「聖霊を受けよ」

8月23日(土)

「もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。」(詩篇66:18)

主よ、わたしの心を探って下さい。悔い改めるべき罪があれば、主よ、わたしを探って下さい。わたしをきよめてください。罪を悔い改めます。祈りが聞かれる生涯を送らせて下さい。主よ、わたしの心をきよめ、平安の中に、喜びの中に、何のわだかまりもなく、祈ることができるように、主よ、祈りの生涯を祝福して下さい。お願いします。

「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎない。あなたがたは、信仰に堅く立っているからである。」(コリント人への第二の手紙1:24)

一人一人の信仰を導かれるのは主だ。一人一人の信仰を育ててくださるのは主だ。わたしは人々と共に働いている存在だ。何か肩に力が入って、何でも自分でやらなければいけないような気になる時がある。それは本当に注意しなければいけないと思う。羊を飼いなさい、と言われたイエス様。だから、羊を養う責任がある。でも、それは支配するのではない。本当に信仰的に励まし合って行くのだ。励まし合って歩んでいくのだ。だから、主よ、わたしの心を支えてください。大きな平安で満たしてください。兄弟姉妹と共に真の牧者であるあなたを見上げることができますように。見上げて歩むことができますように。

8月22日(金)

「わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもってもてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもってあなたをほめたたえる。」(詩篇63:5)

主のことを思う時に、わたしたちはおいしいごちそうをいただいた時のように喜び、満たされる、という。それも夜休む時にそうだという。夜、眠れない時に、悶々と過ごすことがある。いろいろなことに心が捕らわれる時がある。でも、そんなときに、主のことを思い出そう。羊を数えるのではなく、羊飼いに目を注ごう。祈るために起こされたのかも知れない。主が、わたしたちを主との交わりに招いておられるのかも知れない。だから、主に目を注ごう。主に求めよう。主よ、どうか、わたしの心を満たして下さい。主の与えられるごちそうで満たして下さい。

「しかし五旬節までは、エペソに滞在するつもりだ。というのは、有力な働きの門がわたしのために大きく開かれているし、また敵対する者も多いからである。」(コリント人への第一の手紙16:8−9)

敵対する者が多いので、ほかの所に行こう、という話ではない。全く逆だ。反対する者も多いし、もう少し、ここで働く責任がある、と彼は語っているのである。このような働き人になりたいと思う。反対する者が出てきた時に、しっぽを巻いて逃げるような者ではなく、喜んでその地のために働き、問題が解決されるまで、力を尽くす。そんな働き人になりたい。主よ、わたしを憐れんで下さい。わたしを助けて下さい。主の働き人として下さい。主の働き人としての強さを持たせてください。主がわたしの力です。力の源です。

8月21日(木)

「滅びのあらしの過ぎ去るまではあなたの翼の陰をわたしの避け所とします。」(詩篇57:1)

滅びの嵐の吹きすさぶ時に、嵐がわたしたちの周りに吹きすさぶ時に、外に出られない時に、主の翼がわたしたちを守る。主の翼の陰に、平安をいただく。守りをいただく。なんという素晴らしいことなのだろうか?なんという幸いだろうか?何という力、何という平安。嵐の中にいるのは心細いことだ。心細いものだ。しかし、その様な時にも、身を寄せる翼があることが、身を寄せる羽があることが、自分にとってどんなに喜びだろうかと思う。どんなに力であろうかと思う。主よ、今も、あなたがわたしの避け所です。主よ、あなたがお守り下さい。

「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。 」(コリント人への第一の手紙15:58)

わたしたちの働きは決して無駄になることはない。このJOYJOYキャンプも、決して無駄になることはない。主にあっては、すべてが働いて益となるのだ。また、今うまくいっていないように見えることも、主にあってはわたしたちの労苦は決して無駄にはならない。決して無駄にはならないのだ。だから、安心して主に求めよう。安心して主が与えて下さる使命を果たしていこう。結果を見て余り落ち込んだりしないようにしよう。主にあってはすべては無駄にはならない。けっして、無駄にはならないのだ。

8月20日(水)

「あなたの荷を主にゆだねよ、主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」(詩篇55:22)

