「愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。」

毎日アップロードと約束してから、1週間以上アップロードが止まってしまっていました。まとめてアップロードします。(5月3日夜)

4月30日(水)

「審判者であられる主よ、どうぞ、きょう、イスラエルの人々とアンモンの人々との間をおさばきください。 」(士師記11:27)

主が審判者であってくださる。主こそが裁かれるお方である。その裁きにゆだねて、私の口に愚痴や批判が上らないように守ってください。私にはその権利がないことを思い出させてください。あなたの裁きにおゆだねする平安を与えてください。平安な心を与えてください。私の唇を守ってください。

「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない。」(ルカによる福音書7:47)

どきっとさせられた。自分は少しだけしかゆるされていないような気になっていないだろうか?だから、少ししか愛することができないのではないだろうか?自分が愛がない人間なのは、本当に神様にたくさんゆるされたことを、本当の意味でわかっていないからなのではないだろうか?ああ、主よ、もっともっとあなたの愛の大きさを教えて下さい。もっともっとあなたを愛し、人々を愛することができるようになるために。あなたの救いのすばらしさをもっともっと深く教えて下さい。

4月29日(火)

「それで主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった。」(士師記10:16)

主に背を向けて40年も歩んでいたイスラエルの人々、その彼らがその偶像礼拝ゆえに苦しんでいるのを、神は見ていて忍びなく思った、という。ああ、何という憐れみだろうか?そんなの自業自得だ、と言われて当然なのに、神はわたしたちを見て忍びなくなられたという。ただ、ただ、ありがたい、その一言だ。でも、そのように神様に思わせてしまう自分も情けなくなってしまう。主よ、お助け下さい。信じます。不信仰な私をお助け下さい。

「それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである。」(ルカによる福音書6:19)

イエスから力が流れて・・・。ああ、今この力が自分には必要だ。そう、イエス様のみそば近くいること。イエス様に求めること、祈ること、聖書を読むこと、主よ、あなたの力を満たして下さい。あなたの力が流れ出て私をみたし、私からまた力が流れ出て、周りを満たしていくことのできるようなあなたの御業を見せて下さい。経験させて下さい。主よ、今、あなたの力が必要です。

4月28日(月)

「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。」(士師記7:2)

ああ、二日続けて、人を頼りにしてはならないという言葉だ。神様は何を私に語ろうとしておられるのだろうか?具体的に何のことを言おうとしておられるのか?13万5千人を敵にして、3万2千人は決して多いとは言えないように思える。しかし、神はそれでも多いと言われる。いや、それだけではない、1万人でも多い、と言われる。何というお方だろうか?自分は何というお方を主として仰いでいるのだろうか?主よ、私がこの信仰に徹することができるように訓練してください。主よ、そのことを私の人生の中で、はっきりと経験することができますように。神様、あなたがどんなに力のある方か、あなたがどんなに小さなわたしたちを用いられる方か、教えてください。

「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカによる福音書5:32)

「罪人」が自分のことを指している、と感じた。いつになく、そう感じた。聖霊様が働いてくださっている。でも、そんなことよりも、自分が罪人だと、本当に思わされている。主よ、あなたが招いてくださっているそのことに、私のような者も、あなたの招きに入れられていることに、心から感謝します。ああ、でもタダ招いておられるわけではありませんね。「悔い改めに」招いておられるんですね。悔い改めます。あなたに従います。愛させて下さい。あなたの愛を与えて下さい。人々を、一人の人を本当にあなたの愛をもって愛せますように・・・。

4月27日(日)

「彼をあなたの手にわたすであろう。」(士師記4:7)

バラクはデボラから、神様が敵をあなたの手に渡す、と言われているのに、デボラ自身が一緒に行ってくれないといやだ、と言った。一体、わたしたちは何を信じているのだろうか?わたしたちがいかに人を信じて、神を信じないことの多いことか?人がいてくれることが平安で、安心で、神様の約束や、神の言葉、神の臨在を本当に信じているだろうか?ああ、愚かだ!人は人にすぎない。わたしたちが頼るべきお方は神なのに、神よりも人を頼りにしてしまっている。それがこのデボラのように素晴らしい霊的な器であったとしても、信頼できる人であったとしても、神よりも頼りにしてはならないと思う。いや、決してそういうことがあってはならないのだ。主よ、人ではなく、人ではなく、本気であなたの御言葉を信頼していく者としてください。

4月26日(土)

「これはただイスラエルの代々の子孫、特にまだ戦争を知らないものに、それを教え知らせるためである。」(士師記3:23)

神様がその地域の人々を残しておかれたのは、戦いを知らない者たちに戦いを教えるためだった。このことは、わたしたちの日常にも同じことが言えるのではないだろうか?わたしたちの周りに問題があるのは、わたしたちが霊的な戦いについて無知であってほしくない、という神の御思いがあるのではないだろうか?問題がなくなり、トラブルがなくなっていく時、霊的な平和ぼけになってしまうのを神様は配慮を持って防いでおられるのではないだろうか?だから、問題が起こった時に、問題に囲まれた時に、神に祈ろう。霊的な戦いにおいてどのようにして勝利を得るのか、主に求めて、教えて頂こう。問題は問題があることではなくて、問題が起こった時に、どのように対処するかだ。祈って、答えをもらうか、適当にしてしまうか?主よ、このような思いに導いてくださったことに心から感謝します。

