「あなたがたは進み出て立ち、
あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。」

12月31日(水)

「川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。」(黙示録22:2)

いのちの木。創世記のあのいのちの木がこの黙示録にももう一度登場する。いのちの木が与えられて、その実によって生かされ、その葉によって癒やされる。十二種類の実がなり、毎月違った実がなり、それによって生かされていく。また、これも楽しみだ。でも、この地においても、御言葉によって、日々新しい御言葉によって生かされていくのだ。主よ、あなたの御言葉によって生かされる喜びを新しい年、もっともっと味わわせてください。期待します。待ち望みます。新しい年が、本当にあなたの力をもっともっと経験するときとなりますように。

12月30日(火)

「わたしの宮に食物があるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふれる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさい」(マラキ書3:10)

いつも主に求めよう。主が天の倉を開いて下さることを、天の窓を開いて、あふれる恵みを注いで下さる事を信じて、ささげていこう。もっともっとささげて、もっともっと満たして頂こう。あふれるまでに主が注いで下さることを、与えて下さることを信頼して、思い切ってささげていきたい。主よ、どうか、お約束通り、天の窓を開いて下さい。天の窓を開いて与えて下さい。

12月29日(月)

「その日には、生ける水がエルサレムから流れ出て・・・」(ゼカリヤ書14:8)

生ける水はエルサレムから・・・これはもちろん、「十字架から」ということだ。十字架からわたしたちの命の水が流れ出るのだ。十字架こそ、わたしたちの命の源なのだ。十字架にあって、わたしたちは命をいただいていくのだ。いつもいつもそこに帰っていこう。いつもいつもそこに帰っていけることが素晴らしい。それが主よ、感謝です。いつも枯れかかったときに、何かがおかしいと言うときに、命の源である十字架に帰っていける。その幸いを思わされる。それを感謝していこう。

「神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして・・・」(黙示録21:3)

主がわたしたちと共にいて下さる。この地上の歩みでも共にいて下さるのだが、それ以上の意味で、共にいて下さる。どんなんだろうなあ、と思う。楽しみだと思う。楽しみにしていこうと思う。そして、この地上でも、主と共に歩むことをもっともっと知っていきたいと思う。主よ、どうかあなたと共に歩む喜びに生かしてください。

12月28日(日)

「わたしはあなたがたを救って祝福とする。恐れてはならない。あなたがたの手を強くせよ。」(ゼカリヤ書8:13)

わたしたちは祝福とされる。人々にとっての祝福とされる。わたしたちが祝福を運ぶ器となる。何という約束だろうか?感謝。どうか、この事をもっと目に見える形であらわしてください。どうか、主の祝福がわたしたちの周りの人々に及びますように、どうか主の御業を見させてください。どうか、周りの人々が何が祝福であるか分かるまでにあなたの圧倒的な御業を見せてくださいますように。恐れから解放してください。強い者として下さい。

12月27日(土)

「これにおのおの七本ずつの管があります。」(ゼカリヤ書4:2)

油が絶えないようにといつもいつも油を供給し続ける管。その管が必要だ。それがないと消えてしまう。渇いてしまう。主よ、どうかあなたの油を注ぎ続けて下さい。このあなたとの交わりが命綱です。この交わりが命です。どうか、主よ、あなたの油をいつもいただいて、与えられ続けて、そして、命の中に歩むことができますように。いつも燃え続けさせて下さいますように。熱い思いを与え続けて下さい。燃やし続けて下さい。新しい年にも、今年以上にあなたの御言葉によって養われる者となりますように。

「この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。」(黙示録20:6)

わたしたちにとって、第一の死が骨抜きにされただけではなく、第二の死さえも、何の力も持っていないと言う。与えられている勝利のものすごさを思う。勝利が与えられているのは何と素晴らしいことかと思う。勝利をひびの歩みの中で心の奥底にまで実感させて下さい。わたしたちが与えられている勝利がどれほど素晴らしいものなのか、実感として、分かち合うことができるように。その勝利、解放の御業を味わわせてください。

12月26日(金)

「彼らは良いしるしとなるべき人々だからである。」(ゼカリヤ書3:8)

わたしたちは主の良きしるしとなるために召された。救われた。招かれた。だから、主よ、どうかわたしたちを用いて下さい。わたしたちを整えてあなたのご用のために用いて下さい。どうか、あなたのお役に立つ者として下さい。また教会の一人一人をきよめて同じように用いて下さいますようにお願いします。あなたのために良いしるしとして用いられますように。あなたの霊的な圧倒的な御業を教会の中に、連なるお一人一人の中に表わして下さい。

「彼は血染めの衣をまとい・・・」(黙示録19:13)