わたしの負っている荷、それは何だろうか?今自分の上に重くのしかかっている荷、それは何だろうか?それを主にゆだねよ、と言われる。心を支配しようとしている荷物、それを主はわたしにゆだねなさい、と言われる。主よ、助けてください。思い煩い、そして、逃げようとしてるわたしにあなたが語って下さいました。主よ、どうか、あなたを信じて立ちますので、あなたが導いて下さい。あなたが最善のことをなして下さることを信じて立つことができますように。人の批判を受けても、反対意見に合っても、主に信頼していくことができますように。

「初心者か不信者がはいってきたら・・・」(コリント人への第一の手紙14:23)

「愛」ってなんだろうと思うと、それはこの事なのではないだろうか?新しい方、初めて教会に来られる方々を思い、自分たちが楽しければ、自分たちが気持ちが盛り上がればいい、ということではなく、初めてこられた方にも分かる、初めて来られた方が悔い改めに導かれるような、そのような働きをすることではないだろうか?主よ、わたしを愛で満たして下さい。あなたの愛で満たして下さい。

8月19日(火)

「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:17)

素直な心、開かれた心、差し出された心、それを主は喜んでくださるという。それを自分も望んでいる。肩書きに縛られて、見栄を張って、そんなことはしたくない。単純に、裸の心で神様ご自身を見上げて歩んでいきたい。砕かれた心、砕かれた魂。言葉だけではなく、本当に心の底から、主の前にひれ伏す。そのように歩んでいきたいと思う。言葉だけではなく・・・。

「愛は寛容であり、愛は情け深い。・・・」(コリント人への第一の手紙13:4〜)

ここを読むたびに、自分はこのようにできないと思う。ここは自分のことではなく、神様の愛のことだと思う。イエスの愛のことだと思う。「愛」の代わりに自分の名前を入れると、とてもではないけれども、最後まで読めない。でも、ここに「イエス・キリスト」と入れると読める。本当にそうだと思う。でも、12章の最後でパウロが言ったように、この愛は「わたしたちが求めるべき道」なのだ。そう思うと、本当に聖書のレベルは高いと思う。主よ、愛を与えてください。「自分にはとてもではないけれども愛がない」と逃げるのではなく、愛を与えてください。

8月18日(月)

「一つの川がある。」(詩篇46:4)

わたしたちの命の源、命の源泉、それはこの一つの川だ。この一つの川がある限り、わたしたちは大丈夫だ。そして、反対に、もしも、この一つの川を見失ってしまう時に、わたしたちは渇いてしまう。力を失ってしまう。だから、この一つの川をしっかりと見ていこう。この一つの川を頼りとしていこう。いつもいつもここにつながっていこう。主がわたしたちの力だ、主がわたしたちの砦だ。この一つの川から水をくんでいこう。今日も、主よ、一歩一歩の歩みを守ってください。

「御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。」(コリント人への第一の手紙12:11)

「御霊は思いのままに・・・」という言葉が心に留まった。御霊の自由なんだ。聖霊様が主権者なんだ。自分に与えられたものを感謝して、感謝して自分の使命を果たしていきたい。比べたり、ひがんだりしないで、自分に与えられたものを感謝して歩んでいくことが大切なんだと思う。だから、与えられていないものではなく、与えられているものに目を注いで歩んでいこう。与えられているものを感謝していこう。与えられたものから使命を見ていこう。他の人と比べて、うらやましがったり、人のことをまねしたりするのではなく、主から与えられていることを果たしていこう。

8月17日(日)

「わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。」(詩篇42:2)

本当に私は神を慕っている。最近になってやっと、慕い方が、肩の力が抜けてきたように思う。やはり、「慕わなければいけない」「本当に自分は慕っているだろうか」という気持ちが強かったのではないだろうか?慕うというのは、温かいものなんだと思う。ホッとするものなんだと思う。慕わないではいられないものなんだと思う。あなたを慕います。あなたに寄り添って頂きたいです。あなたに寄り添って歩みたいです。主よ、更に深い恵みの世界、更に力が湧いてくる恵みの世界へと、深みへと導いてください。

8月16日(土)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。」(詩篇37:5−6)

恐れるな、心配するな。本当に真実に歩むことが大切だ。主に従って歩んでいこう。その時に、もしかしたら、誤解されるかもしれないし、理解されないことがあるかも知れない。そうであっても、とにかく主に従っていこう。そして、神に信頼して歩んでいく時に神は必ず守り支えてくださることを、必ず人々にもわかるかたちで、すべてを明らかにされることを信頼していこう。主よ、人の顔色を恐れていることを悔い改めます。いつもいつもあなたを見ながら、あなたに祈りながら歩ませてください。

