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「春だ!」
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| 今年のNJの冬は寒かったので、春の訪れがひときわうれしく感じます。ここらへんにいると、ちょうどまるで死んでしまったかに見える自然界にもう一度命があふれる「春」がどんなに素晴らしいものか、と思います。私は花粉症なのでそのことはちょっとは心配なのですが、それでも、「今年は桜を見に行こうかあ」「いや、梨の花がきれいなんだよなあ」「今年はどこにキャンプに行こうかな」「今年は何か野菜でも植えようか」なんて、なんだかうきうきしてくる今日この頃です。東京にいた時よりも、NJにいる今のほうが、冬が厳しい分だけ、「イエスが死を打ち破ってよみがえった」ことを記念する「命の祭り」であるイースターをこの時期にお祝いできることの意味を深く感じます。 |
| 「キリストの復活」ということを思うと、自分の歩みをもう一度たどってみたくて読みたくなるのが、学生時代に読み漁った遠藤周作です。この原稿を書こうと思って、また何冊かを本棚から取り出してめくってみました。「海と毒薬」「悲しみの歌」そして、「沈黙」、また、晩年に出された「深い河」・・・。どの作品にも「人間の弱さ」「『自分は強い』と思っている人々への皮肉」そして、「その人間の弱さをわかって受け入れてくださるイエス」が現れます。 |
| 「悲しみの歌」の中で、主人公は「人の命を救いたい」と思って医者になったのに、戦時中は生体解剖、戦後は人口中絶、そして、安楽死と、人の命を奪うことしかできないと苦しみます。そして、彼が最後に自ら命を絶ったときに、イエスはその涙を天国で拭いてくださるのです。 |
| また「沈黙」の中では、日本に来た宣教師が、迫害に遭い、その中で日本という沼地の中で『西洋のキリスト教』というものはその根が腐っていっているんだと知り、最後には踏絵を踏もうとするのですが、イエスは踏絵の中から「さあ、踏みなさい。おまえの足の痛みをわたしは知っている。おまえの足の痛みを分かつため、わたしは十字架にかかった」と語りかけるのです。読むたびに、作者の「自分の弱さを知った人々」に対する暖かい思いが伝わってきます。 |
| その頃、「絵に描いたような『いい子ちゃん』のクリスチャン」で(と自分で思い込んでいますが・・・)、肩に力を入れてがんばってクリスチャンやっていた私にとっては、そのような「弱さを知った者たちと共に歩むキリスト」というイメージは本当に新鮮で、「ほっ」とさせるものでありました。しかし、遠藤周作に傾倒して彼の作品を何冊か読んでいるうちに、私は「ここには復活のキリストが描かれていない」「このキリスト像は偏っている」ということに気がついたのです。彼にとって、キリストはただ、「弱い者と共に歩んでくださるやさしい方」でしかなく、その復活も「弟子たちの心の中によみがえった」程度でしかありません。 |
| けれども聖書に記されている歴史上のキリストはそうではありませんでした。人間にとって最後の敵、最大の敵である「死」を打ち破ってよみがえり、ヨーロッパの歴史を、いや世界の歴史をひっくり返してしまったお方です。確かに人の目に見える形でよみがえり、話をすることも、触ることもできたと記録されています。第一、遠藤周作のような理解では、「何の政治力も軍事力もなかった教会が、迫害の中で広がってゆき、その迫害していた当のローマ帝国を300年のうちに征服してしまった」ということはどうしても説明できないのです。 |
| 聖書の神様は私たちの弱さをわかってくださる方です。愛してくださる方です。倒れている者の痛みをわかってくださる方です。でも、それだけではありません。私たちに力を与え、立ち上がらせてくださる方なのです。 |
「わたしを強くしてくださる方によって、何事でもすることができる。」
(ピリピ人への手紙4章13節)
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| あなたの痛みや苦しみをわかってくださる方は周りにおられるかもしれません。けれども、イエス・キリストはそれだけではなく、あなたを作り変え、新しい力を与えてくださる方です。イースターのこの時に、今も生きておられる神を知って、あなたのうちにも新しい力があふれますようにとお祈りいたします。 |
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月報2001年4月号より |
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