「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した。」(ルカによる福音書4:21)

ああ、御言葉の成就を見る。それに本当にあこがれる。私の魂は御言葉の成就を見る、そのことに本当にあこがれている。イエス様にあって、旧約聖書のメシヤの預言は成就した。今も、今日も、今週も、このイエス様の言葉のように、私の人生の中で、私の生活の中で、「ああ、御言葉が成就した!」ということを与えて下さい。いや、御言葉はいつも成就しているのです。私の目を開いてくださって、御言葉の成就を見せてくださいますように。見せてくださいますように。目を開いて、それに気付くことができますように。

4月25日(金)

「それならば、あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい。」(ヨシュア記24:23)

どきっとするような感じがした。神に従います、というイスラエルの人々に対して、それならば、それを具体的にしなさい。具体的に従いなさい、とヨシュアは命じた。自分もそうなんだと思う。自分に対しても神様は具体的に従うことを求めておられると思う。異なる神々をすべて取り除き、主にのみ心を注いでいく。毎日の生活の中で主を求めることを、主に心を向けることを何よりも第一としていく、そのような歩みを求められている。主よ、毎日の歩みの中で、あなたを第一とさせてください。あなたに心を傾けていきます。主よ、私が他のことに心を奪われているならば、あなたがそれをはっきりと示してください。厳しい警告を与えてください。鈍感な私に厳しい警告を与えてください。

「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(ルカによる福音書3:16)

イエス様が与えてくださるのは聖霊と火とのバプテスマ。本当に単純に求めていきたいと思わされた。主に満たして頂いて、単なる善意ではなく、単なる好意ではなく、聖霊のバプテスマによってきよめられ、燃やされた者として主を証ししていきたいと思う。人間の力ではない、神の力を見せて頂きたいと思う。だから、主よ、私を砕いて砕いて、砕き抜いてくださって、あなたの圧倒的な御業にすべてをゆだねて、生きていく者としてくださいますように。

4月24日(木)

たくさんたまってしまいました。更新を毎日チェックしておられる皆さんには申し訳なく思います。明日からまた毎日更新できるようにと願っています。日曜日はたくさんの方々と共にイースターをお祝いすることができました。礼拝に出ていた人だけで102人、子供たちを入れると140人の方々とご一緒に主の復活を祝うことができました。感謝します。そして、この皆さんがイースターだけではなく、毎週の礼拝で共に主をあがめることができるようにと祈ります。

「主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つとしてたがわず、みな実現した。」(ヨシュア記21:45)

主の約束は必ず成就する。それを信じていこう。これからの歩みの中でも主が約束してくださっていることは必ず成就するのだ。それを信頼して歩んでいこうと思う。それだけを信頼して、そこに本当に自分の希望を置いて・・・。そこをしっかりと見据えて歩んでいこうと思う。主よ、あなたの御言葉が、あなたの約束が真実であることは本当に素晴らしいことです。そこをバカのように信じて歩んでいきますので、バカを見ることがないように、よろしくお願いします。

「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか。」(ルカによる福音書2:15)

結局のところ、ここが一番大切なことだと思う。主がお知らせ下さった出来事を見にいく、という姿勢。本当にそこに進んでいくという姿勢が本当に大切なことだと思う。さあ、御言葉が本当かどうか、見せてください。見に参ります。それは決して安穏とした生活をしている時にはわからないことだと思う。いすに座っていたままではわからないことだと思う。出て行って、主が語られたことが本当なんだと言うことを経験させて頂きたいと思う。主よ、わたしは出て行きます。見に行きます。主よ、見せてください。

4月23日(水)

「あなたがたは、先祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか。」(ヨシュア記18:3)

ああ、もう主がすでに与えてくださっている地を、わたしたちが怠っているがゆえに自分のものとすることができない、という場面があるとは・・・。もう主が与えてくださっているのに、わたしたちの怠慢のゆえに、それがわたしたちのものとなっていない、というものがあるとは!ものすごい衝撃。主よ、悔い改めます。主よ、あなたが与えてくださっているものを、はっきりといただくことができますように。自分のものとすることができますように。「もう主が与えてくださっているのに・・・」伝道に於いても、会堂建築に於いても、牧会に於いても、主がもうすでに与えてくださっているのに、もしもわたしたちがそれを取りに行くのを怠っているならば、そのことをはっきりと示し、あなたの与えてくださっているものがどんなに素晴らしいものであるかを経験させてください。肌で経験させてください。

「聞いた人々は皆これを心に留め、『いったい、この子はどんな人になるのだろうか』と言った。この子には主の力が及んでいたのである。」(ルカ1:66)

