「大丈夫ですか?」なんて、やたら心配されたり、「信仰によって乗り越えなければ・・・」みたいなツッコミを入れられたり、「牧師なんだからそんなことを言うな」とお叱りを受けたりすることを、心の隅っこでちょっと恐れながら、正直に告白しますが、自分も人並みに「ミッドライフ・クライシス」を通過中のようです。私もこの言葉の正しい定義を学んだわけはないので、専門的なことは言えませんが、今の自分の場合は、20代、30代の頃、人生は、「単純に右肩上がりの前進」、または、「びっくりするような飛躍」が待っていると思っていたのが、「あれ、そういうことでもないようだぞ」と、「『自分の人生』をありのまま受け入れる」プロセスの中にいるように思うのです。素直に「そうですね」と受け取れればいいのでしょうが、ちょっと抗ってしまったり、頭では分かっていても、心がついていかない、ということがあったり、「いや、そういうことを簡単に受け入れてしまうのは信仰的な敗北なのではないか」という気持ちになったり、まさにプロセスの真っ只中という感じです。
でも、私は、そんな人生の谷間にも神様が共にいてくださることに、大きな励ましと慰めを頂いています。
「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。」 詩篇 84篇6節。
いえ、それだけではなくて、神様が自分をここに導いてくださっているんだ、ということを強く思わされています。「さあ、わたしがあなたのためにカスタムメードで準備したこの人生を受け取りなさい」と言われているように思うのです。そして、もっともっと神様を信頼して歩むようにと導かれているのです。そう、人生の主導権をいつまでも自分の手に握っていたい自分に対して、「おまえさあ、オレに任せてみろよ、そしたら、オレがおまえのために準備している最高のものをやるんだけど・・・」と言われているかのようです。
先日も、ある方とお話している中で、心のモヤモヤが晴れるような経験をしました。「先生はどうして牧師になろうとしたのですか?」と問いかけられる中で、自分が二十数年前に、神様から語られた聖書の言葉を思い出していました。大学に入る前に、私は神様からの招きを信じて牧師になろうと決心をしていました。しかし、大学卒業前の最後の夏休み、ある人から言われた言葉に本当に心乱されました。「君はむいていないよ。やめな、やめな。無理。ダメだよ。あ、そっちの君、君はどうだい?牧師にならないか?」今考えたら、もしも本当に真剣にそう思っているのだったら、一対一のところで、じっと目を見ながらすべき種類の話で、トイレの中で、一緒に用を足しながらされた話をそんなに気にしなくてもいい、とわかるのですが、その時は、自分の中にも「そうだよねえ、本当に向いていないよねえ」という思いがあったこともあり、どうしていいのかわかりませんでした。「そんなこと言われるんだったら・・・」と、もう投げ出したい気持ちでした。そんな時に、祈っている中で心に響いてきた聖書の言葉がこちらでした。
「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」 コリント第2の手紙 12章9節。
もしも、神様が私の弱いところにその力を表してくださるならば、それに勝るものはない。神様がそのように約束してださったのだから、私の一番弱いところに、神様の力が表されて、神様の素晴らしい御業がなされることを見せていただきたい。そのように思わされたのでした。それから、「向いていない」ということに対する恐れがなくなったんだということを、その時のことを思い出しながら感じていたのでした。
今またミッドライフ・クライシスの中で、人間的な弱さを見せつけられることが多くなってきています。でも、いや、だからこそ、神様の力を見せていただく大きなチャンスなんですね。ここを通らされる中で、自分の弱さや限界を突きつけられる中で、神様を信頼して歩くことをもっともっと経験させていただきたいと思っています。
(錦織 学)
月報2010年7月号より
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