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「言葉だけではなく・・・」
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| 最近日本から届いた一つのニュースレターに、6年前の阪神淡路大震災の時のことをカトリックの司祭さんのお話が載っていました。大地震とその後の火災によって多くの人々が大切な人や自分の命を失い、家を失っていく中で、教会も大きな被害を受けます。教会は緊急援助にすぐに乗り出し、救援の手が届きにくい人々を対する援助に重点をおいた活動をします。その後、今度は教会の「再建」に乗り出すのですが、その阪神地区のカトリック教会の人々は教会の「再建」を単に「建物を地震以前の状態に復旧すること」としてではなくて、「新しく生まれること」「新しい教会のあり方を選び取っていくこと」として受け取ったそうです。その中の一節です。 |
ところが震災に襲われて見えてきたのは、自分たち教会共同体のあり方がイエス・キリストの生き方からは遠く離れていたということだった。聖堂が焼け落ちるのを食い止めることに気を取られ、損壊家屋の中に閉じこめられ焼き殺されつつある人々の存在に思いいたらなかった自分たち。・・・信者の被災者や知り合いの被災者にしか目がいかなかった自分たち。教会施設に避難者やボランティアが溢れてくると、祈りの場を取られたと感じてしまった自分たち。つまり、教会共同体の一人ひとりは、自分たちがイエスの生き方からは遠く、反対にイエスが批判した長老、祭司長、律法学者たちの生き方に近かったことに気づかされたのである。
この気づきはまさに回心の体験だった。・・・
(小田武彦「『カトリック大阪教区』の『現在』の取り組みから」東京ミッション研究所ニュース52号より) |
| そして、彼らは自分の聖堂、自分の祈りの場を確保して人々から離れた平安な場所に安住することよりも、人々と共に生きることを選び取ったのでした。私達はプロテスタント教会ですが、このカトリック教会の人々の神と人とに対する愛と、自分の態度に対する鋭い反省には頭が下がります。そして、私自身も「あなたは何を選び取るか?」という問いを突きつけられているように思います。「自分のことで精一杯、ちょっとゆとりができたら、そんなことも考えてみてもいいけど、今はちょっと・・・」そんな思いでいた私に、「自分のことをおいてでも・・・」というこの記事は衝撃を与えました。 |
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「御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。」
(ヤコブの手紙1章22節)
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| こんなことを書いて、「やっぱり何もしていないじゃないか」と言われるのが恐いような気もします。また、自分の中にも「そんなことできるのか?」という思いもあります。「痛みの分からない者がわかったような顔をして痛みを負っている人の所へ行っても、結局人を傷つけることになるからやめといた方がいい」という思いがよぎることもあります。まだしっかり消化していない感じもします。今何か具体的な計画があるわけでもありません。でも、甘くない道だからこそ一つ一つ経験していくことが大切なような気がします。まずひとりの人として、人々と共に歩む姿勢が問われているように思います。 |
| 月報2001年5月号より |
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