主の力が人々にわかるような形で示される。明らかにされる。それは何という素晴らしいことだろうか?明らかな主の働きを見ることができる。それは何という素晴らしいことだろうか?今もそのような働きを見せて頂きたいと思った。「見方によっては神様の働きであるということができる」というレベルのものではなく、明らかに神様の御業だ、というものを見せて頂きたいと思う。主よ、あなたの御業を拝させてください。あなたの力が働いておられることを、人々が見ることができますように。明らかに見ることができますように。

4月22日(火)

「カレブの兄弟、ケナズの子オトニエルがそこを占領したので、カレブは娘アクサを妻として彼に与えた。」(ヨシュア記15:17)

ここでも、月曜日のところと同じように、オテニエルの積極的な姿勢を示された。オテニエルは大胆に進んでいった。それを主が祝福された。わたしたちも大胆に進んで行く者とされたい。主が与えてくださることを信じて、大胆に進んでいきたい、そのように思わされた。ああ、主よ、わたしたちに山地を下さい。わたしたちは主によってこれを取ることができます!

「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マルコ16:20)

復活の主が今もわたしたちが伝道をする時に、共においでになって、わたしたちの言葉が真実であることを示してくださる、という。これは何というありがたいことだろうかと思った。主がわたしたちの言葉の保証をしてくださる。わたしたちの言葉と言うより、御言葉の真実さ、イエス様についての証の真実さを、主御自身が保証をしてくださる。これはものすごいことだ。何かわたしたちがしなければならないことではなくて、主がしてくださること、主がその通りにしてくださることなのだ。主よ、これからの歩みの中でもどうかあなたの御言葉の真実を御業をもって保証してください。示してください。

4月21日(月)

「どうか主があの時約束してくださったこの山地をわたしにください。あの時、あなたも聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々がありますが、主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。」(ヨシュア記14:12)

わたしたちはどのような願いを神にささげているだろうか?85歳のカレブが大胆に大きなことを、難しい道を求めたように、自分は大胆に求めているだろうか?安穏とした道、簡単な道、安易な道、それを求めていないだろうか?大胆に山地を求めていく者となりたい。この地の伝道のために、この地の人々の救いのために、大胆に主に求めていきたい。それがどんなに困難な道であったとしても・・・。

「また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。」(マルコ15:27)

イエスが罪人の一人に数えられた。強盗と同じ扱いをされた。もし、自分の息子がこんな扱いをされたら自分はどのような反応をするだろうか?気が狂ってしまうのではないだろうか?一生懸命えん罪を訴えるのではないだろうか?しかし、イエスはあえて、それをなさらなかった。御父はあえて、イエスを弁護されようとはしなかった。ただ、わたしたちの罪のために、わたしたちを愛するゆえにイエスを十字架につけられた。主よ、感謝します。主よ、あなたの愛に感謝します。イエスが罪人に数えられることがどれほど痛みであったかを思います。その痛みのゆえに感謝します。

4月20日(日)

「男たちは彼らの食糧を受け取ったが、主の指示を求めなかった。」(ヨシュア記9:14)

連戦連勝。これがわたしたちにとって落とし穴になることを忘れてはならないと思った。連戦連勝の中で、神に祈り求めることを忘れてしまった人々。その中にわたしたち自身の姿を見せられるような気がした。一回目は祈って、求めて、答えをいただいて、そして進んでいく。けれども、それが祝福されると当たり前のような気分になってしまって、祈ろうともしないで、自分の経験の方を神様よりも信頼してしまっているのではないだろうか?主がわたしたちのために大きな働きをしてくださっているのに、それが当たり前のような気になってしまっていないだろうか、と思わされる。謙虚に、本当に謙虚に歩んでいきたい。

4月19日(土)

「あなたがたが、その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたと共にいないであろう。」(ヨシュア記7:12)

この言葉の厳しさ、神の厳しさ、罪の恐ろしさ、滅ぼされるものが滅ぼされなければならないことを厳粛さを思わされる。それがいい加減になる時に、イエスの十字架の意味も、イエスの十字架の厳しさも、いい加減な理解になってしまうのではないだろうか?主があそこまで苦しまなければならなかったのに、「赦されている、愛されている」ということが安っぽい慰めになってしまう。この厳粛さ、忘れないでいたい。しっかりと見つめていたい。そして赦されている幸いを思いっきり感謝して歩んでいきたい。

「そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。」(マルコ14:68)

この言葉には、初めて気がついた。ペテロが一回目に「イエスを知らない」と言った時に、鶏が鳴いたという。この鶏の声をペテロはどんな思いで聞いていたのだろうか?気がつかなかったのだろうか?気がつきながらどうしようもなかったのだろうか?神様の最後の警告だったのではなかったのか?それを聞き逃してペテロは失敗をしてしまった。自分の経験でも、心に聖霊様の警告だろう、細い声が聞こえることがある。その声を聞き逃してしまった時、無視してしまった時、失敗をしてしまう。神様の声を聞ける者になりたい。そして従うことのできる者になりたい。

4月18日(金)

「いや、わたしは主の軍勢の将として今来たのだ。」(ヨシュア記5:14)