他の皆が真っ白な衣を着ている中で、このお方・・・イエス・・・だけが血染めの衣を着ておられる。わたしたちのために十字架にかかられて、わたしたちが白い衣を着ることができるために、主はご自分の着物を血染めにされた。ああ、何ということだ。なんという大きな御業だろうか?主よ、感謝します。わたしたちの白い衣のために、ご自分の衣を血染めにされたことを、そこまでして下さったことを感謝します。

12月25日(木)

「そして主は、シャルテルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、ヨザダクの子、大祭司ヨシュアの心、および残りのすべての民の心とを、振り動かされたので、彼らは来て、その神、万軍の主の家の作業に取りかかった。」(ハガイ書1:14)

この時の民の状態は、決して余裕があったのではなかった。日照りになって、作物も余りできなかった。そのような厳しい状況の中でこそ、彼らは神の声をきいて、神殿建設に立ち上がった。そうなんだ、主の声を聞くことが大切なんだ。みんなが景気が良くて、余裕があって、「これくらいゆとりがあるから、取りかかるか」というところで神殿建設が始まったのではなかった。教会堂取得もそうだ。ゆとりがあるから、できることではない。主が語られるときに、主がわたしたちに語られるときに、状況は厳しくてもそこに進んでいくことができる。主よ、どうかわたしたちの歩みを導き、教会堂取得のためにあなたの御言葉を聞かせてください。状況が良くなったらではなく、主よ、あなたの御心だから、進んでいくことができますように。

「ああ、わざわいだ、この大いなる都は、わざわいだ。そのおごりによって、海に舟を持つすべての人が富を得ていたのに、この都も一瞬にして無に帰してしまった。」(黙示録18:19)

経済的な繁栄も、それを頼りにして、それが何よりも大切であるかのような生き方をしているならば、絶望に終わってしまう。現代社会の経済至上主義は必ずさばかれる、無に帰するときが来る。その時の絶望はどれほどだろうか想像もできない。でも、その中で、主こそわたしたちの喜びであり、望みであることが明らかにされる。ああ、自分は何を求めてきただろうか?何を得てきただろうか?経済的な祝福も感謝だ。でも、それが主になって、それがわたしたちの主人になってしまうときに、それは違う。主よ、どうか、あなたを喜びとし、あなたこそを喜びとして歩む者として下さい。

12月24日(水)

「彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新たにし、祭りの日のようにあなたのために喜び呼ばわられる。」(ゼパニヤ書3:17)

主がわたしたちのことを「喜び楽しまれる」という。わたしたちが主を喜ぶのは分かる。主がしてくださったこと、主の愛、主の恵み、主の良くしてくださったことを覚えて、喜ぶのは分かる。でも、主の方がわたしたちのことを喜びとしてくださる。喜んでくださる。何という幸いだろうかと思う。何とありがたいことかと思う。うれしくなった。そして、その愛によってわたしたちを新しくしてくださる。新しい年を前にして、主が新しいことをしてくださる、わたしたちを新しくしてくださることを待ち望みたい。主よ、あなたの御業を待ち望みます。

「小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る。」(黙示録17:14)

わたしたちは勝利を得る。キリストと共にいるならば、わたしたちは勝利を得る。心配する必要はない。イエスにつながっているならば、主は必ずわたしたちに勝利を与えてくださる。勝利が約束されている。世の終わりの困難なときにも、わたしたちは勝利を与えられる。勝利することができる。ああ、なんという励まし、何という力、御言葉の力がこんなにすごいものだとは・・・。感謝。

12月23日(火)

「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救いの神によって喜ぶ。」(ハバクク書3:18)

神に疑問をぶつけ、問いかけたハバクク。それに対しての神の答えが彼を喜びを与えた。神が応えてくださるとは何という幸いだろうか?そして、彼の楽しみは、神ご自身となった。自分の心が神さまによって満たされていないと、他のもので満たそうとして、ますます渇いていってしまう。本当に主によって満たされることがどれくらい大切かを思わされる。主よ、どうかわたしを満たしてください。あなたから満たされた喜びの中に生きる者として下さい。主よ、どうかあなたの御言葉を与え続けて下さい。喜びを満たして下さい。

「人々は、この雹の災害のゆえに神をのろった。その災害が非常に大きかったからである。」(黙示録16:21)

災害の中で、人々が悔い改めに導かれるかというと、必ずしもそうではないことがここに何度も繰り返して出てくる。災害を通して、主が悔い改めの招きをなさることがある。でも、その神の招きが、痛みにあふれた神のみ思いが届かないことがある。逆に呪いになることがある。主よ、わたしたちの愚かな心に触れてください。主よ、人々が困難の中で悔い改めに導かれる様に、主よ、どうかわたしたちがいつもいつもあなたのことをお証できますように。あなたの事を指し示し続けることができますように。

