「教会に集まること」



先月のニュースレターにも書きましたが、最近、「教会が教会であること」の意味をずーっと考えています。「何だおまえは牧師なんだろ!そんなこともわからないで牧師をしているのか?」とか言われそうですが、そうなんです。ずっと考えています。

あなたの使命は?と聞かれるならば、「神様の愛のメッセージである聖書の言葉を伝えていくこと」であることは確かです。つまり「伝道すること」です。人が聖書のメッセージに出会い、イエスに出会って変わっていく姿を見せて頂くのはとても大きな喜びです。「私もイエスを救い主として信じます」という言葉を聞くのは何よりもうれしいことです。でも、考えてみれば、それは別に教会でなくてもいい、個人的にすればいいことです。
ですから「どうして教会に集まるの?」と聞かれたら、自分はどう答えるだろうか?と思うのです。「信仰は個人の問題だから、教会に集まらなくてもいいのでは?」という質問を時々受けますが、果たして自分は、そんな方々に対して「答え」を持っているだろうかと思うのです。

思いつく答えを挙げてみると・・・

1)人は一人で聖書を読んでいるだけだと独りよがりな信仰になってしまう危険はないだろうか。お互い、聖書を読んで感じたことを語り合うことが大切じゃないか。
2)一人で聖書を読んで信仰を守れるほど人は強くないと思う。祈り合い、励まし合うことが大切。
3)人間関係の中で、信仰が試されて、成長していく。
4)神からのメッセージである聖書が「集まりなさい」と言っている。

・・・などがあります。

その中で特に2番目のことが重要であるように思います。
1週間歩んでいて、私たちは忙しさの中で、自分を見失ってしまったり、神の存在なんて忘れてしまったりすることもあります。そんな中で、お互いが「さあ神様に目を向けてごらんよ」と励まし合う者として共に歩むためにいるのではないでしょうか?牧師である私は特に、私が神様と皆さんとの間に立ってしまわないよう注意しています。神の代理人のように「あなたはこうしなさい、神様はそのように願っている」と言わないように注意しています。そうではなくて、一人一人の傍らに立ち、「さあ、あなたもあなたを愛して、共に歩んでくださる神様の方に目を向けましょうよ」と励ますつとめをいただいていると思っています。

「教会」、それは人の集まりですから、過ちもあり、痛みもあります。人々がぶつかるときもあり、傷つくこともあります。でも、そんな中で、お互い正直になって、肩書きも下ろして裸の心で共に神を見上げ、一人一人が神様から答えをもらって立ち上がっていく、そのような場所なのです。

そんな教会、でも、誰でも最初は「初めて」です。最初から、「私はクリスチャンになるぞ」と意気込んで来られる方はおられません。是非、お気軽においで下さい。特に18日の「野外礼拝」(ピクニック)は、初めての方でも入りやすいでしょう。今年もVan Saun Parkです。お待ちしています。

(錦織 学)

月報2006年6月号より


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