Happy Easter!
イエスが十字架にかかられて葬られてから3日後、死からよみがえられたことを祝うイースターが、今年は4月8日にやってきます。イエスの誕生を祝うクリスマスと並んで、教会にとって大きな記念日です。
正直に告白しますが、私はイエスの十字架が私の罪のためであったと固く信じていますし、それを心から感謝しています。それがクリスチャンの信仰の中心です。しかし、「イエスの十字架と復活」という風に並んで呼ばれる、「イエスの復活」の方は私にとってどんな意味があるのか、頭ではいろんなことを学ぶのですが、心の深みにまで「そうだよ!」と思えるような、「イエスの復活は私のためだったんだ、こんな意味があったのだ」という答えがあるかというと、そうではなくて、まだ自分はそれを求めて歩んでいるのだ、と思います。
イースターがなければ、イエスの復活がなければ、この世に教会は存在しなかったでしょう。弟子たちが命がけで伝道したのは、確かにイエスが十字架で私たちの罪を背負って死なれただけではなくて、三日目によみがえられたからです。ただ精神的に弟子たちが「ああ、イエスは今も生きておられる」と受け取ったのではなくて、ほんとうにイエスがよみがえられたからです。そのことに関して、私は何の疑いも持っていません。聖書の証言を歴史的な事実として受け取っています。しかし、「イエスが復活した」ということの私にとっての意味は何だろうかなあ、と思います。そこで、今回は「自分にとってのイエスの復活の意味」をもう一度考えてみます。
復活のイエスに出会った弟子の一人ペテロはこのように言いました。
「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。」(使徒行伝2章24節)
「死」が訳もなく怖かったのは子供の頃でした。悪夢で目が覚める夜が続いて、眠ること自体が怖くなった記憶もあります。それが大人になって、たぶん気を紛らわせているだけなのでしょう。「死」の恐怖は忘れてしまっています。しかし、病気になったり、事故に遭ったり、身近な方々の生き死にの場面に出会ったりすると、「ああ、自分も死ぬんだなあ」と当たり前のことを、しみじみ思わされ、言いようのない不安を感じることもあります。医学も日進月歩ですが、依然人間の死亡率は100パーセントです。私たちは例外なくいつか死を迎えます。まさに「死に支配されている」のです。人によって違いはあるのでしょうが、私の場合は、そんな時には、「死」はそこに何があるか分らないことから来る不安、もうそこから戻ってくることはできないのだという悲しさ、そして、そこを越える時は誰でも一人ぼっちなんだという孤独感が胸を締め付けるのです。
しかし、ここでペテロはイエスの復活を証言して「イエスは死に支配されているはずがなかった」と言うのです。そして、その意味を続くパウロはこのように語っています。
「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」(コリント第1の手紙15章20節)
イエスの復活は私たちに希望を与えてくれます。イエスが復活したように、私たちも世の終わりに復活する約束を頂いています。イエスを信じる者たちにとって、死の向こう側にあるのは絶望や虚無や苦しみではなくて神と共にある天国です。死の向こうに行ったら、それでもう二度と帰って来れないのではなくて「復活」が約束されています。そして、死の向こう側に行く時にも私たちは一人ではない。共に行ってくださる方がいるのです。
やはり、私にとってのイエスの復活の意味は、「イエスの死への勝利」です。キリストを信じる者たちはその恩恵に浴することができるのです。私がいざ死に直面した時に、どんな心理状態になるかは分りません。じたばたするかもしれませんし、たじろぐかもしれません。でも、神様が必ず助けてくださると信じています。
ナチスの強制収容所を生き抜いて神の支えを証言するコーリー・テン・ブーンは、彼女の父親が教えてくれた秘訣をこのように紹介しています。
「汽車に乗る時に、お父さんはおまえにいつ切符を買うお金を渡すかい?乗る直前だろう。神様もそうなさるんだよ。神様も、必要な力を、それが必要なちょうどその時に与えて下さるんだよ」
イースターに込められた神様からのメッセージが皆さん一人ひとりの、また私自身の心に届きますように。
(錦織 学)
月報2007年4月号より
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