12月22日(月)

「主は罰すべき者を決してゆるされない者」(ナホム書1:3)

この事を忘れてしまってはならないと思う。主が本当ならば、わたしたちを罰せないではいられないお方なのだと。だから、だから、主イエスがわたしたちのために十字架にかかる必要があったのだ。もしも、神がこのように厳しくない、いい加減なお方だったならば、イエスは十字架にかかる必要なんて全然なかったと思う。主は罪をそのままにすることのできないお方。罰しないではおられないお方。なのに、十字架のゆえに赦してくださった。主よ、感謝します。あなたの愛の大きさに感謝します。十字架の壮絶さゆえに、赦されている恵みを感謝します。

「神の激しい怒りがその頂点に達するのである。」(黙示録15:2)

神の激しい怒り・・・なんと聞き慣れない言葉だろうか?しかし、ナホムで言われていたように、やはり、主は罪に対しては激しい怒りを持っておられるのだ。ああ、生ぬるい自分。罪に対して激しい怒りを持っておられる神を無視して、やはり、何となく、「いいよいいよ」と赦す神をイメージしてしまっていないだろうか?罪の深刻さ、十字架の壮絶さを薄っぺらく感じていないだろうか?主よ、どうかわたしの心に触れてください。熱い思いを与えてください。主よ、どんなところから救われたのか、その事をはっきりと示してください。主よ、感謝します。わたしをこの恐ろしいみ怒りから救い出してくださって、感謝します。そのために払われた代価に感謝します。

12月21日(日)

「しかしわれわれは、われわれの神、主の名によって、とこしえに歩む。」(ミカ書4:5)

他の人々がどのような歩みをするか、それももちろんわたしたちの心に留まることだけれども、何よりもまず、他の人々がどうであれ、自分自身が主のみまえに忠実に、真実に歩むことだ。他の人の心配より前に、自分自身が本当に主の前に嘘がなく、真実に正直に歩んでいるだろうか。誠実でありたい。いつもいつも誠実でありたいと思う。主よ、どうかあなたの前に誠実な者として下さい。まず、まず、自分自身があなたと共に歩む歩みを120パーセントすることができますように。人に期待する以上に、自分自身が忠実であることができますように。

12月20日(土)

「しかしわたしは主のみたまによって力に満ち、公義と勇気とに満たされ、ヤコブにそのとがを示し、イスラエルにその罪を示すことができる。」(ミカ書3:8)

人に罪を示すことは本当に難しいと思う。聖霊様の御業がないと伝わらないと思う。それに自分自身との戦いもある。自分自身の中で「どう思われるだろうか」という力が働く。主よ、助けて下さい。あなたの御心を語る者として下さい。罪の恐ろしさと、それ故の救いのすばらしさ、あなたの愛の大きさをしっかりと語る者として下さい。主よ、どうか、あなたの僕として下さい。そして、このほかの預言者たちのように、「気休めの平安」を語ることがないように、わたしをお守り下さい。

「そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。」(黙示録14:4)

イエスさまの所へはどこへでもついて行く。これはものすごい言葉だ。あの十字架までも、ついて行く。でも、本当にそうなんだろうなあ。主に従う生涯は十字架を避けていっていたら、恵みの醍醐味が分からないんだろうなあと思う。生ぬるい歩みをして、安穏としていたら、分からないんだろうなあ、と思う。主よ、どうかわたしを導いて下さい、あなたの望まれるところへと。わたしを遣わしたいところへと。十字架の道もあえて歩ませて下さい。あえて十字架の道を行く者として下さい。あなたの歩まれた道を歩ませて下さい。/p>

12月19日(金)

「この激しい暴風があなたがたに臨んだのは、わたしのせいです。」(ヨナ書1:12)

このヨナの言葉、「この嵐はわたしのせいです」というのは余りにも自意識過剰か、ノイローゼ的かと思われるような言葉だ。こんな事が起こったのは、わたしのせいですなんて・・・。でも、少なくともこの場所で、この時に、このヨナの言葉は正しかった。私自身にも問われているように感じた。自分自身が本当に真実に主に従っていくときに、与えられる祝福があり、導きに従わないときに、起こってくる問題もある。主よ、どうかわたしの道を導いて下さい。わたしの行く道一歩一歩に主の導きがはっきりと示され、あなたの願う道へと導いて下さい。

「ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。」(黙示録13:10)

