「十字架のシンボル」



教会にはほとんど例外なく十字架がシンボルとして掲げられています。
この十字架、なんとなく、かっこいい、という形だからでしょうか?バランスがいいんでしょうか?アクセサリーやタトゥーにも使われていますよね。

でも、この十字架は元々は死刑の道具でした。
考えてみてください。世の中のあらゆるグループの中で、死刑の道具をシンボルに使っているものは他にあるでしょうか?それも、「教祖」と呼ばれる人(もちろん、私はイエスを単なる「教祖」と思っているわけではないですが・・・)が処刑されたその死刑の道具をシンボルに使っているグループは他にあるでしょうか?
先日もそんな話をある方としながら、ホントにすごいことだな、と思って話していました。別に「俺たちの先生を死刑にしたあいつらを忘れるな!」というノリでもありません。ではどうして教会はそれほど十字架にこだわるのでしょうか?

それは「この十字架があるから私たちは生きている」と信じるからです。教会の尖塔に高く掲げられた十字架は「この十字架によって私たちは生かされているのだ」という教会の世界に対するメッセージなのです。

イエスは自ら十字架に向かって進んでいきました。弟子たちは「この方は私たちのリーダーになるのだ、この方によって私たちの夢は実現する!」と思ってついてきていました。しかし、イエスは彼らの思惑とは違い、十字架にかかって私たちの罪を背負い、私たちの救いの道を開くのを使命とされていたのです。そして、イエスは十字架にかかられました。それによって私たちは赦された。それが私たちの信仰の中心なのです。

「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。」(コリント人への第2の手紙1章22-23節)

7月は私たちの教会にとって特別な月でした。3人の方々が洗礼を受けられ、他に2人の方々が洗礼を受ける決心をされました。他にもイエスを心に受け入れて歩み始めた方々もおられます。

特別なメッセージが語られたわけではありません。ただ、今まで通り、イエスの十字架が私たちの罪のためだったこと、そこに神の愛が表されていること、どんなに一人一人が神様から愛されている存在か、それだけが語られてきました。そしてこれからもそうだろうと思います。時代がどんなに変わっても、いつも変わらずに十字架を語っていく、そのような牧師でありたいと思います。

(錦織 学)

月報2006年8月号より


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