毎年思うことだけれども、今日も、新しくこの言葉が心に響いてきた。ヨシュアは「あなたはどちらの味方ですか」と聞いたのだが、この天使は「いや、わたしは主の軍勢の将として来た」と答えた。わたしたちの視点が「神はどちらの味方?」というところにあることが問題なのであって、主はどちらの味方、というよりも、主が支配者で、主がすべてを支配しておられて、わたしたちがどちらに参加するか、の問題なのだ。わたしたちが中心ではなく、神様が中心なのだ。わたしたちの祈りがどれほど、このような祈りになっているだろうかと思わされる。主よ、あなたを心の王座にお迎えして、あなたのご計画に参加する者としてください。

「目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人に言うのである。」(マルコ13:37)

目をさましていなさい。世の終わりが来るのはいつかはわからないから・・・。目をさましていただろうか?この一週間、この金曜日まで自分は一体目をさましていただろうか?日々のことに追われて、「仕事」をこなすのが精一杯で、たまっていたことをやらなければいけないという気持ちばかり焦って、本当に目をさまして仕事をしていただろうか?「牧師」でありながら、主に目を向けるよりも、お一人一人の魂の状態に目を向けるよりも「仕事」をこなすことに目が行っていた自分に気づかされた。主よ、目をさまさせてくださってありがとうございます。どうか、あなたにしっかりと目を向け、お一人一人のことを覚え、目をさまして歩ませてください。

4月17日(木)

「箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に・・・」(ヨシュア記3:15)

祭司たちの足が水に着くその瞬間まで、川は流れていた。それも刈り入れ時で水がいっぱいあふれていたヨルダン川。その瞬間まで、何の変化もなかった。その川が渇いた。主がなさることはそう言うことなのではないだろうか?「もう大丈夫渇いた道が表れた」というところを歩まされる時もあるが、それよりも、信仰を持って進み出ないと、道が開かれない時が多いのではないだろうか?そして、その信仰が問われているのではないだろうかと思う。自分はそのような歩みをしてきただろうか?逆に、道が現われるのを待って、そこから一歩を踏み出してきたのではないだろうか?いい。もういい。道が現われるのを待っていないで、主の導きに従って、道の造られていない所を、道のまだ見えない所を、信じて進んでいくことを求められていると示された。主よ、「行き先を知らないで出て行く」大胆な信仰をお与え下さい。

「彼が適切な答えをした・・・」(マルコ12:34)

適切な答え・・・でも心からの叫びではなかった。
適切な答え・・・でも、それは知識に過ぎなかった。
適切な答え・・・人を喜ばせようとして言っている答えにすぎなかった。
だから、適切な答えではなく、心からの叫びを主に求めたいと思う。主が与えてくださる答え、それを待ち望んでいこう思う。主よ、適切な答えではなく、あなたへの叫びを言葉にすることができますように。

4月16日(水)

「下には永遠の腕がある。」(申命記33:27)

下に腕がある。下に・・・だからわたしたちは、どこまでも落ち込んでゆくことはあり得ない。落ち込んだ先は主の腕の中だ。ああ、主よ、そうです。わたしが落ち込んで、どうにもならない気持ちになる時に、そこはあなたの腕の中だったんですね。そこが地獄だと思っていました。そこが泥沼だと思っていました。そして、あなたはわたしを捨ててしまうと思っていました。でも、そうではなく、そんな落ち込んだ時にこそ、主の腕がそこにあるのですね。単純に信じます。理屈抜きに信じます。そこが泥沼ではなく、地獄ではなく、イエス様に見捨てられる所ではなく、あなたの腕の中であることを・・・。

「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。」(マルコ11:24)

自分はこの言葉が聖書の中にあることを知ってはいた。でも、本当に自分の今までの歩みの中で、「祈ったことはすでにかなえられたと信じているか?」と問われたら、ハテ・・・と思ってしまった。「みこころがあるから」「どうなるかわからないから」と、聖書の約束を信じてこなかったのではないだろうか?聖書の約束は、「すでにかなえられたと信じなさい、そうすれば、その通りになる」というものだ。自分は結局、怖いから、信じないのだろうか?信じてその通りにならなかったら(この問い自体が不信仰)、傷つくのが怖いから、先にセーフガードを張っているのではないだろうか?主よ、あなたの約束を単純に信じます。御言葉通りにしてください。

4月15日(火)

「あなたの神、主はみずからあなたに先立って渡り・・・」(申命記31:3)

主がわたしの先に渡って下さっている。主がわたしよりも先に・・・。主が先に・・・。御言葉を語る時も孤独を感じる必要はない。主がわたしよりも前に進んでおられる。わたしが語る前に、語り始めていて下さっている。だから、恐れるな。ひるむな。最近、本当に御言葉を語ることに恐れを感じることがある。いや、恐れを感じなくなったらおしまいなのかも知れないが、それとは違う恐れを感じることがある。主が語って下さる。主が働いて下さる。孤独ではない、恐れる必要はない。主よ、どうかわたしの心を守り、あなたが先に立っておられることをいつもいつも思い出させて下さい。そして、恐れることなく、主の力を信じて、あなたに語られたことを語る者としてください。

「さて、一同はエルサレムに上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。」(マルコ10:32)