主に従う者たちには忍耐が必要だという。この世の終わりの時に・・・それが終わりだとはっきりと見分けることができるのだろうか?・・・獣の刻印のない者は買い物もできず、商売もできない。そのような状況に追い込まれたときに、わたしたちはどのようにそれを乗り越えることができるのだろうか?主よ、お助け下さい。主よ、あなたが今から警告を与え、準備をするようにと教えて下さっていることを感謝します。どうか、あなたの御業を見させて下さい。あなたのみ力を拝させて下さい。忍耐と信頼をもってその時代にも歩めるように、主よ、あなたのみ声をいつも聞かせて下さい。

12月18日(木)

「あなたの心の高ぶりは、あなたを欺いた。」(オバデヤ書3)

高ぶりはわたしたちの心を欺く。本当の姿を見えなくしてしまう。この箇所は、元々エドムに対する裁きの預言だが、これは決して当時の一地方へのメッセージ留まらず、わたしたちに対するメッセージに聞こえてくる。高ぶりはわたしたちを欺く。自分が何かをやっているかのような、自分が自分の力で生きているかのようなそんな思いにとらわれて、本当の事、つまり、神さまがわたしたちに力を与えて、生かしてくださるのだ、ということを忘れないでいたいと思う。主よ、今日も、あなたの前に生きる者として下さい。あなたの中で生きる者として下さい。

「女は自分の場所である荒野に飛んでいくために、大きなわたしの二つの翼を与えられた。」(黙示録12:14)

この女が「教会」を指しているとすると、教会が自分の場所とすべきなのは「荒野」である、という。わたしたちはヨハネと同じように、「荒野に叫ぶ声」なのだ。わたしたちのために与えられた場所は安穏とした地ではなく、「荒野」なのだ。わたしたちの使命は安穏とした教会生活を送ることではなく、クリスチャンが「やはり同じ考えを持った仲間はいいねえ」と慰め合うことではなく、荒野に出て行って、荒野に出て行って、叫ぶことなのだ。「社会」という荒野で、不安を覚えている方々のところに出て行って、福音を語っていくことなのだ。主よ、どうか、わたしが自分のいるべき場所を覚えていることができますように。いつもいつも使命を覚えていることができますように。そして、その使命を果たすための力を与えて下さいますように。

12月17日(水)

「主の言葉を聞くことのききんである。」(アモス書8:11)

主の言葉を聞きたくても聞けないききん。こんな状態になったら何と恐ろしいことだろうか。でも、本当にそのための責任をも思わされる。主がわたしに語ろうとしておられるのに、わたしが聞く耳を持っていなかったら、それは教会の一人一人に語ろうとされていることを、また新しい方々に語ろうとされていることを、わたしが聞く耳を持っていないがゆえに、伝えることができなくなってしまっていたら・・・。主よ、わたしを憐れんで下さい。主がわたしに語って下さい。わたしの耳を開いて下さい。一日の歩みの中の一つ一つの出来事を通して語ろうとしておられることを、聞き分ける耳を与えて下さい。霊的な感性の深さを与えて下さい。

「このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。」(黙示録11:10)

預言者の言葉は地に住む人々を悩ませるという。人の機嫌を取ったり、人の顔色を見たりしない。ただただ、主の語れ、と言われたことを語る。耳に心地よい言葉を語りたくなる誘惑がある。一般にうけることを語りたくなる誘惑がある。でも、そんなのは愚かだ。人に嫌がられても、反感を買っても、ただただ、主のみ言葉を語るものであり続けたいと思う。真実に主に従ってゆこう。真実に主についていこう。

12月16日(火)

「見よ、彼は山を造り、風を創造し、人にその思いのいかなるかを示し・・・」(アモス書4:13)

主が創造された世界。この世界のこの自然、この気象を見るときに、神さまの思いを知ることができるという。主の御思いを見ることができるという。初めてだ。自分が大好きな「気象」が神さまの事をあらわしている、と感じることができたのは。今までずっと、「神を取るか、気象を取るか」という二者択一でものごとを見てきた。でも、気象を通しても神さまのことを、神さまのみ思いを知ることができるのだ。感謝します。神さまのために気象にのめり込んでいってもいいんですね。この解放感。この自由。感謝します。

「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない。」(黙示録10:11)

ヨハネはこの言葉を聞いたときにどんな思いがしただろうか?どんな気持ちになっただろうか?なぜなら、ヨハネがするのは破滅の預言だったり、何万、何億という人々が滅びてしまう預言だったりするのに・・・。でも、預言者の使命はそこにある。人が聞いたときに、苦しくなるようなことでも、語るものも、腹が苦くなるようなことも、語る使命がある。その責任がある。それは、厳しい言葉であっても、神の招きであり、神が何とか一人でも多くの人々が救いにあずかるようにと、与えられた言葉なのだから・・・。主よ、わたしを用いて下さい。あなたの言葉を与えて下さい。語って下さい。

