「祈りの中で」



 先月号の月報で書きましたように、2007年、私たちはもう一度原点に帰って、「祈りの教会」として再スタートを切りました。社会に出ていく教会として、コミュニティーにインパクトを与える教会として、教会堂取得を目指しつつ、とにかく祈ることを強調して歩み始めました。
 私たちは真剣に祈り始めるときに、しばしば「祈りが応えられない」ということに直面します。

 そして、私たちは次の2つのことを確信しています。
1.神様には何でもおできになる
2.神様は私たちを愛しておられる

 ですから、病気の方のために祈るときや、困っている方々のために祈るとき、問題にぶち当たって、何とか解決を求めて祈るときに、祈っても祈ったとおりにならないと、困ってしまうのです。「神様は何でもできるはずなのに、神様は私たちを愛しているっていうのに、何でこんなことになるんだ」と。私も今までの歩みの中で、そんな思いになったことがどれほどたくさんあったことでしょう。
 八百万の神様を信じているならば、「ああ、この神様は御利益が薄い」とか、「違う神様に祈ってみよう」ということになるのでしょうが、教会は唯一の神を信じています。
 また、上の2つのうちどちらかが間違っていれば話は早いですよね。「神様にだってできることと、できないこととがあるんだよ。神様だってできなくて悔しい思いをされているんだよ」とか「神様は大きな方だから、私たち一人ひとりの状況にまで応えていられないんだ、自分でがんばるしかないんだ」と思えば、なんだか慰められたような気がするかもしれません。でも、そんなことは聖書には一言も書かれていません。

 最近読んだ本の中に、こんな言葉があって、すごい!ありがたい!と思いました。
 「祈りの応えは神様の主権の中にあります。そして、神様の最善の時に最善の方法で応えられます。またそのことを通して、神様は私たちを霊的に訓練し、成長させて下さるのです。神様にとって、祈りに応えることは何でもないことです。しかし、私たち一人一人の人格の問題をいつも大切にして下さる神様は、祈りにどのように応えられるかということを通して、私たちの内面的なものを扱われるのです。」(池田博「祈りは私を変え、教会を変える」いのちのことば社、24 ページ)

 神様はすばらしいことを私たちの教会にしようとしておられるんだなあ、と思います。「教会堂ができた」とか「たくさんの人たちが教会に来るようになった」とかということも実現したらいいと思います。でも、それよりも何よりも、神様が「私たち一人一人の人格を大切にしてくださって、私たちの内面的なものを取り扱われる」としたら、それは何とすばらしいことでしょうか?是非、そのようにして頂きたいと思います。必ずしも私たちの願い通りにいかないかもしれない。思いがけない苦しみが襲ってくることがあるかもしれない。でも、そんな中で神様が私たちの内面的なものを取り扱ってくださって、もっともっと「地の塩」としての味を豊かにしてくださり、「世の光」としての輝きを増させてくださるとするならば、どんなにすばらしいことでしょうか?そちらの方がどれほど教会にとって、クリスチャン個人個人にとって大切でしょうか?

「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」               ヘブル人への手紙12章11節

(錦織 学)

月報2007年2月号より


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