イエスは十字架にまっすぐに進んで行かれた。イエスは先頭に立って行かれた。イエスはいつも十字架を見つめながら歩いて行かれた。十字架は愛の表れ。主がどれほどわたしたちを愛しておられるか、イエスがわたしたちのためにどこまでなさったのかを、示しているのが十字架だ。先頭に立ってゆくイエス。どこかの画家や、どこかの小説家が描くような、弱々しい歩みではなかった。本当にはっきりと十字架を見つめながら歩まれた。敗北者ではなく、勝利者であるイエス。ありがとうございます。主よ。

4月14日(月)

「わたしは四十年の間、あなたがたを導いて荒野を通らせたが、あなたがたの身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。」(申命記29:5)

いつの間にか、自分で歩いてきたつもりになっている。いつの間にか、自分の努力で道を切り開いたつもりになっている。けれども、そうではないのだ。神様が守ってくださったのだ。足の靴が古びなかったことも神様の特別な配慮であり、特別な助けだったのだ。なのに、何か自分が何者かであるようなつもりになってしまって、神様に感謝することを忘れているのではないか、と思わされた。本当にそうなのだ。神様の特別な助け、とくべつな守りによって生かされているのだ。ここまで来たのも、特別な導きだったのだ。主よ、あなたに感謝します。

「信じます。不信仰なわたしをお助け下さい。」(マルコ9:24)

イエスが山から下りてきた時に、人々は「論じ合っていた」という。信仰についてだろうか?霊的な力についてだろうか、奇跡についてだろうか、とにかく論じ合っていたという。自分たちも、信仰について、奇跡について、霊的な力について、「論じ合う」ことが多いのではないだろうかと思わされた。「論じ合う」のではなく、本当に信じて祈ることが大切なのだ。論じ合ってばかりいるのはやめよう。そして、主に大胆に期待していこう。奇跡を待ち望んでいこう。信じます。不信仰な私をお助け下さい。それだけです。

4月13日(日)

「『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。」(申命記27:26)

「呪われる」「呪われる」と繰り返し繰り返し語られる中で、気が滅入ってくる。そんなに呪われる、呪われる、と繰り返さなくてもいいのではないか、繰り返す必要もないのではないだろうか。しかし、やはり必要なのだろう。どれほど罪が恐ろしいものであるのか、それを繰り返し繰り返し覚えなければならないのだ。そして、そのことを思った時に、イエスが呪われた存在になって下さったことのすばらしさを思わされる。わたしたちに代わって呪われてくださり、それによってわたしたちが罪から解放されて、もはや「呪われた」存在ではなくなっている、ということのすばらしさ、ありがたさを思わされる。主よ、あなたに感謝します。罪の呪いから解放してくださったことを、主が呪われてくださったことを・・・。

4月12日(土)

「あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。」(申命記24:19)

受けるよりも与える方が幸いである。その聖書の言葉を思い出した。それは決して無駄ではなく、祝福なんだ。本当に喜んで与える者となりたいと思った。そして、必要なものはすべて与えて下さる神様に信頼して歩んでいきたいと思う。人からの祝福ではなく、自分の手からの祝福ではなく、神様からの祝福を待ち望み、それを与えられたい。すべてを支配され、導いておられるのは主なのだから・・・。主はわたしたちの羊飼い。必要をすべて満たして下さるから。「豊かに」命を与えて下さるから・・・。

「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マルコ8:33)

神様、あなたのことを思わせて下さい。人間的な事情や、友情や、そういうものではなく、あなたの導きを示して下さい。そして、あなたの喜ばれる道に導いて下さい。人のことを思うのではなく、そしてサタンの思うつぼにはまるのではなく、あなたの導きを示して下さい。あなたの使命に生かして下さい。そして、自分の命を惜しいと思うのではない、与える者としてください。そして、自分を捨て、自分の十字架を負うことを教えてください。そして、人々の前であなたを恥じるのではなく、あなたを誇りとすることができますように。

4月11日(金)

「あなたが敵と戦うために出る時、馬と戦車と、あなたよりも大ぜいの軍隊を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導きのぼられたあなたの神、主が共におられるからである。」(申命記20:1)

自分より強い存在、それを目の前にして、たじろがない者があろうか。今回の戦争もアメリカが圧倒的に強かったからまだ見ていられたところがあると思う。しかし、相手の方が逆に圧倒的に強かったらどうだっただろうか。そのような状況の中で神を信頼して歩むことは大変なことだろう。私達の日々の歩みの中でも、それぞれの戦いがある。その中で、主を信頼して歩んでいくことが大切だ。どんな大きな山であったとしても…。

「すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。」(マルコ7:35)

主が耳を開かれた時に、彼は話すことができるようになった。私達もそうだ。主から語られた時に初めて唇から言葉が溢れて来る。まず、聴くことだ。主よ、お語り下さい。そして、語ることができますように。私の口にあなたへの賛美を満たして下さい。

4月10日(木)

「すべて傷があり、欠けた所がある牛または羊はあなたの神、主にささげてはならない。」(申命記17:1)

