「神の前に静まる」



 3月の半ばのある火曜日。朝、教会の「ビジネスマン祈祷会」で教会で祈っていました。数年前に始まった月2回の火曜日の朝、教会で祈る祈祷会ですが、発起人の方が転居され、またその後、よく来られていた方も昨年ミシガンに転居され、最近は一人で祈ることが多くなっていました。

 聖書を読み、祈っている中で、教会図書から借りたままになっていた一冊の本に目が留りました。「真の祈り手にして下さい」という本です。その本の中に、ある方のことが書かれていました。その人は人々に「祈りのハイド」と呼ばれたジョン・ハイドです。ある人は初対面の彼と祈る時に、そこには神さまがおられるように感じて、もうそこから離れたくない、そんな気持ちにされたそうです。それを読みながら、自分が20年前に聖書学院で経験したことを思い出していました。

 それは同級生の若い仲間の一人のことでした。彼は元々陽気で人を楽しませたり、やる気にさせる才能を持っている人でした。そんな彼が、夜、私の部屋に飛び込んできたのです。「わかったんだ、神様と共に歩む喜び、聖書を読み、祈り、心を静かにしている中で神様とすごすことがどんなに素晴らしい、sweetな時か、わかったんだよ!!」彼は喜びにあふれて、そのように叫びました。そして、それ以降、確かに、彼と共に祈る時に、このハイドと共に祈った人が語っていることと同じように、もっと彼と祈りたい、もっとこの時を楽しんでいたい、そのような思いにさせられたものです。

 そんなことを思い出しながら、「神さま、私もこのハイドのような者になりたい。そんな祈りの素晴らしさを経験したい」「私も祈りの人にして下さい。私が祈る時に、共に祈る人が『ああ、確かにここに神さまがいらっしゃる』ということを感じることができるような、そんな人間にして下さい」と、そのように祈っていました。その時に、私の心に神さまが語りかけられました。「おまえはどうしてそれを願うんだ?その動機は何だ?」と。

 私は自分の心を探りました。そして、自分の中にどんな動機があるかを見つめたのです。そして、私が気がついたのは、自分の動機は「神さまと共に歩む喜びを経験したい」ということよりも、「人から『あの人と祈ると神さまを感じる』と思われたい」ということにあったのではないだろうか、ということでした。神さまを求めるのではなくて、神秘的なオーラを発する自分になることを求めていたのです。

 時々、「私はあの有名人と知り合いだ」と自慢をする方をお見かけしますが、結局この人は自慢をするためにあの有名人とつき合っているのか、あの有名人を利用しているだけじゃないか、と思います。でも、実は、私も同じように、ただ神さまを利用しようとしていたのかもしれない、そう気がついたのです。私はその場で悔い改めました。そして、ただ、「神の前に静まる」ことを喜びとさせて下さい、と祈りました。

今年、「静まって、私こそ神であることを知れ」(詩篇46:10)という言葉をいただいてスタートしましたが、4ヶ月経ってやっとスタートラインに立ったような気がしています。何をするか、以前に、私たちがどういう者であるか、が大切です。まず、神との関係によって私たちの内側が整えられること、豊かにされること、それがいつも出発点です。

月に2回の「ビジネスマン祈祷会」はなくなり、毎朝6時から教会オフィスで早朝祈祷会をしています。是非、共に祈るためにおいで下さい。

(錦織 学)

月報2008年5月号より


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