「知ることから...」



先月の近隣の日本語教会のニュースレターにケニヤで働きをされている牧師夫妻のことが紹介されていましたが、わたしも人づてにその方のHPアドレスをいただいて、その方々がどんな働きをされているのか拝見させて頂きました。大きな衝撃を受けました。本当に尊い働きをされているなあ、と思いましたが、特に印象に残ったのが、奥さんが幼稚園を始める時のことを紹介しているくだりです。奥さんは最初貧しい人たちのために幼稚園を始めたいと思ったそうです。しかし、許可を取る段階になって、政府の役人があなたは外国人だから、貧しい人のための幼稚園をやってもらったら困る、それはケニヤ人でもできる仕事だから、外国人がやるのは認められない、金持ち相手の学校をやるなら許可する、と言われたそうです。その時、奥さんはとても不本意だったそうです。貧しい方々のために何かをしたい、と思っているのに・・・、と。しかし、考えを転換した、と言われます。ここにはお金持ちの人もいる、その人たちが貧しい人たちに目を向けるようになるような、そのような教育ができたら、と思うようになったそうです。そして「愛と尊敬と奉仕」をモットーに掲げて励んでおられるそうです。

「大きな衝撃を受けました」と先に書きましたが、それは何かというと、「自分が『知らない』ということの愚かさ」を感じたのです。「貧しい方々のための学校が造りたければ造ればいい」何も知らない者たちはそう言うかも知れない、でも、そこにはどれほどの問題があり、そのためにどれほどの時間と労力を注ぎ込むのか、どういう闘いがあるのか、何も知らなかった無知を恥じました。

若い頃、ある友人が「知らないことは罪だ」と言っていました。そこまではどうしても同意できないのですが、少なくとも「知ろうとしないことの罪」「無関心の罪」は感じさせられます。「愛」の反対語は「憎しみ」ではなく、「無関心」です。小さな世界に閉じこもってばかりいて、「自分の世界」の外では何が起こっているのかを知ろうとしてきただろうか・・・と。

教会は3月5日のAsh Wednesdayからキリストの十字架上の苦しみを覚えるLent(受難節)の期間に入ります。私たちの教会では毎年この時、「飢餓献金」を募り日本飢餓対策機構にお送りしてきましたが、今年は、それだけではなく、私たちのこの小さな殻を打ち破って、「知る」ことを始めませんか?私たちの教会で共に歩んだ一人の方は今カンボジアの子供たちのためにできることを探っておられます。またJOYJOYキャンプを何回か手伝ってくれた日本の友人はルーマニアの子供たちのための働きにこの春旅立って行かれます。私たちが目を向けるべきなのは、何も国外だけではないでしょう。身近なところにいる一人の人を愛せないで、遠くにいる貧しい人を愛するなんて欺瞞です。私たちの周りにいる一人の方のために、「無関心」の殻を破っていこうではありませんか?
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによってわたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである。」

ヨハネ第一の手紙3章16節

(かきごおり:錦織 学)

月報2003年3月号より