「何が一番大切なんだろう?」
今回はメッセージと言うより、告白です。
今までの私には迷いがありました。自分はこれから何をしていくんだろう。牧師をしながら博士課程に学んでいるが、この先自分はどうなるんだろうか?人生の半分くらい来たんだろうか?今まで30数年間自分の意志と決断で(そして、クリスチャンとして「神の御心に従って」)生きてきたつもりだが、本当のところ、周りの期待を気にして、顔色を伺って生きてきたんじゃないか?と。自分はいったい何をしたいのか?何をしなければいけないのか?
最近、ふたつのところからひとつの問いかけを受けました。ひとつは友人から薦められたTVドラマの中から、もうひとつは1冊の本に残された、不治の病との闘いの中で1人の牧師が語ったメッセージの中から。両者に共通していた問いかけは「自分にとって一番大切なものは何か?」ということでした。
それで立ち止まって考えてみました。「自分にとって一番大切なものは何か?」と。
自分にとって一番大切なもの、それはイエスの愛を知ったことです。17年前の夏に、牧師の息子として生まれて幼い時から何度となく聞いていた「神の愛」がわかった、その経験です。私はその頃、自分の偽善性をまざまざと見せ付けられ、落ち込んでいました。外側は真面目な「クリスチャン」(だったと思っていますが・・・)、でも、心の内側には醜いものが渦を巻いていることに気が付いたのです。ずっと偽善者にだけはなりたくない、と思っていたのに、一生懸命「クリスチャン」をやって、気が付いたら偽善者になっている。そのことに気づいた時、「教会」も「聖書」も「祈り」も「信仰」もすべてバカらしくなりました。そして、生きること自体も・・・。どんなに一生懸命やったところでどうせ偽善者にしかなれないのですから・・・。そのような思いを周りの人に話しても、誰もわかってくれませんでした。というより、取り合ってもらえませんでした。「若いね」「気にするなよ」「みんなそうだよ」と。
そんな時、1人の人が私に言いました。「君は傲慢だね。自分ががんばったら立派な人間になれると思っているんだから・・・」その時、目からうろこが落ちました。自分はがんばったところでせいぜい偽善者にしかなれないような人間だ。だからこそ、イエスは私の身代わりにあの十字架の上で苦しんでくださったんだ。もし、自分でがんばって立派な人間になれるなら、イエスは十字架にかかる必要なんかなかったんだ。そして、この偽善者のために命を投げ出してくれるほど、イエスは私を愛しているんだ。そのことに気が付いたとき、自分が愛されていることが、とてもうれしくなりました。感謝が沸いてきました。心が自由になりました。それからずっとこの愛されている喜びが私を生かしています。
もちろん、聖書のメッセージをこのちっぽけな私の経験の枠の中に閉じ込めてはいけないことを知っています。神様のメッセージはもっと豊かでしょう。けれども、今の自分、これからの自分の歩みの中で一番大切なのは、この「福音」、神様にこんなに愛されている、神が私のために一人子を犠牲にするほどの愛が注がれている、そのメッセージなんだ、そして、自分の使命はそのメッセージを語っていくことなんだ、そのメッセージに生きていくことなんだ、ということが今改めてわかったのです。
青臭いと言われるかもしれません。近視眼的だと批判されるかもしれません。ワンパターンだ、その話はもう何度も聞いた、とあきれられるかもしれません。牧師たる者もっと視野を広くしなければいけないとお叱りを受けるかもしれません。でも、それでもいいと思っています。神がわたしに与えられた使命であるならば・・・。
「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。」
(コリント第一の手紙1章22〜23節)
月報2000年11月号“牧師室から”