「わたしにつながっていなさい」
 先日、久々に映画を見ました。ニュースでも紹介されていた「ワンダフルライフ」(英題・After Life)です。教会のある方から「考えさせられました」という話をお伺いして、早速マンハッタンの映画館に出かけていきました。大体アメリカに来て七年目で映画を見るのが二回目、という調子(だいたいビデオで済ませてしまう)なので、芸術性云々は全くわからないのですが、私もいろいろ「考えさせられました」。
 私たちが死んだ後一週間が用意されていて、その間に一つだけ、自分の人生を振り返ってその中から一番大切な思い出を選び、それを映画にして、その思い出が心の中にまざまざと浮かび上がってきた瞬間にその一つの思い出だけを胸に永遠の世界に旅立って行く、という設定の中で、登場人物の葛藤を描いた作品です。見ながら、「記憶と記録は別ですから・・・」という言葉に考え込んだり、「自分だったらいったい何を選ぶだろう?」「やっぱりイエス・キリストに出会ったことだよなあ、まてよ、カミサンとの出会いはどうなるんだ?となると『一つ』ってのはきついなあ」などと考えてみたり・・・。でも何よりも私が感じたのは「この映画を作った人は『孤独』という問題に焦点を当てたかったのではないだろうか」ということです(人によって受け取り方が違うでしょうが・・・)。「人間の幸せは他の誰かの幸せのために何かの役割を果たすこと」「私たちはみんな深いところで誰かにつながっていたい」そんな主張が聞こえてきました。
 聖書に出てくる一人の女性。彼女は孤独でした。当時の社会の中では「汚れた」者とみなされるような病気に苦しんでいました。お医者さんに見てもらっても一向に良くならず、財産を使い果たしてしまいました。そんな彼女がイエスのことを聞き、「この方にさわりさえすれば自分は直るだろう」と信じ、後ろからイエスの衣に触ったのです。その時、イエスの力が流れ出て、その女性を全く癒した、といいます。でも、話はそこでは終わりません。イエスは自分のうちから力が出ていくのを感じて、「さわったのは誰か?」と周りを見回すのです。弟子達は「こんなに人が押し合い圧し合いしているのに、誰がさわったもないでしょう」と言うのですが、イエスはあきらめようとされません。とうとうこの女性、進み出てすべてを白状するのです。その時、イエスはこの女性に声をかけられます。「あなたの信仰があなたを救った。安心しなさい」(マルコによる福音書五章二五〜三四節をご覧ください)。
 イエスはどうして、そんなに「誰が触ったか?」とこだわられたのでしょうか?それは、この女性の病気を治すだけではなく、彼女のもう一つの問題、「孤独」の問題を癒し、イエスを単なる「魔術的な力」の源ではなく、「向かい合う相手」として受け入れるようにと彼女を招かれるためだったのです。もし、この女性がこのままこそこそ去っていったら、イエスは単なる「御利益のあるありがたいお方」で終わってしまったでしょう。でも、イエスはそれでは満足されなかったのです。彼女が心を開き、すべてを打ち明け、一人の人間として、イエスに向かい合うのを期待されたのです。
聖書の神はそういう神です。神は「怖れ畏む対象」「ありがたいお方」でおられようとは思われませんでした。私たちの「孤独」の問題に切り込み、「誰かにつながっていたい」という私たちの心の底からの求めをご存知で、どこまでも共にいてくださる方です。
もしも、この女性が一つだけ思い出を選ぶように求められたら、「病気が治ったこと」ではなく、「イエスと出会ったこと」を選んだのではないでしょうか。
「わたしはぶとうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」。(新約聖書・ヨハネによる福音書一五章五節)
ところで、あなただったら何を選びますか?
月報1999年6月号“牧師室から”