どうしてだろうかと思う。でも、もしも、傷があったり、欠けた所がある家畜を主にささげるとすると、それは「どうせささげるならば、どうせ焼いてしまうならば、どうせほふってしまうならば、傷があるものや、欠けた所のある家畜の方がちょうどいいだろう・・・という計算が働いているのだと思う。「その方が得だ」という計算だ。しかし、この計算自体が、なんと身勝手な、なんと自分の都合に合わせたものだろうかと思う。主にささげるものは最高のものをささげよう。都合がいいから・・・とか、ちょうどいいから・・・ではなく、最高のものを主にささげよう。自分にとって大切なものを主にささげよう。

「あなたがたの手で食物をやりなさい。」(マルコ6:37)

「めいめいで食物を買いに行かせてください」とは全くもっともな進言である。一人一人の自立を勧める言葉だ。自立は大切なことだと思う。しかし、主は、その中で「あなた方の手で食物を・・・」と言われた。自分が「一人一人の自立」ということを口にする時に、自分の中に、相手のことよりも、「自分にはこのことは荷が重すぎる」との気持ちが勝っているのではないだろうか?「わたしたちを強くして下さるかたの力によってすべてのことをすることができる」とパウロは言った。その「主を信頼する」ということが欠けているがゆえに、「一人一人の自立」ということを言っていないだろうか?自分を守り、言い訳として「自立」ということを語っていないだろうか?主よ、まずあなたの力をいただいて歩むことができますように。私自身があなたから力をいただいて自立して歩むことができますように。そして、あなたの力によって、人々を愛していくことができますように。

4月9日(水)

「貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、わたしは命じて言う、『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない』。」(申命記15:11)

貧しい人がいない社会をわたしたちは夢見る。でも、ここではっきりと言われている。「貧しい者は耐えることがない。だから、あなた方の手を彼らのために開きなさい」と・・・。みんなが自立する社会をわたしたちは夢見る。しかし、主は言われる。貧しい者たちは絶えることがない、と。もしかしたら、わたしたちのために、主はわたしたちの周りに貧しい者たちを与えてくださっているのではないだろうかと思う。わざわざわたしたちの周りに置いておられるのではないだろうかと思う。自分が汗水流して稼いだもの、手に入れたものは、自分で自由に使いたい。だから、わたしたちの周りに貧しい者たちを与えてくださっているのではないだろうか?自分たちは何でもできる、と思っている。だから、そうじゃないんだ、ということを知らせるために、しゅはわたしたちの周りに、人の助けを必要としている人々を与えておられるのではないだろうか?そして、与える時に、与えているつもりになっていても、本当はより多く受けているのだ。与えているつもりになっている相手から、多くのものをいただいているのだ。主よ、わたしたちの目を開き、あなたがわたしたちの周りに置いておられる、貧しい人々のことを見せてください。目をひらいてください。

「そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。」(マルコ5:15)

主の力、主の勝利、それを見せて頂きたいと思う。説明によって、説得によって人は福音を信じるように導かれるわけではない。本当にそれを超えたものが必要なんだ。自分自身の伝道が、本当に神様の力によっているものだろうかと思わされる。もっともっと内側に力をいただいて、聖霊様に満たして頂いて、奇跡を経験させて頂いて、霊的な力をいただいて、霊と力とによる伝道をさせて頂きたいと思う。「頭ではわかるけど」という言葉を何回も聞いた。頭でわからせる伝道者になりたいとは思わない。神様が魂に働いてくださる、そのことを見せて頂く、伝道者として歩んでいきたいと思う。主よ、まず、わたしを霊的に造りかえてください。主よ、霊的に新しくしてください。

4月8日(火)

「見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。」(申命記11:26)

わたしの前に祝福と呪いとが置かれている。そして、どちらをとるかはわたしたちに任されている。神様は祝福しようと思って待っておられる。どちらをとろうとするのか?わたしは本当に祝福を与えられて歩んでいきたいと思う。それは神に従う道だ。主が導かれる所に従っていく道だ。主よ、あなたの道を教えて下さい。祝福を取って、祝福を選んで歩ませて下さい。あなたの祝福に生かして下さい。

「静まれ、黙れ」(マルコ4:39)

今日はこの言葉の権威の大きさを感じさせられた。主が言われる。「静まれ、黙れ」と。わたしの心の嵐に対しても、またわたしの状況の嵐に対しても「静まれ、黙れ」と言われる。主よ、言ってください。この時代の嵐の中で、「静まれ、黙れ」と。あなたの御声で語ってください。本当に静めてください。あなたにこそ権威があります。あなたにこそ勝利があります。あなたにこそ力があります。自分の力で静めるのではなく、あなたの権威によって静められた海の上を歩ませてください。

4月7日(月)

土、日と更新ができず、月曜日になってしまいました。今年初めてです、こんなことは・・・。自分の情けなさを感じます。でも、義務ではなく、主の前に恵みをいただいて、このように更新ができることを感謝します。

「それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。」(申命記8:16)

