある、血の通っている者たちとして描かれるが、敵の兵士たちはそのようには描かれない。本当は両方血の通った、家族もおり、恐れや悩みも持っている人間なのに・・・。太平洋戦争中のあるアメリカ兵は日本に爆弾を落とすときに、やはり日本の人々の人格を考えていなかったことを告白している。虫けら、と思っていたと。そして、日本の人々はアメリカの人々を「鬼畜」と呼んでいた。主よ、あなたの前にひれ伏します。私の出会う人も、出会わない遠くの人も、同じように神のかたちに造られた存在であることを今日も覚えることができますように。そのことをしっかりと伝えていくことができますように

2月3日(月)

「ノアはすべて神の命じられたようにした。」(創世記6:22)「ノアはすべて主の命じられたようにした。」(創世記7:5)「神が彼に命じられたようにはいった。そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」(創世記7:16)

聖書はノアが従ったことを淡々と書いている。その背後にはどのようなノアの苦しみ、ノアの葛藤があったかと思うが、聖書はただ、ノアが従ったことだけを書いている。それが私たちの人生の中で大切なことなのだ。葛藤で苦しんだり、悩んだり、そういうことはあるだろう。けれども、結局、神様の命じられていることに、神様の与えてくださる使命に、導きに最終的に従うかどうか?それが大切なことだ。主よ、今日も、あなたに従わせてください。あなたの導きに、あなたの命令に、あなたの願われるところに従う者としてください。心の葛藤はあなたが知ってくださっているだけで、あなたが共にいてくださっているだけで十分です。どうか、あなたが今日も、具体的に、導いてくださって、具体的に従わせてください。

2月2日(日)

「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:24)

「そして死んだ」という言葉が続いている中に、このエノクに対する記述に、知っていたこととはいえ、ものすごいインパクトを受けた。自分が今主の御許に召されていったとして、そこには「この人は神とともに歩んだ」と残るだろうか?と。人が私を見てどう感じるか、どんなことを後で言ってくれるか、そんなことはいい。自分自身、本当に「主とともに歩んでいる」だろうか、そのことを本当に心から告白できるだろうか?と問われた。今日の説教題は「人と歩まれる神」だ。けれども、神様が私たちとともに歩まれ、ともに生きてくださることを、イエスの生涯の中に表わしてくださっているのに、私自身、神とともに歩んでいるだろうか?こんなもんじゃない!と思う。もっともっと、日々の歩みの中で、主と親しく歩ませていただきたい、そう思う。主よ、あなたの招きに感謝します。

2月1日(土)

いきなりですが、今朝は教会の早朝祈祷会ですので、それから帰ってきてから、10時頃のアップロードになります。

「あなたはちりだから、ちりに帰る。」(創世記3:19)

「あなたはちりだから」という言葉が心に響いた。私たちが賛美歌などで「ちりにもひとしい」などと歌うときには、それはどこかで「謙遜」のような気持ちがないだろうかと思う。でも、本当に自分が「ちりなんだ」わかっているのだろうか?本当にちりである、ということを自分は意識していなかったと思う。私たちはちりから造られたんだ。ただ、神様の息が吹きかけられているから、ただ、その一点で価値ある存在なんだ、ただ、神様が私たちのことを大切に思ってくださる、そこにだけ、私たちの「価値」があるのだ。そのことを本当に覚えていよう。やがての日、自分のからだが、土に帰っていくときに、心から感謝していくことができるように・・・。

神様、今日の一日を守り、礼拝のために十分な備えができ、喜んで礼拝に出ることができますように。