「与えられた人生」



6月の初め、父が書いた本が私の手許に届きました。「神の底抜けの恵み」という題。父自身の信仰の歩み、牧師としての歩みを書いた本です。自分の恥をさらすような本を書く父と、その本を紹介してしまう自分。この原稿を書きながら、「う〜ん、親子だな」と納得してしまっています。でも、牧師である父は、自分の歩みを紹介しながら、それを通して、題にあるように、何よりも「神の恵み」を知って欲しいんだな、と思います。

本の最初の方に父が信仰を持つようになったいきさつが書かれています。定時制高校の2年生の時、仕事が終わってから学校に行くと、向こうから学校を終えて帰ってくる昼間の学生とすれ違う。世の中の不平等に悩み、苦しみ、そこから生きる意味を見失い、自殺をも考える中で、受け取った一冊のパンフレットの中にあった、「凡て労する者、重荷を負う者、我に来れ、我汝を休ません。」という言葉に惹かれて、教会に行くようになったそうです。そのくだりを読みながら、このパンフレットとの出会いがなかったら、私もクリスチャンにはなっていなかったかも、いや、自分がこの世に存在していたかどうかもわからない、不思議な出会いに感謝!・・・と思いつつ、また自分自身の中高生時代を思い出していました。

生まれてみたらそこが教会だったというものすごい特殊な環境が与えられて、客観的には恵まれていたのでしょう。特にクリスチャンの間では「うらやましい」と思われるような環境です。尊敬出来る両親です。でも、私はなかなかそれを心の底から感謝することはできないでいました。どうしてなのでしょうか?日曜日どこにも行けなかったから?日曜日の運動会や父親参観に来てもらえなかったから?周りの友人達よりも「してはいけない」こと(買い食いとか)がたくさんあったから?毎朝の祈りの時を強制されていたから?そして、「自分は牧師の子供だからいい子にしなければ」と自分で勝手にプレッシャーをかけていたから?自分でもわかりません。「感謝すべきことだよ」「たくさんの愛をもらったんでしょ」と言われたらそのとおりです。でも、ある時、心の中の思いをポロッとこぼしました。「そんなのは贅沢な悩みだよ、親が牧師なんてうらやましい限りだよ」と言われました。私はそれ以来、この思いを心の底に封印していました。「そんなこと考えてはいけない、ましてや口に出すなんてもってのほか」と。

この心のしこりが溶かされたのは今から11年前。NJに来てからでした。神様が私の心に触れてくださいました。たくさんの涙と共に、自分に与えられた人生を心から感謝しました。

一人一人与えられた人生は違います。他の人と比べることのできない、他の人にはわかってもらえない痛みがあります。自分で解決するしかない課題があります。そう、それは人生が自分に課す宿題。なかなか受け入れられない、感謝なんてとてもできない、そんな方もおられるかもしれません。でも、神様は愛をもって、他の人には負うことのできない、特別なカスタムメードの人生を与えてくださっているのです。それを受け止めて、共に歩んでくださる神様を見上げながら歩んでいくことです。

「生まれ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(イザヤ書46:3-4)

(錦織 学)

月報2006年7月号より


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