自分は、試練が嫌いだ。本当に嫌いだ。試練が来ると、「どうして?」という思い、「自分はなんであんなこと言ったんだろう?」という思い、自分を責めたり、周りを責めたり、本当に、つらくて、逃げたくて、周りに迷惑をかけて・・・。でも、だから、まだまだ試練が必要なんだと思う。試練が与えられるのだと思う。試練を通して磨かれ、きよめられていくならば、まだまだ自分には試練が必要なんだろうと思う。でも、いやなんだよな。試練の出来事一つ一つ、「ああ、大変だったけど、恵みだったよなあ」と思えるほどまでもいっていない。主よ、信仰を与えて下さい。試練の中でもあなたの恵みを知ることができますように。試練の中でも、平安を味わうことができますように。

「彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし・・・」(マルコ3:14)

わたしたちは主のそばに置かれている。そして、遣わされているのだ。今、神様がわたしに「遣わす」ということがどういうことかを教えて下さっているように思う。わたしたちの教会は世界中に人々を遣わしていく使命があると思う。集まって楽しくやっているだけではない。送り出して、遣わして、イエスのして下さったことがどんなに素晴らしいかを伝えていく使命があると思う。だから、遣わすということが、どういうことなのか、どのような気持ちで遣わしていったらいいのか、どのような思いで送り出していったらいいのか、そして、祈りで支えていることを、どのように伝えていったらいいのか、矢尽き弓折れたと思うような時に、どのようにサポートしていったらいいのか、主よ、あなたが弟子たちを訓練し、送り出された手本を見せて下さい。そして、あなたと共に、人々を送り出すことを経験させて下さいますように。

4月6日(日)

「あなたは忌むべきものを家に持ちこんで、それと同じようにあなた自身も、のろわれたものとなってはならない。あなたはそれを全く忌みきらわなければならない。それはのろわれたものだからである。」(申命記7:26)

忌むべきものを持ってくると、自分も忌むべき者になってしまう。遊女と関係を持つ者は、遊女と一体となる、ということがコリント人への手紙の中にあったが、本当に気をつけなければいけないことだと思った。忌むべきものを持ち込むと、それを捨てればそれでいい、というのではない、本当に自分自身がそのような者になってしまうのだ。主よ、お守り下さい。わたしのこころにいつも囲いを作り、天使たちにガードをさせてください。あなたに喜ばれないものを持ち込むことがないように・・・。

4月5日(土)

「しかし主はあなたがたのゆえにわたしを怒り、わたしに聞かれなかった。そして主はわたしに言われた、『おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。』」(申命記3:26)

これはとても厳しい言葉だと思う。神様が「もう、そのことについては重ねて聞くな、重ねて願うな!」と言われるとは!わたしたちはいつの間にか、「願えば最終的には聞いてくれるんだ」みたいな甘えが身に付いてしまって、祈る時にも真剣味がなくなっていないだろうか?だから、祈りが聞かれた!という喜びもなくなってしまっていないだろうか?本当は値しない者が、祈る特権を与えられて、祈ることが許されて、御名によって祈る時に、その祈りが聞かれ、神の御手が動く。そのことを本当に喜びとして味わうことができるように、本当に神様の峻厳さを忘れないでいたいと思う。

「ぶどう酒は皮袋をはり裂き・・・」(マルコ2:22)

先日の礼拝でも読んだ所なので、心にまだ残っている。新しい葡萄酒である福音は古い皮袋をはり裂く。福音の力は皮袋をはり裂く。それくらい大きな、活力のあるものなのだ。本当にそのことを経験して、そのことを証しして、そのことが教会の中でも大手を振って歩くような、そのような教会形成をしたいと思う。決して、それが、痛みを覚えている人を寄せ付けないような明るさではなく、苦しみを経験している人がいられなくなるような明るさではなく、福音による明るさ、福音による活力にあふれたそのような者となっていきたいと思う。主よ、そのことをもっともっと経験させて下さい。

4月4日(金)

「あなたがたはまた荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたが、この所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった」(申命記1:31)

カナンの地に入るのを恐れていたイスラエルの民に、モーセはここまで神が支えて下さり、ここまで運んで下さったことを思い出すようにと語った。だから、これから襲ってくる戦いの中でも主が支えて下さる、そのように信じて進んでいくように命じた。本当に大切なことだと思う。しかし、実生活の中でも、神様がここまで支えて下さったのだから、今度の問題でも必ず守って下さる、とすぐ思えるかというとなかなかそうはいかない。いつの間にか、今度の問題が今までの問題と程度が違うように見えてしまったり、今までの問題で解決を与えて下さったのが主であることを忘れてしまいがちなのである。わたしが次に大きな問題に出会う時に、主よ、この事を思い出させて下さい。わたしたちにとっては大きな山と小さな山の違いがあっても、あなたには何の違いもないことを・・・。あなたにあっては大きな山も、小さな山も平地になることを・・・。「大いなる山よ、おまえは何者か!」主よ、あなたがわたしの救い主です。

「黙れ、この人から出て行け」(マルコ1:25)

このように悪霊に対する怒り、サタンの働きに対する怒りを持っていくことの大切さ、サタンの働きに対する「黙れ!」というイエスの権威による、御名の権威による宣言の大切さを思わされる。最近、本当にこのことを思わされる。サタンが好き勝手に働いているのを許してはならない。サタンが一人の人をも捕らえていることを許してはならない。黙れ、出て行け!そのように主イエスの御名によって語らなければならない。主よ、あなたの権威をありがとうございます。これから、日々、サタンに対して、一人一人の中に、また教会の中に、働くことをあなたの権威によって許しません!サタンよ、主イエス・キリストの御名によっておまえに命じる、ここから出て行け!

