ここ2週間ほど日本からのニュースで毎日報道されている北朝鮮の日本人拉致問題ですが、本当にひどいことだと思います。ご家族がどんな思いでこの二十数年間を歩み、今、どんな思いでニュースに接しておられるのか、と思うと心が痛みます。ちゃんとけじめをつけてから先に進んでほしいなあ、と思います。その一方で、小泉首相が平壌に行く直前に流れた映像で、北朝鮮の方が「日本は植民地時代にひどいことをしたんだから、日本政府がちゃんとけじめをつけてくれないと先には進めない」という意味のことを言っておられるのを見ました。その時、あ、あちらから見るとそういう風に見えるんだ、と思いました。私は、「北朝鮮も経済的にせっぱ詰まって、ここら辺で日本からの援助がほしいんだろうなあ、でも、そのためには拉致問題をしっかり謝罪して、真相を明らかにしてもらわないと・・・。そして、もっと開かれた国になってもらわないと・・・」と傲慢にそんな風に思っていました。ところが、北朝鮮の一般市民から見ると「ひどいことをしたのは日本の方だ」というのです。そういう視点は自分には全く抜け落ちていました。同じことを見るのにも見る視点が違うと全く違って見えるんだなあ、と思いました。そして、決して自分の視点だけが正しいように思ってはいけないんだ、と。
この事は何も国と国との関係に限ったことではありません。政治的なことだけではありません。友人関係でも、職場でも、学校でも、そして家庭でも、親子や特に夫婦の間でも、当てはまることではないでしょうか?いや、政治的に立派な発言をすることよりも、もっと身近な関係の中でこの事を忘れないことの方が大切なのではないでしょうか?自分の視点と相手の視点がぶつかり合う。そんな中で、自分の視点だけではなく、相手の視点を知っていく。相手の立場をおもんばかる。聖書も次のように言っています。
「おのおの、自分のことばかりではなく、他人のことも考えなさい」
ピリピ人への手紙2章4節
ここら辺までは「複眼を持とう」とか、道徳の教科書にも出てきそうですが、聖書は、もう一歩進んで、わたしたちの自分に都合のいい視点を超越した、神の視点からわたしたちに語ります。
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。」
マタイによる福音書7章3-4節
あなたがたは自分の目にある「丸太」よりも人の目にある「おがくず」の方が気になってしょうがない存在なんだよ、人の目の「おがくず」よりも自分の目の「丸太」に注意してごらん、人の目の「おがくず」をあげつらうのではなく、神の前に自分の目の「丸太」を認めなさい、今のままでは痛いし、目がよく見えないでしょう・・・と言っているのです。ここでは、人間同士のいろんな視点のぶつかり合いとは次元が違う神の前での自分の姿が問われるのです。
あなたは今、誰かの「おがくず」にとらわれていませんか?「いや、あの人のは『おがくず』どころじゃなくて、『丸太』です」なんて言いたい気持ちですか?もしそうであれば、この聖書の言葉はあなたのためにあるのです。
人の目の「おがくず」を指摘するより、神の前に自分の目の「丸太」を認める、愛する祖国がそのような国になることを願いながら、まず、私という個人がそのように生きていきたい、そう思います。
(かきごおり:錦織 学)
月報2002年10月号より
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