「まず神に心を向けよう」


一度読んだ本で、何度も手にとって、何度も最初から読み直す本ってありますよね。私にも、そのような本がいくつかあります。まだ「何度も・・・」まではいかないのですが、今、何年ぶりかに手にとって読んでいる本が三浦綾子さんの「ちいろば先生物語」です。この本は今からちょうど30年前の7月に52歳で亡くなった榎本保郎牧師の生涯の伝記です。ご自分のことを「イエスを乗せた子供のロバ」になぞらえて「ちいろば」と呼んで、自分の小ささを覚えながら、大胆に、まっすぐに主に仕えた牧師でした。

その伝記の真ん中あたり、ちょうど榎本牧師が京都で教会を始めた時のこと。自分一人で始めた教会。いつも本当に少人数で礼拝を守っておられたそうですが、ある日曜日、いつも来られる2、3人の近所の方々も来られない、どうしたんだろうと思いながら、とにかく夫人と二人で礼拝を始めたそうです。夫人のオルガンが流れる間、黙祷をしている中で、「神さま、一人でも、一人でもいいですから、送ってください。」と祈っておられました。。しかし、その祈りの中で、榎本牧師は何のための礼拝かということに気がつかされました。「誰も来られなくても、神の前に礼拝するのだ、まず自分が礼拝するのだ」と思わされたのです。
そして、心から讃美歌を歌い、大勢の人々に話をするかのように大きな声で説教を始めました。「今ここに人が集まらなくても、イエス・キリストは共におられる」と。

その話を読みながら、いったい自分はどうだろうかと思わされました。JCCNJの牧師として歩みを初めてからずっと、教会の一人一人に支えられ、励まされてここまで来ました。就任当初から40-60人の方々が毎週集っておられました。その中で、本気で神さまを信頼して、神さまを見上げて歩んできただろうかと、この榎本牧師のように「誰が来なくても、自分がまず神さまを礼拝するのだ」という思いで礼拝を守ってきただろうか、と反省させられたのです。
今年は「わたしの家は祈りの家ととなえられるであろう」という聖書の言葉を掲げてここまで歩んできました。半年を過ぎて、もう一度原点に引き戻されています。「神さま、一人一人を祈りの場に導いてください」と祈る前に、「わたし自身の私生活が『祈りの家』となりますように」と祈ることなのだ、他の誰彼ではない、自分自身がまず神さまの前に出て、神さまから力をいただいて歩んでいくことなのだ、と思わされました。

この榎本牧師のエピソードにはおまけがあります。二、三日たった後に、一人のご婦人が教会を訪ねてきたそうです。そして、その方が言うには、日曜日、榎本牧師が夫人一人を前にして語ったメッセージをその方は教会の外で聞いていた。ちょっと中をのぞいてみたら、誰もいない。夫人一人を前にして語る牧師の大きな厳粛な声の中に神さまからの呼びかけを感じた。そして、「来週からわたしも教会に行こう」、「我が家に必要なのはこの聖書のメッセージなのだ」と感じたと。
効果的なPRも必要でしょう。いろいろなメディアを使うのもいいでしょう。でも、何よりも大切なのは、私たちが、いや私自身が本当に真剣に神さまに向かっていくこと、それが周りの人に伝わっていくことなのだと思わされたのです。

「あなたは、わたしに従ってきなさい」ヨハネによる福音書21章22節

今年の後半、私たちの心が益々まっすぐに神さまに向きますように。そして、教会の存在を通して、神さまのことを知る方々が起されますように。

(錦織 学)

月報2007年7月号より


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