|
「闇の中に輝く光」
|
| 皆さんは、「クリスチャン」と呼ばれる者たちはどんな人たちだ、と思っておられますか?私自身は子供の頃から教会で育ってきたので、「クリスチャンになる前はこんな風に思っていました・・・」という話ができないのが残念なのですが、今の私が、一人のクリスチャンとして、そして、一つの教会の牧師として、「クリスチャン」の定義はこうなんじゃないかと感じているのが、 |
| 「自分の罪深さを知り、イエス・キリストの十字架にこそ、そこからの救いがあると信じている者たち、知った者たち、経験した者たち」 |
| というものです。よく誤解されるのですが、何かまじめさとか、善良さとか、「〜しなければいけない」ということがクリスチャンの基準ではありません。確かに高い倫理基準をもち、暖かい愛を持って生きているクリスチャンの方々はおられます。けれども、それがクリスチャンがクリスチャンである理由ではないのです。そして、わたしのような凡人の場合は、立派になろうと思えば思うほど、立派になれない、偽善者にしかなれない自分の姿に落ち込み、苦しむのです。自分らしくない背伸びをしてみたり、肩に力が入ったりします。それで、周りも疲れてしまいます。そういうことではなく、全く正反対とも言える、自分の罪深さや、自分自身の力ではそこから解放されない弱さを嫌というほど知り、悔い改め、私たちを愛し、私たちのためにひとり子イエスを与えるほどまでしてくださった神という方に信頼して歩んでいく、というのがクリスチャンの生き方であろうと思います。 |
| イエスは言われました。 |
「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。」
(ヨハネによる福音書8章12節)
|
| クリスマスにはよく教会でキャンドルライトサービスをします。わたしたちの教会でも、24日のクリスマスイブにキャンドルライトサービスをします。それは、イエスが光としてこの世に来てくださったことを、そして、その光をわたしたちが受け取ったことをあらわす礼拝です。光がその輝きを表すのは、暗い闇の中です。そして、闇は光に勝つことはできません。光が闇を追い出していくのです。それはわたしたち一人一人がイエス・キリストを心にお迎えする時に、わたしたちの心の中に起こることです。わたしたちががんばって光にならなければいけないのではなく、わたしたちが立派にならなければいけないのではなく、自分が自分の努力でそうなれないからこそ、イエスをお迎えするのです。ちょうど、月が太陽の光を反射して輝いているように、世の光であるイエスの光をいただいて、輝くことができるのです。 |
| 今年も23日の日曜日に午後1時半からクリスマスの礼拝と、子供と大人合同のクリスマスパーティー、24日のイブのキャンドルライトサービスは午後6時からです。あなたの心の中にも「イエス・キリスト」という光がともりますように。 |
|
月報2001年12月号より |
|
|