7月30日−8月3日のJOYJOYキャンプのテーマは「ワンダー博士の大冒険」。そして、8月9−12日に講師として参加するミシガンバイブルキャンプのテーマは「信仰による冒険」。おかげで、このところ「冒険」ということを考えさせられています。
「冒険」とは「危険を冒す」と書きますから、あえてリスクを負って何かにチャレンジすることでしょう。何かを失ったり、損をしたりすることをおそれないで新しいことに向かっていくことです。それを「信仰によって」していることがどれくらいあるだろうかと今思わされています。
起業家が新しいことをする、音楽やダンスなどの才能を持っている人が、自分の力がどれくらいか試すためにニューヨークに来る、などのことは、考えてみれば、「神様がいるから・・・」と思って初めてできることではないと思うのです。神様がいても、いなくても、できる冒険は「信仰による冒険」ではありません。「神様がおられるからこそできる冒険」「祈らないでは絶対できない冒険」「信仰がないとできない冒険」「神様がそこに招いていてくださると感じるからこそできる冒険」こそが、「信仰による冒険」だと思うのです。
そのような冒険をいったい自分はしてきただろうか?と思わされています。そして、神様は今わたしをどのような冒険に招いておられるのだろうか?と。
私たちを冒険に招いておられる神様はまたご自身私たちのために冒険してくださった方です。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ人への手紙2:6−8)
イエス・キリストは、私たちを救うためにこの世にきて、すべてを投げ出して、私たちの罪を負ってあの十字架の上に死なれました。思い切って私たちのために投資をしてくださったのです。だから、私たちも思いきってすべてをかけて冒険をすることができるのではないでしょうか?
一度きりの人生、あなたはどんな冒険をしますか?
(錦織 学)
月報2007年8月号より
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