「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。」(コリント人への第一の手紙11:1)

「わたしにならう者になりなさい」とはものすごい言葉だ。自分だったら、「わたしを見ないでイエス様を見なさい」と言うことに終始してしまうだろう。でも、本当に主にそのように真実にしたがっていきたいと思った。主に従って、目に見える形で主を指し示していくことができれば・・・と思わされた。主よ、あなたに従わせてください。主に従うことのなんたるかを教えてください。そして、主よ、わたしを牧会者としてください。あなたの命じられたように、牧会をする者としてください。人との出会いを与えてください。仕事として「牧師」の働きをするのではなく、魂の触れあうような人との出会いを経験させてください。

8月15日(金)

「いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。」(詩篇36:9)

本当にこのことを自分自身ももっと経験して、もっと教会の一人一人が経験するようにと祈る。主がわたしたちの泉であり、主がわたしたちの喜びの源であり、主ご自身が主であってくださる、そこに喜びを見いだして歩んでいきたいと思う。どうか主よ、あなたがわたしの心を満たし、その喜びを証しすることによって、周りの人々がイエス様に来るような、そのような者としてください。主よ、わたしの心をあなたが満たし尽くしてくださいますように。心の隅々にあなたがあふれてくださいますように。

「だれでも自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」(コリント人への第一の手紙10:24)

他の人の益を求めるべき・・・。時々、自分のことでいっぱいいっぱいと感じることがある。でも、そんなときは、やはりどこかおかしいんだろう。聖書を読んで祈る時がおかしくなっていたり、義務的に済ませてしまっていたり・・・。本当に主の恵みに満たされ、喜びを与えられていたら、救いの喜びにあふれていたら、このようにパウロのように言える。だから、主よ、いつもいつも周りを見ていくのではなく、自分を見ていくのではなく、あなたを見ていくことができますように。あなたからあふれる泉によって生きる者としてくださいますように。

8月14日(木)

キャンプが守られて、祝福されて、感謝。本当に楽しい3日間だった。また、彼らの純粋な心に、もう一度自分の魂がリバイブされたような思いがした。感謝。体が痛い。主よ、お助けください。

「救いをもってわたしを囲まれる。」(詩篇32:7)

キャンプの時に読んだ、新改訳の「救いの歓声でわたしを取り囲まれます」という訳が心に留まっている。主が与えてくださった救いの喜び、その救いの喜びの中で、歌が、歓声が沸き上がる。それが自分にとっても喜びだ。自分自身の救いのことを思っても本当にうれしい。けれども、それだけではない、特に周りの人々の救いを見させて頂きたいと思った。主よ、どうか救いの喜びを更に更に見せてください。今年、更に受洗する方々も起こしてください。

「福音のために、わたしはどんなことでもする。」(コリント人への第一の手紙9:23)

中高生キャンプ前の日本からの帰国疲れのなかで、この事を忘れてしまっていたような気がする。でも、キャンプで神様と中高生から元気をもらって、もう一度、この言葉を読んだ時に、本当にそうありたいなあ、と思った。そのように歩みたいと思った。キリストのためなら、福音のためならどんなことでもする。燃え尽きてしまうなら、それでもいいじゃないかと思った。燃え尽き症候群とやらを恐れて、中途半端にやっていたら、それこそやる気を失ってしまう。ただただ、自分の力ではなく、神様に愛されている喜びに生きて行きたいと思う。だから、主よ、いつもいつも命の泉から命の水を満たし続けてください。福音のためにどんなことでもしたいんです。どんなことでも。JOYJOYキャンプのために主よ、あなたの力をあらわしてください。どんなことでもすることができますように。

8月13日(水)

昨日の一日に感謝。体は痛いけれども、主が豊かに働いて下さった。キャンプファイヤーも素晴らしかったけれども、その前に一人一人スタッフと中高生で共に祈ったのが良かった。あのように一対一で彼らの心の声を聞くことができることは何という素晴らしいことだろうか。主に感謝。

「主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。」(詩篇26:2)