4月3日(木)

「あなたがたは、その住む所の地、すなわちわたしのおる地を汚してはならない。主なるわたしがイスラエルの人々のうちに住んでいるからである。」(民数記35:34)

主がわたしたちのうちに住んでおられる。恵みによって、憐れみによって住んで下さっている。旧約でそれを読むと、「襟を正される」という感じがする。主が住んでおられるから、地を汚してはいけないと・・・。主が住んでおられるわたしの体だから、いつもいつも主をあがめていきたい。昨日読んだ中に、三浦綾子さんの家の上棟式に秘書の方が「三浦先生がこの家を私物化されることがありませんように」と祈られた、という記事を読んだ。それを読みながら、与えられた時間も、与えられた余暇も、与えられた食事も、与えられたお金も、与えられたコンピューターも、与えられたテレビも、与えられた車も、与えられたクリエ(パーム)も、私物化しませんように、と祈らされた。わたしたちが生きるのは主のため、死ぬのも主のため。主の栄光があらわされる生活でありますように。

「すべての国民を弟子とし、」(マタイ28:19)

すべての国民を弟子としなさい、と。本当に多くの人々が教会に来られるのを恐れてはならないと思った。それで、「成功した」つもりになってはならないことを警戒する余り、多くの人々が教会に来るのを恐れてはならない、と思った。多くの人だと行き届かないことを警戒する余り、多くの人々が教会に来るのを恐れてはならない、と思った。本当に主はすべての人々がキリストの弟子となることを望んでおられるのだ。たくさんの方々をお招きしよう、たくさんの方々に伝えよう。すべての人が救われることを主は望んでおられるのだから、その主の思いをわたしの思いとしよう。主が命じられたように、すべての国民を弟子としよう。

4月2日(水)

「モーセは主の命により、その旅路にしたがって宿駅を書きとめた。その宿駅にしたがえば旅路は次のとおりである。」(民数記33:2)

主の導かれたルートをモーセは書き留めた。その一つ一つの地名にはいろいろな思い出があっただろう。人々に批判された所、不信仰と戦った所、人々のために必死にとりなしの祈りをした所、そして、自分自身が失敗した所・・・。その一つ一つの場所を書き留めていった。JCCNJの15年の間にも本当にいろいろなところを通ってきただろう。自分が知っているのは、その半分だけだ。でも、いろいろなことを思い出す。その一つ一つの場所について、神様の恵みの業を思い出そう。痛みの思い出であっても、自分の失敗の思い出であっても、その中で主がどのように支えられたかを思い出そう。主が導いて下さったのだから・・・。

「まことに、この人は神の子であった。」(マタイ27:54)

人々が「もしも神の子なら、自分を救え」とのののしりを受けたイエス。しかし、その十字架のもとにいた百卒長は、「本当にこの方は神の子だった。」と告白した。ものすごい対照だと思う。神の子とは何か?十字架からおりるのが神の子なのか、十字架からおりなかったのが神の子なのか?自分はとにかく、イエス様、十字架からおりて下さらなくてありがとうございます。という思いだ。そこからおりることもでき、その能力も権力も持っておられたのに、おりてこられないでありがとうございます。感謝します。

4月1日(火)

1日の更新が2日にずれ込んでしまいました。読んだのは1日なのですが・・・やはり朝7時までにアップする習慣をつけないと、こういう日が出てきてしまいます・・・。反省。

「 また雄やぎ一頭を罪祭としてささげ、あなたがたのために罪のあがないをしなければならない。」(民数記29:5)

「ささげなければならない・・・」という言葉の連続にさすがにげっそりした。そんなに「しなければならない」と思うとめちゃくちゃ疲れる。でも、そう感じた時に思わされた。これは本来わたしたちがしなければならないはずのことであるのに、今や、イエスがわたしたちの代わりにすべてをして下さったのだ・・・、と。「すべては終わった」と十字架上でイエスは言われた。すべては完成したのだ。恵みなんだ。重い荷を負っている者は、イエスのもとにそれを下ろさなければいけないんだ。主よ、あなたのところで休ませて下さい。あなたのもとで。

「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。」(マタイ26:53)

この言葉はすごいと思った。イエスは天の使いを十二軍団以上も呼ぶことができるお方だと言うことに・・・。その権威をわたしたちも与えられている。わたしたちも祈る時に、父はわたしたちのためにその軍団を送って下さることのできる方だ。だから、もしもそれがとどめられているとしたら、それは「御心のなるために」以外の何の理由があるのだろうか?ものすごく突き抜けたような気がした。霧が晴れたような思いになった。神はわたしたちのために十二軍団を送ることのできるお方。そこまでできるお方!「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵し得ようか?」ハレルヤ!