12月15日(月)

「主なる神が語られる。だれが預言しないでいられよう。」(アモス書3:8)

主が語られる時に、語らないではいられなくなる。主よ、どうか語って下さい。わたしにはいつもいつもあなたから語られて、あなたから教えられることがもっともっと必要です。あのジム・シンバラに語られた、「あなたが人々を祈りに導くならば、わたしはあなたに語るべき事をいつも与え続ける。どんな建物も収容しきれないほどの人々を送り続ける」との約束を思わされる。主よ、わたしにも語って下さい。いつもいつも語るべき事が与えられ続けるように、主よ、あなたの語られた事を人々に伝えることができるように、主よ、いつも語って下さい。

「自分で造ったものについて、悔い改めようとせず・・・」(黙示録9:20)

自分で作ったもの、これはここでは直接は偶像のことを言っているのだろうけれども、実績であるとか、そのようなものを連想させられた。それらが悔い改めを阻んでいることがどれほど多いだろうか?それがどれほどわたしたちにとって悔い改めを阻んでしまうものだろうか?どうか、私自身、自分の作ったものにこだわることがないように、守って下さい。主よ、あらゆる誘惑から、守って下さいますように。欲から私自身を守って下さいますように。

12月14日(日)

「またあなたがたのために豊かに雨を降らせ・・・」(ヨエル書2:23)

主が雨を降らせてくださる。恵みの雨を、命の雨を。主よ、あなたの雨を待ち望みます。天から地に降り注がれ、そして、豊かな実を結ばせる雨。渇いた地に、渇いた心に、飢えた心に、ひからびた地に、どうかあなたの雨を降らせてください。天候をも支配しておられる主よ、自然の雨だけではなく、霊的な雨をもあなたが御手の中に支配しておられることを信じます。主よ、求めます。わたしのうちに、そして、教会の一人一人のうちにあなたの雨を注いでください。

12月13日(土)

「わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。」(ホセア書14:4)

「喜んで愛して下さる」、主がわたしを喜んで愛して下さる。最近、「愛は意志的な行動」ということを思い、意志の力を働かせて・・・と思うことが多いが、主がわたしたちを愛して下さるのは、喜んでそれをして下さるのだという。主がわたしたちを喜んで愛して下さる。そこに本当に感謝を覚える。それは、嫌々ながらではなく、一生懸命ではなく、喜んでそれをして下さるという。心から感謝します。あなたがわたしのような者を、喜んで下さることに感謝します。

「香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈りと共に神のみまえに立ちのぼった。」(黙示録8:4)

わたしたちの祈りは、香の煙と共に主の許にたちのぼっていく。祈りは立ち上っていく。祈りは単に心を静めることでもなければ、単に感じていることを言葉にしてみることでもない。祈りは確かに主の許に立ち上っていく者だ。主に届くものなのだ。だから、やはりいつもいつも祈っていこう。主に祈りを捧げていこう。そのことは本当に励まされる。主に祈りが届き、主がそれに応えてくださる。そのような御業を見せて頂こう。

12月12日(金)

「あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救を雨のように、あなたがたに降り注がれる。」(ホセア書10:12)

主が雨のように救いを与えられる。雨を注がれるように・・・。今度の日曜日、天気が心配になってきた。こんなに準備してきた伝道のチャンス。神さまのメッセージを伝えるチャンス。なのに天気が心配。主よ、「今は主を求むべき時」という言葉を信じて祈ります。どうか、人々があなたの愛を知り、あなたの恵みと命を知ることができますように。そのために主よ、天気をも支配しておられる主よ、人々が集うことができますように、天候をお守り下さい。あなたのなさることはわたしたちの考えを超えていることを信じます。あなたが最善をして下さいますように。

「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」(黙示録7:14)

やはり苦しみには出会いたくない。それも信仰故の苦しみだったら、どんなに悩むだろうか。主に真実に従う故の困難だったら、どう思うだろうか?妥協したら避けられる苦しみだったらどんなに苦しむだろうか?けれども、従うときに与えられる恵みも大きい。従うときに与えられる喜び、そして、御国に行ってからの報い。本気で従っていく者でありたい。そのような強さがほしい。弱い私です。どうか、あなたの強さを与えて下さい。

12月11日(木)

「彼らはこのもろもろの事があっても、なおその神、主に帰らず、また主を求めない。」(ホセア書7:10)