主に試される時に、主に試みられる時に、わたしの心と思いとがきよめられる。だったら、やはり練りきよめて頂きたいと思う。必要な試練を与えて頂きたいと思う。主のようにされるなら。主のようにされるなら、試練をもってしてでも、きよめて頂きたいと思う。怖い気持ちがないわけでもない。ストレスでおかしくなるのではないかという思いがないわけでもない。でも、それによってきよく練られるならば、試練が与えられたら・・・と思う。主よ、わたしをきよめてください。

「しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。」(コリント人への第一の手紙8:9)

この言葉が初めて分かったような気がする。自分は大体いつも「自分は自由なんだ」と主に与えられた自由を振り回しやすい。でも、その時に、「弱い人」のことは眼中になく、無視していて、自分の自由で周りの人の心を傷つけているのではないだろうか。「弱い人が悪い。もっと強くなってくれなくては・・・」などと自己弁護をしていないだろうか?あえて、すべての人の奴隷となる、その強さがほしいと思った。その愛がほしいと思った。そのように歩んでいこうと思った。主よ、どうかわたしをすべての人の奴隷としてください。自分の自由を振り回すのではなく、人を愛する者としてください。

8月12日(火)

中高生のパワーに圧倒される・・・。何て元気なんだろう。

「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油を注がれる。わたしの杯はあふれます。」(詩篇23:5)

神様が与えて下さる宴。それはわたしの敵の前で開かれる。圧倒的な勝利を象徴するかのように。困難の中で与えられる恵みを象徴するかのように。この約束にも心が躍る。神様はわたしたちの大ピンチに、豊かなふるまいを備えて下さっている。今日の一日を主よ、祝福して下さい。中高生たちの心の中に豊かな豊かな恵みが注がれ、豊かに豊かに与えられますように。今日の一日をとおして、一つ一つの場面をとおして、中高生たちに語って下さいますように。

「結婚している男子はこの世のことに心をくばって、どうにかして妻を喜ばせようとして、その心が分かれるのである。」(コリント人への第一の手紙7:33)

自分も結婚している男子だが、こういう危険はあるのだろうか。妻を喜ばせることが主が喜んで下さることだと自分は思っていることが多いが、もしかしたら、妻を喜ばせることによって、主を悲しませていることがあるのではないだろうか?妻にへつらうように喜ばせることによって、主を悲しませていることがあるのではないだろうか?本当に妻と共に主の前にへりくだり、妻と共に主を喜んで歩んでいきたいと思う。

8月11日(月)

今日から中高生のキャンプ。楽しみです。神様が豊かに中高生たちの心に働いて下さいますように。御言葉が一人一人のうちに留まりますように。

「これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。」(詩篇19:10)

御言葉の慕わしさ、御言葉の甘さ。これを本当に自分は知っているだろうかと思う。このように言えるだろうか、このように生活しているだろうかと思う。自分の心が他のものに捕らわれていないだろうかと思う。昨日、今日と、このように示され、語られた。神がこの事をもっともっと示して下さることを期待しよう。求めよう。主よ、あなたの御言葉の甘さ、御言葉の慕わしさを、もっともっと感じさせて下さい。もっともっと教えて下さい

「しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。」(コリント人への第一の手紙6:17)

わたしたちの体と心がどこにあるのか、それを問われるような聖書の箇所だ。わたしたちの体さえも、主の栄光を宿す聖霊の宮になっているのだ。事の重大さを感じさせられる。主が住まわれる体。主が栄光を表わされようとしておられる。だから、大切にしていこう。そして、心も体も主の前にきよく守っていかせて頂きたいと思う。

8月10日(日)

主よ、今日の礼拝を祝福して下さい。導いて下さい。聖霊様のご自由な働きを拝させて下さい。生ける主の勝利を拝させて下さい。救われる方々を起こして下さい。今日、このように目覚めを与えて下さり、このように祈る喜びに導いて下さったことを感謝します。

「あなたは私の主、あなたの他にわたしの幸はない」(詩篇16:2)

