新しい年になってまもなく1ヶ月。
アメリカにいると、「新年」の重みをあまり感じなくなりますね。
別に誰が決めたわけでもない年の区切りで、年が改まっても「昨日の翌日の今日」みたいなところもあるのでしょうが、日本で30年くらい生きていたものですから、やはり新しい年には「今年こそは!」みたいなことをどうしても考えてしまいます。
みなさんはいかがでしょうか?「今年こそは!」と思って始めたことは、続いていますか?もうすでに「ああ、そういえばそういう気持ちで始めたよなあ」と懐かしく思い出しておられる方もおられますか?それとも、「いや、もうちょっと落ち着いてから・・・」と思っていて、そろそろ取り掛かろうと思っていたところでしょうか?
2010年、私たちの教会は「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイによる福音書6章33節)の言葉をいただいて、スタートしました。私たちが私たちの第一とすべきものを第一としているならば、神様は必ず必要なものをすべて与えてくださるのだ、という約束です。そして、それは「他のことに心を奪われないで、第一のものを第一にしなさいよ」という戒めでもあるのです。
私たちは、日々の生活の中でいかにいろんなものに振り回されていることでしょうか。それは自分の軸ができていないからです。人の顔色を恐れているからです。
あまりに有名なイソップ寓話ですが、ロバを売りに行った親子の話がありますね。市場に行く途中で「バカだなあ、この暑いのに歩いている。せっかくロバがいるんだからロバに乗ればいいだろう。」と言われて、子供を載せてやります。でも、「ひどい子供だ、親を歩かせて、自分がロバに乗っているなんて!親の教育もなっていない!」という人がいると、今度は親のほうが乗るのです。また「子どもだけ歩かせてかわいそう」と言われると、二人で乗って、そして、最後は「二人で乗ってロバがかわいそう。市場に行くまでに疲れ果てて、売り物にならないよ」と言われたら、今度はロバを担いで、とうとうロバが暴れて川に落ちてしまった。そんな話ですよね。
本当に愚かな話ですが、それを笑っている私たち自身も、いかに多くの場面でこのようなことを経験していることでしょうか?すべてが相対化して、すべてが民主的になっていく中で、何が正しいことで、何を一番守っていかなければならないか、見失っていることがどれほど多いでしょうか?
例えば、子育ての本を読んでも、こちらの本ではこう言い、あちらの本ではああ言い、友達に相談しても、こちらの人はこう言い、あちらの人はああ言います。ビジネスでの成功についても、老後への備えについても皆同じです。失敗がゆるされないような気がしますし、情報が増えれば増えるほど混乱してきます。「成功している」ように見える人を見ると、同じようにできない自分に焦りを感じます。
そんな私たちに、「恐れるな!思い煩うな!第一のものを第一にしていれば大丈夫だ!」と聖書は語るのです。教会にとってはそれは「神の愛に満たされて、その喜びに生きること」であり、「神の愛を伝えて行くこと」です。どんなに世が変わっていったとしても、変わることのないメッセージを語り続けることです。
今年は最初から、神様がそれを励ましてくださる出来事を与えてくださいました。1月1日、元旦、2010年が始まってからわずか11時間後の、元旦礼拝の時に、「洗礼を受けたい」という方を与えてくださって、1月3日の今年最初の日曜日の中で洗礼式を持つことができました。この月報にも彼が「証し」を書いてくださいました。彼も人生の軸を求めて、教会に集い、洗礼を受けられました。
聖書は答えを持っています。すべてが相対化して行く世界の中で、変わらない答えを持っています。まず、私たち一人一人、他の誰でもない「自分自身」が神様の愛に満たされて、喜びに生かされて、その感謝と喜びが周りの人々に喜びと力とを与えて行く、そのような一年となるように祈っています。
(錦織 学)
月報2010年2月号より
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