わたしたちが出会ういろいろな出来事、それは神さまからのメッセージ。神さまからの招き。「祈りなさい」「私の方を向きなさい」「私のところに帰ってきなさい」とのメッセージなのではないだろうか。いろいろなことが心にかかってきます。思うようにいかないことに不安を覚えることがあります。でも、だから、主よ、あなたに祈ります。あなたに求めます。あなたとの生きた関係に導いて下さい。あなたからいつもいつもパワーをいただき、み言葉をいただき、元気をいただき、歩んでいくことができますように。

「だれが、その前に立つことができようか。」(黙示録6:17)

本当はそうなのだ、本当はわたしたちは神のみ怒りの前に立つことなんかできないのだ。でも、イエスがわたしたちの罪のために十字架にかかって下さったから、わたしたちのために十字架で死んで下さったから、主の前に立つことができるのだ。本来のことを忘れないでいたい。その厳粛さ、罪の恐ろしさ、そして、その中で生かされていることの恵み、赦されていることのすばらしさをいつもいつも忘れないでいたい。主よ、感謝します。

12月10日(水)

「あなたがたの愛はあしたの雲のごとく、また、たちまち消える露のようなものである」(ホセア書6:4)

ドキッとした。自分に言われているような思いがした。主が私に「お前の愛はこのようなものではないか」と問われているような気がした。このように聖書から語られても、そのことを一日しっかり握って歩んでいるだろうか?鏡から離れたら自分の顔がどんなだったかすぐ忘れてしまうように・・・」という言葉がどこかにあったが、自分の神様に対する思い、み言葉の味わい方、それはこの言葉に通じるものがあるのではないだろうか。主よ、み言葉を心に留める者にしてください。あなたに対する思いを持ち続ける者としてください。今日の一日、み言葉によって歩むことができますように。

「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびを受けるにふさわしい」(黙示録5:12)

5章では今度はイエス様のすばらしさがほめたたえられている。すべての者たちが「封印を解く資格がない」なかで、この方だけがその資格を持っておられる。これも、ものすごい賛美だと思う。でも、わたしたちはこの世で、これほど主を賛美しているだろうか?これほどイエスをほめたたえているだろうか。思いっきり賛美していきたい。思いっきり賛美をする者であり続けたい。クリスマスが近い。賛美が教会にあふれますように。賛美がわたしの家庭にあふれますように。賛美がわたしのうちにあふれますように。イエス様がしてくださったあがないの業に賛美しつつ歩むことができますように。

12月9日(火)

「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干しぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」(ホセア書3:1)

もし、自分がこの立場に立たされたらどうだろうか?気が狂うのではないだろうかと思う。想像もできないし、「主よ、できません」と言うだろう。しかし、主は、私たちのためにこれをしてくださった。主が私たちに対して持っておられる愛はこういう愛なのだと言う。私たちが背を向けて、自分勝手なことをしているのに対しても手を差し伸べ続ける愛であると言う。主よ、あなたの愛に感謝します。あなたがこんなにも思ってくださることを感謝します。そして、私たちがあなたから目をそむけるときに、あなたがどんな思いでおられるかを教えてくださって感謝します。あなたを愛する者としてください。あなたをいつもいつも愛していくことができますように。

「二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った」(黙示録4:10)

主から冠をいただけるなんてなんてすばらしいだろうかと思う。どんな人々の賞賛よりも、主から「よくやった。よい忠実な僕よ」と言われることのほうがどんなにすばらしいことかと思う。どんなにすばらしいことかと思う。でも、この長老たちは主の前に出たときに、自分が与えられた冠も投げ出して、主の前にひれ伏さないではいられないという。主のすばらしさはどんなだろうと思う。楽しみだ。わたしたちはどんな思いにされるんだろうか?主よ、この世でも、この世でも、あなたのすばらしさを、ほんの少しでも、見せてください。あなたの栄光の輝きのホンの一部でも、垣間見させてください。あなたのすばらしさをみながら歩んでいくことができますように。

12月8日(月)

「彼がこう言ったとき、わたしは力づいて言った。」(ダニエル書10:19)

主が語ってくださるときに、主が語られるときに力がわいてくる。力が与えられる。元気が与えられる。私に力を与えてくださるのは主だ。確かに、このように祈り、このようにみ言葉を与えられて一日を始めるとなんと力がわいてくることだろうか?どうか、主よ、私がみ言葉を開くときに、聖書を開くときにあなたが語ってくださって、私に力を与えてください。あなたのみ言葉によって生かされる毎日としてください。

「見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず・・・」(黙示録3:8)