今から9年前の明日。長女の幸を与えられた時のことを思い出していた。この聖書の言葉から、「幸」という名前をいただいた。ただ、神様だけを幸いとし、喜びとして、歩んでいってほしいという願いを負わせた名前だ(ちょっとプレッシャーだろうか・・・)。でも、それは私自身に対する願いでもある。主だけを喜びとして歩む生涯を与えて下さい、という願いでもある。今の自分は、本当に主だけを喜びとしているだろうか。主こそを一番の喜びとしているだろうか。本当に問われたような気がする。聖歌の「主よわが趣味をことごときよめ、日々主を愛す者としたまえ」「主よわが時と宝をきよめ日々主に尽くす者としたまえ」との歌に導かれた。主がわたしたちを愛し、主がわたしたちのためにすべてを与えて下さった、そこに感謝。本当に今、主よ、わたしの心をあなたが一杯にして下さい。

8月9日(土)

日本で買ってきたジェームス・フーストンの「神との友情」を読み始めた。今まで自分にとって、祈りはやはりクリスチャンの義務であり、牧師になってからは、「先生、そんな程度しか祈っていなかったのですか、あきれた・・・」と言われるのが怖いと思いながら果たしてきた、更に大きな義務であったのではないか。土曜日、「祈って備えた説教と、祈りのない説教の違いがわかる」という言葉に脅されるように、祈ったこともあった。それはそれなりに真剣な祈りであったし、幸いな時であったと思うけれども・・・。でも、もっともっと楽しい祈りの時を持ちたいと思った。この本に出会えたことに感謝。主よ、あなたの前に肩書きも、責任もすべておろして、あなたと友情を結ぶような、楽しい祈りの時を導いて下さい。

「わたしはあなたのすべての誉を述べ、シオンの娘の門で、あなたの救を喜ぶことができましょう。」(詩篇9:14)

神様、どうか、救いの御業をなして下さい。救われる者たちを日々与えて下さい。サタンの手から救い出される者たちを起こして下さいますように。今日出会う人々にあなたの事をお証することができますように。今日、出会う方に個人伝道ができますように。主よ、私を個人伝道のできる者としてください。そして、救いの経験をはっきりとする方々が起こされますように。主よ、祈りの手を高く上げ続けます。昨日語って下さったように、主は祈りの手が上がっているところで勝利をとられます。祈りの手を挙げます。主よ、あなたの御業を、今日、見せて下さいますように。

「ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。」(コリント人への第一の手紙5:8)

きよめを求めよう。本当に主がわたしたちのためにほふられた仔羊となって下さったのだから、パン種を取り除いて、小さなパン種が大きな固まり全体をふくらませることを忘れてはならない。本当に主が私達をきよめて下さることを、私自身を、そして教会をきよめて下さることを求めて、大胆に歩んでいこう。主がそのことをなさる。主が求めておられる。主に喜ばれる者となろう。

8月8日(金)

「あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。」(詩篇8:2)

自然の中に表わされた神の御業を賛美している詩の中で、この一節だけは、敵と恨みを晴らす者、という言葉が用いられている。これは何か自分とは関係ない、どちらかというと、自分以外の存在、自分に敵する者の存在、のことを言っているかのように思える。しかし、恨みを晴らす者とを静める、という言葉にちょっと考えさせられた。本当に私自身も、主によって静められて守られているのだということを感じさせられる。主が守って、静めてくださらなければ、自分が痛みを感じた時に、怒りを感じた時にどうなるだろうかと思う。主よ、今からもわたしを守ってください。わたしを支えてください。どうか、わたしの心を静めてくださるあなたの存在を忘れることがないように守ってください。

「この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。」(コリント人への第一の手紙4:2)

忠実であること。今、わたしに必要なのはこの事なのだということを語られた。与えられたもの、与えられた時間、そして教会、すべて管理を任されているものだ。それを忠実に管理していくこと、それがわたしの使命であり、働きである。主よ、どうか、あなたに与えられているものの管理者として、忠実に歩ませてください。あなたが今日、なすべき事、電話すべき方、訪問すべき方、読むべき聖書の箇所、語るべき事、すべてにおいて、あなたが導きを与え、あなたが教え、わたしが忠実にそれに従っていくことができますように。

8月7日(木)

「あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした。」(詩篇4:7)

主のお与えになる喜びは他のものには代え難い喜び。それを本当に毎日毎日感じて歩んでいるだろうか、それを本当に人々に自然に輝かしているだろうか、と考えさせられた。主が与えてくださる喜びはお酒で気持ちが良くなって、明るくなるような喜びにも勝り、おいしい食べ物を食べてうれしくてたまらない時の喜びにも勝るという。「種類が違う」「表れ方が違う」と言うかも知れない。でも、比べてみた時にも明らかに勝り、周りの人々の目から見ても明らかに勝るようなそのような喜びに、今日もあふれさせて頂きたいと思う。

「しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。」(コリント人への第一の手紙3:10)

土台はキリスト、でもその上に建てられるのは金、銀、宝石、木、草、わらといろいろあるのだという。火の中に耐えられるような、火の中でも耐えられるようなものを建てなさい、と主は言われている。火の中でも耐えられるような仕事。主よ、わたしを用いてください。火の中でも耐えられるような教会を形成するために、主がそれを育ててくださることのために、わたしを用いてください。何が必要なんでしょうか?まず、私自身の心をあなたの事で一杯にしてくださって、あなたの愛、あなたの御業、あなたの喜ばれることで一杯にしてくださって、聖霊様によって一杯にしてくださって、あなたの香りを放っていく者としてください。

8月6日(水)

「見よ、わたしはまことに卑しい者です。何とあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。」(ヨブ記40:4)

主の前に出る時に、主が語って下さる時に、いろいろな疑問や、いろいろな問題、文句、不平なども、もうどうでも良くなってしまう。ただ、ただ、口に手を当てるだけだ。疑問に答えられなくても、神様にぶつけた不平に対する直接的な答えがなかったとしても、主が語って下さるならば、主が答えてくださるならば、それでいいのだ。それが答えなのだ。主よ、あなたにお会いしたい。あなたにお会いした、と言う経験を今、持ちたい。主よ、このヨブがあなたにお会いした時に、すべての問題の解決となったように、わたしは主よ、あなたにお会いしたい。祈りの生活を祝福して、あなたにお会いした喜びによって歩む者としてください。

「そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。」(コリント人への第一の手紙2:4)

この霊の力、聖霊の力を、主よ、お与え下さい。聖霊の力を知らない時に、わたしたちはどうしても自分の巧みな知恵に頼ってしまうものだ。ああ、主よ、聖霊様の御業を拝させてください。巧みな言葉ではなく、霊の力によって人々が救われ、救われただけではなく造りかえられ、主によって生かされて歩んでいきますように。主よ、わたしに、教会に聖霊様の圧倒的な御業をなしてください。主よ、あなたを待ち望みます。聖霊様、どうかおいで下さい。

8月5日(火)

「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた。」(ヨブ記38:1)

このとき、やっと神が答えられた。人々の語り合う時間はどれくらいあったのだろうか?何日も続いたのだろうか?その中で神が答えられた。神が答えを与えられた。人々にではなく、彼らにではなく、ヨブに答えられた。ヨブに主が答えられた。それは厳しい言葉だった。慰めや同情ではなかった。でも、ヨブにはそれがどんなにうれしかっただろうか。主よ、わたしもそうです。決して優しい、慰めの言葉でなくてもいいです。主よ、あなたの言葉、あなたの答えがあれば、それは十分です。主よ、あなたの答えを聞かせてください。あなたを待ち望みます。あなたの導きで語って下さい。

「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える」(コリント人への第一の手紙1:22−23)

それでいいのだ。人々がしるしを求めたり、知恵を求めたり、気の利いた言葉を求めたりしても、本当に自分はただ、十字架のイエス、わたしたちの罪をゆるすために十字架にかかられたイエスを宣べ伝えることが大切なのだ。それだけでいいのだ。バカだと言われようと、通用しないと言われようと、本当に単純に十字架のイエスだけを宣べ伝えていくことが大切なんだ。主よ、もう迷いません。もう悩みません。ただ、十字架にかかられたイエスだけを伝えていきます。語っていきます。主よ、これからも導いて下さい。支えて下さい。

8月4日(月)

「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳をその逆境によって開かれる。」(ヨブ記36:15)

エリフがどのような思いでこの言葉を語ったにせよ、この言葉はまるで預言のように、ヨブの人生に起こった。この苦しみによって神と出会い、神から答えをいただいて立ち上がっていった。今まで神のことを耳で聞いていたけれども、この経験をとおして、神をその目で見ることができた。神はわたしたちをその苦しみによって救うことのできるお方なのだ。「苦しみにあったことはわたしにとってとても良いことでした。そこで主の戒めを学びました。」と告白することができる者となりたい。

「こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。」(ローマ人への手紙16:18)

ここが問題なのだと思う。キリストに仕えているのか、それとも自分の腹に仕えているのか。自分は一体どうだろうかともう一度自分自身の身を振り返らされる。主に仕えているのか、それとも自分の夢、自分の欲望、自分の願望に仕えているのだろうか?本当に真実に主に仕え、主のわたしにさせようとされていることをしっかりと見ながら歩む者となりたい。主よ、どうかわたしをあなたに仕える者としてください。主よ、わたしを人々に仕える者としてください。助けてください。そうです。あなたの恵みに満たされて、人に仕える者としてください。

8月3日(日)

「あなたが『彼はわたしの言葉に少しも答えられない』といって、彼に向かって言い争うのはどういうわけであるか。」(ヨブ記33:13)

今まで、このエリフの言葉はヨブ記の最後で責められていないので、もしかしたら、正しい言葉だったのだろうか、と思っていたが、もう一度そのような先入観なしで読むと、3人の友人たちの言葉と大差ないように読めた。神に向かって、「あなたが答えられません」と祈るのは、訴えるのは間違ったことなのだろうか?神は反対にそのように叫ぶのを待っておられるのではないだろうか?神はわたしたちが「いい子」になるのではなく、心を開いて本当のことを言うことを待っておられるのではないだろうか?主よ、本当に私自身、あなたの前にありのままで、真実で歩むことができますように。本当にありのままの自分で歩むことができますように、飾ったり、いい子ぶったりすることがありませんように。

8月2日(土)

「しかしわたしが幸を望んだのに災が来た。光を待ち望んだのにやみが来た。わたしのはらわたは沸きかえって、静まらない。悩みの日がわたしに近づいた。」(ヨブ記30:26)

悩みの中で、本当に苦しんで、何とか幸せになりたいと、求めて、祈って、でも、それが自分の願ったようにならなくて・・・。そのような苦しみの中で、わたしだったら、どのように感じるだろうか。どのようになるだろうか?このよぶの言葉の激しさの前に、本当に心が痛み、苦しむ。また、教会の方が、このような苦しみを経験したとしたらどうだろうか?その方の前で、どのような言葉があるだろうか?どのように接することができるだろうか?ああ、自分の弱さ、自分の小ささ、力のなさを感じないではいられない。だから、神様の力を本当に待ち望みたい。待ち望む。主よ、あなたの働き、あなたが教会の一人一人に触れる御業をして下さいますように。

「わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。」(ローマ人への手紙15:2)

最近、ちょっと肩に力が入っていたような感じがする。自分の正しいと思うことを人々にも伝える使命に力が入りすぎていたように感じる。ここで、周りの人の益を図って、彼らの喜ばせる事が大切だと書かれている。周りを自分のカラーに染めてしまおうとしていたのかも知れない。キリストも自分を喜ばせることをしなかったという。本当にわたしをキリストのようにしてください。キリストのように仕える者としてください。キリストのように人々を愛する者としてください。肩の力を抜いて、人々の喜びを見ていくことができますように。

8月1日(金)

「見よ、主を恐れることは知恵である。」(ヨブ記28:28)

わたしたちの知らないことがたくさんある。それを知ろうとすることも大切なことだけれども、それをまた主におゆだねすることも大切なことだと思った。聖書を読んでいても、社会を見ていても、いろんな事件を見ていても、分からないことがある。分からないことはそのままではいけないような気がする事もある。でも、わたしたちのちっぽけな頭では分からないこともある。そこを本当に主にゆだねて、「万事は相働きて益となる」という信仰に立って歩いて行くことが大切だと思う。主を恐れて、本当にその前にひれ伏して、歩んでいこう。

「彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。」(ローマ人への手紙14:4)

そうだ、一人一人が主にきよめられ、整えられるのは、神様の御業だ。本当にさばくことから解放されて、神様が一人一人の内側になして下さる御業を拝見させて頂きたいと思う。主が働かれることを待ち望んで、歩んでいこう。祈っていこう。「育てて下さるのは神である」と本気で信じて、神様の御業を拝していきたいと思う。主よ、どうか教会の一人一人が主によって整えられ、主によって導かれて歩むことができますように助けて下さい。大きな大きな御業を一人一人の生活の中になして下さいますように。