『平和の祈り』



今、毎日のように報道されている、米軍によるイラク人虐待には、本当に心が痛みます。先日もある方から、フセインがまだ副大統領だった頃のバグダッドのクリスチャンの苦難をナマの声としてお伺いして、本当に恐ろしい時代だったんだなあ、と思わされていました。でも、その恐ろしい政権に苦しめられている人々を「解放する」と掲げて戦争を始めたのに、実際に占領するとそこで虐待が起こってしまう。一部の規律の乱れたところでの出来事であったと、信じたいと思います。でも、一部であったとしても、起こってはならないことです。

そして、今度はテロリストによるアメリカ人虐殺の映像。これも本当に痛ましい事件です。これも決して現地の多くの人々の振る舞いを代表しているとは思えません。しかし、他人事のような言葉は慎みたいと思いますが、戦争になるとやはり人間が人間ではなくなる。お互いを同じ人間として見なくなる。それを思わないではいられません。私もそこにいたらそうではないだろうかと。ただただ、平和を祈るのみです。

紛争の最中のエルサレムに住む友人からメールを受け取りました。そこには次のようなことが書かれていました。エルサレムで、小さなグループだったようですが、キリストの受難を描いた映画「パッション」を見たそうです。その終わった後に5分ほど、アラブクリスチャンの青年がどのようにキリストに出会ったかを証ししました。そして彼はその最後を次のように締めくくったといいます。「以前自分はユダヤ人を憎んで育ったが、イエスに救われてからは、自分はユダヤ人を心の底から愛するようになった。是非知ってほしい。信じてほしい。現在のこのような状況の中でも、イエスによって僕達は愛し合えるのです。そして必ず未来があり、希望があるんです!僕達は主によって一つです!」

見せかけの平和は「国際社会の努力」や「軍隊の撤退」、または「力の論理」で実現するかもしれません。でも、本当の平和、和解は長い長いプロセスを要するものでしょう。そこにこそ、キリストの十字架のうちに表わされた愛が、赦しの福音が必要なのではないかと思います。

「神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい。」(エペソ人への手紙4:32)

そして、それは何も国際社会なんて大きな話だけではありません。わたしたちの夫婦の間に、親子の間に、家庭の中に、友人との関係の中に、会社の人間関係の中で、傷つけ、傷つき、ということが起こっていないでしょうか?「国際平和!」なんて海の向こうの出来事について叫びながら、自分の周りの人間関係にも問題がある、それがわたしたちです。そこでも、「距離を置く」「我慢する」「力で抑える」などの方法で見せかけの平和を作ることはできるでしょう。でも、本当の平和、そのためにはキリストの十字架に示された愛が必要なのではないかと思います。

「主はわたしたちのために命を捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである。・・・わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実をもって愛し合おうではないか。」(ヨハネ第1の手紙3:16, 18)

この御言葉がわたしたちの歩みの中で現実のものとなりますように。

(かきごおり:錦織 学)

月報2004年6月号より