わたしには本当に力がない。そのことをいやと言うほど知らされている。自分には才能がない。リーダーシップもない、愛もない、いわゆる「演説」の才能もない。でも、だからこそ、主がわたしのために門を開いておられるのだ。力がないのに、いや、力がないからこそ、主がわたしのために門を開いておられるのだ。今も、わたしの働きのために「閉じられることのない門」が開かれていることを感じる。主よ、わたしを用いてください。ただ、一人でも一人の人でも、滅びることなく、永遠の命をいただくことができるために・・・。

12月7日(日)

昨日の雪は、警報が出ていたほどひどくはなかったけれども、夜まで降っていたので、今日はみんな教会に来れるだろうか、安全に来れるだろうか。主よ、一人一人を守ってくださって、一人もトラブルに遭うことがありませんように。

「あなたが祈りを始めたとき、み言葉が出た」(ダニエル書9:23)

ものすごいパワフルな言葉だ。祈りを始めたときに、み言葉が出た。み言葉が与えられないのは祈らないからなのだ。祈ろう、主よ、あなたのみ言葉を待ち望みます。あなたの語りかけを待ち望みます。主よ、あなたが語って下さい。あなたが私にみ言葉を与え、み言葉によって生かしてくださいますように。主よ、祈ります。主よ、お語り下さい。あなたのみ言葉が必要なのです。あなたの語りかけが私を生かすのです。主よ、お語り下さい。

12月6日(土)

今日は吹雪の予報が出ていた、朝起きたら、全く大したことはなかったが、これからどうなるのだろうか。明日の日曜日にみんなが喜んで教会に集まることができるように、主よ、あなたがこの事も最善に導いてください。

「あなたの命をその手ににぎり、あなたのすべての道をつかさどれる神」(ダニエル書:23)

私の命も、私の行く道も、この主が導いてくださるこの主が導き続けてくださる。この主が手に握っておられる。だから、安心していこう。だから、主とともに歩んでいこう。だから、主をほめたたえていこう。主よ、今日も新しい朝を与えてくださって、命を与えてくださってありがとうございます。どうか、私の一日を御手の中に守ってください。主よ、あなたの御心をなしてください。あなたの御心を知りつつ歩む者として下さい。あなたと共に歩んでいる喜びに満たして下さい。明日のためにあなたが語るべきことを教えて下さい。

「あなたは初めの愛から離れてしまった。」(黙示録2:4)

主よ、もっともっとあなたを愛させて下さい。もっともっとあなたと共にいることに喜びを与えて下さい。もう、すでに喜びがあります。もうすでに感謝があります。あなたの生かされていることに感謝します。でも、もっともっとあなたと親しく歩んでいけますように。もっともっとみ言葉を聞いて、もっともっと喜びにあふれて、もっともっと感謝に生きていくことができますように。主よ、どうかあなたの愛に生かしてください。あなたの愛に満たしてください。悔い改めます。主よ、私をあなたの命にあふれさせてください。

12月5日(金)

「ついに夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに示されたので、ダニエルは天の神をほめたたえた。」(ダニエル書2:19)

秘密を神から示される。神から秘密を分かち合ってもらえる。なんてすごいことなんだろうか。このような神との親しさ、神との近さ、それがほしいと思う。主よ、私自身が本当にあなたとの交わり、あなたとのつながり、あなたとの生きた関係に乏しい者であることを感じさせられます。主よ、どうか、私の心をあなたに引き寄せ、あなたとの関係にもっともっと満たしてください。あなたの秘密を私に分かってくださるほどに私をあなたとの関係に導いてください。他に大切にしているものがあるなら、それを示してください。あなたを第一とできますように。

「目は燃える炎のようであった。」(黙示録1:14)

ダニエルを読んだ時には、ダニエルが神から秘密を教えてもらって、そのようになりたいと思わされたが、考えてみたら、自分は、ダニエルが見たくて見たくてしょうがなかった、自分でも経験したかった、「キリストによる救い」を与えられているのだ。これも神の奥義だ。そのイエスのまなざしを今日は思わされた。「燃えるようなまなざし」でわたしたちのことを見ておられる。燃える炎のような目をしておられる。今、私を見つめる目も、燃えるような目をしておられる。ヨハネはこの姿にひれ伏さないではいられなかった、いや、そこにぶっ倒れてしまった、という。主よ、あなたのまなざしに感謝します。私のことを今も熱く見つめていてくださることを感謝します。どうか、私を熱い思いで満たしてください。

12月4日(木)

「この川の流れる所では、すべてのものが生きている。」(エゼキエル書47:9)

主イエスを通して与えられる泉、与えられる川、十字架から流れ出す泉、それによってすべての者が生かされる。そのことを大胆に語らせて頂きたい。自分自身それによって生かされているのだから、それによって支えられているのだから、主の命、イエスの愛の力、泉、それによって生かされることのすばらしさ、その喜び、それを語っていこう。主よ、どうか私の口を、そして、心を、言葉遣いを、守ってくださり、祝福してくださり、あなたのメッセージをすべての部分を通して語る者として下さい。生活のすべての側面を証として下さい。

「聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。」(ユダの手紙3)

信仰のために戦う。主イエスが救い主であり、その十字架によってわたしたちが救われることについて、信仰のために戦う。今までもそのような場面があった。なかなか理解されなかった。雰囲気がまずくなった。でも、信仰のために戦うことが大切だと分かった。これからの歩みの中でも、恐れないで、しかし、謙虚に、伝えられた福音を守るために、福音が福音として人々の魂に根付くように祈り、戦いを続けていこう。主よ、戦いのために力を与えて下さい。

12月3日(水)

「その時、見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から来たが、その来る響きは、大水の響きのようで、地はその栄光で輝いた。」(エゼキエル書43:2)

主の栄光。主の栄光が来た時に、地は震え、輝きで満ちたという。主の栄光を経験させて頂きたいと思った。もちろん静かな中にも主の栄光はある。でも、このように地が震えるような、光があふれるような栄光を見せて頂きたいと思う。主よ、あなたの栄光をあらわしてください。主よ、あなたの栄光でわたしの家を、NJの教会を、わたしの心を、周りの人々を満たしてください。輝かせてください。主よ、あなたの栄光を慕い求めます。祈ります。求めます。主よ、今日、「ああ、これが主の栄光だった」とわかるような経験を与えてください。

「わたしの子供たちが真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びはない。」(ヨハネの第三の手紙4)

これは本当に同感だ。導かせて頂いた方々、洗礼を授けさせて頂いた方々が主に従って、平安と喜びの中に歩んでおられる姿ほど励まされ、喜びにあふれさせられるものはない。でも、それと共に、自分はその人達のためにどれだけ祈っていたか、どれだけ心を砕いてきたか、どれだけ語り、どれだけ声をかけ、どれだけ耳を傾けてきたかを、問われているように思わされた。主よ、愛を与えてください。もっともっと人に対する愛を与えてください。主よ、愛に満たしてください。あなたの愛を分け与えてください。聖霊よ、今日わたしを満たし、あなたの愛を与えてください。

12月2日(火)

「あなたをここに携えて来たのは、これをあなたに示すためである。あなたの見ることを、ことごとくイスラエルの家に告げよ。」(エゼキエル書40:4)

主がわたしをここに導かれた。ここに連れてこられた。いろいろな要素があっただろうけれども、すべてが相働いて、今、ここに導かれた。それは主の御手にあったことだった。だから、主はここでわたしに何かを示そうとしておられる。そして、それを証しするように、告げ知らせるようにとわたしに願っておられる。だから、主にもっと大胆に聞いていこう。もっともっと聞いていこう。主よ、お語り下さい、しもべは聞きます。どうか、あなたが語り、あなたが示してください。そして、あなたにこの地で語られたことを、証しする者として下さい。待ち望みます。

「わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。」(ヨハネの第二の手紙5)

愛し合うこと、互いに愛し合うことが神の戒めだという。イエスの戒めだという。ヨハネはこれをライフメッセージとして持って歩いたのだなあ、と思う。あの「この町に火が降るように求めましょうか」と尋ねたヨハネは、主の御手の中で、「愛し合うこと」をメッセージとして持ち歩いた働き人となった。主よ、わたしもそのように生かしてください。理論家ではなく、学者ではなく、愛し合うことを生活を通して実践していく者として下さい。主よ、具体的に実践していく者として下さい。

12月1日(月)

「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」(エゼキエル書37:3)

主よ、信じます。この地域に住む日本語を使う方々、5万人とも10万人とも言われる人々、その人々がイエスによって命をいただくことができるようになることを信じます。枯れたように生きている人々、枯れたような夫婦関係、枯れたような親子関係、枯れたような人間関係、それらが、主よ、あなたの力によって、あなたの霊によって、生きることができることを心から信じます。そのためにわたしを用いて下さい。わたしの心をきよめ、わたしの思いをきよめ、主よ、あなたの素晴らしい力を見ることができますように。

「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(ヨハネの第一の手紙5:5)

イエスを信じる者には力がある。勝利がある。主よ、その約束を今日も見せて下さい。わたしの歩みの中に見せるだけではなく、教会の一人一人の歩みの中に、主よ、あなたの勝利を見せて下さい。ビジネスで戦いを覚えておられる方々に、家庭の中で問題を抱えておられる方々に、主よ、イエスを信じる者たちが経験する勝利を味わわせて下さい。イエスを信じる者たちの勝利、それを今日、あらわしてください。