「やっぱりこれが誇りなんだよな」




先日、日本からアーサー・ホーランドという名の牧師が来られました。きっかけは、1ヶ月前、ちょうど私が日本にいたときに留守番をしていた家内からの電話。「あの、アーサー先生が3月の半ばに来るって言うんだけど、どうする?とにかく連絡欲しいって・・・」3月半ばっていうのは今年か?じゃあ、あと1ヶ月ないじゃないか!めちゃくちゃだな。よくよく話を聞いてみると、何で来るのかというと、「アーサーと行くニューヨークの旅」とかいう名前のどこかの旅行会社の企画だとか。で、ただ来るだけじゃあ、もったいないから、何か集まりができないかという話。もっと早く相談してくれたらいいのに・・・。と小言を言いながらちょうど日程の合ったNYのゼロ集会の特別メッセンジャーにお迎えしたというわけです。まあ、アーサーはNJの教会も4回目くらいだから、お互いよく知っているし、1ヶ月の準備でもいい集まりができるのではないか、それにこういうチャンスを与えてくださったのは神様だと思うし・・・。

ということで迎えた19日の夜の集まり、開いてみると、あーよかった、やっぱり神様がアーサーを送ってくださったんだなあと思わされました。「朝でもアーサー、夜でもアーサー・・・」と相変わらずのあいさつから始まり、型破りのスタイルで神様の愛をドーンとストレートに大胆に語る。神様に愛されている喜びをそのまま語る。これがいいんだよな、と原点に引き戻されたような気がしたのです。

このアーサー・ホーランドという牧師、とにかくいろんなことにチャレンジしている方です。新宿アルタの前で赤いスーツに身を固めて信号待ちの人たちに45秒の辻説法をしたり、元やくざのクリスチャングループをリードしたり、ハーレーに乗って、バイカーのグループ、ロード・エンジェルスを引き連れて、アメリカ横断をやってみたり・・・それはすべて、何とかして、神様の愛のメッセージを人々に伝えたいという情熱からなのです。

そんな彼がやったことの一つに十字架を背負って日本を縦断する、というのがありました。なぜそんなこと?それは彼にとって十字架が誇りだった、神様が私達を愛してくれているというメッセージの込められた十字架が誇りだったからです。だったら、この十字架を教会の中だけにとどめているのではなくて、みんなが見える形で示したい、そのために一番シンプルなのは十字架を担いで歩く、ということだ、と彼は思ったのです。それで趣旨に賛同した7人と一緒に40キロの十字架担いで5ヶ月かけて日本を縦断したということです。

「わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。」(ガラテヤ人への手紙6章14節)

大体自分はゲストが来ると、結構影響を受けてしまうです。中野雄一郎牧師が来ると、「これだ!」と影響を受けてはね回ってみたり、ビジネス関係の本を読みあさってみたり、アーサーが来るとまた「やっぱりこれだよなあ」と急にネクタイをしなくなったり・・・。まあ、鎖をジャラジャラまではできないのですが・・・。でも、2、3週間すると、「やっぱ、形から入ってもだめだよなあ、キャラが違うんだよキャラが・・・」と少し落ち着く、そんなことの繰り返し。でも、キャラが違うし、個性あふれる先生方のようには行かないのですが、同じものが一つあります。それは「十字架が誇り」だということです。

教会には必ず十字架があります。アクセサリーにしている人もたくさんいます。でも、元々は十字架は死刑の道具です。それもイエスを処刑した死刑の道具。その死刑の道具がなぜ誇りか、というと、それはイエスが十字架にかかったのは私達の罪の身代わりだったから。本当は私達が受けるべき罰をイエスが代わりに受けてくださったから。神様はそこまで私達を愛しているから。十字架は神様がどれほど私達を愛しているか、ここまで愛している、それを示すものなのです。

そして、その十字架にかかったイエスが3日目に死を打ち破ってよみがえったことを記念するのがイースター。今年は3月31日。死に対するいのちの勝利、死に対するイエスの勝利を祝う日。ちょうど寒い冬、すべてが死に絶えてしまったかに思える冬を越えて、いのちのあふれる春がやって来るように、イエスの復活のいのちは死をも打ち破ってくださるのです。

今年、是非、このイースターをご一緒に祝いませんか?お待ちしています。
(かきごおり:錦織 学)

月報2002年4月号より