「教会が教会であること」



今年もイエスの十字架の苦しみを覚えるレント(受難節)を過ごし、4月16日に今年も多くの皆さんと一緒にイースターをお祝いしました。春になって気候もよくなり、いろんな活動が入ってきます。このあとのJCCNJの予定を見てみると・・・

5月に工藤篤子さんのリサイタル、
6月にバザーや野外礼拝、
8月にJOYJOYキャンプ、
9月に東海岸の日本語教会の合同キャンプ

・・・と続きます。
いろいろあって楽しみだなあ、と思うのと同時に、教会が「イベント屋さん」になってはいけないなあ、と思わされています。一つ一つのプログラムを通して、いろんな方にお会い出来る。初めて教会に足を運ばれる方も起ってくる。そのようなプログラムがなかったら、聖書に出会うことがなかった方、イエス・キリストという人に出会うことがないという方もおられるでしょう。ですから、これからもおそらくJCCNJはいろんな活動をしていくでしょう。でも、ある時は、活動をこなすことで精一杯になってしまって、大切なことが見えなくなってしまうことがあるかもしれない。そんな中で「教会が教会である」ということは、どこで保たれていくのか、が問われるのではないでしょうか?

今から2000年前に教会が始まって、ユダヤ社会からローマ帝国全体に広がっていった時に、その一番中心にあったのは「イエスは私たちの主だ」という信仰でした。「主」という言葉はユダヤ社会では「神の名前」の代わりに使われていた言葉であり、ローマ帝国では「皇帝」への絶対服従を要求する言葉でした。そういう意味では「神」と言い換えてもいいでしょう。「イエスこそ、私たちの神だ」という信仰です。
私たちも、この信仰に立ち返ることが必要なのでしょう。教会が何を第一としているか?人数が増えることか、大きな教会堂を建てることか、和気藹々とやることか?そして、教会の一人一人が何を第一としているか?仕事か、お金か、地位や名誉か?それとも自己実現か?

私たちはイースター前のレントの期間中、イエスが私たちのためにいのちを与えて下さったことを学んできました。そこまで私たちを愛して下さったことを思いめぐらしてきました。その愛にこたえてイエスを自分たちの人生の「主」として従っていく、愛していく、そして、その愛を伝えていく、実際に周りの人々に仕えていく、のが教会の使命です。JCCNJが本当の意味でもっともっと深く「教会になる」ことが出来るようにと祈っています。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」 (ヨハネ第1の手紙3章16節)

(錦織 学)

月報2006年5月号より


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